第18話 分校の桜(エピローグに代えて)


 私は武蔵野に根を下ろす桜の古木だ。


 昔は比企という一族が治めていた鄙びた地で、どういう訳か雨の少ない土地柄だ。よって田よりも畑が多い。初夏の収穫時期には金色に実った麦穂が、絨毯の様に一面に広がり風に揺れる。

 この土地の歴史は古く、だいだら法師の足跡さえ残されていた。彼が着けていた笠を置いた場所が、時を経て笠山と呼ばれる山になったと伝承される。


 その笠山近くの小学校分校に私は立っている。私が植えられた時分は、日本が外国を相手に戦争で勝ったり負けたりしていた。だからほら、私の足元を見るがいい。今でも戦勝祈願の小さな石碑が、ひっそりと建っている。


 分校に植えられたのだから、それは数多くの子供たちを見てきた。私の身体に猿のように器用に登る女の子。満開の私を見上げて、阿呆のように口を半開きにして立ち尽くす男の子。卒業の時、私の足元に何やら記念品を埋めて行く子供たちもいた。


 何年後かに掘り返しに帰ってくると、固く誓って去って行くが何の事は無い。本当に集まるのは、そのうちの一握りだ。人間なんてそんな物なのだろう。

 それでも集まった子供たちは大人になり、いつの間にか自分と同じような子供を連れて私の足元に集まる。その中の一人の子供。名前をトオルといった。


 トオルは活発で、運動ができる子供だった。野球はエースで四番。運動会では毎回、リレーのアンカーを務めていた。運動会の昼食では、私の足元の木陰で両親と共に大きなお結びにムシャぶりついて、笑っていた。


 そんなトオルの両親は彼が2年生の頃、父親が、そして5年生になると母親まで姿を現さなくなる。その頃から彼は夕暮れ時、私の足元に佇むようになった。両親を流行病や事故で失ったこと。親戚に預けられていること。その親戚と折り合いが悪いことなど、一人語りで話して行く。

 私にそんなことを言われても、どうすることも出来ない。しかし話を聞くこと位はできる。級友との付き合い、初恋、失恋、他愛無い独り言は、トオルが熱を出して表に出られないとき以外、毎日のように続いた。


 親戚との折り合いが悪くなるにつれ、彼の素行は荒れていった。小学校を卒業し、中学生になると頭髪を、まるで収穫前の麦畑みたいな色に染めてしまう。

 喧嘩に明け暮れ、勝ったの負けたの煙草を吹かしながら、私に話す。ガラの悪い知り合いが増えたようだが、私の足元にはいつも一人で訪れた。独り言を終え、煙草の吸い殻や空き缶などが落ちていると、黙って拾って帰って行く。そんな日が長く続いた……



 夕暮れ時、俺は分校の桜の下に立ち尽くしていた。今日も売られた喧嘩を買って、相手をボコボコにした。そいつの親父が、叔父貴の所にネジ込んできたのだ。

「お前の所の狂犬に、うちの息子に嚙みつかれた! どうしてくれるんだ!」

 喧嘩を売ってきたのは先方だが、そんな理屈は通らない。部屋に居た俺は、窓から逃げ出してここに居る。これで叔父貴たちが寝入るまで、部屋には戻れない。


 ほとぼりが冷めた頃に部屋に帰るとして、翌日も気が重い。朝もできるだけ早く家を出て、叔父貴たちと顔を合わせないようにしなければならないだろう。

「……腹が減ったな」

 苦情が夕飯前だったのが悔やまれる。翌日の朝飯も喰えるかどうか分からないのが致命的だ。ガキの頃、運動会の時この樹の下で喰ったお握りを思い出す。

 どうにもイライラする。中学を出たら、こんな田舎を飛び出して、一人で生きて行くんだ。溜息をついて夜空を見上げる。桜の梢から、丸い月が浮かんで見えた。



 ある日を境に、トオルは坊主頭になった。何やら武道を習い始めたらしい。私に話す前向きな独り言が多くなる。中学を卒業したら家を出て働く、と言っていた彼は高校進学を目指す事になった……



