ふたりの秘め事

作楽シン

宵闇の部屋

 お父様があなたを連れて帰ったあの日から、もう何年経ったかしら。ついこの間のような気もするのに、随分経つのね。

 あなたはわたくしよりもずっと背も小さかったのに、すっかり抜かれてしまったわ。まだまだ大きくなるのかしら。お顔はかわいいままなのに、おかしいわね。いいじゃない、笑ったって。そのうち変わってしまうんでしょう。


 あの時お父様は、あなたのこと書生だとおっしゃっていたけれど、わたくしは分かっていたわ。あなたは、お父様がどこの誰とも知らない女に産ませた子供だってこと。屋敷で噂になっていたもの。

 みんなお母様を気にして表立っては言わないけれど、お父様が屋敷にいない夜はどこに留まっているのかなんて、少し耳をそばだてれば分かるの。


 わたくしが女で、ずっと兄弟ができなかったから、伯爵家の跡継ぎが必要になって連れてきたのよ。お母様の目をはばかって、あなただけね。

 最初は書生として連れてきてあなたと屋敷の者を慣れさせて、そのうち跡継ぎだと表だって言うつもりだったんでしょう。そんな風に欺いたって、意味がないのに。

 わたくしは女で跡を継げないのだから、文句を言ったってしかたのない事だっていうのに、お父様はどうして誤魔化そうとしたのかしら。大人の欺瞞だわ。


 そうよ、だからあなたのこと、気に入らなかったわ。

 借りてきた猫みたいに大人しくて、ろくに話もしないで。やっかんだ使用人に何を言われても怒らないし、意地悪されたって告げ口しなかったでしょう。そういうの気に食わなかったから、かわりにわたくしがこらしめてやったけれど。

 生意気に振る舞ってくれたら思いっきり嫌えるのに、真面目に勉学ばかり。


 爵位なんかほしくない、勉学がしたいだけだなんて、よくも言えたものだわ。わたくしにはどちらも許されないのに。


 いいえ、いいの。恨んでなんかいないわ。

 こうしているのだって、恨んでいるからじゃないわ。分かっているでしょう。お父様のことは別にしてね。あなたが悪いわけではないもの。かわいそうでかわいいわたくしの異母弟おとうと


 わたくし、あなたの勉学の邪魔をして、ひっかきまわしたり、連れ出したりしているうちに、すっかりあなたが嫌いではなくなったもの。そんなこと、今更言わせないで。知っているでしょう。


 ねえ、明日は試験でしょう。どうするの。

 ええ、そうね。あなたなら、今頃焦って机にかじりつかなくてもいいのでしょう。

 そうよ、わたくしも同じ。直前になって慌てたりしないの。ずっと分かっていた事だもの。

 でもこれで、進級できるか、決まるのでしょう。そしてわたくしは女学校を卒業する。

 分からない?

 あなたは進級するわね。わたくしは卒業するの。

 卒業するのよ。


 夢の時間は終わり。許される時間は終わったの。子供の時間は終わったの。

 稚拙な誤魔化しに、欺きに、いたずらに、もう誰も笑ってはくれないわ。

 山の端に朱が落ちていくわ。明るい時間は去って、人間の時間は終わるのよ。だけど夜になっても、闇は来ないのよ。何も隠してはくれないの。

 雪がとけていく。春が来るわ。そして消えていくの。花は咲き、散っていくわ。夏の日差しがすべてを照らす。極彩色の季節が来る。何もごまかすことが出来ない。暴き出す季節がくるわ。


 このままではいられない。

 いつまでも、遊んではいられないのよ。

 夜になったら目を覚ますの。だって、危険でしょう。

 大人の時間なのだもの。

 容赦ない鬼が、食べに来るのよ。

 ねえ、どうするの。



 ゆらゆらと少女が笑う。

 夕間暮れの紫の部屋の中で、細い指は繊細な音を微かにさせながら、茶器ティーポットからカップへお茶を注いだ。蒸した茶葉の芳香が、部屋の中に広がる。

 揺れる湯気を見ながら、少年はひとつ、息を吐く。



 あなたは卑怯だ。

 いつもそうやって笑いながらぼくに決断を迫る。何も分かってないように見せかけて、本当は全部分かってるんだ。あなたは自分が無知なお嬢様みたいに振る舞うけど、実際はとても賢い人だってぼくは知ってる。意地悪だね。


