七之三


 この屋敷と共に忽然と現れたという多嘉螺たからに、如朦じょもうは世の様々なことを語って聞かせた。

 内海を挟んで、南天と北天という大陸が広がっていること。

 ここは南天の大国・びんの都・りょうであること。

 南天にも北天にも多くの人々が住んで、様々な営みがあるということ。

 様々な人々は様々なものを生み出し、中にはまだ如朦も噂にしか聞いたことのない、珍しきものが数多くあるということ。

 だがそれらのすべては神獣――ほかならぬ如朦自身がうつつで眠りに陥る間に見る、常夢とこゆめであるということ。

「あれもこれも、この私自身も、そなたの夢が生み出したというのか」

 多嘉螺は如朦の話を素直に聞き入れ、同時に不明があれば躊躇わずに尋ねた。

「左様です。私は夢見る神獣がこの常夢に顕現した、いわば現身うつせみ

「すべてそなたの夢の内だというのに、そなたも見たこともない珍品奇品が有り得るというのか」

「夢は、必ずしも夢見る者の思いのままとなるわけではありません。私にも気づかぬ私自身というものが、この常夢には溢れております。私も見聞きして、初めて己を知ることが多い。人は存外、自分のことを知らぬものです」

 ふうむと頷きながら、多嘉螺は今ひとつ釈然としない面持ちでいた。

「そなたの話の肝心なところが、私にはわからん」

 随分と噛み砕いて説明したつもりだったが、まだどこか不足があっただろうか。如朦が視線で尋ね返すと、多嘉螺は形の良い眉を心持ちひそめて、言った。

「そもそも夢とはなんだ?」

 多嘉螺に尋ねられて、如朦はようやく気がついた。

 彼女が夢を見たことがないということ。

 それ以前に、眠りというものを必要としないこと。

 多嘉螺の問いは即ち、彼女がこの屋敷と共に生じた変怪へんげであるという、紛うことなき証しであった。


 ***


 王の御前で龍神道を喝破するなどという大役を、多嘉螺たから如朦じょもうもどうにも断ることができなかった。といってただ漫然とその日を迎えれば、当日はひと言も口を開くことなく、ただの傍観者になりかねない。

 そしてふたりとも、困り果てる兆薫ちょうくんを見て内心ほくそ笑むというほどには、幸か不幸か性根がねじくれていなかった。

 そこで多嘉螺と如朦は、呂酸りょさんにどうすべきかと助言を求めた。すると呂酸は対策を練るべく、懇意の宮中関係者たる単慶たんけいも招いて、彼の屋敷に皆で集まることとなった。

「龍神道の教母を名乗る齋晶さいしょうは、元はしょうという市井の女です」

 今や宮中で王の側近を務める単慶は、重鎮たる渓口けいこう公とも当然交流がある。その渓口公から聞き及んだという龍神道の成り立ちについて、彼は一同に向かって開陳した。

「晶には数えで十五になったばかりの息子がいました。この息子は水夫として商船に乗り込んだのですが、その船が紅河こうがを下って内海に出たところで嵐に遭い、行方知れずとなってしまったそうです」

「それは気の毒な」

 多嘉螺が深く考えずに相槌を打つと、単慶は「ところがです」と言葉を足した。

「息子の安否は杳として知れず、晶が心配で身を焦がす中、彼女は市場でふと一体の龍神像に出会いました。龍神像は晶に、声なき声で呼び掛けたそうです。我は神獣が常夢とこゆめの世に遣わした龍神なり。そなたは日の昇りに一度、陽が沈みて一度、我を拝せよ。ひと月の間欠かすことがなければ、そなたの息子を五体満足で帰してみせよう、と」

「ははあ」

「そこで晶はその龍神像を買い求め、朝な夕なと欠かさずに像を拝み続けたところ、ひと月後に息子が無事な姿を見せたというわけです。彼女が龍神を崇め奉るようになるには、十分な逸話ですね」

「しかし似たような話は、びょうでも聞いたことがあります。この手の逸話は土地を選ばず、定番なのでしょう」

 単慶の話を聞き終えた闇充あんじゅうが、巨躯を揺らすようにして言った。彼の言に異を唱える者はない。齋晶の逸話がありきたりであるという思いは、言い出した単慶も含めて、おそらくその場の全員に共通していた。

「とはいえ晶は、龍神を崇めることに得られる御利益を、以後周囲にも説いて回るようになった。彼女が齋晶と名乗るようになったのも、その頃からだそうです。そして彼女の話を信じる者が少なからずいた。それは確かです」

