七之六

 ――多嘉螺たから様は、この常夢とこゆめの世に必ず願いをかなえる、希有な方なのです――

 そう告げられても、多嘉螺は釈然としなかった。

 願いがかなうと言われても、ではいつどのようにかなうのかはわからない。

「それはつまり、いつかはかなうということではありませんか」

 もしかすると願いそのものも忘れて、かなった瞬間を見逃しているやもしれぬ。

「そういうこともあるかもしれませんね」

 だとしたらそれは最早、かなえられた願いとは言えないのではないか。

「たとえ忘れられた願いでも、かなえられたことに変わりはないでしょう」

 多嘉螺が何度訴えても、如朦はそう言って笑うだけだった。

 彼は多嘉螺がこの世に干渉しうることを、少しも疑おうとはしなかった。如朦がそこまで言うならやはりその通りなのかもしれないと、自分自身の力を信じてみようとも試みた。だがいくら幸運に恵まれても、やはり己がもたらしたものという実感はない。

 如朦はどうして、私の力を信じられるのだろうと、多嘉螺にはずっと疑問だった。考え続けた末に、それが当然かもしれないということに気づいたのは、つい最近のことだ。

 何しろこの世は、如朦の夢の中。多嘉螺の目に見える全ては、意識無意識に関わらず彼の中から生まれたものなのだ。多嘉螺もまた、如朦という創造主によって、この常夢の世に創り出されたといえる。

 自らの内から生み出されたものについて、如朦は当然その本質を理解しているのだろう。多嘉螺という存在が何者かについて、彼が疑問を抱くはずもないのだ。

 そして次々と願いをかなえていく多嘉螺を眺める、如朦の目は優しい。

 如朦は――神獣は、この常夢の世をただ眺めることしかできない。彼が神獣を語る時、その横顔には常に分厚い諦念がつきまとった。彼がこの世を何年――それとも何十、何百年と眺め続けてきたかは知らない。でもその間、無力感に苛まされ続けてきただろうことは、ほんの少し共に過ごしただけの多嘉螺にもわかる。

 だから如朦は、多嘉螺を優しく見守り続けるのだ。常夢の世を思いのままにする多嘉螺という存在は、彼にとって己の非力を慰めてなお余りあるのだろう。

 そんなわけがないのにという言葉を、何度口にしかけたことか。

 眺めるしかないという如朦の言葉に、多嘉螺は頷いたことがなかった。それどころか彼ほどこの世に関わりうる者が、他にあるわけがないと思う。

 如朦自身が言ったではないか。この世はことごとく神獣の夢なのであると。うつつの彼が、眠りの中に生み出したものであると。常夢の全てを如朦が創り出したというならば、つまり彼の思う通りこそが、今目の前にあるこの世ということではないか。

 夢は見る人にも思う通りにならぬものと、如朦は言った。だが、夢は見る人の無意識をも体現する、とも言った。

 だとしたら如朦は、かつての彼自身の願いを見失っているのだ。忘れ去られた願いを無意識の底に埋めて、今の如朦はこの世に関われぬ己の無聊を、多嘉螺を見守ることで癒やしている。

「そなたはどうして、この常夢の世に私を生み出したのだ」

 如朦に尋ねた問いの答えを、多嘉螺はもうとっくに知っている。


 ***


 ――龍を呼び出してはくれまいか――

 多嘉螺たからの言葉に唖然としたのは、齋晶さいしょうだけではなかった。

 兆薫ちょうくんは目を剥き、傳碩でんせきは正気を疑うように眉をひそめている。高座のびん王は、虚を突かれたように口が半開きのままだ。

 彼女の傍らの如朦でさえ、ほとんど伏せられているのかと思われた細い目を、軽く見開いていた。

 一拍の間を置いてから、齋晶は馬鹿馬鹿しいとばかりに首を振った。

「龍神とは神獣の遣い。そのように興味本位で呼び出せるものでは――」

「大廟堂主は私が龍を招いたと仰ったが」

 教母が言い終える前に、多嘉螺はその言葉を遮った。もとより彼女は、齋晶が龍を呼び出せるとは信じていない。

「実のところ私が望んだのは、この世で誰も見たこともないような変怪へんげを目の当たりにしたいという、ふとした思いつきに過ぎません。ところがかの龍が世間を賑わすようになって、いつかは私の目の前に現れるだろうと期待していたというのに」

