4.ラブレター

 手紙だ。

 いつもの通勤路の植え込みに、突き刺さるようにして引っかかっている。毎日のささやかな運動、そう思って自宅から最寄り駅までは歩くことにしているのだが、よく手入れされた濃い緑のなかにくっきりした白が良く目立つ。朝だというのに空は重く暗く、今にも雨が降り出しそうだ。どうにも見過ごせなくて、つい拾い上げてしまう。

 宛名には、決してうまくないが丁寧な筆跡で「章人さんへ」とあった。

(あきと……?)

 あきひとかもしれない。しょうとという可能性もある。どうとでも読める名前だなと思いながら、折りたたみ傘でいつもより窮屈になった通勤リュックの内ポケットに押し込んだ。


「うわ、恋文ってやつじゃないですか」

「変に古風な言い方するなよ」

「なんで」

「お前の口から出ると気味が悪い」

「失礼な」

 あれからうっかり三日も経ってしまった。帰宅時に突然襲われたゲリラ豪雨に、リュック内のものをすべてひっくり返して干そうとしてようやく日の目を見た拾い物。

 リュックの背側のポケットだったから、幸いしみひとつなく綺麗なものだ。外から見るかぎり手がかりは宛名のひとつきり、郵便物として投函するつもりがなかったのか真っ白な洋形封筒の口に封はなく、中身を見ようと思えば何の障害もなく見られてしまう。

 持ち主を探すにしても、もう少し情報がないと身動きのしようがない。そう沢村に唆されて開いた便箋は、品の良い紺色の縁取りがされて、宛名書きと同じく一画一画をゆっくり置いたような味のある筆跡が並んでいた。

「これは見てはいけないやつ」

「メシのあとにしましょう、俺も読みたい」

「そういうことじゃないんだけどなあ」

 現実から目を背けようとしている俺を差し置いて、沢村はわくわくしながら台所に戻っていく。

 今日の夕食は沢村特製のドライカレーで、俺は雨でびしょびしょだというのに卵を買ってくるよう言いつけられた。冷蔵庫には残り一個、沢村はラスイチを譲ってくれるような男では決してないので、俺も卵をのせて食べたいからまあ自分のためではある。

「ダメだ、悪いけど風呂入ってくる」

「はいはーい」

 今日のメニューで手伝えるところなんてほぼなさそうではあったが、それでもなんとなく気が咎めて熱いシャワーを浴びるにとどめた。

 トマトやナス、のみならず、オクラやナッツ、とうもろこしまで入ったドライカレーはいつもと違う風味がして、正体を問うたら「豚骨スープです」と返ってきた。

「どういうこと?」

「こないだ、昼メシで袋麺の麺だけ使ったらスープ余っちゃって、なんか塩気足すのにちょうどいいかなあと思って入れてみたんすよ」

「チャレンジャー……」

「料理は科学っていうでしょ。日々実験すよ」

 もっともらしいことを言うのがうまいやつだ。たしかに、野菜やカレースパイスだけだとあっさりしがちなところに、こっくりしたまろやかさが加わって白飯のすすむこと。

「言われてみるとラーメンみたいだな」

「でもラーメンよりヘルシーすよ」

「量食ったら一緒だけどな」

「それはそう」

 卵黄を崩して絡めれば、それはもう焼き肉でなくても黄金の味だ。

 真っ白な、しかも誰のものかもわからないものを扱うのには緊張が伴う。再び手紙を開くのは、俺が皿洗いまで済ませてからにした。

「やっぱり、ラブレターっていうより恋文でしょ」

「たしかに」

 きっと長い付き合いなのだろう。ともに過ごした心地のよい時間、年齢を重ねてそうそう変えられない関係、それでも言わずにいられない本心が切々と綴られている。

「罪悪感半端ないな」

「ネットに晒すわけじゃなし、仕方なくないすか」

 重ねられた便箋の、結びに座るのは「アオ」の二文字。

「まあ、最低限これでどうにかなるか」

「なにが」

「探すんでしょ、持ち主。アオって人からあきと?って人への手紙預かってます、って言ったら心当たりの人は出てくるんじゃないすか」

「宛名も公開する?」

「そりゃあ、落としたのが差出人とは限らないでしょう」

 それもそうか。俺はてっきり、書いた本人が渡す前に落としたものだと。

「どっちにしても、こんだけ真面目にっていうか心こめて書いたんだったら、返してあげたいすね。誰かさんが三日も持ってたからもうわかんないけど」

「それを言われるとツラい」

 沢村は痛いところを突いてくる。罪滅ぼしの意味でも、早く持ち主が見つかってくれればいいのだが。


 持ち主探しには、SNSと張り紙の同時作戦をとりつつ、むやみに大ごとにしないように細心の注意を払った。なにせモノがラブレターである。できるだけひっそりと返してやりたいというのが、俺たちの矛盾した願望であった。藤本吉田コンビに相談しているのをたまたま耳に挟んだ勝田が(獣なみの地獄耳だということが最近判明した)なにげなく発した「捨てアカとったらいいじゃないですか」を珍しく吉田さんが激賞し、冷戦にかすかな雪解けの兆しが訪れるという副産物もあった。そんなわけで、俺が就活以来ほとんど使ってないメールアドレスでいくつかのSNSを登録し、情報発信にあてることになった。

