七之五
頃は正午を一刻ほど回った折。青い空にはところどころ白い雲が棚引き、その合間から零れる柔らかい日差しが、丹念に整えられた桃園の見事な景色を照らし出している。大きな池の周りに植わった桃の木々には花が満開で、微かに甘い香りが人々の鼻腔をくすぐった。
心地よい日和の下、
一同が高座にある
「まずはそこのふたりについて、同席を推挙された大廟堂主にご説明を願いたい」
多嘉螺と如朦の同席の理由を申すよう傳碩に促されて、兆薫が恭しく頷いた。
「これなるふたりは、かの龍なる
兆薫に紹介されて、多嘉螺と如朦は共に組んだ両手を前に翳し、腕の合間に顔を埋める。誰もが当然の礼と思った矢先、思いがけず甲高い声がふたりに投げかけられた。
「龍を招き、名づけたとは、いかなる意味でしょう?」
まるで詰問するような問いは、齋晶の口から発せられたものであった。
「この世の乱れを案じて神獣が遣わした神、それが龍にございます。いち個人が気紛れに招き呼び出せるようなものではありません」
語気を強めながら、齋晶は多嘉螺と如朦に冷たい一瞥を寄越す。
「いわんや神獣の遣いたる神に名づけとは、畏れ多いこと甚だしい」
痛烈な言葉以上に、齋晶の目は、多嘉螺と如朦を厳しく咎めていた。彼女の態度に、露骨に眉をひそめたのは兆薫である。
「聞き捨てならん。それは彼らを呼び立てた私に対する当てつけか」
「当てつけなど、とんでもございません」
齋晶の痩けた頬が引き攣って見えたのは、おそらく微笑んだつもりらしい。
「我ら龍神道の信徒は皆誰もが
兆薫個人ではなく夢望宮と言うところに、齋晶の抜け目の無さが窺える。だがどうやら兆薫はその点に気づかないまま、彼女の挑発に乗ってしまった。
「龍神道が神獣の
恰幅の良い身体全体を居丈高に逸らせながら、兆薫は齋晶の顔に指を突きつけた。
「龍も、それどころか神とやらの存在も、
腰を浮かしかけて言い放つ、兆薫の鼻息が荒い。彼は初手から核心を突いたつもりだろう。だが過去の教えに則るばかりでは、今の世には寄り添えない。
如朦が予想した通り、兆薫の熱弁を浴びた齋晶の細面には、一向に動揺は窺えない。
「
「何を苦し紛れな」
「なぜなら龍神とは、今の世の乱れを正さんがために、神獣が初めて遣わした存在だからです。過去に例のない神獣の為業が教典にないことに、いささかの不思議もございません」
新興が守旧に勝る点があるとしたら、それは現状に即して発生したという点だろう。齋晶の言はまさにそういうことであり、兆薫にそれ以上の反論は難しい。
彼女に問うことができるとしたらそれは、世の乱れを指摘された為政者であった。
「教母よ」
それまで高座にあって黙って耳を傾けていた旻王が、おもむろに口を開いた。まだ少年から青年に移ろう最中の声には、低くとも若々しい張りがある。
「そなたの言う通り、龍神道が神獣の
王の問いには、明らかに面白がるような声音があった。
果たして齋晶は、王に向かって今の世の乱れを口にできるものか。彼女の覚悟を試そうという、多少の意地の悪さが滲み出ている。
そもそも齋晶は、たとえ龍神道の教母を名乗ろうとも、今もって市井のいち庶人に過ぎない。そんな彼女が旻王に直接声をかけられることなど、有り得ないことであった。本来であればせめて傳碩を介して伝えられるべきである。
ましてや王に直接答えても良いものか、狼狽してもおかしくない。
だが兆薫とのやり取りが優勢であることに気をよくしたのか、それとも元来から臆しない
「先代の御世から数えて五十年足らず。民は大きな戦にも巻き込まれず、また全土が飢えに苦しむことも減り、平穏安寧の生活を過ごして参りました。これらはすべて先代並びに当代の旻王陛下の治世の賜物と、深く感謝申し上げる次第です」
