無実の仔
桑鶴七緒
無実の仔
季節は五月雨。
しとしとと降り続ける雨の最中を、多くの車が道路を行き交う交通量の中、住宅街の一角にある弁護士事務所にとある夫婦が訪れていた。
越野絢佳は夫との間に協議していた離婚の申し立ての件で弁護士を通じて会話をしていた。
弁護士「では、これで、御二方の離婚協議の受理は全て成立いたしました。それぞれこちらの名義人の欄にフルネームでサインをお願いします。あと印鑑もお願いします。」
2人は、弁護士から差し出された書類に、それぞれサインを書き終えて捺印を済ませた。弁護士に挨拶をしてから、事務所の外に出た。夕刻の時。薄暗い景色で覆う様に、今にも雷が鳴りそうな空模様だった。
夫「取り敢えず今日は母の家に帰るよ。お前も気をつけて帰りなさい」
絢佳「分かりました。貴方も気をつけて。あの子にもよろしく伝えてね」
夫はその後何も語らずに、彼女の元から去っていった。絢佳は夫と反対方向の道を歩いて、バスの停留所に向かった。やがてバスが到着し、中へ入ると絢佳は一番後ろの席に座っていた。窓の景色に目をやりながら、歩道を歩く人々や行き交う車を眺めていた。駅前のバス停を下車し、改札口で帰宅している溢れ返る人混みの中、電車で家に帰って行った。玄関のドアを開閉し、リビングを見渡しながら、ソファに腰をかけた。
45歳になった絢佳はこれまで何の疑いもなく家族の為に色々と尽くして来たと思っていた。しかし自分の母親の介護に追われて、家の家事が疎かになっていき、夫からは介護を優先する様にきつく促されて、挙げ句の果て、離婚に至ったのであった。両立することや協力して欲しいとあんなにお願いをしたのに。絢佳は納得の行かないまま、孤立した状態に陥ってしまったのである。暫くの間、義母の家から通勤すると言われて、夫と息子は家を出て行った。
1週間経ったある日の夕方。絢佳は一人新居で引っ越すための準備をしていた。食器類、衣服、日用品、取り敢えず段ボールに全ての荷物を詰め込んだ。ひと段落を終えて絢佳は居間のソファに座り込み、溜め息をついた。今まで夫や息子が居た部屋の中は静けさを増していた。時計の針がいつも以上に響き渡る…。
これまでの疲労も重なっていたせいか、次第に絢佳はソファの上に身体ごと乗せて眠りについていたのである。
翌朝、引越し業者のトラックが自宅に到着して、自分だけの分の荷物が入った段ボール類を業者に運んでもらった。2時間後、トラックは先に新居先の場所へと向かっていった。絢佳は周りに忘れ物がないか、部屋の中を再度確認して、台所などの元栓を締めて、居間のカーテンを閉じて、手荷物を持ち、家を出ていった。電車で新居先の場所に向かい、到着した後、新居のマンションの管理人に挨拶をしに行った。
管理人から新しい部屋の鍵をもらい、3階の所までエレベーターで上がっていった。玄関のドアを開閉して、靴を脱ぎ、静まり返った部屋を見渡していた。今日からここが自分の再出発の場所。一心に気持ちを入れ替えて、暮らしていこうと考えていた時、指定の時間通りに引越し業者のトラックが到着していた。
インターホンが鳴ったので、ドアを開けて業者に荷物を中に運ぶよう指示をした。全ての荷物を運び終わった後、早速居間のカーテンから取り付けを行った。ある程度の荷物を各場所にしまい込み、ひと息ついたところで近くのコンビニエンスストアへ夕飯の分を買いに出掛けた。
帰宅してから買ってきた弁当を食べ、キッチンのガスコンロに水の入ったケトルに火をかけた。お湯が沸くと、マグカップにアッサムのティーパックを入れ、お湯を注ぎ、テーブルの上に置いた。スマートフォンから何件かメールが届いていたので確認していると、友人から紹介してもらった就労先の料理教室の担当者からの連絡が届いていた。3日後の初日の持ち物の件についての事項だった。結婚後はずっと専業主婦だった為、しばらく振りの働き口だった。今まで苦労した分、気持ちは新たな解放感で満ち溢れていた。
出勤日の当日。絢佳は指定された時刻に間に合う様に自宅を出発し、50分後に教室に到着した。中へ入ると、アシスタントの一人が出迎えてくれた。ロッカ―に案内されて、身支度を整えると、先生や他の数名のアシスタントらが居る教室に入って行った。
先生「今日から私達のアシスタントとして来ていただいた絢佳さんです。よろしくお願いします。皆さんに挨拶してください。」
絢佳「越野絢佳と言います。不慣れなところがあり、皆様には色々お手間をかけてしまいますが、一緒に頑張ってアシスタントとしてやっていきます。よろしくお願いします。」
挨拶が終わると先生が直ぐに今日の撮影用に使う食品のメニューをひと通りアシスタント達に伝えて、各自セッティングに向かった。
アシスタント「絢佳さん、この用紙に書いてある食材を冷蔵庫から出して、台の上に並べて行ってください」
絢佳「分かりました」
着々と工程が進んでいき、カメラマンなどのスタッフが教室に到着すると、更に周りが慌しくなってきた。その後メニューが出来上がり、撮影も同時に始まった。その後ろから絢佳は背伸びをする様にかかとを上げて撮影を見ていた。
やがて撮影が終わり、アシスタント達と後片付けをしていると、先生から皆へ今日の作った品を持ち帰っても良いと声をかけてくれたので、絢佳もタッパーを借りて品物を詰めた。仕事を終えて、帰宅した頃には19時を回っていた。数日後、玄関のポストにいくつか郵便物が届いていた。チラシが紛れている中、取り出してみたところ、見慣れない名前の記載してある封筒が一緒に入っていた。
絢佳「なかざと、たくい…?って読むのかな…?」
絢佳は1階の管理人のところへ行き、宛名の書かれた封筒を持って行ったら、今、絢佳の居る部屋の前の住人の物だと教えてくれた。その人物が働いている場所がマンションから近いと聞かされたので、自分が届けに行くと咄嗟に口から出てしまった。管理人は取り敢えず行っても大丈夫だと言ってくれたので、教えてくれた住所が書かれたメモ紙を持って、その場所へと向かった。住所のところに到着した場所は、建物の看板にアクションスタジオと書かれていた。スタジオの扉を開いて中に入っていくと、練習生らしき人達が集まっていた。中にいた人物がこちらに気づきドアが開いた。
絢佳「あの、ここに永里卓偉さんという方はいらっしゃいますか?これ、私の自宅に荷物が届いてたんですが…」
男性「卓偉ですね、ちょっと待っててください」
そうすると、奥の方から宛名に書いてある人物らしき男性が近づいてきた。
卓偉「はじめましてこんにちは。永里です。」
スタジオの練習生の張り合う声のなか、永里卓偉という男性が絢佳に向かって挨拶をしてきた。
絢佳「あの、これ私の自宅に貴方宛ての荷物が届いていたんです。それで管理人さんから聞いたら、こちらにいらっしゃると教えてもらって来ました。」
卓偉「わざわざありがとうございます。転居届出してあるのに、そちらに着いてしまったんだね…」
絢佳が封筒を卓偉に渡して帰ろうとしたら、卓偉から声をかけられてきた。
卓偉「あの、もしお時間ありましたら、うちのスタジオ見学してみませんか?」
絢佳「えっでも…ここってアクションスタジオって書いてあるんだけど、その名前の通りのところなんですか?」
卓偉「はい。僕らの門下生達が今、アクションや殺陣の練習をしている最中なんです。…見るの抵抗ありますか?」
絢佳「じゃあ、お邪魔じゃなければ…少しだけならいいかな」
絢佳は少し緊張した面持ちで、卓偉の跡をついていくと、そこは見た事ない熱気が溢れる雰囲気で沸き立っていた。年齢層から見ると10代後半から20代の男女が居て、その半数以上が男性だった。リングに上がりボクシングの打ち合いをする人達や、バク転をしたりしてマンツーマンでアクションの練習に励む様子が見れていた。その光景に圧倒され絢佳は呆然と立ち尽くしていた。
真壁「よし。そこまでだ、殺陣のチームこっちに集合しろ」
ある人物が大声で声をかけていた。
真壁「一旦休憩に入れ。その後、また再開してくれ」
卓偉「今の人はここの代表の真壁さんっていう人です。紹介しますね。」
真壁「こんにちは。卓偉、この人は?」
卓偉「見学しに来た方で越野絢佳さんと言います」
絢佳「こんにちは、急にお邪魔してすみません」
真壁「いえ、見に来ていただいてありがとうございます。まだ向こうのグループが練習しているから、良かったら見て行ってください」
そう言って真壁はスタジオの外に出て行った。
絢佳「ちなみにここのスタジオっていつからあるんですか?」
卓偉「そうだなぁ。僕が入った時には既にあるから、もう20年以上は経つと思います」
絢佳「こんな街のところにあるなんて、思いもしなかったです。」
卓偉「あの、すみません。僕、これからボクシングの相手があるんで、失礼します」
卓偉はそう告げて、サンドバッグ側のある人達の中に入って行った。丁度その時、もう一人の人物が絢佳に近寄ってきた。
男性「こんにちは。見学の方ですか?」
絢佳「えぇ、まぁ一応」
男性「さっき話していた卓偉さんなんだけど、僕達のアシスタントマネージャーなんです。」絢佳「彼もアクションをするの?」
男性「僕らの練習の指導者側に回っています。卓偉さんも元々スタントマンだったんですよ。」
絢佳「そうなんですか、凄い…なんで今は指導者に?」
男性「卓偉さん、片耳が殆ど聞こえてないんです。5年くらい前に、アクションシーンの撮影の最中に、怪我をしてしまって。その時に耳の神経もやられてしまったんです。」
絢佳「そう、そうなんですね。それでもここで続けられているのも凄いですね。」
男性「代表と同じく、卓偉さんは僕らの目標なんです。ここから数名は現場で活動している人もいるんですよ。」
絢佳「そうですかぁ」
卓偉が片耳しか聞こえない状況なのに、あんなに熱心に指導に当たる姿を見て、絢佳は暫く卓偉の様子を伺っていた。1時間後、絢佳は近くにいた練習生に声を掛け、自宅に帰ると伝えると、その後ろから卓偉が駆け寄ってきた。
卓偉「越野さん、今日見に来てくれてありがとうございました。また時間があったら見に来てくださいね」
彼に会釈をして絢佳はスタジオを後にした。帰り際にスーパーに立ち寄り食材の買い出しをしていた。その後、自宅に着いた頃には夕日も沈みこんでいた。今日の夕飯のメニューは簡単に作れるものにしようと、早速キッチンに向かい調理を始めた。
食事を済ませて食器類を洗っていた時に、ふと先程見学したスタジオでの、卓偉の姿や耳の事を思い出していた。
何故あれだけ大勢の居る中であんなに打ち込むことができる人なんだろう。今日初めて会った人だったのに、こんなにも脳裏に焼き付けているのだろうか。自分も真剣に生きていけば、彼の様に打ち解けていけるのかもしれないな。そう考えながら、絢佳はお風呂に湯を張り、時計を見ては今日の出来事に更けていった。
数日後、料理教室の仕事を終えて自宅へ向かう電車の中で、あのアクションスタジオの事を思い出していた。
絢佳「永里卓偉だったっけ。あの人、もうスタジオにはいないかしら?」
自宅のある駅の2駅前の所を下車して、咄嗟に絢佳はやや駆け足でスタジオに寄ってみた。
絢佳「こんばんは。」
練習生「あれ?あの時の見学された方ですよね?どうでしたんですか?
