一冊の本

秋野凛花

一冊の本

 貴方は、何かに人生を狂わせられたことはあるだろうか。


 私はある。


 それは、一冊の本だった。


 何の変哲も無い本だ。ただの児童書。私は本屋でたまたまそれを見つけ、馬鹿みたいに何回も何回も、読み直した。それはもう、ボロボロになってしまうくらい。

 帰る時間になってそれに気づいた母親が、慌てて私からその本を取り上げようとしたが、私はどうしてもそれを手放さなかったらしい。これと離れたくない。これと離れるくらいなら帰らない。そう泣き喚く私に根負けした母は、その本を私に買い与えた。

 そして私は、家に帰ってから再び、何度も何度も読み返して。成長しても、回数は減っても、それは何度も何度も、読み返して。


 今。


 ──その本は、赤く燃え上がっている。


「……なん、で」

 私は小さく呟く。私の隣に立つ母が、だって、と、言った。

「邪魔だったんだもの」

 燃えているのは、一冊だけではない。私の持っていた本、全部。教科書を始め、私が買った小説や詩集、参考書。他にも色々。丁度帰省しに来て、これだった。庭で、轟々と、私の本が燃えている。

 でも不思議と気にしたのは、私の人生を変えたその本一冊だけだった。あれが、無い。燃えていく。私の、私の本が。

 どうして燃やしたの。声を荒げる私に、母は困惑顔で言った。だって、もう読まないでしょう。たかが本で。そんなに読みたいなら、また買えばいいじゃない。今度は自分で。

 母の言うことは最もなのだろう。でも、駄目なんだ。内容が同じでも、違うの。他のじゃ駄目なの。あれじゃなきゃ駄目なの。あれが無きゃ、私は、私は、私は──!!


 あれは私の人生を変えた。


 私のための本。


 私の人生そのもの。


 だから。


 ──


 夜。私は寝室を抜け出していた。隣の部屋の仏壇から、マッチを手に取って。

 庭に出ると、マッチを擦った。ぼう、と、柔らかな炎が灯る。綺麗ね。一人で呟く。

 これが何かに燃え移れば、もっと綺麗なのでしょう。とも。

 予め撒いていたガソリンの上に、マッチを投げる。するとあっという間に、炎は燃え広がって。それは木造の家をいとも容易く消していく。

 ぼうぼう、きらきら。そんな効果音が目の前の光景に似合う。綺麗ね。とっても綺麗。涙が出ちゃうほど。

 全部、燃えちゃえ。

「──あはは」

 私はその中に、身を投げる。

 空っぽになった、私の身体を。


 確かにそうね。たかが本よ。


 でも。


 たかが本だとしても。


 あの本は、本当に。




 ──失くなってもなお、私の人生を狂わすのね。


 目を閉じる。あの本の紙の香りがした気がした。



【終】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一冊の本 秋野凛花 @rin_kariN2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説