 喧嘩で負けた事の無い俺が、ヨボヨボのジーサンにコテンパンにされた。一発のパンチも当てることが出来ず、身体に触ることすら出来ずに投げ飛ばされた。何度やっても同じで、十数回は投げ飛ばされただろう。そのうち動けなくなった。全く敵わない。こんなに気持ち良く負けたのは初めてだ。

 悪いのは俺だ。訳も無くイライラしていて、近所のガキどもに当たり散らしたのだ。あのまま暴れまわったら、一体どうなっていただろう。考えただけでゾッとする。


 ガキどもの両親に詫びを入れた翌日、桜の下で呆然としているとジーサンがやって来た。そこで俺の話をジーサンは、残らず聞いてくれた。今まで俺の話を聞いてくれるのは、この桜だけだったから、話し終わるのに長い時間がかかった。

 話を聴き終わると、ジーサンは桜の樹に手を当てる。

「この桜がお前の話し相手だったのだな」


 それからジーサンの話を聞いた。紛争や飢餓でまともに生きていけない子供たちのこと。大好きな子供を残して、死ななければならない親が大勢いること。両親がいないのは一緒だが、俺は仮にも学校に通えて飯も喰えている。

「お前は、このままクズみたいな人生を歩きたいのか。この桜につまらない話ばかり聴かせてどうする」


 確かにそうだ。一言も言い返せない。俺は変わらなければならない。手始めに俺を投げ飛ばした合気道を、ジーサンに習うことにした。



 無事、高校進学を果たし、別の格闘技も始めた彼は、精悍な青年に変貌して行く。親戚との折り合いも改善したようだ。長い間生きていた私とても、こんなに濃密な時間を一人の人間と過ごしたことはない。中学生の頃とは別人のように溌剌とした彼と語り合う時間を、私はいつの間にか楽しみにするようになった。


 ある秋の日。


 トオルはスーツを着て、私の前に現れた。側には分校に通う少年が連れ添っている。一人でしか現れない彼が、他人と私の前に立つことは初めての事だ。


「おいトオル。何でこの桜に挨拶するんだ?」

「この樹には世話になったんだ。この桜がなければ、俺なんか今頃チンピラでどうしょうもないクズになっていた」

「チンピラなのは、今でも変わらないんじゃないか?」

 トオルは苦笑いしながら、少年の頭を小突く。それから私を正面から見上げた。

「俺は今日、アメリカにボクシング留学へ行く。今まで本当に世話になった」

 そう言って深々と頭を下げた。トオルと私を交互に見ていた少年も、しばらくして何も言わずに一緒になって頭を下げた。


「これからの世話はコイツに頼んである。俺が帰ってくるまで元気でいてくれ」

「桜の世話なんて俺は出来ないぞ。何をするんだ?」

「ゴミが落ちていたら拾ったり、虫が喰っていたら追い払うくらいでいい。後は、この樹が寂しくないように、たまに会いに来てやってくれ」

 ふーん。と少年は呟いて頭の後ろに手を組んだ。その位なら出来そうだと呟いて私を見上げる。

「あれ? トオル、ここを見ろ!」

 少年の頭より少し高く、トオルの目線の先の枝に、一輪だけ桜の花が咲いていた。


「……何で今頃、花が咲くんだ」


 不思議そうな顔をするトオルに、少年が説明を始めた。植物はいつも花が咲く時期以外でも、稀に開花すること。その現象を狂い咲きや返り咲きということ。少年は説明を終えると、私の花を見た。

「これは返り咲きだ。桜がトオルに頑張れって言ってるんだぞ」


 少年よ。その通りだ。


 春であれば満開の桜吹雪で見送ってやれるが、今の私にはこれが精一杯だ。もう一度花を見た後、トオルは顔をクシャクシャにして深く頭を下げた。


 頑張れよ。トオル。 辛くなったら帰って来い。


 武蔵野の地で私は、いつまでも君を待っている。

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