絢佳「急に来てしまってすみません。あの、永里さんという方はいらっしゃいますか?」
練習生「ああ、今日は卓偉さんお休みだったんです。すみません」
絢佳「こちらこそ。では、失礼します」
自分も何を思ったのか、急に卓偉に会えるのではないかと期待しながら来てみたが、結局はいなかった。絢佳はまた駅へと向かい自宅へ帰って行ったのであった。
2週間が経ち、料理教室で撮影が終わったころ、絢佳は先生から呼び止められていた。
絢佳「タルトタタンですか?私が作るのですか?」
先生「ええ。試しに挑戦してみない?あなたの成果が見てみたいの」
絢佳「分かりました。やってみます」
絢佳は、洋菓子をつくるのは久々だったので、その帰り道の書店に立ち寄り、幾つか参考になるようにと本を購入した。
翌日の休日。絢佳は早速課題のタルトタタンの下準備を進めていた。買い集めた材料をチェックして、作業に取り掛かった。ひと通り焼き上がりまで出来上がったので、粗熱が冷めた後、タルトをナイフで差し込んでみた。煮崩れがあまりなかったので、綺麗にナイフを入れられたことに安堵していた。味を確認するとやや甘さが強く出てしまっていたので、もう一つ作る事にした。やがて別のタルトタタンを完成させた時には17時を回っていた。取り敢えず翌週に教室で改めて作る為に本を再び読み漁っていた。折角作る事が出来たのに誰かに食べてもらいたいなと考えていると、ふとアクションスタジオで出会った卓偉の事を真っ先に思い出た。
まだ二度しか会っていない人を自宅にあげるはどうかと思い悩んだが、他にも当てがあるかとスマートフォンで何人の友人にも連絡を取ってみた。すると学生時代の友人に連絡が取れたので、彼女を呼んでみようと声をかけたら、是非行きたいと返事をくれた。
翌日絢佳は再びスタジオへ足を運んでみると、卓偉の姿は見当たらなかった。駅のホームで電車を待っている途中にふと、人混みを見ていたら、偶然に卓偉が歩いているのを見かけたので、彼の元に駆け寄った。卓偉も絢佳に気づき驚いていた。卓偉は時間があるかと尋ねてきたので、あると返事をしたら、近くのファミレスにでも行こうと絢佳を誘った。その後2人は改札口を抜けてそこから歩いて10分の所にあるファミレスへと入って行った。
卓偉「洋菓子ですか?まぁ、食べれなくはないですが。僕で良いんですか?」
絢佳「ええ。あと私の友人も招待したから一緒にどうかなって思ったんだけど。無理かな?」
卓偉「いえ、是非食べさせてください。僕、甘いもの好きなんです」
絢佳「本当?良かった。是非うちに来てください。明日は大丈夫そう?」
卓偉「はい、スタジオも早く終われるので、その足で家に向かいます。そうだ、一応連絡先教えてもらえませんか?交換しましょう」
彼は快く絢佳の件に受け入れてくれた。
翌日、卓偉は絢佳の住むマンションへと向かった。到着して玄関のインターホンを鳴らすと絢佳が出迎えくれた。既に絢佳の友人が部屋の中に入っていた。挨拶が終わると、絢佳は準備に取り掛かった。卓偉は友人と会話をしていた。
友人「えぇ?卓偉くん、ここの部屋に前に住んでいたの?絢佳、凄い偶然ね。こんな事ってあるんだね」
卓偉「僕もびっくりしましたよ。まさかまたここに戻ってくるなんて、思いも寄らなかったです。」
友人「貴方も引越したばかりなんでしょう?また出戻るみたいな感じで、居心地が変じゃない?」
卓偉「引越ししてからは半年は経っているんですが、…やっぱり不思議な居心地ですね」
友人「ちなみに今、年って幾つなの?」
卓偉「35です」
そうしている間に絢佳が仕上げた生地をオーブンへ入れていた。
絢佳「あと30分位で焼き上がりそうだから、その間お茶を入れるね。」
友人「ねぇ、絢佳。お母さんの具合はどうなの?」
絢佳「あぁ。だいぶ落ち着いてるよ。もう3年経ったしね。」
卓偉「絢佳さんのお母さん?どうされているんですか?」
絢佳「私の母親、要介護受けててね。グループホームに入居しているの。その前までは、私の実家で介護の補助を私が全部やっていたのよ。」
卓偉「絢佳さん家族の方は、協力はしてくれなかったんですか?」
絢佳「いいえ。時々旦那や息子も顔を出してくれて手伝ってくれたこともあったんだけどね。介護認定が上がった事もあって、これ以上は私も行き来するのが大変になったから、入居施設に入れたの」
友人「絢佳ね、家事も両立しながら頑張っていたのに、旦那から家を出るって話になってね。結局先月だよね?離婚が成立したの」
卓偉「じゃあ、旦那さんが息子さんを引き取ったんですか?」
絢佳「そう。その方が子どもの為にもなるからって。色々揉めたけど、それで良かったなって。今は気持ちが晴々してるわ」
卓偉「お母さん、別れた事は話してあるんですか?」
絢佳「いいえ。話すときっと混乱するかもしれないから。暫くは黙っていようかと。あと何年か経ったら話しても良いかなってね」
卓偉「色々大変なんですね。今日こうして家にあげていただいたの、良かったんですか?」
絢佳」「勿論。その事と、今のこうしている時間は別だから、気にしなくて良いのよ」
絢佳は気丈に振る舞うように2人の前で話していた。本当は、未だ落ち着いていられる状況ではなかったのだった。やがて、生地が焼き上がり、オーブンから取り出すと、キッチンの周りがとても良い香りで漂っていた。
友人「わぁ、良い香り。早く食べたいな。絢佳、冷ましてからいただけるの?」
絢佳「うん。もう少し待ってて」
卓偉「このままでもすぐに食べれそうな感じだよね。凄い。林檎が綺麗に並んである」
3人は楽しそうに会話を続けているうちに、生地が冷めたので、絢佳が早速タルトにナイフを入れて、それぞれ取り皿に乗せて盛り付けた。
友人「いただきます。…うん。甘さが強くなくて林檎の焼き具合もしっとりしてる。いいじゃん、流石ね、絢佳」
卓偉「本当。食べやすくて美味しい。タルトタタンでもっと甘いイメージあったけど、これお店にあったら絶対買う味だ。」
絢佳「褒め過ぎよ。これから先生に作らないといけないから、もう今から緊張して堪らない」
友人「大丈夫よ。本番に強い所があるんだから、絢佳なら出来るわよ」
絢佳「取り敢えず今日は2人に食べてもらって良かったわ。お茶新しいの入れ直すね」
友人「卓偉くん、絢佳は料理全般が得意だから、リクエストあったら言ってもいいのよ」
絢佳「えぇ?急に何よ?」
友人「折角2人が会えた事だし、絢佳、今度ご飯でも振る舞ってあげたらどう?」
絢佳「まぁ、考えてもいいけど。永里さんは無理もないよね?」
卓偉「機会があればまた是非食べに行きたいです。楽しみが増えたな」
友人「あはは!やっぱり卓偉くん素直。そこは男の子みたいよね。絢佳、人の胃袋掴むの上手い方だから、期待していて」
絢佳「何言ってるのよ、余計なこと言わないで」
会話が弾む中、絢佳のスマートフォンに連絡がかかってきた。母親の居住するグループホームの介護士からの電話だった。下着の着替えが必要だから近いうちに来てほしいとの事だった。
絢佳「分かりました、明後日そちらに行きます。今日の母の具合は?…そうですか、あまり変わらなくて良かったです。ではまた、失礼します」
友人「グループホームから?」
絢佳「うん。また近いうちに行かなきゃならなくなった。お母さん元気みたいだから、心配しなくて大丈夫だって」
友人「私、そろそろ帰らないと。夕飯の支度もあるし」
絢佳「あぁ、わかった。今日はありがとうね。」
友人「じゃあ卓偉くんまたね」
卓偉「こちらこそありがとうございました」
友人が帰った後、卓偉は暫く無言のまま紅茶を飲んでいた。その様子を見て絢佳が彼に声を掛けてきた。
絢佳「永里さんは今の仕事はもう長いの?」
卓偉「今のスタジオは5年くらい居ます。その前はスタントの現場で仕事をしてました。」
絢佳「スタジオの同僚の方から聞いたんだけど、片耳が聞こえにくいって本当なの?」
卓偉「あぁ。皆いつの間に越野さんに話していたんですね。左の聴覚が麻痺しているみたいで。今のところ生活には支障はないんだけど、最近また聞こえにくくなっているんです」
絢佳「スタジオで指導する時、それこそ怪我とかしたら大変でしょう?」
卓偉「今は大丈夫ですよ。マネジメントの方になって門下生に指導する様になってから、毎日が楽しいんです。皆懸命に取り組んでいる姿を見てると、僕も頑張らないとって励まされているし」
絢佳「あまり無理しないでね」
卓偉「ありがとうございます」
卓偉がそう告げると、そろそろ自分も帰ると言ってきたので、玄関先まで見送った。
卓偉「今日はありがとうございました。越野さん、また時間があったらお会いしましょう。あぁ、またスタジオに見に来ても良いですからね」
絢佳「こちらこそ付き合ってくれてありがとうございます。帰り気をつけてね」
玄関のドアが閉まると、急に辺りは静まり返った。久しぶりに自宅に人を招いたので、絢佳はとても満足げな余韻に浸っていた。
3日後の日中、絢佳は母親の居るグループホームへ向かった。到着して、2階のデイルームに行くと、丁度利用者達が介護士らと折り紙を作っている最中だった。介護士の1人が絢佳に気づき、駆け寄ってきた。
介護士「こんにちは。越野さん、今日着替え持って来ていただいてありがとうございます。」
絢佳「あの、私の母は?」
介護士「奥の所で折り紙を作っていますよ」
絢佳は母親の所へ近寄った。
絢佳「お母さん、折り紙作っているんだね。楽しい?」
紗枝「絢佳じゃない。えぇ、楽しいわよ。貴方もやってみる?」
介護士「紗枝さん。今日娘さんこれからお仕事あるから、もう帰らないといけないんです」
絢佳「お母さん、私また来るからね」
母親は夢中で折り紙を作っていたので、これ以上は話しかけずにいた。絢佳は介護士にまた来ると伝えて、グループホームを後にした。料理教室へ向かう途中、絢佳は小学生の頃に母親と手を繋いで公園へ遊びに連れて行った時の事を思い出していた。絢佳は当時、学校に馴染む事がやや難しくて悩みながら登校していた。そんな時、自宅に帰るといつも笑顔で迎えてくれていた母親の事を思い出して、信号を待っている時にふと涙が溢れてきていた。料理教室に着くと早速課題のタルトタタンを作り、先生に仕上がりを見てもらった。
先生「少し林檎の底の焦げ目が気になるけれど、味は酸味が引き立っていて仕上がりが良いわ。」
先生からそう返事をもらうと、絢佳は一先ずは安心した。
アシスタント「良かったね越野さん。またこれから色々な物を一緒に作っていこうね」
絢佳「はい、ありがとうございます」
洗い物の片付けが終わると、先生は次の撮影用のメニューについて、アシスタントの人達に説明をしつつ意見を交えながら、指導に当たっていった。
2週間が経ったある日、卓偉は医大の附属病院の耳鼻科で定期検診を受けていた。待合室から名前が呼ばれ、診察室に入り、担当医と会話をしていた。
担当医「聴力の波は前回と変わらずにいるから、聞こえ方も変わりはないでしょう。取り敢えずまた様子を見ましょう。」
卓偉「あの、最近周りの声が大きく聴こえてくる様な感じがあるのですが…それはどうしてかなと?」
担当医「右耳が左耳の分を音を拾おうとしているから、そう大きく聴こえているのかもしれません。それほど支障はないので、心配はしなくても大丈夫かと思いますよ」
卓偉「分かりました。ありがとうございます」
卓偉は診察を終え会計を済ませた後、病院を出て行った。自宅に帰るとバッグを下ろして、ベッドの上に寝転がった。先日絢佳の自宅に訪ねていた時の事を思い出して、何処となくまた絢佳に会いたい気持ちになっていた。
一方その頃、絢佳は教室の更衣室で帰る身支度をしていた。スマートフォンの着信音が鳴ったので、開いてみると、そこには卓偉からのメールが届いていた。また近いに会えないかという内容だった。絢佳は少し考えながら、教室を後にして、駅へと向かっていった。駅のホームで電車を待っている間、卓偉の耳の事を思い出していた。絢佳はおもむろに左耳を塞ぎ、目を瞑りながら周りの音を聞いていた。これが、卓偉の聞こえている状況に近い感覚なのかと考えて、プラットホームに電車が入って来た時に、左手を外して、電車に乗った。走行中、ドアの窓の風景をぼんやり見つめながら、また卓偉の事を考えていた。自分ももしかしたら会いたいのかもしれないと思い、バッグからスマートフォンを出して、先程卓偉から来たメールの返信をした。
数日後の夕方、絢佳はキッチンに立ち夕飯の準備をしていた。暫くすると玄関のインターホンが鳴ったので、ドアを開けると、そこには卓偉の姿があった。
卓偉「お邪魔します」
絢佳「今日はスタジオは休みだったの?」
卓偉「はい。あとこれ、差し入れにどうぞ」
絢佳「ええ?ビール?いいの?」
卓偉「折角だから一緒に飲みましょう」
絢佳「ありがとう。そこのソファにかけて待っていて」
絢佳が料理が出来上がると、テーブルに品物をいくつか運んで置いていった。卓偉はテーブルの椅子に座って微笑みながら待ち侘びていた。
卓偉「うわっ美味そう」
絢佳「お口に合うかわからないけど、どうぞ」
卓偉「いただきます」
絢佳は卓偉の表情を伺っていた。
絢佳「どうかな?」
卓偉「…すっごい美味しい。僕の好きな味だよ。絢佳さん凄いなぁ」
卓偉は美味しそうな表情をしては、ビールを飲んでいた。それを見た絢佳も安心して、箸をつけた。
卓偉「料理教室で働くって、誰かからの紹介だったんですか?」
絢佳「この間家に来た友人からの紹介だったの。初めは断ったんだけど、私なら出来るからやってみたらって言われて」
卓偉「やって正解ですよ。自宅止まりじゃ勿体ないですし。続けるべきです」
絢佳「私も久々に外で働くなんて十数年ぶりだったから、初めは抵抗があったけど、いざやってみると、なんだか楽しくなって」
卓偉「家に籠るより、越野さんは外に出るべきです。お母さんの事もあって大変だと思いますが、息抜きも大事ですよ」
卓偉は食事を先に終えると、自分の使っていた皿や箸などをキッチンのシンクに持って行った。
絢佳「あぁ、そこまでしなくてもいいのよ」
卓偉「いえ、このくらいはさせてください。折角ご飯ご馳走になった事だし」
絢佳「ビールおかわりする?」
卓偉「はい、いただきます」
絢佳も食事を終えると、食器類の後片付けをした。すると、卓偉のスマートフォンから誰かから電話がかかってきたので、卓偉は玄関先のところで話をしに行った。絢佳は片付けが終わると、テーブルの上を布巾で拭いていた。卓偉が居間に戻ってくると、電話の相手は代表の真壁からだった。
卓偉「来週の門下生の殺陣のオーディションがあって、その打ち合わせをするって、真壁さんから話していた」
絢佳「結構忙しそうだね。」
卓偉「お陰さまで後輩達も張り切ってますよ」
絢佳は卓偉をソファに座るように促した。呑み掛けのビールとグラスを低いテーブルの上に置き、絢佳は向き合うように座っていた。
卓偉「越野さん、あれからお母さん調子はどうなんですか?」
絢佳「今のところは落ち着いているよ。この間ね、昼食をとっている時に誤ってトレイごと床に落としてしまったみたいだけど、その後介護士さんがまた新たに食事を用意してくれたみたいで。ちょっとした些細な事は起きるけど、今は元気だから、安心してる」
卓偉「家族がいるって本当に幸せですよね。僕は、両親がもう居ないので、それを聞いてるとこっちも安心するというか…」
絢佳「ご両親はいつ亡くなったの?」
卓偉「僕が生まれてから間もない頃に」
絢佳「ちなみに親戚の方たちは?」
卓偉「殆ど連絡取っていません。僕が何をしているかさえ知らないし」
絢佳「そう。そういうの聞かれるの嫌でしょ?」
卓偉「いえ、もう慣れました。当の昔の話だし」
すると、絢佳は突然目に涙が溢れて来て、卓偉の前から慌ててキッチンへと向かった。その様子に気が付いたのか、卓偉も彼女の跡をついてきた。
卓偉「どうしたんですか?」
絢佳「何でもないわ。なんか急に涙が出てきて。どうしたんだろう、ごめんなさいね。」
卓偉「もしかして疲れている?夜、寝れてますか?」
絢佳「確かに母の事を考えてしまうと、時々明朝に目が覚める時があるくらい。あとは大丈夫だから。ビール足りるかな?」
すると、卓偉は絢佳の右手を掴み、絢佳が咄嗟に振り向くと、卓偉は彼女の顔をじっと見つめていた。
絢佳「どうしたの?酔っている?」
卓偉は無言のまま、絢佳の肩に手を添えて、彼女の唇にキスをした。絢佳は驚いて、卓偉から離れてソファに座り込んだ。
卓偉「だいぶ酔ったみたいだな」
絢佳「水、飲んでいいから。そこにあるコップ使って」
卓偉は言われた通りに水道の蛇口をひねり、コップに水を注いで、その場で一気に飲み込んだ。絢佳の座るソファの横に並んで座り、卓偉は絢佳の横顔を見ていた。
卓偉「越野さん、皆んなから名前で呼ばれていますよね。…絢佳さんって呼んで良いですか?」
絢佳「えぇ。良いわよ」
卓偉は彼女の強張った表情を見ながらクスクスと笑い始めた。絢佳が何かおかしいかと尋ねたら、卓偉は何ともないと返事をした。暫くすると、卓偉は帰り支度をしていた。玄関先まで行くと、またご飯を食べに来ても良いかと話しかけてきたので、絢佳は是非来て欲しいと返答した。卓偉が帰った後、部屋に1人になった絢佳は先程卓偉が唇を触れて来た事を思い出した。そっと自分の手で唇を塞ぐように当てていた。何故突然してきたのか、不思議な気分になったが、絢佳は何処となく嬉しい気持ちになっていた。
アクションスタジオでは、殺陣のオーディションの稽古に励む門下生の元で真壁と卓偉らは、彼らの姿を真剣な眼差しで様子を見ていた。
真壁「刀の構えが低くなっているから、もう少し天井を向くようにあげるように見せた方が良い」
練習生「はい」
卓偉「肘ももう少し絞めるように、それから相手の胸に向かって差し出すようにして」
練習生「分かりました」
各自の稽古を終えて、真壁は卓偉に話があると言い、控え室に呼び出した。
真壁「卓偉、耳の聞こえ方はどうなんだ?」
卓偉「あまり普段と変わりはないですが。何か気になる事でも?」
真壁「後輩らに声をかけた時と、身を構えた時の息が少しずれている気がするんだ。少し聞こえが良くないんじゃないかって思って」
卓偉「すみません。出来るだけ気をつけます。今のところ聞こえ方には支障はないので。自分も頑張ります」
真壁「あまり無理するなよ。気になる事があったら直ぐに言ってきてくれ」
卓偉「はい」
卓偉は自宅に帰ると、帰り際に買ってきた弁当や惣菜類の蓋を開けて、夕食を取り始めた。先程真壁から促された耳の事を思い出していた。確かにここ数日の間で多少の眩暈の様なふらつきが出ている事を隠しながらスタジオに通っていた。そもそも支障にきたすまでないと考えていたが、やはりまた変化がみられるのではないかと思い、休日を使って定期検診である日に担当医の元へ相談した。
担当医「眩暈の様な感じ…嘔吐する事はありますか?」
卓偉「いえ、それはありません」
担当医「念の為再検査をしましょう。2週間後はお休み取れますか?」
卓偉「はい、大丈夫です」
卓偉は病院を出て、スタジオに行き、真壁に再検査の事を伝えた。引き続き門下生の指導をいつも通りに行い、全ての稽古が終わると、静まり返ったスタジオの中、卓偉は1人、サンドバックに向かってボクシングのスパークリングを行っていた。右手で打ち出した力が強く出たので、サンドバッグが卓偉の顔を直撃する様に跳ね返ってきた。その反動で勢いよく体に抱きついて、激しく息切れを起こしていた。頭から首や胸元にかけて、大量の汗もかいて流していた。サンドバッグから離れて、グローブやテーピングを外して、壁際に腰をかけた。微かに聞こえてくる道路の通りかかる車の音。卓偉は反対側の壁に張り付いているスタジオミラーに写る自分の姿を眺めていた。頭の中が空になっている状態から、記憶の片隅に絢佳の顔が思い浮かんでいた。卓偉は絢佳に会いたいという思いが次第に強くなり、右手を力強く握っていた。