 齋晶の息子の帰還に纏わる話は、事実だけ並べればその通りなのかもしれない。彼女は龍神に感謝して、周囲にもその加護を分け与えたいという、ただの好意である可能性も少なくない。そうであればるほど、彼女の話を信じる人々も多いだろう。

「龍神道は、りんでも確実に広がりを見せています」

 枢智貴璃すうちきり上紐朗じょうちゅうろうの結婚式に招かれた呂酸は、民家のみならず、島主の屋形にも堂々と飾り付けられている龍神像を目にしたという。

「龍は海河を司る神という、海の民である鱗の人々には受け容れられやすい言説がありました。そこへ龍神道を熱心に信奉する貴璃様が嫁がれたことで、一気に広まったようです」

 島主の上紐朗に至っては、枢智貴璃が人々に認められやすいとあらばということで、龍神道を積極的に後押ししているという。

「なるほど。まつりごとの長たる島主にとっては、その妻が民の信心の象徴となれば何かと都合が良いでしょうね。上紐朗という方は存外したたかな為政者であるということでしょうか」

「さて。あの方の場合は、果たしてそこまで考えられているのかどうか」

 単慶の感心に、闇充が苦笑気味に答えた。単に枢智貴璃を皆に認めさせるためと言われても、闇充には不思議はないらしい。

 いずれにせよ、稜のみならず鱗でも確実に浸透する龍神道を、兆薫――引いては夢望宮は、これ以上見過ごすことはできないだろう。

「それにしても、龍神道がそこまで人気を集める理由はなんでしょう」

 単慶が首を捻ると、「それは端からわかりきっています」と多嘉螺が答えるので、彼は軽く目を見開いて尋ねた。

「多嘉螺様はその理由を、とうにご存知ですか」

「既に単慶殿ご自身が口にされていたではありませんか……いや、何につけ満ち足りた単慶殿には、確かにわかりにくいことやもしれませんが、つまり」

 そこで多嘉螺は、一同の顔をゆっくりと見返しながら、言った。

「現世利益。龍を崇めればもたらされるという益は、この常夢とこゆめを生み出した神獣には無い、わかりやすい御利益でしょう」

 言い終えて、多嘉螺は傍らの如朦の横顔に目を向けた。

 神獣とはいかに非力な存在であるか。自ら生み出した常夢を、神獣はただ眺める、見守ることしかできない。そのことを、多嘉螺はほかならぬ神獣の現身うつせみから、何度も繰り返し聞かされてきたのだ。

 如朦は頬に受ける視線を知ってか知らずか、常と変わらずに穏やかな表情のままで座している。

「確かに、神獣の眠りを妨げぬよう安寧であれという従来の教えに比べれば、信ずれば益があるという教義はより明々白々。人々が容易に飛びつくことも頷けますな」

 深々と頷く呂酸に、闇充が相槌を打つ。その横で単慶が、光明が見えたとばかりに眉根を開いた。

「ではその点こそが、逆に龍神道を喝破する糸口となるのではありませんか。そのように現世利益を確約するなど、神獣にも有り得ぬ、烏滸おこがましい教えである、と」

 単慶の指摘には一定の説得力があると、多嘉螺にも思えた。

 そもそも龍神道は神獣の存在を否定しているのではなく、むしろ神獣の無謬性に因って龍神という神を拵えた教えである。神獣に遣わされたという龍が神獣を超越するというなら、それは明らかな矛盾ではないか――

 そこまで考えて、多嘉螺は自分がまったく高揚していないということに気づいた。

 どうして自分が龍神道をわざわざ否定してやらなくてはいけないのか。そんなことは兆薫たち神官が捻り出せば良い理屈であって、多嘉螺が望むところではない。だがその問いを突き詰めれば、なぜ兆薫の懇願を聞き入れてしまったのかという、自分自身を問い詰めることになる。

 いったい自分の望みはなんだったか。自問自答に陥りそうになる多嘉螺の横で、如朦の低い声が呟いた。

「どれほどの理屈があろうとも、人々が龍神道を求めるという事実は無視できないでしょう」

「それは、龍神道を認めるしかないということでしょうか、如朦殿」

 呂酸に尋ねられて、如朦は小さく口角を上げながら答えた。

「我々は王の御前に参上いたします。ということは、果たして誰に向けて龍神道の欺瞞を暴くべきか。そこが肝要と思われます」

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