経験したことないから
結婚を"人生の墓場"なんて表現する人間は今まで無数にいた。中にはお節介なのか、直接忠告に来た奴もいた。
――どうせ幸せになれないよ。
そんな奴らには、余計なお世話だと張り手でも浴びせたい気持ちが一瞬湧き上がる。――だが、そんな怒りは"自分が結婚する"という事実が気持ちを落ち着かせてくれた。どうせ、失敗した人たちの戯言なんだと、心の中で笑いながら、忠告に感謝をして頭を下げることが出来た。
そう、今の自分は強い自信がある。別に武術大会に優勝したわけではない。宝くじを当てて、大金持ちになって何一つ不自由のない生活を送れるようになったわけでもない。ただ、自分には伴侶が出来る。そして、その人と、一生添い遂げる事ができる、そう考えるだけで自分に勇気が湧いてくるのだ。
――だが、一つだけ悩みの種があった。
「悩みの種って、あれ?」
「……お前が思ってる奴」
こうなった自分が頼れるのは、酒と友人だけだった。結婚記念に奢られてあげるとよく分からない理屈をつけてきた友人に、悩みを相談しに行くことにした。友人とは、親同士が仲が良く、幼い時から集会がある度に顔を合わせていれば嫌でも仲良くなるものなのだ。酒が進み、次第に愚痴と惚れ気が漏れ出てくる中、遂に確信に迫っていった。そして聡明な友人の事は、既に自分の悩みなどお見通しらしい。
そう、悩みとは――二人の口が同時に動いた。
「――宗教の事だよな」
「――誓いのキスをどうしようかなって」
「「え?」」
全然噛みあっていなかった。
「え、は……お前って、そんなピュアな悩みを酒の力を借りなきゃいけないほど無垢だったの」
「そっちこそ、今更宗教の事を隠していてると思ってたのかよ。普通に彼女も信徒だから何の問題もないよ」
そう、自分と友人の繋がりは宗教だ。といっても、毎日の感謝をするとき、心を拠り所に神様がいると考える、適切かどうかは知らないけど割とフランクな宗教だ。だから、洗礼名なんて持っていないし、寄付も自分の出来る範囲で偶に小銭を収めている程度だ。むしろ何でそんなことを悩んでいると思っていたのか不思議でしょうがない。
「そ、そうなのか……羨ましいのはちょっと置いとくとして、誓いのキス云々って何の話だよ」
「いや、ここまで来たら分かるだろ? 『婚前交渉の禁止』って奴だよ」
「え⁉ お前あれ守ってんの!?」
友人は机に乗らんばかりの勢いで、机をはさんだ対面にいる自分に迫ってきていた。そして、そんな戒律を守ってるのは自分だけなんだという事が判ってしまい、一抹の寂しさを覚えた。
そう、この宗教はフランクな代わりに、戒律がそこそこ厳しい。ただ、それでも心のうちにいる神様は、どこかに行かないそうで、へそを曲げてたまに助けてくれなくなるらしい。なんとなく、それを鵜呑みにしている自分は、出来る限り守ろうと今まで生きてきていた。その中の一つが、異性への婚前交渉の禁止だ。ただ、どこまでが認定されるのかが分からないから、自分は彼女と手を繋ぐ以上の事はしていない。
「つまり言いたいのは、経験が一切ないのに本番で上手くいくかどうか心配って事か?」
赤裸々に体の関係がどうだと喋るのは、酒の席だからと言って恥ずかしいことには変わりない。アルコールも混じって赤面した顔を上げる事は出来ず、下を向いてうんうんと首を縦に振った。
「……普通に練習したらいいんじゃね? 結婚するんだから多少早まっても神様は怒らねえだろ」
「戒律ってそういうもんじゃないだろ。校則とかと似てて、守っているからこそ価値があると思うだよ」
「それで惚れた女の一生の晴れ舞台で、恥をかかせるのがお前の信心なら、言うことは無ぇな」
確かに、彼の意見も間違っていないのだろう。聞けば彼は学生の時分から、肉欲に溺れていたらしい。……思い返せば、彼の結婚式で行った誓いのキスに、本番の緊張こそあったものの、非常に手慣れたキスを、参加者に披露していた。
「つまり、俺の心の持ちようってことだよな」
彼女も同じ信徒なのだ。もし本番が初めての舞台だとしても、理屈の上では納得してくれるかもしれない。――けれど、感情の部分で納得してくれるだろうか。彼女がこの式に込める思いは、きっと自分よりも強い。なのに、自分のある種プライドの所為で、それを台無しにしてもいいのだろうか。
「……どうすればいいんだ」
取るべきは自分の信心が、計りかねている彼女の心情か。素面でも難しいのに、アルコールに浸された頭脳にとってはもはや分かる筈などない。そのまま机に突っ伏しながら、ぶつぶつとどうするべきかを言葉に出していた。
だが、それを見ていた友人は違っていた。
「……あぁ、めんどくせぇ」
友人は、机にへばりついていた自分の肩を無理やり起こす。
「――っなに」
抗議の声は、押し付けられた友人の手の平によって掻き消された。
「今覚悟を決めろ、俺にキスされるか、今すぐ家に帰ってキスするか」
それは、有無を言わさぬ雰囲気を伴っていた。多分拒否をしなければ彼は実行するだろう。――なにせ、禁止されているのは異性の婚前交渉なのだから。
「……男とすんのは嫌だ」
「よし、帰ってヤってこい!」
時間は流れ、結婚式の日を迎えた。神父の前で愛を誓い合いヴェールを捲ったとき、化粧を施された彼女は世界で一番美しいと胸を張って言えた。
そのまま、僕たちは流れる様にキスをした。
そこに、本番の緊張はあれど、不慣れな段取りは存在しなかった。
一話完結の短篇集 @Itsuki_Amagiri
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