ある日、絢佳のスマートフォンに元夫から電話がかかって来た。前の自宅の絢佳の寝室に荷物がいくつか置いてあるから取りに来てほしいという連絡だった。たまたま時間があったので、絢佳は急いで電車で出掛けていった。以前の家に入ると息子も居間でソファに座っていた。元気かと問いかけたが、息子は黙って自分の部屋へと入って行ってしまった。
夫「取り敢えず早く荷物を持っていって行ってくれ。タクシーも呼んである」
絢佳「貴方、変わりはない?」
夫「ああ。皆元気だよ。」
絢佳「良かった。あの子も相変わらずね」
しばらくするとタクシーが自宅の前に到着していた。夫にも荷物を運んでもらい、絢佳は荷物を抱えながら、夫の顔を見たが、彼は直ぐさま家に入って行った。絢佳はタクシーに乗り、自分のマンションへと向かった。自宅に着き荷物をエレベーターで運び玄関のドアを開けて、荷物を中に運び入れた。スマートフォンの振動に気づき誰かからか開いてみた。卓偉からだった。今度いつ会えるかというメールだった。暫く忙しいからまた自分から連絡をすると返信をした。本当は彼に会いたい気持ちで思いが込み上がっていたが、こういう時にあまり他人に甘えたくはないという強がりを見せていた。
数日後、近所のスーパーで買い物を済ませて自宅に向かって歩いている途中に、マンションの前に男性の姿が見えていた。近づいていくとそれは卓偉の姿だった。
卓偉「急に来てしまってごめんなさい」
絢佳「どうしたの?今日は仕事は?」
卓偉「今日は早く上がれたんだ。絢佳さん、家に上がってもいいかな?」
絢佳「ええ。今日丁度沢山買い物してきたの。良かったらまた食べていく?」
卓偉「いいの?…是非お願いします」
二人は部屋に着いて、絢佳が玄関の壁の電気のスイッチを入れた。
絢佳「今日は簡単なものにしようかなと考えていたんだけど、それでもいいいかな?」
卓偉「良いですよ、任せます」
絢佳「テレビ、点けておくね。適当に見ていて。」
卓偉「はい」
絢佳は冷蔵庫にいくつか食材を出し入れをして、整頓した後、鍋に水を張り、コンロに火をつけた。材料を包丁で切る音が響いてきたので、卓偉がその音に反応して嬉しそうに絢佳の姿を眺めていた。
絢佳「何?どうしたの?」
卓偉「いや。何でもないよ」
絢佳「もう少しで出来るから、待っていてね」
卓偉「はい」
その後食事を終えて、絢佳が洗い物を片付けていると、卓偉がスマートフォンでメールをしていた。
絢佳「永里さん、コーヒーでも飲む?」
卓偉「ああ、はい。飲みたいです。」
絢佳はケトルに火をかけて、沸くまでの間卓偉の座るソファに向かいながら、テーブルの椅子に座った。
絢佳「そういえば、こないだのオーディションの件って明日が結果くるんだっけ?」
卓偉「はい、後輩の皆は今日は結構緊張した面持ちでいたなぁ」
絢佳「何名くらい結果が出る予定なの?」
卓偉「恐らく4,5人は出てほしいのが望ましいな。」
絢佳「良い連絡がくるといいね」
そうしているうちに、やかんのお湯が沸いた。絢佳はコーヒーをマグカップに注ぎ入れて、卓偉の元へ持って行った。
卓偉「ありがとうございます。いだたきます」
絢佳「メールは誰からだったの?」
卓偉「代表です。明日の件で連絡していました」
すると、絢佳のスマートフォンからもメールが届いていたので、開いてみると先日会った元夫からだった。何故メールのアドレスを知っていたのか不思議に思ったが、内容を読んでいくと、今後は必要の無い時は連絡して来ないで欲しいという事が書かれていた。絢佳の手が止まるのを卓偉が気付いたので話しかけた。
卓偉「どうしたの?誰から?」
絢佳「元旦那から。この間家に荷物が残って居たから取りに行ったの。相変わらず息子も同様に冷たくされたわ」
卓偉「もう、会わないんでしょう?」
絢佳「ええ。」
卓偉はテーブルにマグカップを置き、絢佳の顔をじっと見つめていた。
絢佳「…何?永里さん…」
卓偉「俺の事、卓偉って呼んでいいですよ。そっちの方が堅苦しくなくていいや」
絢佳「じゃあ、卓偉って呼ぶね。」
卓偉は絢佳の手を握り、無表情のままで顔を近づけてきた。
絢佳「ねぇ。どうして、そう近づいてくるの?この間も突然キスしたり、今日もいきなり自宅に来てあがったり…あ、ごめんなさい。今日は私が良いって言ったのにね。強く言ってごめん。」
卓偉「…絢佳さん、俺ずっと考えていたんだけど、なんか絢佳さんの事…気になって仕方がないんだ。お母さんの事も考えると、もしかしたら俺、貴方の力になれることが何かないかなって。絢佳さんの力になりたいんです。」
絢佳「力…?」
卓偉「俺で良かったら、つまり…その、恋人になる前提で、友達になりませんか?」
絢佳「友達になるのは構わないけど、恋人というのは…それに年も私達離れているでしょう?恋人っていうのはちょっと…」
卓偉「そんなに年齢に気になることかな?俺は気にしないけどね。」
絢佳「取り敢えずお友達にはなっていいわよ。あたしもこの年で新しく友達ができるなんて…それはそれで嬉しいわよ」
卓偉「良かった。これ、友達の証として手を握っているってことでね」
そう言って卓偉は絢佳の手を強く握っていた。お互いに笑い合って手を離した後、また飲みかけのコーヒーに手を付けた。
明くる日、料理教室で新しいメニューの撮影が行われているなか、1本の電話がかかってきた。絢佳の母親が居るグループホームの介護士からだった。母親の容体が急変したので、直属の脳神経外科のある病院へ搬送されたという。他のアシスタントの者にその旨を伝えると早退しても良いと返答をくれたので、絢佳は急いで搬送先の病院へと向かった。病室に着くと、母親は眠っていた。やがて看護師から担当医が呼んでいると告げられたので、担当医の控える部屋に案内された。
担当医「持病の脳の梗塞がかなり進んでいる状態で、手術をするのも危険を伴います。取り敢えず薬で抑える様にして、経過を見ていきましょう」
絢佳「先生、持ってもあとどれくらいになるのですか?」
担当医「3ヶ月以内かと。兎に角、紗枝さん自身の頑張り時になって行くかと思われます」
病室に戻ると絢佳は母親の顔をずっと眺めていた。
その後、医師の言っていた通りに、2ヶ月と半月が経過した、9月の明朝の太陽が昇ってきた5時半過ぎに、母親は苦しむ事なく静かに息を引き取った。葬儀は絢佳1人で行うこととなった。(今のご時世を考えて、)通夜や告別式もせず、住持職にお経をあげてもらい、翌日出棺すると、火葬場に1人広い控え室にて時間が経つのを待っていた。その後、骨上げを行い、全ての葬儀も終わった。母親の自宅に帰ると、予め設置してある仏壇に遺骨の入った白木の箱を添えた。時計の針が20時を指していた。絢佳は喪服から部屋着に着替えて、簡単に夕食を済ませた。母親の顔がまた見たくなり仏壇に添えてある遺影を見つめながら、白木の箱を抱えた。箱は既に冷たくなっていて、顔をうずめる様に絢佳は小さく声を出して泣いていた。自分が離婚さえしなければ、もっと家族でしたい事も連れて行きたい所もあったのに…。これ以上何を責める事も出来ずに居る自分が惨めだと何処かで感じていた。
翌日、絢佳は友人に連絡をして、母親の遺品整理の手伝いをお願いした。遺品整理の業者も呼び出して、絢佳が指揮をとる様に不要品を全て引き取ってもらった。
業者が帰った後、友人と休息を取っていた。
友人「暫くしたらこの家も引き取らなければならないよね?いつぐらいとか考えているの?」
絢佳「いつになるかはまだ先になりそうだけど、近々考えておかないとね。まだ私の物も残ってあるしね」
友人「凄い…あっという間だったよね、お母さん。」
絢佳「そうだね、急いでお父さんの所に行かなくても良かったのにね。貴方も色々お世話になったわ」
友人「学生の頃からだもんね。お母さん大丈夫だったなぁ。本当にいつも楽しくて人を招くのが好きだったもんね」
絢佳「本当…人が好きな人だったしね」
友人と雑談が終わると、母親の自宅を後にして、途中の下車する駅で友人と別れた。絢佳も自分の家に着くと、大きく溜め息をついた。スマートフォンを開くと未読のメールや留守番電話が入っていた。その中に卓偉からも数件メールが届いていた。絢佳の体調を気遣う内容の文面が書いてあり、落ち着いた頃にまた会えないかという事も添えていた。
絢佳「そうよ、会いたいよ。卓偉、声が聞きたい」
早速絢佳は卓偉に電話をかけた。まだスタジオにいる頃だったのか、繋がらなかったので、留守番電話にメッセージを入れた。
絢佳「卓偉、暫く連絡出来なくてごめんなさい。母の葬儀も終わって、落ち着いたの。だから、また近いうちに貴方に会いたいです。返事待っています。」
スマートフォンを閉じて、テーブルの上に置いた。キッチンの冷蔵庫を開けてみると、いくつか足りない食材があることに気がついたので、絢佳は近くのスーパーへ足を運んだ。買い物を終えて、ゆっくりとした足取りで帰り道を歩いていると、マンションの出入り口の所から人影が見えてきた。近づいてみると、そこにはバイクに寄りかかって、スマートフォンを見ている卓偉の姿だった。
卓偉「絢佳さん!」
絢佳「卓偉…来ていたの?」
卓偉「また急に来てごめんね。メールしたんだけど、気づいてなかったかな?」
絢佳「ちょっと待ってて。…あぁ私こそ気づかなくてごめんなさい。今、買い物に行ってきたの。」
卓偉「家に…上がる事は、できるかな?」
絢佳「ええ、ちょっと散らかっているけどいいわよ。」
二人は家に入り、リビングのドアを開けると、卓偉がソファの周りに数個ほど段ボールが積み上がっているのに目が入った。
卓偉「これ、絢佳さんの荷物?」
絢佳「うん、実家から持って来たの。そこのソファに掛けて待っていて」
卓偉がソファに座ると、絢佳は寝室に段ボールを持ち運んでいった。卓偉が手伝おうかと問いかけたが、荷物が軽いから自分一人で大丈夫と返答した。
絢佳「これ、大したものじゃないんだけど…昔撮った家族の写真のアルバム。見る?」
卓偉「うん、見たい」
卓偉は暫く写真を眺めていた。その頃絢佳は冷蔵庫に買ってきた食材を入れていた。
卓偉「絢佳さん、なんか男の子みたいで活発な感じがするね。女子よりも男子と遊ぶ方が楽しかった?」
絢佳「そうねぇ。確かに幼稚園までは男の子の遊ぶことが多かったかもしれない。もう昔の話だから覚えていないわ」
卓偉「これ、お父さん?背が高くて凛々しい感じだね。どんな人だったの?」
絢佳「物静かな人だったかな…時々父から勉強も教えてもらったこともあるかな。あまり外に出歩かない人だった。私が大学生の時に病気で亡くなったの。まだ50代だったかしら、早かったな。」
卓偉「それから、お母さんと二人で?」
絢佳「うん。時間がある時は温泉とか日帰り旅行も行ったことあるわ。二人で色んなことを兎に角沢山喋って喋って。もう沢山話し過ぎて沢山笑ったなぁ」
卓偉「女同士って話すと止まらないもんね」
絢佳「卓偉。今日コーヒー切らしているんだけど、ハーブティーでもいいかな?」
卓偉「何でもいいよ」
絢佳は卓偉にハーブティーを差し出すとありがとうと返答した。
絢佳「そんなに写真じっくり見なくていいわよ、恥ずかしい」
卓偉「だって可愛いんだもん、絢佳さん。顔がぷくぷくしていてまん丸いしさ」
卓偉は絢佳の方へ顔を向き、優しい眼差しで暫く彼女を見ていた。
絢佳「卓偉?何?」
卓偉「…絢佳さんも色々大変だったんだね。でも、優しいご両親に恵まれて良かったね」
絢佳「今、思うと、そうかもしれないね。結局二人とも早くに亡くなってしまったけど、私もこれで良かったのかなって…色々感謝している」
卓偉がマグカップにひとくち口に含むと、また絢佳の顔を眺めていた。
卓偉「ねぇ、手見せて」
絢佳「どうしたの?」
卓偉「…沢山働いてきている、色んなものに触れてきている。苦労してきた手をしているね」
卓偉は絢佳の手を両手で握ると、自分の頬に絢佳の手を添えて、絢佳をまた見つめていた。
絢佳「卓偉…」
卓偉「俺、絢佳さんの事好きなんだよ。抱きしめても良い?」
絢佳は無言で頷き、卓偉は優しく包み込むように彼女を抱きしめた。彼女の背中をさすり、
首元にキスをした。絢佳は久々に男性に抱きしめられていることに気が付くと、目から涙が自然と零れ落ちていた。母親を亡くした悼みがまだ記憶の片隅に焼き付いて居ていたからであった。鼻をすする音に気が付いた卓偉は、彼女の顔に両手で覆い、唇にキスをした。暫く二人は長く唇を交わして、卓偉が舌を入れてきたのに、ビクリと反応したが、彼女もまた彼の口の中に舌を入れてキスを交わしていた。
絢佳「卓偉、私で良いの?」
卓偉「うん。俺、絢佳さんが良い」
二人は再びキスを交わしながら、お互いの身体をきつく抱き寄せた。
卓偉「ベッド…行こう」
絢佳「…えぇ」
絢佳は揺らぐ想いで卓偉に誘われるように導かれ、2人は手を繋いだまま、ソファの横に並ぶベッドの上に座った。卓偉は絢佳のブラウスのボタンを外して、ゆっくりと脱がせた。絢佳の肩に手を置いて暫く彼女の肌を見ていた。
卓偉「絢佳さん、綺麗な肌している」
卓偉は絢佳の頬を覆う様に手を添えて、キスをしながら、ブラジャーのフックをはずした。絢佳は少しの恥じらいを見せていたが、自然と卓偉の体に身を寄せて唇を交わしていた。枕の上に絢佳の頭を乗せて首元から肩や胸にかけて、唇と舌で舐めていき、卓偉も自分の着ている服を脱ぎ始めた。卓偉の上半身の裸を見て、絢佳は顔を赤らめ始めた。彼の鍛えられた、程よく引き締まった胸板や二の腕を眺めて、息を飲んでいた。卓偉は微笑むと、絢佳のロングスカートの中に手を入れて、下着を脱がせた。やがて陰部に手を愛撫すると、絢佳は声を発していた。彼女は思わず出た声に驚き、自分の口を手で押さえた。卓偉は愛撫しながら、また彼女の首元を舐めて、スカートのチャックを外して、全て脱がせた。身体を弄る様に触れてくる卓偉の姿を見ながら絢佳が彼のズボンに握ってきて、チャックを下ろした。卓偉も自分でズボンを脱ぎ、2人は暫く身を任せる様に抱き合っていた。
卓偉「絢佳さん、入れてもいい?」
絢佳「…うん。…して」
卓偉は絢佳の両足を開き、騎乗位の体制で彼女の陰部に勃起した性器を挿入した。絢佳は痛がりなからも、卓偉の背中に添えた両手で爪を立てながら興奮して、自身の首を反らしていた。卓偉は絢佳の表情を見つめながら、腰を突く様に動かして、自身も高揚していた。お互いが絶頂になり、激しく息を吐き出した後、2人は暫く見つめ合っていた。卓偉が絢佳の胸の上に置いた両手を握りしめて手にそっとキスをした。絢佳も安心した様にその手を握り返して、2人はお互いに微笑み合っていた。
時間が23時近くを回った頃、卓偉は明日の午前中からスタジオに行かなければならないから自宅に帰ると告げて、絢佳は彼を玄関先まで見送った。
絢佳「来てくれて、ありがとう」
卓偉「またね。おやすみなさい」
彼を見送った後、絢佳はキッチンのテーブルの椅子に座っていた。両脚を抱えて体を丸めながら、卓偉の温もりを思い出していた。年下の男性から抱かれるのは初めての事だったが、絢佳はささやかな幸せを感じていた。
翌週の休日の午後、絢佳は部屋の中を掃除をしていた。掃除機をかけている時に、床に落ちていたハンカチを誤って吸い込んでしまった。その時、彼女の脳裏にふと生前の母親の事がよぎった。母親が認知症と診断されてから8年間、グループホームに入居するまでの間、実家で介護をしていた時の事を思い出していたのである。お風呂に入れた時に母親が湯船から出たがらないから、絢佳が母の身体を持ち上げようとした時に、足を滑らせて衣服のまま湯船に思い切り浸ってしまった時に、母親は笑いながら貴方も一緒に入るかい?と笑いながら言われたことがあった。一方で、夕食を一緒に食べている時には、テレビを見ながら箸が止まったままに居たので、早く食べる様にと促しても、ゆっくりとご飯や惣菜を持ち上げては床に落としてしまったりして、それを絢佳が怒り口調になりながら母親に話しかけると、急に泣き出していたりと、母親の感情面などに左右されて、思うようにいかない時も数え切れないほどあったのだった。
ただ、辛い事ばかりではなかった。夫や息子達と海へ出かけた時、母親が砂浜を素足で歩いて少女の様におどけるような仕草を見せたり、ソフトクリームを食べている時に鼻の頭に沢山クリームが付いているのに気づくと、皆で楽しそうに笑い合った事もあった。家の台所でリハビリになればと夕食の用意を息子と一緒に手伝ってもらい、食卓を囲んで皆で話しながらご飯を食べたりしていた。しかし、事態が急変したのはその後だった。息子が小学校受験の合格発表を受けた後、帰宅した時に、母を呼んでも返事をしなかったので、居間に行くと、母が口に泡の様に唾液を溜めて溢れ出して、倒れている様子を発見した時には、直ぐさま救急車を呼び病院へ搬送した。すると後から駆け付けた夫が絢佳の手を握りしめて大丈夫だと励ましてくれた時は、改めて家族の存在がどれだけ大きかったことか、思い返していた。
場所は変わって、アクションスタジオの備蓄室の中に、卓偉が一人である探し物をしていた。過去に自分がスタントマンだった頃に、撮り溜めたDVDを保管ボックスの中から見つけて、絢佳に見てもらおうと考えていた。その姿を真壁が見つけたので、彼に声を掛けてきた。
真壁「卓偉?お前何しているんだ?」
卓偉「ああ、真壁さん。これ、昔のスタントやっていた時の資料。再生しても大丈夫ですかね?」
真壁「向こうの控室のテレビで確認してみたらどうだ?」
卓偉「そうっすね。やってみます」
真壁「お前、妙に顔が明るいな。良いことでもあったのか?」
卓偉「ああ…まぁあったといえばありましたね」
真壁「そうか。ああ、そうだ。次の門下生の練習スケジュールの管理表、早いうちに書いて出してくれないか?」
卓偉「はい、作っておきます」
卓偉が嬉しそうにしているのも無理もない。絢佳の事を思い出しては、いつになく気持ちが晴れ晴れしていたのであった。
卓偉はスタジオの仕事を終えると、自宅に到着して、直ぐにシャワーを浴びた。浴室から出た後、台所の冷蔵庫を開いて、ビールを取りだし、缶の蓋を開けて、半分くらいまで呑んでいた。先程、真壁から言われたスケジュール表に目をやり、記入漏れがないかチェックをしていた。また近くに門下生の為のオーディションがあるので、各自の演習要項も確認していた。一通り終えると、ベッドの上に寝転んで目を瞑った。暫くしてから目を覚ますと、以前病院で受けた再検査の結果の件で、担当医から話していたことを思い出していた。左耳の聴力が聞こえなくなる事が近々と迫っていたのであった。様々なことが頭の中を駆け巡っていた。
すると、絢佳の事を再び思い返して、天井を見つめたまま、卓偉は右手でスウェットの中に入れて、自分の性器を触り始めた。両目を瞑り、先日の絢佳とセックスをした時の事を思い出しながら、愛撫していた。初めて彼女を抱いた時の感覚が頭の中を過ぎり、喘ぐ声を響かせては、それに反応するように彼自身も全身で彼女の温もりを感じていた。自慰行為が終わると、我に返ったのか、両目を見開いて、身体を起き上がらせた。
卓偉「…何、しているんだよ。俺は…」
鞄の中に入れたままになっていたスマートフォンの着信音が鳴ったので、開いてみると絢佳から電話が来ていた。
卓偉「もしもし。どうしたの?」
絢佳「夜遅くにごめんね。まだ起きてた?