 そう言って多嘉螺は、ちらりと如朦に視線を投げかけた。

「未だ龍を目にすること能いません。どれほど真に願おうとも、荒唐無稽な望みとは、易々とかなえられるものではないらしい」

「何を仰りたいのかわかりかねます。下々の我々如きの呼び出しに、龍神が応じるわけがありません」

 信仰の対象を、まるで珍品奇品と同列のようになぞらえる多嘉螺に、齋晶が敵意剥き出しの目を向けた。

「龍とは、我らが自ら律することを見届ける神。それを、まるで物珍しいもののように扱う、あなたの仰りようは不愉快です」

「では教母は、龍そのものをご覧になったことはないのですか」

 多嘉螺が発した言葉は、何気なかった。だが齋晶は、言葉を詰まらせた。

 齋晶が龍神道に目覚めたきっかけと伝わる逸話には、確かに龍を目撃したという下りはない。もちろん彼女がその目で龍を見ずとも、龍神を崇めることに不自然はないだろう。

 しかし巷ではあちこちで龍を見たという噂が溢れ返っている。にも関わらず、龍神道を説く教母ともあろう者が、まさか本物の龍を目にしたことがないと知られたら。

 龍神道を深く知らない人々が彼女を訝しく見る可能性が、齋晶を束の間口ごもらせてしまった。

「――龍神が御体を現す時は、この世に災いをもたらす時。我らにはただ、龍神の像さえあれば十分なのです」

 彼女が唱えた題目に、嘘はない。ただそう答えるまでに、齋晶は一瞬の躊躇を挟んでしまった。

 そして彼女の躊躇は、その場に居た皆に伝わってしまった。

 誰よりも旻王・枢智子恩すうちしおんの顔に、かすかだがはっきりとした失望が浮かんでいる。

「なるほど、一理あります」

 齋晶の言葉に素直に頷いたのは、ほかならぬ多嘉螺と――その隣でひと言も口を開かぬままに座している如朦のみであった。

「龍神の出現は、災いと同様。であればその龍を目にしたいという私の願いは、さながら災いを呼び寄せるに等しい」

 言いながら、多嘉螺はその場からすっと立ち上がった。その場の全員が、程度の差こそあれ、驚いた顔で彼女を見上げる。

 王の御前で許可もなく立ち上がるとは、不敬も甚だしい。その程度のこともわからないのかと、兆薫が慌てて多嘉螺を嗜めようとする。

 すると多嘉螺は兆薫が口を開く前に振り返って、その目で彼の動きを制した。次いで傳碩の渋い顔から、そして高座の旻王へと視線を移した。

「陛下には御前で無礼を振る舞うこと、何卒ご容赦くださいませ」

 そう言うと恭しく両手を前に翳して、その合間に顔を埋める。誰もが多嘉螺の所作にぽかんとしているところ、ただひとり如朦だけが、彼女の背後に目を向けていた。

 多嘉螺の背後に広がるのは、桃園が誇る巨大な池。桃の花びらがところどころに浮かんだ水面が、俄にゆらりと動いた。という間もなく、やがて水面にはいくつもの泡立ちが生じて、弾ける音に気づいた者から如朦と同様に池を見る。

 泡立ちはみるみるうちに範囲を広げて、いったい何事と誰かが口を開く寸前に、中から飛び出したのは、太く美しい二本の長い髭を鼻先から垂らした、鰐のように巨大なあぎと

 続いて鹿を思わせる巨大な二本の角が、猛禽のように鋭い爪が、巌の如き深緑色の鱗を纏った大蛇を思わせる胴が、天を突くようにして次々と姿を現していく。

 桟敷の人々が豪雨さながらの水飛沫を浴びる中、多嘉螺だけは一滴の水にも濡れることなく、涼しい顔のまま佇んでいる。

 やがて巨大な羽毛扇に似た尾びれを覗かせてから、多嘉螺の背後で悠然ととぐろを巻くようにして浮かぶ巨大な変怪へんげは、かつて揖申いしんが見事な筆先で描き上げた龍に間違いなかった。

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