5. ぱちぱち

 あれだけ盛大にお別れ会をやっておきながら、実際の引っ越しまで実は一ヶ月近くある。というより、新しく入居するビルのフロア改装にもうしばらく時間がかかるため、本部機能を移すのが9月あたまに延びたのだ。

「そんな気はしてたよね」

「この適当さがうちの会社らしいというか」

 企画職の吉田さん、制作職の内原さん、と、なぜか駆り出された営業職の俺の三人で、明日からはじまるPOPUPイベント用のパネルを切ったり貼ったりしながら、作業台にされて久しい小会議室の天井を見上げる。

 と、そこへひょいと顔を出す濃紺のポロシャツ姿。

「やってるかい」

「あっ、田中さん」

「部長、お疲れ様です」

「はいはいおつかれさん」

 ちょうど外出から戻ったところのようで、背中には四角いビジネスバッグ。外は大変な暑さのようで、ポロシャツの色はところどころ濃くなり額にも汗が光るが、落ち着いて涼しげな態度を崩さない上司はいまだに謎が多い。何をやっているかは正直よくわからないのだが、サラッと複数案件をとってきては現場に悲鳴を上げさせている。つまり、なかなかに容赦のないやり手なのだ。

「こう散らかってちゃそうそうすぐ動けないでしょ、かえって良かったんじゃないの」

「うっ、聞いてらっしゃった」

「まあねえ」

 部長の皮肉に、吉田さんの敬語までちょっとおかしくなっている。壁際に立てかけられ積み上げられた会場装飾用資材の数々、いちいち倉庫に仕舞えばいいものを少しずつ置きっぱなしにしていった結果、この会議室は社内でしか使えなくなってしまった。

「その都度片付けていったらあとが楽だから。それ終わったらちょっと綺麗にして戻んなさいね」

「はあい」

「はい、じゃあ頑張って」

 頑張ったらきっといいことあるよ、と言い置いて、部長は自席に戻っていった。

 少しして、内原さんが詰めていた息を一気に吐き出す。

「……あー緊張した」

「そんなに?」

「だって田中部長って、にこにこしてるけど目の奥が笑ってない気がして」

「あーね」

「そうかなあ」

 俺にはよくわからない。どちらかというとうちのおじさん社員たちは、エンジニアとか流通まわりとか専門性が高いラフな格好の人たちが多くて、ああいういかにも会社員然とした人がいないから珍しいな、くらいには思っていたけれど。

「いいことって何なんでしょう。ちょっと怖い」

「それは素直に受け止めていいと思うけど」

 女の勘というやつだろうか。内原さんが感じ取って、吉田さんも共感する田中部長の底知れなさみたいなものは、俺にとってはいっそ魅力的なくらいだ。

「あっ、ちょっと待って搬入の時間決まった」

「何時ですか」

「16時にはここ出るって」

「うわ、喋ってる場合じゃなかった」

 このギリギリ進行、外注に出すとこうはいかない。この会社にいると、カッターで曲線を切り出すとか什器をありもので組み立てるとか、そういう謎の技術が磨かれる。

「松橋さん器用だからほんと助かる」

「俺さっきからちょいちょいスマホが鳴ってる気がするんだけど」

「気のせいです」

「いやさすがにちょっと待って」

 目の色を変えて手を動かす二人にことわって軍手をはずし、尻ポケットからスマホを取り出す。ざっと見たところ急ぐものはなかったので、一度カッターの刃を折ってから作業に戻った。


「いいこと、ってこれかあ」

 会社の休憩室に、箱に並んだビールやボンレスハム、水菓子の数々がずらりと並んでいる。

 お中元の季節だ。

「なぜこんな分けにくいものを」

〈ご自由にお持ちください〉のメモを貼りながら、総務の永野さんが嘆く。小柄な彼女は細かいことによく気がついて、ゴミ出しやコピー用紙の補充など率先して動いてくれるのだが、どこか自分のパワーを過信しているところがあって、危なっかしいところによく出くわす。いろいろ手伝っているうちに、なにかと頼られるようになってしまった。

 いま彼女が頭を抱えているのは、鈍器のようなハムの詰め合わせのせいである。

「松橋さん、持って帰ります? もういっそ証拠隠滅してしまえば」

「いやこの量はさすがに」 

「ですよねえ、どうしようこれ……」

 切り分けて社内で振る舞うことはできよう、しかし、彼女の顔には明らかに「めんどくさい」と書いてある。先だってもいただきもののスイカを切り分けてくれたばかりだ。それはそうだろうと申し訳なく思いながら、俺も一緒に考える。

 証拠隠滅……。

「あ、そうだ。俺が」

「やっぱり切りますか?」

「いや」

 我ながらこれは妙案かもしれない。

「これ全部、上で食っちゃいましょう」


 朝の通勤列車に、段ボールをくくりつけたカートを引きずって乗り込む。中身は我が家の七輪と炭、それからトングも持ってきた。

「先輩、やることが俺と似てきましたねえ」

 同居人のニヤけ顔に見送られ、列車内でも若干白い目で見られてなんだか不本意だが、思いついてしまったものは仕方ない。

 分けるのが面倒なら、とっとと食べてしまえばいい。

 幸い、先日の夏祭りもどきで屋上での火気使用の前例はあるし、「この日に焼くから食べたい人だけ食べに来い(意訳)」と事前通達済だから文句はないだろう。日時はあえて水曜の夜、ぱっと食べてさっと帰ってもらえればそれで良い。ちょうど決算前で関係部署の人たちはゾンビみたいな顔になっているので、息抜きとしてもちょうどいいだろう。

 俺だってそんなに暇なわけじゃない。各所のスケジュール調整と会場押さえ、納期確認に不良品交換、こんなときに配送事故まで起きてその対処にも追われ、でも夜は夜で空けておかねばならぬので必死で片付けた。

 へとへとだが、俺、やればできるじゃないか。

 まだ日の残る午後7時、ためこんだ熱を放出しだした屋上で炭と向き合いながら、俺は一体何をやってるんだろうと気が遠くなる。さすがにワイシャツのままはきついので、上は試作品のTシャツに着替えた。それでもすでに汗だくだ。

「おーっ、いい火加減じゃないですか〜!」

 書類作成に追われている永野さんに代わって、藤本さんがハムを厚切りにして持ってきた。彼女はいつもどおり元気いっぱいだが、そのうしろにぞろぞろとついてくるゾンビの群れ。

「うわ、おつかれさまです」

「うわとはなんだ……」

 これも焼いてほしいと卵とミニフライパンを持ってくる者、コッペパンやバンズを握りしめてくる者、あたため済のパックご飯を持参する者。

「このあとも長いからね……」

「あったかいごはん、うれしいな……」

 やがて熱した炭にハムの脂が落ちて、ぱちぱちと音を立てはじめた。疲れ切ってどんよりしたまま、それでも弱々しく歓声を上げる会社員たち。喜んでくれるのはありがたいが、ハムに焼き色がつくまでの間じっと取り囲まれたままなのはどうにも生きた心地がしなかった。

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うまいメシさえあればいい 草群 鶏 @emily0420

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