卓偉「ああ。」
絢佳「来週の金曜日って夜空いている?」
卓偉「今のところは空いているよ。どうして?」
絢佳「どこか外で食事でもしない?」
卓偉「うん。いいよ。予定が入らなければ大丈夫かな」
絢佳「分かった。また連絡するね。じゃあ、おやすみなさい。」
卓偉「おやすみ…なさい」
卓偉は電話を切ると、倒れ込む様にベッドの上に再び横になった。どことなく嬉しかったのか、彼は顔が綻んでいた。
約束の金曜日の17時。駅の改札口で絢佳は待ち合わせ時間より少し早く着いていた。その15分後に卓偉も到着して、2人は歩きながら雑談をしていた。カフェに着くと、それぞれメニュー表を見て、パスタやサラダ、ドリンクを頼んだ。
絢佳「貴方、こういう場所ってなかなか来ないでしょ?ちょっと誘ってみたかったの」
卓偉「うん。俺、もっぱら居酒屋が多いからね。今度一緒にでも行こうよ」
絢佳「たまには良いかもね」
頼んだ品物か来て、2人は早速手をつけた。食事を終えて店を出ると、いつもより増して人気が多い事に気がついた。卓偉は絢佳に見せたいものがあるから、自宅に来てほしいと誘ってきた。絢佳は承諾すると、先程来た別のルートで駅へと向かった。卓偉の自宅に到着してから、中に入ると、辺りが散乱した物で溢れていた。
絢佳「ねぇ、なんで片付けていないのよ?」
卓偉「ごめん、今簡単に片付けるから玄関で待ってて」
絢佳はやや呆れながら卓偉が物を片付ける姿を見て、笑っていた。
卓偉「ごめん、お待たせしました。入って良いよ。」
絢佳「お邪魔します、本当に中は大丈夫なの?」
卓偉「片付けたってば」
中に入ると、先程とほとんど変わりのない雰囲気で所々荷物が積み上がっているのが、目に入った。絢佳がソファにかけると、卓偉は彼女にある物を差し出した。
絢佳「これ、何のDVD?」
卓偉「昔、先輩から撮ってもらったスタントの撮影のメイキングのやつ。一緒に見てほしくてさ」
卓偉はレコーダーにDVDを入れて、リモコンで再生ボタンを押した。そこには今より若い頃の卓偉の姿があった。倉庫らしき天井の高い建物の中にセットされた障害物を避ける様に隅から留めどなく駆けるように走る姿や、バイクにまたがりながら銃を構えて、標的となる相手に向かって空砲で打つ素振りで、真剣な眼差しでカメラに写る卓偉の様子に暫くくいる様に絢佳は観ていた。また4メートル以上の高さから命綱を付けずにマットに落ちていく様子を見た時には、絢佳は思わず口に手を当てて驚きながら声を発していた。
絢佳「スタントマンって、凄いことするのね。」
卓偉「まあね。皆んなで作品を作っていくから、大変だけど、楽しくやっていたよ。」
絢佳「一歩でも反れたら、命取りになるでしょう?どうしてスタントの道に行こうとしたの?」
卓偉「小さい時から、誰かのヒーローになりたいって思うところが沢山あってさ。危険を侵しても、チャレンジャーとしてやって行きたかったんだよ。今の代表の真壁さんに出逢って、そのきっかけで、スタントマンになったんだ」
絢佳「私には分からない世界だなぁ…」
卓偉「スタントの世界は言ってしまえば異次元みたいなところがあるからね」
絢佳「スタントを止めたのは、怪我をしたからだったっけ?」
卓偉「リハーサルの時に、高台から飛び降りた時に、その衝撃で頭を打ったんだ。脳震盪みたいな感じでふらふらした状態だったかな。その時に左耳の神経がやられてしまってね。そこから聞こえにくくなっていったんだ。」
絢佳「そういえばこの間の再検査の結果はどうなったの?」
卓偉「やっぱり前よりも聞こえが悪くなっている。右耳が今は頼りかな。」
絢佳「生活に支障も出てくでしょう?今の仕事はまだ続ける気なの…?」
卓偉「出来るだけ真壁さんの為に動いていたいよ。勿論変わりの人は幾らでもいるけど、あのスタジオで沢山お世話になってきているから、門下生たちにも恩返ししていきたいんだ」
絢佳「…そう。でも、本当に無理はしないでね」
卓偉「大丈夫だって。今の仕事、本当に遣り甲斐あるからさ。」
絢佳は心配そうに卓偉の表情を見つめていた。彼女はスマートフォンの時計を見て、そろそろ帰ろうかとしていた。絢佳が立ち上がり、ジャケットを羽織ろうとしていたら、後ろから卓偉が彼女を抱きしめてきた。
絢佳「卓偉、私、そろそろ帰らないと。」
卓偉「何か用事でもあるの?」
絢佳「明日、お昼から料理教室があるの。だから、帰らないと…」
卓偉「昼からだったら、俺、送っていけるよ。今日泊まっていったら?」
卓偉は絢佳が来ていたジャケットを床に落として、彼女の薄手のニットの中に両手を入れ、胸を回す様に掴んでいた。彼女の首元に唇で舐めるように触れていた。絢佳は、次第に下半身が痺れる感覚をしてきて、卓偉の弄る腕を掴んでいた。
絢佳「卓偉…ちょっと待って」
卓偉「嫌だ。…こっち向いて」
絢佳が振り返ると、卓偉はすかさず絢佳の唇に手を触れて、顎を軽く掴むようにキスをしてきた。それにつられて絢佳も彼が口の中に入れてきた舌を舐め返す様に彼の唇を噛んだ。お互いに強く抱き合って、床に倒れ込み絢佳が卓偉の上半身の上にまたがった。絢佳は自分でニットを脱いで、卓偉のズボンも脱がしていった。絢佳が卓偉の両耳の辺りを手で塞ぐように頭を抱えて、彼の唇に何度もキスをしていた。卓偉が起き上がる様に上体を起こして、卓偉は両腕を支える様に床に手を置いた。絢佳は卓偉の下半身に顔を埋める様に伏せて、彼の性器を握りしめて先の方から舐め始めて、口の中に含んだ。しゃぶる様に愛撫する彼女の様子に、卓偉は次第に興奮し始めて、声を漏らしていた。絢佳の頭を撫でて暫く見つめていると、彼女は顔を赤らめながら、卓偉の表情を伺った。卓偉は絢佳の両肩を強く構えて、そのまま床に押し倒した。
時間は1時間は経過していたであろうか、2人は情交を終えると、ベッドの中に背を反対に向き合って眠っていた。絢佳は卓偉の方に体を向けると、彼の背筋をそっとなぞった。
卓偉「絢佳さん、眠れないの?」
絢佳「少し。」
卓偉「また、したくなったの?」
絢佳「そうじゃない。卓偉、私…この年でこんな事していていいのかな?」
卓偉「セックスするのに、年齢は関係ないよ。…俺も、人の事言えないけど…絢佳さん、あまり経験ってそれほどしてきた事ないでしょう?」
絢佳「…そうね。ほとんど無い方かな。」
卓偉「俺としていて、どう?」
絢佳「どうって…温かい感じはするかな。」
卓偉「温かいか。身体は温かくても気持ちは冷めているとか?」
卓偉はそう言って振り向くと絢佳は少し膨れ面になっていた。
絢佳「そんな事言わないでよ。本当にからかうの好きね」
卓偉「絢佳さん、俺たち…恋人になろう。その方が沢山楽しい事作っていけるし。沢山色んな所も行きたいしさ。…ね?」
絢佳「うん。…改めて、よろしくね」
お互いの顔を合わせながら、卓偉が微笑むと絢佳もまた自然と笑顔になっていた。
翌日、卓偉は絢佳をバイクで彼女の通う料理教室まで送って行った。一旦自宅へ戻ると、その午後、病院の耳鼻科の診察室で担当医と左耳の聴覚の進行について話をしていた。
担当医「永里さん、左耳の聴覚ですが、残念ながらこれ以上回復する見込みは無いと思います。また貴方のお仕事の件ですが、右耳の聞こえ方のままで続けていくのは…困難かと。」
卓偉「今のスタジオを辞めると言う事ですか?」
担当医「はい。そこで提案がありまして。まず、こちらの冊子を見てください。」
卓偉「身体障害者手帳…?」
担当医「永里さんのこれからの生活において、御守り変わりになるものとして必要になっていきます。私から診断書などの書類を作ります。その後、区役所を通じて県の方に申請書を提出します。申請期間は約3ヶ月程かかります。その申請が認可すれば、改めて手帳は持つ事ができます。」
卓偉「僕の、御守り変わり?」
担当医「永里さんの為にも、今後の生活や就労先を決めるにも大切なこととなります。ご検討するのは貴方次第です。」
卓偉「…僕はこれからどう働いていけば良いのですか?」
担当医「診察後、看護師から詳しいお話をさせていただきます。その時にお話しください」
卓偉「分かりました。まず、その手帳を一応申請を出してください」
担当医「あまり、複雑に考えなくても大丈夫です。仮にもいつかは必要無くなる事もありますので。ではこちらで申請書の作成を進めていきます」
卓偉が診察室から出て暫く待っていると、看護師が来て話を聞かされた。
卓偉「医療相談室ですか?何のお話を?」
看護師「永里さんの今後の就労に関する事で、担当の者と面談をしていきたいんです。今日はまだお時間はありますか?」
卓偉「はい、まだ大丈夫です」
看護師「では、私から1階の相談室の担当者に連絡を入れるので、もう少しお時間ください」
その後、言われた通り、卓偉は医療相談室へと案内をされて、面談を行った。
村瀬「永里さん、はじめましてこんにちは。私、身体障害者福祉司の村瀬と言います。よろしくお願いします。席に掛けてください。」
卓偉「よろしく、お願いします。」
村瀬「先生の方から、永里さんの診断の状況と現在されているお仕事について、予め伺わせてもらっています。先程看護師からも説明があったと思いますが、今後の新しい就労先の件で、簡単にお話ししていきます。」
卓偉「やっぱり…今の仕事は続いていくのは…」
村瀬「右耳のままの状態で、仕事を続けるのは非常に困難をきたしていきます。そこで、私たち医療機関からの提案なんですが、永里さん、障がいを持たれている方の就労支援というのは聞いた事はありますか?」
卓偉「いえ、知りません」
村瀬「永里さんと似た様に、様々な障がいを持たれた方や生活が困難で自立支援事業所を通じて、就労支援事業所も併せて通われているという方がいらっしゃるのです。」
卓偉「あの、ハローワークとかでは仕事は普通に探せないんでしょうか?」
村瀬「勿論探す事は今まで通りできます。ただ、通常の窓口ではなく、障がいのある方専用の窓口で探して行く事になります。」
卓偉「障がい…やっぱり僕は障がい者に該当するんですね」
村瀬「先生からもお話があったと思いますが、手帳を持つ事で、職を探して行く事には幅が広がっていけるんです。一般の就労に向けて一緒にお手伝いをさせていただきます。まず、そこを利用するのに、自立支援事業所をご案内させていただきます。」
卓偉「自立支援?」
村瀬「自立支援事業所で改めて永里さんのお話をさせていただきます。相談を受けた後に計画支援書を作成してもらい、その後に就労支援事業所の利用を開始していく、という流れになっていきます。」
卓偉「段階を進めて行く事で、新たに働き場所を紹介してもらっていくっていう流れになるんですか?」
村瀬「はい、大まかに言えばその通りです。永里さんの場合、あまり時間はかからないかと思われますし、今の通り、体力や精神面も安定しているので、見つかりやすいかとは思います。ここまで色々沢山お話を聞いて…混乱していませんか?」
卓偉「ちょっと、頭の中が、整理がつかないというか…」
村瀬「初めは利用される皆さんはそうなるんですよ。後は人それぞれですからね。長い目で見ていきましょう。あまり心配しないでください。国からの障がいの持たれる方への支援は、だいぶ日本も進んでいますし」
卓偉「僕は家族を早くに亡くしているので、ほぼ独りの状態です。なんとか見つけて早く働きたいです。」
村瀬「あまり焦って探すと余計不安になってしまいます。先ずは自立支援事業所の方と並行して、探していきましょう」
卓偉「村瀬さん、あの…障がいだとはっきり決まると、一生涯そうして生きていかなければならないんですか?」
村瀬「永里さんの今回の場合はそれに該当します。受け入れるまで、お時間はかかるとは思いますが、障がいということをご理解や納得していかれるのは、やはり最終的に決めるのは永里さんご自身の判断となります。また周囲の方のご理解も必要となっていきます。ただご自身を責めることは避けていただきたいです。いずれか分かってもらえる事はありますから。」
卓偉「僕は時間をかけても、理解してもらえるなら、そうしたいです。色々ご迷惑をかけるとは思いますが…村瀬さん、お願いします」
卓偉は村瀬に頭を深く下げて、病院を後にした。辺りは夕日が落ちて暗くなっていた頃だった。アクションスタジオに着き中へ入ると、真壁やマネージャーや門下生の姿はおらず、電気が点いたままだった。靴を脱ぎ、リングの傍にあるサンドバックの前に立った。手は何も付けずに素手で右手でパンチをした。その後連続してスパークリングをしたが、何も身に付けていなかったため、身体に痛みが直に走って行った。右のストレートで思い切り打つと、サンドバックが跳ね返ってきて、卓偉の身体を直撃した。その反動で両ひざから床に落ちていき、その後マットの上に膝を抱えて座り込み、暫く辺りを眺めていた。
卓偉「俺…障がい者になるんだな…もうここには居られないんだな」
病院で医師らに告げられたことに直ぐには受け入れる事ができていなかった。今日聞いた事は初めて聞く言葉ばかりで素直になれない自分に苛立ちを感じていた。スタジオの皆や絢佳にはどう伝えようか様々な不安な気持ちが頭の中を巡らせていた。
一方、絢佳はその日の夜、繁華街沿いにある知人が経営するスナックを一人で訪れていた。
知人「いらっしゃいませ。…あら絢佳。今日1人?」
絢佳「ママ、こんばんは。うん、1人で来た」
知人「ビールでいい?」
絢佳「ウィスキーもらえる?」
知人「あら珍しいわね。そんなに呑めないでしょ?」
絢佳「今日は…なんか呑みたいの。出してもらえる?」
知人「はい、かしこまりました」
絢佳「…じゃあいただきます」
知人「貴方の友人から聞いたわよ。…お母さん、大変だったみたいね。大分落ち着いた?」
絢佳「ええ…まだ気が気じゃないって感じだけどね。」
知人「何処で羽根でも伸ばしたい感じでしょう?…良い男?出会いがあると良いわね…」
絢佳「ちょっと…そんな事言っている場合じゃないし…」
知人「あら?何か当てがありそうなの?」
絢佳「もう無い無い。ママ、そういう話になると、本当に前のめりして楽しそうに話すよね?」
知人「そうかしら?いつもの事よ。もう大好物だから。なんてねぇ。」
絢佳「あはは…」
絢佳はこの時ばかりかは、どことなく気晴らしになっていた。知人との会話は身体に染み渡るお酒で程よく酔いが廻っていった。
1ヶ月近くが経過したある日の午後。絢佳は自宅から2時間程離れた斎場の墓場に来ていた。今日は父親の命日にあたる日だった。墓石の前に仏花を添えて、両親にお参りを済ませた後、何処にも立ち寄らず自宅へと真っ直ぐに帰って行った。着替えをしてから、スマートフォンを開いたが、誰からも連絡は来ていなかった。卓偉にも暫く会えておらず、どうしているのか気になっていた。何件かメールや電話をかけても、なかなか返事が返って来なかった。スタジオの事できっと忙しくしているのかもしれないと考えていた。絢佳も料理教室の周囲の人とも慣れていった頃であった。先生から新たに課題を立てて欲しいという提案が出たので、材料を調達しては自宅で試行錯誤しながらキッチンでいくつかの品物の試作に日々励んでいて、自身も忙しくしていた。