 最初もそうだった。最後までそうなんだね。

 違うよ、ぼくが甘いんじゃない。鍛えてあげているのだなんて、つまらないことを言わないで。あなたがずるいんだ。それだけだよ。


 だって、もう決まっているのでしょう。

 決めているんじゃない。もう、決まっているんだ。全部自分で決めて、決めてから言うんだ。決めていないことを、口にしたりしないでしょう。

 ぼくはそれを選ぶだけなんだ。あなたの決めている方をね。


 いくつも道があるようで、いつも一つしかないんだ。自分で選んでいるつもりで、あなたの思い通りのものを手に取っているだけなんだ。他を選ぶことなんて、できないんだよ。

 それに、鍛えられたって何の意味もないよ。ここで止まるんだから。


 分かっているよ。分かっていたよ、最初から。

 あなただってそうでしょう。分からないあなたじゃないのだから。

 それでもこれを選んだんだ。


 この屋敷にやってきたあの日、ぼくは伯爵の思惑も全部知っていた。

 母はひっそりとぼくを産んで、ぼくは父親のいない子供だと陰口を叩かれて生きてきた。あの日までね。

 伯爵は随分母のところに来ていなかったのに、突然やってきたと思ったら、ぼくを連れて行くと言って、母は拒んだ。たったひとつのわたしのものを持って行かないでってね。


 ぼくは物じゃないと思ったし、伯爵の思惑もどうでも良かった。あなたの言うとおり、大人達の欺瞞だと思った。

 ぼくたちは何も分かっていないと決めつけて、馬鹿な誤魔化しと押しつけばかり。


 ぼくはただ勉学がしたかった。爵位は別にほしくない。

 だから母さんの身分のことでとやかく言われたって気にならないし、いじめてくるヤツがいたってどうでも良かった。ここでは好きなだけ勉学させてもらえたし、寝る場所にも食べるものにも困らない。だから、この家にやってきたんだ。それだけだった。

 それは本当だし、今も変わらないよ。何故勉学がしたかったかって、それは自分の力で生きていくためだよ。

 だけど、欲しいものは増えてしまったし、順番も入れ替わってしまった。


 あなたの言う通り、ぼくだって、いつまでもこのままでいられるとは思っていないよ。お嬢様と書生にしたって、姉と弟にしたってね。

 あなたは卒業すれば、結婚が決まっている。女学校は、結婚までの時間つぶしだから。

 それもぼくだって、あまり変わりない。


 まわりがぼくらのことを不審に思い始めてる。この間いらした侯爵夫人を見たかい。

 こちらが噂の書生さんですか、って、卑しい目で笑っていた。随分お嬢様と仲がよろしいのね、でもいつも男の方とご一緒だなんて、ねえ……って笑ったんだよ。ぼくの生まれの噂なんて知っているだろうに。

 あなたのことをはしたないと言ったんだよ。


 ぼくらのことに気づいたのかどうかわからないけど、あの人のせいで、まわりの人間が外聞を気にし始めてる。


 だけど、ねえ、ぼくを選んだの。それともただ、この終幕を望んでいただけなの。

 そうやって、いつも笑っているだけなんだね。


 いくら勉学をしてぼくがあがいても、本当に欲しいものは手に入らないんだ。

 伯爵の身分を手に入れたって、勉学をして自分で生きていけるようになったって、どうにもならないんだ。あなたが、伯爵の娘だから。


 あなたの言うように、もう子供の時間は終わりなんだ。斜陽の後には、宵闇に星が散る。時計を止めても、時間は止まらないんだ。もう、遊んでいられない。

 いいよ、そのお茶を頂戴。

 ぼくでいいのなら、あなたのお供をするよ。


 でも、できれば最後に口付けて。

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