七之七
中でも最も驚愕していたのは、
「ようやく現れたか」
振り返った
「なんと、恐ろしくも美しい」
彼女が手を伸ばした先には、鋭く凶暴な歯並びを覗かせる巨大な口があった。それまで他の面々と同じく驚きに呑まれていた
「多嘉螺様」
如朦の呼び掛けに振り返った多嘉螺の顔からは、溢れる興奮が抑えきれない。
「見ろ、如朦。この力強くも立派な髭」
そう言って彼女は、躊躇いなく太い髭に触れた。すると龍は大きな鼻腔からふんと息を吐き出したが、それだけであった。おとなしい龍に気をよくしたのか、多嘉螺は無遠慮と言っても良い手つきで、鼻先から直に龍の顔を撫で回す。
「そして逞しい顎に、雄々しい角。何よりこの黄金の瞳に見入られれば、魂まで吸い込まれてしまいそうだ」
多嘉螺の言う通り、龍の巨大な瞳は妖しさを通り越した神々しさを湛えて、目が合えば誰もが動くこともかなわないだろう。
「あの絵と一分も
「仰る通り、彼の絵筆が至高であること、改めて感じ入りました」
今も多嘉螺の屋敷の、あの離れの一室に掛けられているはずの絵を思い浮かべながら、如朦が一歩前に出る。
途端、龍の目がくわと見開かれたような気がした。
まるで太陽そのものであるかのように金色に輝く瞳からは、如朦の身体を射貫くかの如き眼差しが放たれている。
すると多嘉螺は宥めるように龍の鼻先を撫でながら、如朦の顔を見返した。
「如朦」
彼女の瞳には既に興奮はなく、代わりに浮かぶのは落ち着いた、だが決然とした表情であった。
「そなたが私に願いを託すのも、そろそろ潮時だ」
それがどういう意味なのか。
この期に及んで、どうして龍は多嘉螺の前に姿を現したのか。
途端、如朦は全てを察しながら、気づかぬ振りを装った。
「どういうことでしょう」
「私が願いをかなえ続けるだけで、そなたは満たされたつもりでいるのだろう」
まったく彼女の言う通りだった。
多嘉螺が願えば、ことごとくがかなえられていく。その様を眺め続けることは、如朦にこの上ない満足をもたらしてきた。彼女と共にある日々は、彼が過ごしてきた永遠に近い歳月の中でも、比べようもなく満ち足りていた。
この世になんの手出しもできず、眺め続けるしかなかった如朦には、多嘉螺は誰にも代えがたい。
彼女との出会いは、如朦にとって間違いなく救いだった。
「眺めるしか
如朦の内心を見透かしたように、多嘉螺が言った。
「この常夢の世を創り出しておきながら、無力を振る舞うな」
「私の役目は、この世を創造した時点で既に大半を終えました。後はこの世がいかように変遷していくか、夢見人はただ黙って見守り続けるしかありません」
「ならば私とそなたが出会うこともなかった」
ゆっくりと首を左右に振りながら、多嘉螺は訴えるような瞳で如朦を見返した。
「眺める以上を求めるそなたの無意識は、そのために私という変怪を、この
その言葉に、如朦は頷くしかなかった。
永らく孤独に彷徨い続けてきた末に彼女と巡り会えたことは、如朦にとって天恵に等しかった。だがそれもこれも、全ては己の見る夢が生み出したものなのだ。夢の中の出来事を天恵とありがたがるなど、本末転倒に違いない。
自身でも気づかぬうちに忘却の淵に追いやったはずの願いが、多嘉螺という姿形をとって常夢の世に顕現したのだ。彼女の言葉には、一片の疑問の余地もない。
「如朦」
如朦に呼び掛けた多嘉螺の傍らには、いつの間にか龍が巨大な
「私がかなえるのは、私の願いでしかない」
「それで良いのです。そして多嘉螺様が願いをかなえる様を見守り続けることこそ、私の願い」
「そなたは眺めることに慣れすぎて、自らの願いを見失っている」
そう言って多嘉螺は、角の端を握ったまま龍のうなじにすとんと腰を下ろした。足を揃えたまま腰掛ける彼女の姿は、その下でおとなしくしている龍の首と合わせて、まるで一枚の絵のように見えた。
「私と共に居ても、結局そなたは眺めるままだ。それでは今までとなんら変わらぬ」
「だから私の傍から離れようというのですか」
如朦の声に、縋るような口調はなかった。ただ聞いた人の耳には、微かに寂しげに響いた。
半ば瞼を伏せた多嘉螺は、少しだけ名残惜しげに眉をひそめたが、それも一瞬のことであった。
「そなたは、そなたの願いを取り戻せ」
多嘉螺が告げると同時に、彼女の足がふわりと地上から離れた。頭をもたげた龍は、うなじに乗せた多嘉螺を気にする風もなく、緩やかな動きで空中に飛び立とうとしていた。
「それこそが、今の私にとっては最たる願いだ」
龍は、その巨体にもかかわらず、するすると音もなく池の上で舞い始める。その首の上に腰掛けた多嘉螺を仰ぎ見て、如朦が尋ねた。
「多嘉螺様は、これから何処へ」
「さて、未だ見たことのない
未知の土地を想像し、多嘉螺は早くも心を躍らせている。彼女の笑顔を見て、如朦の頬も自然と綻ぶ。
「私が、眺める以上を望むことが許されるというのなら」
龍の巨体は既に、桃園の木々のさらに上を、ゆっくりと円を描くように舞っている。如朦は多嘉螺の耳にも届くよう、力の限り声を張り上げた。
「多嘉螺様に再び出会えることを、必ずや願いましょう!」
如朦の大声を初めて耳にして、多嘉螺が満面に笑みを浮かべる。彼女の破顔は、地上の人々の目にもはっきりと見て取れた。
「楽しみに待っているぞ、如朦」
その言葉を最後に、多嘉螺を乗せた龍は桃園の上空で円を描くことをやめ、中天に向かって飛び立っていった。
長大な身体をうねらせて蒼天を泳ぐ龍の姿は、やがて影となり、それすらも認められぬほど小さくなっていく。
彼方へと消えていく龍の姿を完全に見失うまで、如朦はその場に立ち尽くしたまま、いつまでも空を見つめ続けていた。
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