更に2ヶ月が経った頃、卓偉は自宅に届いた封書の中を確認して、区役所へと訪れていた。5階の障がい福祉課の窓口で身体障害者手帳の発行の手続きをして、担当者から手渡された手帳を眺めていた。区役所を出た後、街中を1人暫く歩きながら、周囲の音を聞いていた。いつもより行き交う人が笑顔が多く垣間見れる…。自分だけが片耳しか聞こえていない世界は、誰にも分からないのだと、心なしか狭い視野で物事を考えてしまう様になっていた。ある書店の前を通りかかろうとしていた。もう少し“障がい”というものについて、調べたくなったので、書店の中へ入っていった。上階へ行くと、福祉関連のコーナーに着き、自立支援制度の仕組みに関する書籍をいくつか読んでいた。1冊だけだったが参考になるだろうと関連本を購入して、書店を出た。自宅に着き、バッグから先程購入した本を取り出して、早速読んでいた。ひと通り読み終わると、再度手帳を取り出して暫く眺めていた。
卓偉「これが、俺の御守りか…。いつまでずっと持っていなければならないんだろう…」
その時だった。スマートフォンから絢佳からメールが届いていた。中を開いて目を通した。会いたくてもどう伝えようか1人悩んでいたが、すぐにメールの返信をして、次の日曜日に会おうと約束をした。
数日が立った日曜日に、卓偉は絢佳の自宅へ訪れていた。絢佳は試作中だと言う料理の品物を卓偉に食べて評価して欲しいと依頼してきた。卓偉がテーブルに腰をかけて暫く待っていると、絢佳がタッパーに入っている品物を並べた。
卓偉「こんなにあるの?どれから食べていこうかな?」
絢佳「今、取り皿と箸を渡すから待ってて」
絢佳からそう告げられ、皿と箸を渡された。
卓偉「どれも美味いから感想言うの難しいよ」
絢佳「ちなみにどれが気になる?」
卓偉「このマリネ…かな?酸味が良いんだけど、魚が柔らかいな…マリネってこんなにしっとりしている?」
絢佳「それ昨日作ったから、しっとりしているのかもね。この煮物はどう?」
卓偉「多分だけど、野菜が硬い感じ。…ってこんな感想で良いのかな?この間あった友人の人にも来てもらって、聞いてみたらどうかな?」
絢佳「彼女、今、家の事で忙しいから来れないって連絡来たの。だから、卓偉に今日来てもらったの」
卓偉「そっか…仕方ないよね」
絢佳「ねぇ、何かあったの?いつもより顔が優れない感じね?」
卓偉「俺?そう…かな。そう見える?」
卓偉は自身の障がいについてどのタイミングで話そうか迷っていた。
卓偉「絢佳さん、…話したい事があってさ、今日ここに泊まっていってもいい?明日、また早いかな…?」
絢佳「多分そう言うと思って、夕食も食べていかない?って言おうとしてた。…良いわよ。泊まっていって。明日はお昼から教室に行くから、大丈夫よ」
卓偉「…ありがとう」
時間は19時を回り、絢佳はキッチンに立ち、夕食の準備をしていた。卓偉は先にお風呂に入りたいと言ってきたので、絢佳が奥の寝室のクローゼットから、男性用のTシャツとスウェットを差し出した。
卓偉「…これ、男物のだよね?もしかして旦那さんの?」
絢佳「それ、息子の物。前の自宅から紛れて持ってきた物なんだけど、折角だから使って」
卓偉「分かった。借りるね」
その後卓偉がお風呂を済ませると、テーブルには夕食の品物が並べられていた。
絢佳「ビール飲む?」
卓偉「うん。飲む。」
絢佳「はい、あとグラスも持って。…じゃあ食べようか」
卓偉「いただきます」
2人は夕食を済ませて、絢佳が食器の後片付けと、お風呂に入っている間に、卓偉はノート型パソコンにスタジオのスケジュール表を作成していた。絢佳がお風呂から出るのに気づくと、冷蔵庫の中から彼女にもビールを差し出した。
絢佳「お酒…久しぶりだな、お風呂上がりに飲むのも悪くないね」
卓偉「普段もあまり飲まないの?」
絢佳「そうね。前よりかは飲む量も減ったかな?」
卓偉「健康的で良いね。俺、ほとんど毎日飲んでるから。」
絢佳「貴方は本当好きそうね」
卓偉「だってさ、お酒…楽しいじゃん。たまにだけど朝方まで飲む時もあるしね」
絢佳「そんなに?!」
2人はお互いが会えていなかった期間の寂しい溝を埋めるかの様に会話が弾んでいった。深夜近くになり、絢佳がルームウェアに着替えると、2人はベッドの中へ入った。卓偉はある事を思い出して、一度ベッドから離れてバッグを持ってきた。
絢佳「どうしたの?」
卓偉「これ…発行すること出来たんだ。」
絢佳「身体障害者手帳…?そっかぁ、申請する事できたんだね」
卓偉「俺、これから障がい者として生活しなければならないんだ。だから今のスタジオもいずれか辞める事になる」
絢佳「真壁さん達には言ってあるの?」
卓偉「まだ。これからだよ。いつ言おうか、タイミングが分からなくて…」
絢佳「正直、辞めたくないでしょう?」
卓偉「うん。ずっと生き甲斐になる所だって考えながら、続けてきたからね」
絢佳「新しい仕事は決まったの?」
卓偉「それもまだだよ。まだもう少し時間くれないと、早々見つからないしさ」
絢佳「貴方に合う所が見つかると良いね」
卓偉「俺、こうなったからには、健常者に戻れないんだよね。一生涯この耳と付き合って生きていかなきゃいけないしさ。正直、怖いよ」
絢佳「卓偉には貴方の生き方ややり方があるわ。急ぐ事もないわよ。誰かに押しつけられる事もないし。私は、今の明るくて素直な貴方が一番好きよ。自分を大事にしていけば、思った以上に上手くやって行く事もできるよ。」
卓偉「絢佳さん、障がいって何なんだろうね…?」
絢佳「…深く考え無い方が良いわ。そのままの卓偉で居て良いよ」
卓偉「取り敢えず、スタジオの皆には近いうち話すよ。…お休み」
卓偉は絢佳を腕で抱える様に眠りについた。絢佳は卓偉の頭を撫でてゆっくり目を閉じた。
翌朝、二人は朝食を済ませた後、それぞれ着替えをして身支度を整えた。
絢佳「卓偉、これ渡しておくね。」
卓偉「…鍵?絢佳さんの自宅の?」
絢佳「合鍵作ったの。それあったら、いつでも来れるでしょう?」
卓偉「ありがとう…失くさない様に気をつけます。そしたら俺、先に出るね」
絢佳「うん。いってらっしゃい」
卓偉「行ってきます」
卓偉が家を出ると、絢佳は少し溜まっていた洗濯物に手を付けた。洗濯物を干した後、身支度をして、自宅を出た。卓偉はその日、早速真壁に耳の状況を伝えて、近いうちにスタジオを辞める事も報告した。真壁もまた浮かない表情をしていたが、自分の進むべく先の事に対してあまり悩まず、自分らしく居て欲しいと声をかけてくれた。練習を終えた夜、卓偉は絢佳をスタジオに呼び出した。彼女が到着すると、卓偉は床の掃除かけをしていた。
絢佳「家じゃなくて、どうしてここに?」
卓偉「なんか、どうしても来てほしかった。」
絢佳「あれから、門下生の人達は現場にいっているの?」
卓偉「うん。終わってからここに戻ってくると、疲れ果ててるけど、楽しかったって目をキラキラさせて色々話してくるんだ。あいつら本当素直って言うかさ」
絢佳「日頃の成果が出てるのね。先輩として、マネージャーとして嬉しいでしょう?」
卓偉「あぁ。皆んなから沢山こっちも教えてられている事もあるしさ。やっぱりスタジオ辞めるのは…心残りあるなぁ」
絢佳「ねぇ、卓偉。私、ちょっとやってみたい事ある」
卓偉「…何?」
絢佳「ボクシング」
卓偉「えぇ?今から?」
絢佳「少しだけで良いから、教えて」
絢佳がそう言うと、卓偉はグローブを彼女に渡して、彼はミットを付けて軽くボクシングを教えた。
卓偉「右手でワン、左手でツー。そう、ワンツーでミットに向かって打ってきて。」
絢佳「ワン、ツーね。よし。」
卓偉「あはは、腰がひけてるよ。もう少し近づいて打ってきて。」
暫く2人は続けていると、次第に絢佳が打てる様になって来ているのを卓偉は褒める様に告げた。
卓偉「絢佳さん、今日はこの辺で止めよう」
2人はつけていた装具を外して、卓偉はある場所に絢佳を誘った。スタジオのジムの隣にある医務室の様な所だった。中へ入ると、卓偉は絢佳を咄嗟に抱きしめた。
絢佳「ねぇ、誰か来たらどうするの?」
卓偉「この時間はもう誰も来ないよ」
卓偉がそう言うと、寝台の上に絢佳の身体を乗せて、2人は暫くキスをしながらきつく抱き合った。卓偉が身体をゆっくり押し倒して、彼女の身体を弄りながらやや息を荒くして顔を埋める様に彼女の身体を抱き寄せていた。絢佳は卓偉の様子を暫く眺めていた。卓偉は絢佳の衣類と靴を脱がして、彼女もまた両脚を卓偉の腰の辺りに組む様に絡めてきた。卓偉が絢佳の下半身に手で弄り始めると、絢佳も狭い室内の暗い中で興奮した声を上げていた。卓偉は絢佳の下着を脱がせて、自分の性器を彼女の陰部に挿入すると、お互いに声を上げて身体を揺さぶりあっていた。
絢佳「卓偉…いきそう…」
暫くして、辺りはしんと静まり返っていた。2人は乱れた衣服を整えて、医務室を出た。お互いに手を繋ぎながら、スタジオの照明を消して、鍵を掛けた後外に出た。
翌週、卓偉は病院の医療相談室で村瀬から紹介された自立支援事業所を訪れていた。中に入ると、奥行きの広い学校の職員室の様な場所に、ざっと30名ほどはいる様子だった。職員の人達が何名か出入りもしていた。すると、1人の人物が卓偉に気づき近づいてきた。
職員「こんにちは。お名前を伺っても宜しいでしょうか?」
卓偉「永里卓偉と言います」
職員「永里さんですね、こちらの来客者名簿にお名前を記入してください」
卓偉「…書きました」
職員「これから担当の職員を呼んできますので、お待ちください」
数分待っていると、2人の職員がやってきた。
金子「永里さんですね、はじめまして。職員の金子と言います。」
森崎「こんにちは、同じく職員の森崎と言います」
金子「そこの階段から個室の方に案内します。一緒に来てください」
3人で一緒に4階まで上がっていくと、家庭科室の様な部屋が数カ所と個室の部屋が壁沿いに並ぶ様に設置してあった。個室へ入り椅子にかけると職員らが卓偉に施設の案内と自立支援について、話を始めた。
金子「病院の村瀬さんからもお話があったと思いますが、当事業所は主に障がいを持つ方や高齢者の生活の困難な方達が利用する施設を中心に事業を行っています。永里さんは左耳の聴力が弱い状態というところで、医療機関を通して今回身体の障がいをお持ちの方を対象とした、自立支援法に基づいた就労継続支援の事業所を活用しながら一般就労に向けて私達職員と一緒にお仕事を探して行くという意向となります。」
卓偉「あの、就労継続支援の事業所を利用するメリットはどういったところになっていくんですか?」
森崎「一般企業などでの就労が一時的に難しい方に、事業所でその方の知識や体力、精神面などの能力を向上の為に必要な訓練をしていく場所となります。」
卓偉「やっぱり職安とかに普通に探していくのはまだ早い段階なんですね…」
金子「まずは、事業を利用するにあたって、永里さんにいくつかご質問をさせてください。今のところはお一人で生活されていて、尚且つお仕事されているんですよね?お仕事はどういった職種なんですか?」
卓偉「18歳からスタントの…よく映画などに出てくるアクションなんですが、そのスタントマンの仕事をしてきていて。29歳の時にスタジオでリハーサルをしている時に頭を打った時に、耳も聞こえが悪くなりました。」
森崎「その後は今のアクションスタジオで、コーチ?…マネジメントのお仕事をされているんですね?」
卓偉「そうです。約5年はその仕事をしています。」
金子「スタントの仕事かぁ。私達はあまり想像しにくいところもあるけど、凄いお仕事をされているんですね。」
森崎「アクションとかできるなんで、身体能力も相当無いと出来ない事ですよね?憧れるなぁ」
卓偉「僕の場合、体力が凄い自信があったんで、その道に進んだんです。あとはほとんどアルバイトもした事がない状況ですから…」
金子「今のお仕事に誇りを持たれているんですね。」
卓偉「はい。ただ、耳が聞こえない状態が続けているんで、時々人や物にぶつかってしまう事があり、上手く避けられないところもあります」
金子「今のお仕事から離れる事については、どうお考えですか?」
卓偉「正直辞めるのは悔いが残る気がするんです。長年続けてきたこともありますし。でも、自分のこれからの生活を考えると、色々見合った仕事をしながら働き続けていきたいです」
金子「私達はあくまで永里さんのサポートできるところについては、最低限一緒にお付き合いさせていただきます。ただ、もし仮に私達職員の必要性が無くなった場合は、最終的に永里さんご自身の判断でお仕事を探して行く場合も出てくるかもしれません。失礼ですが、永里さんはご家族の方はいらっしゃいますか?」
卓偉「いえ、僕が生後、間もない時に亡くなりました。親族の人達も何処にいるか、知らないんです」
森崎「大変な苦労をされてきたんですね。それでも、ここまで生活できているのは素晴らしいことです。金子さん、僕らには敵わないですよね。」
金子「私達も家族はいますが、こちらから見ると、到底出来ない事だらけで、逆に頭が下がりますね」
卓偉「あぁ、いいえ。とんでもないです。」
職員の2人は何処となく親近感が湧く様な雰囲気があり、卓偉は会話をしていても、あまり肩肘を張らずに向き合って話せる人達だと実感していた。金子は卓偉の今の人柄や状況を見て、まずは事業所を利用する前に職務実習に入ることを勧めてきた。
金子「永里さんは耳の状態からして、すぐにお仕事に就くとなると、リスクの負担が出やすくなります。病院からもご説明があった通り、精神面の負担も発症する事から、今後、精神内科外来の受診も併せて通院する事にもなってくる場合も起こり得ます。職務実習は大まかに言うと、軽作業のお仕事になります。その期間は賃金はでません。それでも、宜しければ実習の案内を進めても良いでしょうか?」
卓偉「はい。一応お願いします。」
そう伝えると、森崎は一度事務室に行き、自立支援制度を利用する事に当たり、手続きをするいくつかの書類を卓偉に見せて、簡単に説明した後に、目を通して必要事項に記入をしていった。
金子「今日は一先ず先程書いていただいた書類を保管させていただきます。職務実習の件については後日ご連絡させていただきますので。何かご質問はありますか?」
卓偉「特にないです。連絡待ってます」