堂々と背筋を伸ばしたままの発言に、王もさすがに驚いたのか目を丸くしている。傳碩も兆薫も呆気にとられて、彼女を咎めよういう気も削がれたらしい。
如朦がちらりと隣に目を向けると、それまでいかにも退屈げだった多嘉螺の横顔に、ほうと感心するような好奇心が浮かんで見えた。
皆の注目の中、「ですが」と言って齋晶は語り続ける。
「平和な生活は人々の精神を弛ませ、相互扶助の尊き心根は忘れ去られ、自らの欲得こそ第一という気風に取って代わられました。陛下は
齋晶の言葉は、彼女以外の全員に刺さる指摘ばかりであった。治世を預かる王のみならず、神官を代表する兆薫、貴人筆頭の傳碩――
「これを世の乱れと言わずして、なんと申しましょう」
そして珍品奇品の蒐集家として名の知れた多嘉螺も、彼女にとっては同類なのだろう。
「人々の心身の乱れは、いずれ天下の乱れに繋がり得ます。そうなる前に、我々は神獣が遣わした龍神に、自ら乱れを正し、己を律すべしと誓うのです。さすれば自身も天下も無事これ平穏」
そこまで言い終えると、齋晶はここでついに王に対して平伏した。
「龍神道の教義とは、陛下の御世が泰平であることを祈るものにほかなりません」
床に額を擦りつけるほど低頭する齋晶を見る、王の目に怒りはなかった。それどころか龍神道の正当性を堂々と主張した彼女に、感心しているようにも見えた。
齋晶の語りをむざむざ見守るしかなかった兆薫は、顔を真っ赤にして全身を震わせている。傳碩は途中から冷静な面持ちを取り戻していたが、王が聞き入っていることに気づいて、あえて口を挟まないでいたのだろう。彼女の主張に納得しているようには見えないが、あえて反論するする必要も感じてないらしい。
このままでは王が齋晶の言を認めて、龍神道に宮城公認のお墨付きを与えることになりそうだ。だとしても構わないのではないかと、如朦は思う。齋晶の口振りはいささか教条的だが、その内容自体は如朦も否定するものではない。
それがどんなに過去を美化したあげくの思想であったとしても。
自らを律し利他の精神に満ち溢れた時代など、かつて一度も存在しなかった。そういう人々はいても、彼らはいつの時代も少数だということを、如朦は長い歳月の間に繰り返し目にしてきた。だがそんなことを、あえてこの場で口にする必要もない。
もっとも今日の会合が、このままで済むはずもないのだろう。
傍らに目を向けずとも、多嘉螺が口の端に滲ませている苦笑に、如朦は気づいていた。
「いやはや、まことに耳が痛い」
不意に発せられた多嘉螺の声に、齋晶が
「教母のご高説は、いちいちごもっとも。私が珍品奇品を集める裏にも、名も知れぬ人々の大層な苦労がある。この多嘉螺、今さらながらに気づかされました」
多嘉螺の艶のある声には、文字通りというにはいささか含むものがあった。誰の耳にも聞き分けられる違和感を、齋晶は当然無視できない。
「ならば多嘉螺様も、龍神道の教義を学ばれることをお薦めいたします」
「それはもう、是非ともご教授願いたい。ですがその前に、せっかくの陛下の御前という貴重な機会を得て、ひとつお願いしたき儀がございます。これはほかならぬ龍神道の教母にしかかなわぬと思い、何卒お聞き入れいただきたい」
教母にしか成せぬと聞いて、齋晶が訝しげに眉をひそめる。
その瞬間、不意に一陣の風が吹き抜けて、桟敷席から池の上まで、一面に桃の花びらが降りかかった。
「一度で良いのです」
舞い散る花びらを纏い、悠然と微笑みながら、多嘉螺は言った。
「私の前に、龍を呼び出してはくれまいか」
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