七之七

 兆薫ちょうくんは悲鳴を上げて後退り、高座の前で身を挺する傳碩でんせきも青ざめた顔で歯の根を振るわせている。その後ろでびん王は腰を抜かしたのか、大きく開けた口もそのままに微動すらできない。

 中でも最も驚愕していたのは、齋晶さいしょうであった。彼女は信仰の対象であるはずの龍に背を向けて、引き攣った顔に涙すら浮かべながら、桟敷の上を這いつくばるようにしてその場から逃げ出そうとしていた。

「ようやく現れたか」

 振り返った多嘉螺たからが、ついに龍をその目に認めて喜色を満面に浮かべる。そのまま彼女が無警戒に龍に歩み寄るのを、誰も止めることができない。

「なんと、恐ろしくも美しい」

 彼女が手を伸ばした先には、鋭く凶暴な歯並びを覗かせる巨大な口があった。それまで他の面々と同じく驚きに呑まれていた如朦じょもうが、そこでようやく片膝を突いて立ち上がりかけた。

「多嘉螺様」

 如朦の呼び掛けに振り返った多嘉螺の顔からは、溢れる興奮が抑えきれない。

「見ろ、如朦。この力強くも立派な髭」

 そう言って彼女は、躊躇いなく太い髭に触れた。すると龍は大きな鼻腔からふんと息を吐き出したが、それだけであった。おとなしい龍に気をよくしたのか、多嘉螺は無遠慮と言っても良い手つきで、鼻先から直に龍の顔を撫で回す。

「そして逞しい顎に、雄々しい角。何よりこの黄金の瞳に見入られれば、魂まで吸い込まれてしまいそうだ」

 多嘉螺の言う通り、龍の巨大な瞳は妖しさを通り越した神々しさを湛えて、目が合えば誰もが動くこともかなわないだろう。

「あの絵と一分もたがうところがない。揖申いしんの腕前に、今さらながら感心する」

「仰る通り、彼の絵筆が至高であること、改めて感じ入りました」

 今も多嘉螺の屋敷の、あの離れの一室に掛けられているはずの絵を思い浮かべながら、如朦が一歩前に出る。

 途端、龍の目がくわと見開かれたような気がした。

 まるで太陽そのものであるかのように金色に輝く瞳からは、如朦の身体を射貫くかの如き眼差しが放たれている。

 すると多嘉螺は宥めるように龍の鼻先を撫でながら、如朦の顔を見返した。

「如朦」

 彼女の瞳には既に興奮はなく、代わりに浮かぶのは落ち着いた、だが決然とした表情であった。

「そなたが私に願いを託すのも、そろそろ潮時だ」

 それがどういう意味なのか。

 この期に及んで、どうして龍は多嘉螺の前に姿を現したのか。

 途端、如朦は全てを察しながら、気づかぬ振りを装った。

「どういうことでしょう」

「私が願いをかなえ続けるだけで、そなたは満たされたつもりでいるのだろう」

 まったく彼女の言う通りだった。

 多嘉螺が願えば、ことごとくがかなえられていく。その様を眺め続けることは、如朦にこの上ない満足をもたらしてきた。彼女と共にある日々は、彼が過ごしてきた永遠に近い歳月の中でも、比べようもなく満ち足りていた。

 この世になんの手出しもできず、眺め続けるしかなかった如朦には、多嘉螺は誰にも代えがたい。

 彼女との出会いは、如朦にとって間違いなく救いだった。

「眺めるしかすべがないなどと、言うな」

 如朦の内心を見透かしたように、多嘉螺が言った。

「この常夢の世を創り出しておきながら、無力を振る舞うな」

「私の役目は、この世を創造した時点で既に大半を終えました。後はこの世がいかように変遷していくか、夢見人はただ黙って見守り続けるしかありません」

「ならば私とそなたが出会うこともなかった」

 ゆっくりと首を左右に振りながら、多嘉螺は訴えるような瞳で如朦を見返した。

「眺める以上を求めるそなたの無意識は、そのために私という変怪を、この常夢とこゆめの世に生み出した」

 その言葉に、如朦は頷くしかなかった。

 永らく孤独に彷徨い続けてきた末に彼女と巡り会えたことは、如朦にとって天恵に等しかった。だがそれもこれも、全ては己の見る夢が生み出したものなのだ。夢の中の出来事を天恵とありがたがるなど、本末転倒に違いない。

 自身でも気づかぬうちに忘却の淵に追いやったはずの願いが、多嘉螺という姿形をとって常夢の世に顕現したのだ。彼女の言葉には、一片の疑問の余地もない。

「如朦」

 如朦に呼び掛けた多嘉螺の傍らには、いつの間にか龍が巨大なこうべを横たわらせていた。そして多嘉螺の手は、生い茂る巨木のように立派な角の、枝分かれした先を握り締めている。

「私がかなえるのは、私の願いでしかない」

「それで良いのです。そして多嘉螺様が願いをかなえる様を見守り続けることこそ、私の願い」

「そなたは眺めることに慣れすぎて、自らの願いを見失っている」

 そう言って多嘉螺は、角の端を握ったまま龍のうなじにすとんと腰を下ろした。足を揃えたまま腰掛ける彼女の姿は、その下でおとなしくしている龍の首と合わせて、まるで一枚の絵のように見えた。

「私と共に居ても、結局そなたは眺めるままだ。それでは今までとなんら変わらぬ」

「だから私の傍から離れようというのですか」

 如朦の声に、縋るような口調はなかった。ただ聞いた人の耳には、微かに寂しげに響いた。

 半ば瞼を伏せた多嘉螺は、少しだけ名残惜しげに眉をひそめたが、それも一瞬のことであった。おもてを上げて、如朦の顔を見返した時にはもう、彼女の口元には微笑がたたえられていた。

「そなたは、そなたの願いを取り戻せ」

 多嘉螺が告げると同時に、彼女の足がふわりと地上から離れた。頭をもたげた龍は、うなじに乗せた多嘉螺を気にする風もなく、緩やかな動きで空中に飛び立とうとしていた。

「それこそが、今の私にとっては最たる願いだ」

 龍は、その巨体にもかかわらず、するすると音もなく池の上で舞い始める。その首の上に腰掛けた多嘉螺を仰ぎ見て、如朦が尋ねた。

「多嘉螺様は、これから何処へ」

「さて、未だ見たことのないげんやらさんやらを訪ねようか。それとも香海を渡って、びょう闇充あんじゅうを出迎えるというのも悪くない」

 未知の土地を想像し、多嘉螺は早くも心を躍らせている。彼女の笑顔を見て、如朦の頬も自然と綻ぶ。

「私が、眺める以上を望むことが許されるというのなら」

 龍の巨体は既に、桃園の木々のさらに上を、ゆっくりと円を描くように舞っている。如朦は多嘉螺の耳にも届くよう、力の限り声を張り上げた。

「多嘉螺様に再び出会えることを、必ずや願いましょう!」

 如朦の大声を初めて耳にして、多嘉螺が満面に笑みを浮かべる。彼女の破顔は、地上の人々の目にもはっきりと見て取れた。

「楽しみに待っているぞ、如朦」

 その言葉を最後に、多嘉螺を乗せた龍は桃園の上空で円を描くことをやめ、中天に向かって飛び立っていった。

 長大な身体をうねらせて蒼天を泳ぐ龍の姿は、やがて影となり、それすらも認められぬほど小さくなっていく。

 彼方へと消えていく龍の姿を完全に見失うまで、如朦はその場に立ち尽くしたまま、いつまでも空を見つめ続けていた。

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