金子「今後ともご足労かけますが、私達も永里さんの為に支えとなる様努力していきます。では、一階に行きましょう。」
卓偉「こちらこそ、色々分からない事の話を聞いてもらう事もあると思います。宜しくお願いします」
職員の2人に挨拶をした後、事業所から外に出て、卓偉は建物の窓に写る空の景色を見上げて眺めていた。複雑な心境が目の前を歩いている感覚を覚えるかの様に、そこから立ち去って行った。
数日後、卓偉は絢佳に連絡を取り、彼女の自宅で今回の事業所を利用する件を話していた。
絢佳「自立支援ね…確かにこれから卓偉には必要になってくる事だし、私も今回初めて聞いた話だから、分からない事もあるけど、出来るだけ一緒に職員の人達を頼りにやっていきましょう。」
卓偉「障がいって視野が狭い世界だなってしか知らなかったけど、自分がこうなった以上は色々調べて関わらなきゃいけないんだなって改めて思ったよ。絢佳さん、出来るだけ迷惑にならない様にするから。」
絢佳「まず、その職務実習の事でしょう?外での作業は危険があるから、室内が中心になって行っていくんでしょう?」
卓偉「スタントのマネジメントや指導者にしても、かなり危険な事をしてきたんだねって言われたしさ。取り敢えずは、簡単な作業から身体を慣らして、次の段階に進んでいくみたいだよ。」
絢佳「ねぇ、卓偉…私の声ってどの位聴こえているの?」
卓偉「どの位って…そうだなぁ、兎に角片耳が塞がった状態で、右耳から音が拾っている感じだよ。どうして?」
絢佳「塞がった状態だと、人や物にぶつかったりする事も多くなっていないかなって。」
卓偉「確かにスタジオで指導している時に、ぶつかる事は増えてきているかな。真壁さんも心配して、よく声をかけてくるしさ。でも、今の仕事よりは、軽い作業ならそんなに心配する事もないよ。聞いた話、作業中も職員の人が見てくれるみたいだし。まずやってみるしかないしさ。」
絢佳「そうね。始まらないと分からないもんね。そうだ、今日夕飯食べて行ってよ。私これからなんだけど、買い物に出掛けてくる。…卓偉、一緒に行かない?」
卓偉「分かった。着いて行くよ。今日さ、俺の好きなもの作ってくれない?」
絢佳「良いわよ。じゃあ、バッグ持ってくるから、ちょっと待ってて」
絢佳はいつも行くところとは別の場所に卓偉と出掛けた。電車で一駅隣の所を下車して、商店街のアーケード内にあるスーパーに入って行った。卓偉も自分の好きな食材を見つけては、絢佳にねだる様に食べたいものを指してきて笑わせていた。
1ヶ月後、卓偉はスタジオでの勤務が最終日となった日、いつも通りにスタジオ内で門下生にアクションや殺陣などの指導に当たり、真壁とも打ち合わせをしては、後輩達の練習を見ていた。夕方の時刻に差し掛かったところで、真壁が門下生全員をスタジオミラーの前に集合させた。
真壁「卓偉、前に出てきて。…前回も話してある通り、今日をもって永里はスタジオのマネジメントを辞める事になりました。5年間ここに来てくれた皆んなとも、一緒に指導してくれた事にとても感謝しています。永里が居なくなっても、スタジオは今まで通り続いていきます。この上の教訓にも書いてある様に、"勇往邁進"…困難に恐れることなく、目標に向かって一気に進むこと。この精神を軸に、永里も皆も己に向き合い、己の意志を貫く…そういった人物を作り上げていって欲しい。改めて俺から皆への日頃からのメッセージを込めて、永里卓偉を送り出していきたい。皆んな、永里に一礼を」
門下生「卓偉さん、ありがとうございました」
卓偉「皆んな、顔を上げてください。…俺はずっとスタントの世界で生きてきた人間です。それしか取り柄がないとも思っていました。でも、皆んなの日頃の成果を見て、いつも俺からも弛まない努力をしている皆を見て励まされる事もありました。勿論これからも、ずっと勇気づけられる事も多々あると思うし。このスタジオの支えに様に、今後とも練習に励む様にしていってください。今までお世話になりました。ありがとうございました」
卓偉が軽く会釈をすると、門下生達は拍手を送った。スタジオの清掃が終わり、帰り際に門下生の1人が卓偉に寄ってきた。
門下生「卓偉さん、これ簡単なものなんですが…皆んなで寄せ書きを書いたんです。代表も一緒に。受け取ってください」
卓偉「…わざわざありがとうな。そういえば、オーディション採用されたんだよな。改めておめでとう」
門下生「ありがとうございます。…卓偉さん、また…僕らの練習見に来てくれますか?」
卓偉「あぁ、見にくるよ。元気で続けていけよ。」
門下生「はい!」
卓偉は門下生と握手を交わし、皆が帰った後、真壁と会話をしていた。
真壁「次の仕事先は見つかったのか?」
卓偉「まだこれからです。もうそろそろ採用の合否が来る頃かなと…」
真壁「…そうか。お前、たまに突っ走るもある方だから、あまり無理して焦るんじゃないぞ」
卓偉「なんとかなる様に頑張ります。真壁さんもいつも言ってくれてる様に、楽しんだもの勝ちだって…自分らしくやっていきます。」
真壁「…これ以上、思い残した事は無いな?」
卓偉「はい!本当にお世話になりました。真壁さん、彼奴らの事…宜しくお願いします」
真壁「あぁ。あと、絢佳さんだっけ?あの人にも宜しく伝えておけよ。」
卓偉「はい。」
卓偉は真壁にも改めて握手を交わした。
スタジオの外に出ると、冷たい風が吹いていた。季節は初春の候に入った頃になっていた。
1週間後、卓偉は自立支援事業所へ向かい、職員の金子と次の職務実習先の件について、面談をしていた。最初の作業場所は、特別老人介護施設の清掃員になる事が決まり、期間にして2週間の実習を行う事になった。数日後、案内された3階建の介護施設に出向き、施設内の担当の職員やスタッフに挨拶をした後、実習に入った。予め渡された一日に行う清掃の工程表を確認しながら、スタッフらと一緒に作業に取り掛かった。職員が見守る中、給湯設備の所やトイレなどの清掃から始めていき、床のモップ掛けを行っていった。他のスタッフが業務用の掃除機をかけると、音が全く聞き取りにくくなり、時々壁や利用者の車椅子に当たってしまう事があるたび、卓偉は謝る様に声をかけていた。休憩時間を取ると、また別の階での清掃や入居者の個室のベッドのシーツ交換の作業を行い、ひと通り作業は7時間をかけて終わらす事が出来た。卓偉は職員から体調の様子を聞かれたが、なんとか大丈夫だと返答した。この工程が2週間かけて行われていき、最終日の帰り際に施設の主任に当たる人物に挨拶を告げて、自宅に帰って行った。思った以上に身体に疲労が溜まっていた。卓偉はベッドに倒れ込むようにうつ伏せの状態になると、すぐに深い眠りについていった。
明くる日、卓偉は自宅で自立支援事業所から預かったいくつかの書類に目を通して、必要事項に記載をしていた。すると、玄関のインターホンが鳴ったので、ドアを開けると、ある二人の人物が彼の元を訪ねてきた。
長谷部「横浜地方検察庁の検事をしております長谷部と言います。こちらは同じ検事の若田と言います。永里卓偉さんで宜しいでしょうか?」
卓偉「はい。あの…検事さんは今日はどう言った用件で?」
長谷部「永里さんが生後に亡くなられたご両親の件でお伺いしました。今、お時間宜しかったでしょうか?」
卓偉「えぇと…僕の両親については何も知らないんです。親族からも聞かされていませんし。何かありましたか?」
長谷部「詳しいお話は検察庁の方でいくつかお尋ねしたいのです。これからご同行お願いできますか?」
卓偉「すみません、行かれる前に少し何の話か、教えてくれませんか?」
長谷部「…貴方のご両親がある事故で亡くなられた事をお伝えしたかったのですが。その件で、庁内の取調室で、私達とお話をさせていただきたいのです」
卓偉「分かり…ました。今、用意しますので、待っててください」
卓偉は急いで衣服を着替えて、検事の2人と共に車で、検察庁のある場所へ向かった。到着後、取調室に入り卓偉が椅子に座ると長谷部から事情聴取を受けた。
長谷部「お忙しいところご同行いただいてありがとうございます。早速なんですが、永里さんに私達からいくつかの項目についてお聞きさせていただきますので、ご返答をお願いします。永里がお生まれになった1987年の9月15日の神奈川県旭区でお間違いですか?」卓偉「はい」
長谷部「ご両親のご出生はご存じでしょうか?」
卓偉「いいえ。知りません」
長谷部「永里さんが生後間もない頃、児童施設に預けられたのは間違いないですか?」
卓偉「はい。産まれてから数ヶ月後に預けられたと聞いています」
長谷部「施設での生活は何年続きましたか?」
卓偉「4年ほどです。5歳の誕生日を迎える前に、里親の方に引き取られました。」
長谷部「永里さんのお名前ですが…苗字はそのお引き取りした里親の方の名前ですよね。本名は違いますよね」
卓偉「…はい。」
長谷部「ご本名を教えてもらえますか?」
卓偉「高岸…湊翔(みなと)と言います…」
長谷部「本名から今の名前に変えられたのは何歳の時でしたか?」
卓偉「18歳でした。里親の2人と家庭裁判所を通じて申立てをしてから、受理されました。」
長谷部「名前を変えた理由を聞かせていただけないでしょうか?」
卓偉「苗字は里親に14年間高校を卒業するまで居候して、お世話になったので、そのまま使わせていただいています。下の名前は…僕自身で考えて、親に相談して家裁に受理されました。…本名は親族に連絡を取りたくないという理由で変えました。」
長谷部「では、親族の方々とは今後の貴方の事を知られたくないという理由で、名前を変えたという事になるのですか?」
卓偉「そうです」
長谷部「永里さん、元のご両親が亡くなられた経緯をご存知でしょうか?」
卓偉「全く知りません。あの…もし、知っている事があれば、そちらから教えていただけないでしょうか?」
長谷部「永里さんの生まれた年の12月に、当時県内にあった居住先で…焼身自殺を図って亡くなられました」
卓偉はこの時、長谷部の顔を睨み付けるような眼差しで、目を大きく開いた。
卓偉「どうして、そうなったんですか?」
長谷部「それが、今回の再捜査の理由なんです。永里さん改め高岸さんご夫婦の親族の方々とも連絡を取りましたが、誰も知らないとお話しています。永里さん、本当に何も誰からもお話は伺ってはいないでしょうか?」
卓偉「本当に分かりません。両親が自殺した事も、今知りました」
長谷部「私の手元に警察の捜査班の方から、当時の事件が起きた時のお写真があります。…差し支えなければご覧いただけませんか?」
卓偉「お願いします」
長谷部から事件の書類が記載されてある記録簿を見てみると、そこには、事件当日の生家が焼けた跡や遺体らしき両親の痕跡の写真と共に、事件の詳細の記された事項がびっしりと書かれていた。
卓偉「両親の顔ですが、やっぱり記憶がないんです。だから、今回の件に関しては、ここまでしか、知りたくありません」
長谷部「今回の再捜査に当たり、何故我々が動いているか、知りたくありませんか?」
卓偉「…もしかして真犯人がいるとか?」
長谷部「そうです。真犯人を名乗る者が、刑務所の受刑者から割り出す事が出来たんです。事件当日の事もほぼ一致しているところも出ています。」
卓偉「そうなんですね」
長谷部「永里さんに我々からお願いしたい事があります。これから、法廷で裁判が執り行われます。そこに我々と同席をしていただきまして、全ての事件の捜査を終わらせたいのです。貴方が法廷に立てれば、周囲の関係者も納得させる事ができるのです。ご検討なさっていただけませんか?」
卓偉「…僕が、法廷に?」
長谷部「はい。今回永里さんのお力が重要視されてきます。お願いできないでしょうか?」
卓偉「つまり証人としてですか?…僕は何も覚えていないのに、証言台に立つのは無効にはなりませんか?」
長谷部「あくまでも証人として分かる範囲で質問されたら事項についてお答えするだけで良いのです。」
卓偉「法廷はいつになりますか?」
長谷部「翌年の1月の下旬頃となります」
卓偉「数日ほど…考えさせてもらっても良いですか?…まだ気が動転している感じがあって…」
長谷部「分かりました。お時間をかけて、ご検討ください。あと、永里さん…左耳の聴力がほとんど無いと予め伺っています。手術などされる予定などはございますか?」
卓偉「いえ。…暫くは片耳のままで生活していく予定です」
長谷部「今回の件に関しましては、担当の医師ともご相談ください。永里さん、今後ともご協力よろしくお願いします。」
卓偉は暫く下を向いたまま、動こうとしなかった。長谷部から声を掛けられると、やや鋭い目つきで彼らの顔を眺めていた。想像もしたくなかった。過去の出来事も知らないまま生きていたかったのに、今回検察庁側から知らされた事実に、卓偉は余計に不安を覚えてしまっていた状態であったからだ。
卓偉は自宅に帰って玄関のドアを閉めた後、散らかった部屋の中を見渡していた。靴を脱ぎ、バッグを床に置いてカーテンを閉めた時、突然、左耳の奥から低い機械音の様な音が鳴り響いた。ただの耳鳴りかと思っていたが、暫くその音が鳴り止まなかった。次第に眩暈も起こり、立っているのが辛くなり、その場にしゃがんだ。軽く息も上がっていき、自分の身に何が起こっているのか、冷や汗もかいていた。暫くして眩暈が治まり、台所の蛇口から水をコップに注いで、ゆっくりと飲んでみた。幾分かは気持ちが落ち着いたが、耳鳴りはあまり止まなかった。台所のシンクの上に屈みながら、後ろのテーブルの上にある書類や冊子に目をやった。やがて卓偉は身体がふらつかせながら、テーブルに置いてあるものを一気に排除する様に横に流し落とした。壁にかかっている衣類やカーテンなどを引っ張る様に勢いよく散乱させ、怒りが一気に舞い上がっていた。ふらついた片脚がベッドの角に当たり、身体ごと倒れ込んだ。ベッドの上で身体を丸くうずくまり、目には涙を浮かべながら、悔しさで心身が取り乱していた。両手で顔を塞いで、仰向けになった状態で数十分は動かなかった。
一方その頃、絢佳は自宅のテーブルで帳簿に目を通して、買い物のレシートや領収書などの整理をしていた。スマートフォンから電話が鳴ったので、中を見ると、息子からの着信が来ていた。
絢佳「もしもし?どうしたの?こんな時間に…」
息子「急に電話してごめんね。母さん…近いうちに会って話がしたいんだ」
絢佳「お父さんは?」
息子「何も話して無いよ。父さんには黙っていてほしくて…」
絢佳「何かあったの?」
息子「学校の事で、話がしたいんだ。家じゃ父さんに見つかったら怒られるし」
絢佳「今、カレンダー見るね…そうねぇ、次の日曜日は時間が取れそうかな。貴方はどう?部活は?」
息子「次の日曜日だね。部活は午前中に終わるから大丈夫だよ」
絢佳「それじゃあその日に会いましょう」