 発信をはじめて5日後、事態は動いた。寄せられたDMに、日時、場所、それから手紙の内容もぴたりとはまるものがあり、その週末に落とし主らしき人物と会うことになったのである。

「あ、俺ここ知ってる。いい店ですよ」

 指定された喫茶店は拾った地点から歩ける距離にあり、ネットで調べてみるとかなり年季の入った店のようだった。

「俺も一緒に行きましょうか」

「ご馳走してもらおうって魂胆だろ」

「なくはない」

「おい」

 でも、と沢村は続ける。

「それなりに心配してんすよ、これでも。先輩けっこうガード甘いとこあるから」

「そうか?」

「すぐ詐欺に遭いそう。ぜったいカモの素質ありますって」

「お前な」

 指定の時刻は土曜日のおやつどき。周囲の客は老人か女性ばかりで、悪事を働く隙などなさそうに思える。

「一番奥の席……あれ?」

 四人がけのテーブルにひとり。座っていたのは壮年の男性である。ごま塩頭にぱりっとアイロンのあたったシャツを着て、古い型のメガネがしっくりと馴染んだ、穏やかそうな人であった。

「あの、手紙の」

「あ、これはどうも」

 渋い声とともに立ち上がった男性と俺と沢村、男が三人でぺこぺこと頭を下げた。例の手紙は会社からくすねてきたクリアファイルにおさめていつものキャンバストートに入れてある。すすめられるまま男性の向かいに座り、促されるままコーヒーとケーキを注文する。俺はガトーショコラ、沢村は桃のタルト。

「本日はわざわざご足労いただきまして」

「いや、近所なんで」

「なるほど、僕もです」

「俺はこの人の居候なんで、俺も近所です」

 沢村がうまい具合に場を和ませる。手紙の持ち主と思しき男性は恐縮しきりだ。名刺を渡されそうになったが他人の個人情報を下手に預かるのはこわい。こちらも名乗るだけ名乗り、名刺は名前だけ見せてもらってお返しした。

 高木葵。アオとは彼のことか。

「内容はご覧になったんですよね」

「ああ、はい、すみません」

「謝らないでください、元はと言えば落とした僕が悪いんですから。むしろ、お恥ずかしいものを」

「いえ……」

 恥ずかしい、と片付けてしまうには真摯な内容だったのでそう伝えたいのだが、こちらが感想を述べるというのもおかしな話だ。なにより、だいぶじっくり読んだことがばれてしまう。

 返答しかねていると、沢村が桃を頬張りながら何気なく提案した。

「よかったら、字、書いてみてもらえませんか」

「字、ですか」

「筆跡鑑定です」

 したり顔で言い切る沢村に、高木さんの表情がはじめてほぐれた。

「なるほど」

「偽物に渡すわけにもいかないんで」

「そうですね」

 何度も深く頷きながら、彼はよく使い込まれた艶の、革の手帳を取り出した。まっさらなリフィルを取り出して、ボールペンをカチリ。たしかな筆運びで、自分のフルネームを書いてみせた。

「先輩」

「ああ」

 沢村に小突かれて手紙を取り出す。封筒に刻まれた宛名の筆跡。文字は違うが、どうみても同じ人の書いたものだった。

 間違いない。

「お返しします」

「ありがとう」

 差し出されたものをサッと受け取って、照れくさそうに顔を歪めながら鞄に仕舞う。

「今日はようやく、ゆっくり眠れそうです」

 そう言いながら、小ぶりな紙袋をテーブルにのせる。

「僕が好きなもので申し訳ないが、これはお礼です」

「えっ、いいんですか」

「どうぞどうぞ」

 高木さんは心底ほっとした様子で、表情もずいぶん柔らかい。その勢いのまま、おもむろに長財布からお札が数枚。

「いやいやいや、それはいただけません」

「お茶代ですから」

「多すぎる!」

「ごちそうさまでーす」

「おまえ!」

 しばし押し問答をしたのち、実質の2対1で俺が根負けした。もう少しゆっくりしていきなさいと言うので、お言葉に甘えることにする。

「あ、そうだ」

 去り際の高木さんを沢村が引き止めた。

「宛名の名前、あれ、なんて読むのが正解なんですか。おれ気になっちゃって」

「ああ」

 たしかに、と破顔したのち、彼は声を低くした。

「ふみひと、と読みます」

 では、と頭を下げて去っていく。そのいくらか慌てたような足取りもさることながら、大事に告げられた名前のひとことになんだか衝撃を受けてしまって、俺はしばらく喋れずにいた。沢村も物思いに沈んで黙っている。

「……なるほどねえ」

「なにが」

「いや」

 何か心当たりがあるようだ。ただ、今回は俺も詮索しないことにする。

 紙袋からは甘酸っぱい香り。そうっと開けてみると、シナモンがふんだんにきいたアップルパイがつやつやとこちらを見上げていた。

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