七之四
――万人が見るという夢の世界、私も一度は見てみたいものだ――
自身には夢見が能わずと知ってから、
多嘉螺が己でも夢を見たいと口ずさむことを、如朦にはとどめられなかった。
「眠りの中に夢を見ることがかなわなくとも、この世には夢にも勝る珍しきものに満ち溢れております」
「そこまで言うなら、私の前にその珍しきものを見せてみろ」
城中を歩いて見せる最中、多嘉螺がそう言って拗ねるので、如朦は苦笑で応じた。
「それは無理難題ですね。珍しきものとは、滅多に目にかかれないからこそ珍しいのであって」
「何も見知らぬ景色を持ってこいとは言わん。たとえばそなたがこの前聞かせた、
「あれは冬の内海で獲れる魚でして、しかも乙から
如朦が困り顔で目を逸らすと、ちょうどその視線の先に市場の屋台の群れがある。何気なく目に入った景色を眺める内、如朦の目は屋台のひとつに釘付けになった。
おそらく今朝方、
この魚はどうしたのかと尋ねる如朦に、屋台の亭主は自慢げに答えた。
「たまにあるんだよ、内海から紅河に迷い込んだまま棲みついちまう奴が。あんた、運がいいぜ。俺だって紅河で獲れたこいつを仕入れたのは、今までも数えるほどだ」
そこで如朦は魚を買いつけて、多嘉螺は望み通りに美味を味わえたことで機嫌を直した。その一度きりであれば偶然で済ませたであろう。
だがこうしたことは一度や二度では終わらなかった。
多嘉螺が
「多嘉螺様は夢見の代わりに、この
偶然が何度も繰り返されれば、それは必然というほかない。多嘉螺が立て続けに幸運に浴するという偶然は、彼女が生まれながらに身に備えるものとしか思えなかった。
それは
***
当代の旻王・
枢智黎が宰師に任じたのは、
傳碩は万事に有能だったが、根が小人であった。彼の場合の小人とは、性根が卑しいとか目先の利を追うとかではなく、心配性、臆病という向きである。傳碩は間違っても王を軽んじたり、国を我がものにしようなど、畏れ多くてとても考えられない
傳碩は枢智子恩の即位後、精力的に国政を率い、また王の教育も熱心に務めた。彼の胸中にあるのは、可能な限り早く枢智子恩を一人前に育て上げて、早々にこの重責から解放されたいという思いであった。なんなら宰師という官職自体、廃されても良いと思う。傳碩と親しい者は、彼が国政を壟断しようなど有り得ないと知っているが、残念ながら宮中ではそう考えない輩が大半である。羨望と嫉妬と、隙あらば取って代わろうと企む人々の視線に晒され続ける日々は、傳碩の胃をきりきりと痛めつけた。
だが何にも増して傳碩が胃痛に悩まされる最たる原因は、彼が仕える当代の旻王・枢智子恩にあった。
傳碩の見る限り、枢智子恩は決して暗愚ではない。ただ性格に難があった。
彼は即位の端から
先代の枢智黎は神官を
もっとも今度は大廟堂派と言うべき一派が台頭したから、いずれにせよ神官勢力が蔓延ることに変わりはない。少なくとも傳碩はそう考えていたが、先日の神獣安眠祈願祭における龍神道信徒の大騒動で、状況は一変した。
大廟堂主の沈阮は失脚し、宮城の大廟堂派も明らかに勢力が衰えた。
龍神道を取り締まるべしという大廟堂の訴えは、傳碩には笑止ものであった。そもそも宮城は大廟堂内の出来事には口出しすべからずという、ほかならぬ神官どもが暗に要求してきた不文律があった。傳碩は先代の御世から続く不文律を盾にして、彼らの訴えに耳を貸そうとしなかった。
結果的に夢望宮派も大廟堂派も、宮城への影響力を大いに減じたことになる。枢智黎も完全には為し得なかった神官勢力の排除が、あれよあれよと進められていく。先代と共に対策に頭を捻り続けてきた傳碩には、いささか釈然としなかった。だが歓迎すべき事態であることは認めざるを得ない。
枢智子恩が龍神道の教母とやらを呼びつけよと命じたのは、その矢先のことである。しかも新任の大廟堂主・
兆薫は夢望宮が大廟堂を掌握すべく、沈阮の後任に送り込んだ神官である。その彼と龍神道の教母を引き合わせようとは、傳碩にはもう王がいったいどういうつもりなのか見当がつかない。
そして、それ以上王の真意を斟酌することを諦めてしまった。
王の意図がどうであれ、今現在の宮城から神官勢力が排されたのは事実である。だから今回も、たとえ王の気紛れだったとしても、きっとなんとかなってしまうに違いない。それは楽観というよりは思考停止に近かったが、彼はただ王に言われるままに粛々と準備を進めることに徹した。ちょうど桃の花が見頃であろうという王の言葉で、対面の場は屋外に設けられることになった。
かくして宮城でも最も華美とされる桃園に集まったのは、旻王・枢智子恩と大廟堂主・兆薫、龍神道教母・
艶然とも浮き世離れしても見える妙齢の女性と、対照的に控えめな所作の穏やかな笑みを湛えた青年。
六名が一堂に会したのは、桃園に咲き誇る桃の花も盛りの、春うららかな日のことであった。
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