息子「分かった…お休みなさい」
絢佳は、突然の息子からの電話に驚いたが、まだ自分を頼りにしたい年頃なんだと、つくづく感じていた。
約束の日曜日、絢佳は行きつけのカフェに息子を誘い、中へ入り飲み物を注文した後、早速息子に今の状況を聞き出した。
絢佳「学校、どうなの?」
息子「来年の高校受験の事でこの間進路相談があったんだ。一応父さんもついてくれたんだけど…今の偏差値のままだと第一希望の所がヤバいかもしれないから、もう一つ下のランクに落として受験したいんだけど…」
絢佳「もしかして、お父さん反対してる?」
息子「…うん。兎に角お前なら第一希望の所なら行けるから、やってみろって話を聞いてくれなくてさ」
絢佳「貴方は…どうしたい?」
息子「ワンランク下の学校でも、バスケ部も割りと強いんだ。だから、勉強と両立してやりたいから…そこにして先生とまた話したいなって」
絢佳「そっかぁ。私が学校に行ったら、あの人が何されるか分からないし…こういう時に私が何も出来ないのは、貴方に申し訳ないくらいよ。ただ貴方が行きたい所で受験したいなら、いずれかお父さんも納得してくれるはずよ。もう少ししたらお父さんにも相談した方が良いわ」
息子「父さん…離婚してから、少し態度が変わったというか…仕事の事もあって、口を聞いてくれない事が多くなっているというかさ。」
絢佳「クラスのお友達はどうなの?」
息子「親が離婚したって事で一時期、口論になって口を聞かなくなった時があったけど、また仲良くしたいって言ってくれて。そこはなんとか上手くやってるから心配しないで。」
絢佳「そういえばお義母さん…おばあちゃんはこの事は知ってるの?」
息子「うん。話してある。おばあちゃんも俺の行きたい所に行った方が良いって言ってくれてる」
絢佳「それなら、お父さんとも合わせて話を進める事も出来そうだね。私よりあの人は貴方の事を大事に思っている所があるから、大丈夫よ。話してごらん」
息子「お母さん…俺らってこうして会うの、本当は駄目なんでしょ?」
絢佳「親権はお父さんにあるから、本当はねあまり会えないのよ。ただ貴方がもし私とこうして会いたいと言うなら…また協議をしなければならなくなるのよ。色々複雑だけど、暫くは会わない方がいいわ」
息子「俺にとってさ、家族って何なの?」
絢佳「…お父さんは貴方の為をもって、私と別々になる方が良いと決めた事だから、一概にも逆らえないのよ。今は分かってもらうには、時間がかかるけど…いずれか貴方にも分かる時はくるわ」
息子「夫婦とか、結婚とかって…お互いが好きなだけじゃ何にもならないんだね…」
まだ14歳という若さの我が子には夫婦間の心境など、解るには難しい所もあるとひしひしと感じていた。しかし、息子の純粋な言葉には、この時の絢佳も喉を詰まらせる様な気持ちになっていた。やがて、通りの人々が増え始めてきたのに気付くと、2人は店を出て、駅の出入り口の所で手を振り別れた。息子の成長している背中を見送りながら、絢佳は彼に辛い思いをさせている事を重々に受け止めていた。
数日後、卓偉は病院の耳鼻科の定期健診に来ていた。名前を呼び出されると、診察室の中に入っていった。
担当医「永里さん、あれから事業所の方は行ってみていかがですか?」
卓偉「割と親身に聞いてくださる方々がいて、なんとか就労支援の方も進んで行けそうです」担当医「左耳の件ですが、このままだと右耳にも生活に支障が出ることが今後増えてくる可能性は高いかと思われます。そこで、私からお願いがありまして…永里さん、人工内耳というのは聞いたことありますか?」
卓偉「いや…分からないです。どういったものになるんですか?」
担当医「今、聞こえていないところに耳の後ろ側に人口の補聴器のようなものを埋めて装着させるものになります。勿論手術が必要となります。費用も医療保険が加入されていらっしゃるので、負担はそれほどかからないかと思われます。」
卓偉「それをつけることで聞こえがよくなるということですか?」
担当医「今まで自然と聞こえていた捉え方や聴こえ方とは若干の違和感が生じますが、慣れてくると、通常の日常を送れることやお仕事等に負担は軽くなってくるかとは思います。手術もあまり時間は取りませんし。…ご検討してもらえませんか?」
卓偉「分かりました。少し、考えさせてください。あの、あと先生の方から、検察庁の事で尋ねられたことってありますよね?」
担当医「ええ。永里さんの耳の状況について、前回お電話でお話はさせていただきました。あれから何か進展はありましたか?」
卓偉「いえ…亡くなった両親の件で、これから法廷に出て意見を述べることがある可能性が高いんです。」
担当医「色々ご心配されることはあると思いますが、まずは耳の手術の事を考えていてください」
診察を終えて待合室で呼ばれるまでの間、卓偉はスマートフォンのメールを読んでいた。絢佳からも連絡が来ていた。就労の件や耳の事を気に掛ける内容だったが、なんとか頑張ってやっていると返信をした。
2週間ほど経ったある日、卓偉の電話に検察庁の若田から連絡が来たので、電車で検察庁に向かった。
長谷部「永里さん、法廷の件ですがあれから検討はしていただけましたでしょうか?」
卓偉「…はい。出ることに決めました。」
長谷部「本当はお断りされるのかと思い、その心づもりでいました。何故出廷しようと決めましたか?」
卓偉「…事件が早く片付いてすっきりさせたいんです。その方が親族のためにもなるかと思いまして…」
長谷部「今回の件については、貴方も記憶のない中で捜査にご協力をさせている状態です。取り止めることもできなくはありません。ご無理をされなくても良いのですが…?」
卓偉「いえ。決めたことです。出廷をお願いします」
長谷部「では、このまま手続きの方も進めて参りたいと思います。こちらに必要事項を書く所がありますので、こちらから指示する項目に、記入をしていってください。」
卓偉が書類に記入をした後、長谷部に渡して出廷の手続きを終えた。
長谷部「私達が出来ることは、永里さんが証明できる範囲での意見を述べてもらうことが大きな利点となっていきます。意見次第では状況も変わることもありますが、なるべく証言台で立たせることを控えるよう努めてまいります。言える範囲で結構です。宜しくお願いします」
卓偉は一度決めたことは最後までやり通すという自身の思いが強く気持ちに表れていた。
長谷部たちもその表情から、彼の意志の強さを感じ取っていた。
2月の立春を過ぎた頃、法廷では第1回目の刑事裁判が行われた。卓偉は傍聴席の最前列に座ると、裁判官から開始の挨拶が始まった。原告と被告府側の双方の弁護士や検事がそれぞれ意見を述べて、裁判が進められていった。やがて今回の真犯人だと名乗る男が被告側の扉から出てきた。男は60代くらいの年齢で、痩せた体で頭は白髪交じりの短髪をしていた。衣服は白いシャツにグレーのスーツ用のズボンを身につけていた。これが両親を自殺に追い込んだ人物か…卓偉はその男の横顔を見つめながら、傍聴していた。当日はあまり意見が反り会わずに執り行われたため、卓偉は証言台に立つことはなかった。法廷から出ると長谷部の姿があった。
長谷部「今日はあまり進展はありませんでしたが、次回の2回目の出廷に向けてまた来てください。傍聴席からご覧になっていただけでも大分疲れたでしょう?」
卓偉「何の話をしているのか…分からないところだらけでした。僕、このまま出廷しても大丈夫でしょうか?」
長谷部「はい。フォローは必ず致しますので、あまり抱え込まないでいてください」
卓偉は長谷部達に頭を下げると、裁判所から車で検察庁に移動して、長谷部達と2回目の出廷について話を聞いた。
3月の中旬になり、卓偉は2回目の出廷に向けて、自宅で身支度を整えていた。スマートフォンから絢佳から電話がかかってきたが、急用があるから今度会おうと伝えて電話を切り、外へ出ると、アパートの1階の出入り口付近で検察庁の車が彼を待っていた。
裁判所へ着くと間もない頃に2回目の刑事裁判が行われた。裁判官が原告側に構える長谷部に対して卓偉に証言台に立つように指示を仰いだ。長谷部は頷くと卓偉も頷き証言台に立った。
裁判官「宣誓書を朗読してください」
卓偉「宣誓、良心に従って真実を述べ,何事も隠さず,偽りを述べないことを誓います。」
裁判官「ご着席ください。これから証人尋問を行います。お名前を言ってください」
卓偉「永里卓偉と言います」
裁判官「永里さん、今回の事件についてですが、貴方は亡くなられた高岸さんご夫婦とどういったご関係に当たりますか?」
卓偉「私の両親にあたります」
裁判官「原告側の検察官へ。続けて尋問を行ってください」
長谷部「永里卓偉さん、貴方の生年月日を教えて下さい」
卓偉「1987年9月15日です」
長谷部「永里さんが生まれた1987年の12月ですが、貴方は何処に身元を預けられていましたか?」
卓偉「旭区の児童施設です」
長谷部「ご両親のお住まいは同じ旭区とお伺いしていますが、間違いありませんか?」
卓偉「はい」
長谷部「12月の未明に自宅の一軒家の中から火災があり、駆け付けた警察や消防隊によって沈下されたあと、現場検証が行われました。その後寝室とみられる所から当時30代の夫婦とみられる焼死体が発見されました。監察の司法解剖からご遺体は高岸亘(あたる)さん、奥様の幸江さんだと判明されました。永里さん、高岸さんご夫婦のお名前に身に覚えはありますか?」
卓偉「…はい、知っています」
長谷部「永里さんは当時生後間もない頃にご両親が児童施設に預けたということですが、経緯はご存知でしょうか?」
卓偉「分かりません」
長谷部「その後の調べからご両親は会社経営の倒産に見舞われて、何者かに追い詰められたのが原因となり、自殺を図ったと当時の帳簿から記載されてありました。」
裁判官「被告側の検察官。証人尋問をお願いします。」
被告側検事「先程、原告側の検察官からもご指摘があったように、被告は当時高岸ご夫妻との面識はありました。務めていた会社の専務に当たる者とも一致しています。被告、証言台に立ってください。…着席ください。貴方は事件当時の年に会社の経営不景気にあたり、高岸代表取締役社長と意見を討論しあううちに、殺意を抱いたという事は間違いありませんか?」
被告「…はい、間違いありません」
被告側検事「何故その様な経緯になったか覚えていらっしゃいますか?」
被告「…当時私は社長の経営の方針に疑問を持っていました。周りの役員たちとも会議を重ねて社長に何度も訴えましたが、なかなか首を振ってはくれませんでした。私は、怒りが収まらず、社長に対して辞任していただきたいと署名も集めました。可決はされず、私が辞任に追い込まれてその後会社を辞めました。」
被告側検事「被告は1987年の12月の高岸さんの自宅の火災があった日、どちらにいらっしゃいましたか?」
被告「深夜の24時過ぎに社長の自宅に車で来ていました。中は既に暗くなっていたので寝ているのだと様子でした」
その後、被告は車でその場を立ち去り、自身の自宅に帰ったと証言していた。凶器や火の元となる異物は持っていなかったと訴えた。その後火災が起きたのではないかという点から、今回の証人尋問は解決しないまま閉廷した。
裁判所の廊下に出て傍聴席にいた人達が出てきた後、長谷部らも出てきて卓偉の元に寄ってきた。
長谷部「このままだと難航しそうな感じです。今日は被告があれだけ話はされていましたが、肝心の火災が起きた原因については、特定が付きませんでした。永里さん、次の3回目の裁判はどうされますか?」
卓偉「一応、出廷はします。ここまで来るともしかしたら進展がありそうな予感もしますし…大丈夫です。次回も宜しくお願いします」
自宅へ帰る車内の中、卓偉のスマートフォンに絢佳からの着信の通知が来ていた。彼は直ぐにメールで会って話したい事があるから、今日中に連絡が欲しいと返信をした。
10分後、電話の着信が鳴ったので手に取ると、卓偉は絢佳に今日の夜に会えないかと告げた。すると絢佳も会って話がしたいと返答してきた。卓偉は長谷部に友人の家に向かって欲しいと伝えて、絢佳の自宅へ到着した。
玄関のインターホンが鳴り、絢佳は直ぐさま駆け寄る様にドアを開けた。
卓偉「暫く連絡が取れていなくてごめんね」
絢佳「…元気そうで良かった。あれから裁判の方はどうなっているの?」
卓偉「今日2回目の証人尋問があって…まだ進展がなくてなかなか思うように進まないみたいなんだ。」
絢佳「検事の方は?」
卓偉「もしかしたら被告側が不起訴になるらしいかと…でも、俺最後まで粘るつもりだから。検事の人たちも起訴になる様に上手く誘導する様に努めますって」
絢佳「次の出廷はいつなの?」
卓偉「来月4月の末日頃だって。」
絢佳「卓偉、この間電話で話してくれた人工内耳の手術はもう近いんでしょう?入退院と出廷の日取りには被らないの?」
卓偉「来週が手術だから、何とかなりそうだよ。」
絢佳「そう…あぁごめんね。今、コーヒー出すね」
絢佳がコーヒーを淹れる準備をしていると卓偉の口から次の言葉が出た。
卓偉「絢佳さんにお願いがあります。3回目の出廷に傍聴席で一緒に来てもらえないかな?」
絢佳「…私が?法廷に?…来ても大丈夫なの?」
卓偉「うん。一緒に見ていて欲しい。次がラストになるかもしれないから。見届けて欲しいんだ。予定開けれそう?」
絢佳「教室の方には連絡しておくから大丈夫よ」
卓偉「色々ややこしい事になって…絢佳さんにまで迷惑かけてる…こんなにも色んな事が目まぐるしく事態が起きてることに、身体が付いていかないんだ。もっとしっかりしないとね」
絢佳「卓偉…今回の事は貴方が全て悪い訳じゃないから。気負いしなくてもいいのよ」
卓偉「そうだね。自分をここまで責めるのも…無理させてしまっていることだし、耳にも負担掛けてしまっているし。でも、早く全部解決させて終わらせたいんだ。」
絢佳「手…出して。…貴方には私だけじゃなく、色んな味方がついています。だから、最後まで負けないで。」
卓偉「ありがとう。取り敢えず、まず耳の手術だね」
翌週、病院の耳鼻科の担当医が人工内耳の手術の執刀の元、手術室の手術台に酸素ボンベを取り付けられた状態で、卓偉は麻酔をかけられた後に、体に浸透していくのを感じながら眠りに付いた。担当医や看護師が見守る中、4時間ほどの手術が終わった。卓偉は目を覚ますと病室の天井がおぼろげに視界に入って行った。腕には点滴が付けられていた状態で、左の側頭部に何かが付けられた違和感を覚えていた。頭を触ると針のようなボコボコした突起物が付けられていた。暫くすると、担当医が病室の卓偉の元へ様子を見に来ていた。
担当医「永里さん、意識はいかがですか?」
卓偉「まだ、ぼんやりとした感じです。」
担当医「お気づきかと思いますが、左耳の後ろ側に人工内耳が装着されています。まだ違和感があるとは思いますが、そのうち慣れてきますので安心してください。何か他に気になることはありますか?」
卓偉「…先生の声が右の方しか聞こえません。もう少ししたら左耳も聞こえてきますか?」
担当医「はい。もう暫くお時間を下さい。また、私も様子を見に来ますので。後はお願いします」
看護師「永里さん、耳に違和感が出ているかと思いますが、何かあったら直ぐに呼んでくださいね」
担当医や看護師が部屋を出て言った後、卓偉は麻酔の残りが体に感じていたせいか、また眠りに入って行った。19時を過ぎた頃、卓偉は再び目が覚めると、周囲の音が両耳から聞こえてくるのに気が付いた。右耳よりも左耳の方が以前より聞こえ方が良くなっているのを感じ取っていた。数年ぶりに両耳があやふやの様だが、聴こえている…卓偉は僅かに微笑みながら、改めて音が聞こえることに気持ちが嬉しさを増していた。
退院後、自宅に帰ると相変わらず散乱している部屋の様子を見て、クスリと笑い、床に落ちている衣服や空き箱の容器などを片づけをした。テーブルに置いてあった検察庁からの次回の出廷ついての詳細が記された封書に目を通した。
卓偉は絢佳に電話をかけて無事に退院したと告げた。
絢佳「卓偉…少し話し方変わって聴こえるけど、口が話しづらいの?」
卓偉「うん…まだ左右の耳の聞こえ方に違和感があって音のバランスが取りにくいんだよ。…俺、変な声しているでしょう?」
絢佳「いいえ。変じゃないよ。いつもの卓偉の声よ。」
卓偉「…良かった。絢佳さん、次の出廷は一緒に出れそうかな?」
絢佳「ええ。大丈夫よ。一緒に行くわ」
卓偉「宜しく…お願いします」
第3回目の裁判の出廷の日。卓偉は先に裁判所に到着していた。長谷部らとともに起訴について話し合いをしていた。
長谷部「永里さん、落ち着いて話をしてください。私達も全力を尽くします」
卓偉「宜しくお願いします」
絢佳も裁判所に到着して、傍聴席に座り辺りの様子を見渡していた。傍聴席には十数名ほどの人達と報道関連者が数名席についていた。時刻は13時。第3回目の刑事裁判が行われた。
裁判官「第3回目の刑事裁判を執り行います。…原告の弁護人は前へお願いします。」
双方の弁護士の答弁の後、続いて証人尋問が行われた。原告側である尋問が行われ、卓偉は証言台へ向かい、着席した。前回同様に事件当時の状況は、生後間もない頃という事で記憶がないという所から、見当がつかないという返答となった。親族も証言がつかないというところも含めて、長谷部はこれらについて、当時の状況は被告人しか分からないのではないかと弁論した。続いて被告人側の証人尋問を行い、被告人が証言台に着席し、男の口からは次の様に話をしていた。
被告「お二人を自殺を追い込んだのは間違いありません。社長も当時は職務に追われて身も危険な状態でした。心臓に病を抱えていたんです。その後遺症が原因で時々会社に来ない時もありました。私はそれを知っていた上で居なくなった方がマシだと仄めかした事もありました。今回の件は…私の促しで自殺したのだと思われます。」
被告側検事「今、おっしゃった事には間違いありませんか?」
被告「…はい」
被告側検事「裁判官。この様に被告の証言から今回の事件の新しい事実が証明されました。原告側検察官。尋問をお願いします」
長谷部「永里さん、前へ。…ご着席ください。永里さん、今の被告側の証言にもあった様に、今回の新たな事実が証明されました。…貴方のご両親の真相解決に繋がったことについて、どうお考えでしょうか?」
卓偉「改めて、両親の亡くなった経緯が分かり、安心しています。被告側の方が証言していただいた事に感謝しています。」
長谷部「裁判官。今回の事件につきまして、このまま被告側に起訴と承認してください」
結果として、被告人の促しにより卓偉の両親は自分たち自身で放火し、自殺した経緯となり、立証の鍵として結び付いた。傍聴席に座っていた報道関連者が席を外して、扉の外に出ていくのを絢佳は見届ける様に眺めていた。傍聴席の最前列に座っている卓偉の背中を見て、彼女はやや安堵の思いに浸っていた。
約2時間の裁判が閉廷され、3か月に渡る裁判が終わった。退出後、卓偉と長谷部らが、法廷から離れようとした時、被告人の弁護士から声をかけられて長谷部が対応した。
被告人弁護士「被告人から永里卓偉さん宛にお手紙を渡す様にと預けてあります。いかがされますか?」
卓偉が顔を見て頷くと長谷部はその手紙を受け取った。被告人の弁護士に一礼をし、裁判所を後にした。検察庁に着き、取調室に座ると、長谷部はその手紙を代弁して読み上げた。
長谷部「急啓。永里卓偉殿。この度の刑事事件の真実につきましては、当時の私側個人の罪に大きく該当することとなります。高岸様御夫妻の印象に残っている事は、日頃から穏やかな人柄であり、社員の為に一丸となって懸命によく会社の事をお考えくださっていた方だったと見受けられました。今回法廷で御子息である永里様を拝見した時、貴方がお二人の為に御存命されている姿に、私は悔い改めようと決意致しました。よって高岸様御夫妻並びに御子息様、貴方方は無実潔白であります。この度は全てにおいて周囲の方々に失望させてしまった事、誠に申し訳ございませんでした。私も終身身を削る覚悟で、貴方方に心から深くお詫びを致していく事に励む一向とさせていただきます。草々。」
卓偉「…長谷部さん、この手紙は…」
長谷部「こちらに関しては私達の方で預からせていただきます。…ご心配しなくてもよろしいですよ」
卓偉「僕の両親は、これで気が晴れた事になるのでしょうか?」
長谷部「自殺した事に対しては悔いが残るとは思います。ただ、永里さん…卓偉さんが、今回証言してくださった事については、事件の解決にも繋がった事には立証できてきます。…長かったですよね。ご両親も貴方の事については見守って下さったと思います。ご協力ありがとうございます。」
卓偉は長谷部に挨拶を済ませて、検察庁を出た。若田が卓偉の自宅まで車で送り、到着してから卓偉は若田にも改めて深く一礼した。アパートの前で卓偉は絢佳に電話をかけていた。
卓偉「絢佳さん?…今日は来てくれてありがとう。大分肩の荷が下りたよ。」
絢佳「お疲れさまでした。色々長かったね、貴方のご両親…きっと安心しているわ。」
絢佳のその声を聞いて、卓偉は目頭が熱くなり、口を噛み締めながら涙をぐっとこらえていた。
卓偉「絢佳さん、俺…近いうちに…」
絢佳「うん。会おう。絶対言うと思った。」
卓偉「…うん、会おうね。またね」
1週間が過ぎた頃、卓偉は幼少期に過ごしていた旭区の児童施設に訪れていた。
卓偉「高岸湊翔です。ご無沙汰しています。」
施設長「今は永里さんの所にお住まいで?」
卓偉「いえ、もう独立しました。二人は7年前に病気で亡くなりました。」
施設長「そうでしたか…ああ、これね。湊翔くんの預かり書とこれ、当時の皆との写真です。ご覧になってください」
卓偉は暫く複数の写真を眺めていた。
卓偉「僕はこの後永里さん夫婦に預けられたんですね」
施設長「貴方の事、本当の子供の様に可愛がっていたんですよ」
卓偉「…18歳まで、本当に良くしてくれました。あの二人には感謝しかありません」
数日後、絢佳は卓偉を自宅に呼んだ。深夜近くの時間帯だった。絢佳と卓偉はベッドの上でお互いの裸体を慰め合うかの様に抱きしめていた。絢佳がゆっくりと上体を背もたれに寄りかかると、卓偉は彼女の太ももからふくらはぎにかけて舐める様に愛撫して行った。絢佳の足元に手で握りながら、卓偉はベッドの下に一度身体を降りた。絢佳は身体を仰向けの状態で、両膝を立て曲げる様な姿勢で、頭を枕に寄りかけて、卓偉の顔を見ていた。卓偉は絢佳の左の太ももに頭をもたれた。
絢佳「卓偉?」
卓偉「絢佳さん…いつも、ありがとう。俺、こんなにも幸せな気持ちで絢佳さんに寄り添っていられるのが、怖いくらい愛しく思えててさ。ずっと…一緒に居るよ…居られる様に俺…頑張るよ」
絢佳「これ以上頑張らなくていいのよ。貴方らしく居てくれるだけで、あたし、凄く幸せだよ。お互いに沢山…色んな所に行こう。だから私も連れていって。ずっとこの先も…貴方の為に生きていきたい」
卓偉は穏やかに微笑むと、絢佳の太ももの間に顔を埋めて陰部を唇と舌で愛撫し始めた。絢佳も目を細めながら、卓偉の姿を見て彼の頭を撫でて、身体中に巡る愛おしさに気持ちが昂っていた。
翌週、卓偉のスマートフォンに自力支援事業所の金子から電話がかかってきた。予め申請していた障がい年金が区で認められた事について、事業所の方で詳細を話したいとの事だった。当日の午後に事業所に向かい、金子ら職員と個室で面談を行った。
卓偉「今回年金が区の方で、認可されて本当に良かったです。あの、あと何か話があるとか…?」
金子「永里さん、来月なんですが、ハローワークで主催される中小企業の合同説明会に参加されませんか?各企業さまとの面接方式で受けることができる説明会なんです」
卓偉「あの…この間、就労継続支援事業所が決まったばかりで、通って1ヶ月も経ってないですよね。並行してその説明会に参加しても大丈夫なんですか?」
森崎「事業所の管理者と病院の村瀬さんともお話をしたのですが、現在の体調の状況を見て、併せて行なっても大丈夫なんじゃないかと双方から許可をいただきました。」
金子「永里さん。チャレンジ、してみませんか?」
卓偉「行ってみたいです。いや、行きます。お願いします」
翌月、路面沿いに併設されている商業施設の中で行われている合同説明会に、卓偉は金子と一緒に出席した。開始の合図が呼ばれると、希望していた企業の席に座り、会社概要や職種などについて説明を受けた。卓偉は予め3か所の企業に面接の申し込みをしていた。説明会が終わった帰り道、金子とともに1階のロビーで話をしていた。
金子「永里さん、手ごたえはどうでした?」
卓偉「3か所とも自分に合っている気はしました。」
金子「後は、連絡を待っていましょう。大丈夫ですよ、事が上手く進むといいですね」
1週間後、とある企業から卓偉の元に電話がかかってきた。採用通知の連絡だった。卓偉は直ぐに自立支援事業所の金子に連絡して、事業所に向かい面談室で森崎ら職員らにもその喜びを伝えた。その日の夜、絢佳の自宅で夕飯を取りながら、二人は会話が弾んでいた。
絢佳「衣服の製造メーカーでの仕事?それってどういう作業になるの?」
卓偉「なんか、デザイナーさんが作製した型を元に、専用のミシンで衣服を作っていく仕事になるんだって。難しそうだけど、やり甲斐はある感じかな。俺も想像していなかった事だけど、逆に面白そうだよ。」
絢佳「金子さんと事前に作製室の中に見学しに行ってきたんでしょう?どんな人居た?」
卓偉「健常者の人たちが居て、その中に車椅子の人や精神疾患を持っている人が居たよ。俺みたいに聴覚障がいの人の雇用は初めてなんだって」
絢佳「皆んな、良くしてくれると良いね」
卓偉「そうだね。まずは仕事覚えなきゃ。」
絢佳「なんか卓偉、楽しそうね?」
卓偉「初めての所ってなんかワクワクするんだ。俺にとっては異例の場所だけどさ。自分に合っていれば、ずっと続けていきたいし。給与は前のスタジオより少し減るけど、そこね、半年以上経てば正社員登用の見込みもあるんだって。」
絢佳「そっかぁ。金子さん達にお礼は言ったの?」
卓偉「言ったよ。職員の人達、皆んな嬉しそうだった。」
絢佳「身体、気をつけてね」
卓偉「音の事が気になるけど、なんとかなるよ」
絢佳「卓偉。」
卓偉「うん?」
絢佳「おめでとう」
卓偉「…ありがとう」
卓偉の微笑む顔を見て、絢佳は自分の家族の事の様に心から安心していた。
数日後、絢佳の通う料理教室で新メニューの撮影が行われていた。その後、アシスタントらと片づけをして、休憩に入ろうとした時、先生から声を掛けられたので、傍まで寄って行った。
絢佳「新じゃがの新メニューですか?」
先生「ええ。他の方達にもアイデアももらっているんだけどね。絢佳さん、何か考案あるかな?」
絢佳「そうですね…もし良かったらですが…ラザニアはいかがでしょうかね?」
先生「新じゃがいものラザニア?」
絢佳「ラザニアは寒い時期の方が食べたくなると思うんですが、敢えて今回試してもいいのかと考えているんです。」
先生「ソースは通常のホワイトソースをベースに?」
絢佳「カロリーを抑えて、豆乳のホワイトソースを作ろうかと…」
先生「そう。確かにまだ季節的に早いけど…良いわ、休憩が終わったら、早速試作にかかりましょう。あと絢佳さん…」
絢佳「何でしょうか?」
先生「貴方がここに来てから1年経ったでしょう?今までの成果として、私の直のアシスタントをやってみない?」
絢佳「先生…はい。よろしくお願いします。」
その日の帰り道に、絢佳の電話がかかってきたので、バッグからスマートフォンを出してみると、友人から次の休日に皆と一緒に、数名でパーティーをしないかという誘いの話をしていた。絢佳は皆んなで久しぶりに会いたいと言うと、是非集まろうという流れになった。自分も料理を作ろうかと尋ねたが、卓偉と2人をメインで招きたいから大丈夫だと返答された。
数日後の週末、絢佳は友人らと共に知り合いの住む自宅に卓偉を招待した。絢佳と卓偉が一緒に玄関の前で待っていると、中から返事が聞こえた。
知人「あら、いらっしゃい!絢佳、久しぶりね。…こちらが噂の卓偉君?」
絢佳「ご無沙汰しています。いやだ、噂って…一応、そうです。彼氏です。」
知人「さぁ、二人ともあがって」
絢佳「うわぁ、これみんなで飾ったの?凄い綺麗…」
卓偉「皆に伝えたいことがあって。俺、次の就職先が決まりました」
友人「本当に?良かった!何処になったの?」
卓偉「自宅から電車で近いんだけど、衣服の製造メーカーでの仕事に決まったよ。来週の月曜が初出勤になる。」
友人「卓偉君、おめでとう」
知人「良かったわね、おめでとう」
リビングのカウンターには予め友人らが用意していたオードブルやドリンクが並べられていた。全員でシャンパングラスで乾杯をして終始楽しそうに笑い合っていた。卓偉は絢佳を呼び、彼女にプレゼントがあると告げてきた。
卓偉「絢佳さん。…これ開けてみて」
絢佳「何?…え?!指輪…良いの?」
卓偉「俺、先に絢佳さんにつけるから、右手出して」
絢佳「…じゃあ私も。…これで…いいのかな」
卓偉が頷くと絢佳は彼の身体を抱きしめた。卓偉もまた彼女の背中に手を回して抱きしめていた。周りの友人たちが見守る中、二人は幸せに満ちていた。
完
無実の仔 桑鶴七緒 @hyesu
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