氷女物語 -ヒメゴトガタリ-

人生

 ヒメゴトガタリ




 精霊せいれい化生けしょうあやかし――人とは異なるモノ、いわゆる人外の類。

 自然から生じた神秘の存在であるソレらは、人のように善だとか悪だとか、そうした観念とは無縁である。恨みつらみはすれど、善意から人を助けたり、悪意から人を害するようなことはない。救うのも、殺すのも、ただその願いに応えただけなのだ。


 ソレは自然の産物であり、故に己の意思と呼べるようなものは持たない。


 しかし、時に、情を覚え、人を愛するものもある。

 愛は化生を人に変え、人のような情をもたらす。


 ただ、悲しいかな、古今東西、物語の多くに語られるように、その恋は往々にして報われない。


 ――雪の化生、氷の女。所詮は人と愛容れぬもの。その恋もまた然り――


 人魚は泡と消え、鶴は飛び立ち、月の姫が人の世を去ったように。




 ある雪の山で、ひとりの子どもが泣いていた。


 家族との旅行で訪れた山。初めて見る雪景色。興奮し、親の目を離れて飛び出した。

 雪を集めてかまくらをつくり、そのなかで過ごすうちに眠気に誘われたのだ。

 目が覚めた時には外は吹雪にまみれ、足跡もどこかへと消え去っていった。


 視界は白く覆われ、深く積もった雪が幼い歩みを阻む。あてもなく、雪原を進む。


 ごうごうと鳴り響く風の音。心細さに震え、寒さに凍え、次第に空腹が歩もうとする意志をむしばんでいく。


 子どもの身体は既に死を予感していたが、子どもはまだ幼く、「死」というものがなんなのか、その意味を、自分に迫りくるそれの正体に見当もつかない。


 ただ、寒い。ただただ、寂しい。家族に会いたい。恐いとか、独りは嫌だとか、そういう負の情動とは少しだけ異なる、純粋で、前向きな一念だけがそこにあった。


 ――あぁ、愚かな子。浅ましい子。かわいそうな子――無知で、無邪気で、故にどこまでも純粋な幼子おさなご


 ソレは、この吹雪そのものであり、また同時に、子どもの純粋な願いがかたちを成した化生の類であった。


 膝をつき、雪に埋もれつつあった子どもは気付く。一面の白に差す人影。ひとりの女が手を差し伸べる。


 子どもは母が助けに来てくれたのだと思った。その手を取る。ソレの手はどこまでも冷たかったが、子どもはその繋がりに、何よりの温もりを覚えた。


 母ではない――人ではない――女に手を引かれ、雪道を進む。

 不思議と吹雪は苦でなくなり、足を遮る積雪も感じない。


 白い息を吐きながら、女の顔を見上げる。しかし吹雪が視界を覆い、ソレの姿はよく見えなかった。


 やがて、遠くに人の気配を感じた頃――ソレは足を止め、子どもに言った。


 ――私のことは、誰にも言ってはいけないよ。


 言えば全ては幻となるだろう。

 言わなくても、いずれ子どもの記憶からそれは消え去る定めにある。


 熱に浮かされ、朦朧とした意識のなか、子どもはソレの言葉を聞いている。


 全ては幻――熱が見せた幻。


 そうやって、心のうちに仕舞いなさい。


 女は子どもの背を押した。

 遠くで誰かの声がする。吹雪から現れた子どもを、いくつもの光の筋が照らす。


 去り行く姿を見送るソレを、子どもが振り返る――吹雪のなかに、消えていく。


 それはひと時の夢、幻――有りえざる異界の話。誰にも語られず、忘れ去られる定めにある雪日の邂逅。


 しかし、確かにそこにあった――ある種の、まじない。


 子どもがもしも契りを違えれば、ソレは子どもの命を奪い去るだろう。

 たとえ熱にうなされたうわ言であったとしても――それは熱病というかたちをとるかもしれないし、女が手ずから刈り取るかもしれない。

 その命は、本来ならここで潰えるはずだったもの。ひと時、生き永らえただけに過ぎない。

 自然とは気まぐれだ。あるいは、それが摂理というものなのだろう。

 自然によって生かされたならば、その終わりは自然が決めるものなのだ。


 その時に、ソレもまた消え去る定めにある。


 ――けれども。


 子どもの想いから生まれ、ソレはかたちを成したが故に。

 恋焦がれるように、いつかソレは執着する。


 ソレは仏であり、鬼である。

 故に、女というかたちをもった化生の類。




 ――それから十数年の時が流れ、現在。


 一人の少年が夜の公園を走っていた。

 最初はゆっくりと一定のペースを保ちながら、いつしか自らの生命を振り絞るように、極限まで肉体を駆動する。


 何かを追っているのでもなければ、逃げているのでもない。

 ただ、走っている。

 ただ、時が流れるのを待っている。

 しかし黙って立ち止まってはいられず、胸のうちを焦がす情動に突き動かされるまま、際限なく加速し自らの身体を酷使する。


 ――ある女の子に恋をした。

 けれども、その子には他に好きな人がいて。

 だから彼は身を引いたのだ。

 その恋を後押しして。


 自分の気持ちを告げようとは、思わなかった。

 伝えていれば、あるいは――と。やらずに後悔するよりは、と――そういう考えはなかった。

 自分の気持ちで、他人をわずらわせるべきではない。


 幼い日に見た雪景色を思い出す。その白で、頭のなかを、未だくすぶる心の熱を染め上げる。


 自分は何かに助けられた。これは、生かされた命。

 きっと何か、なすべきことがあるのだろう。そのために使うべき己の一生。


 ……自分には使命がある。思春期の青少年なら誰もが抱く、そんな妄想。

 しかし彼は、それを頑なに、信じて疑わなかった。


 だから――我がままを、抱くべきではない。自分の命はただひたすらに、世のため、人のために。


 誰よりも優しく、誰よりも慎ましくあろうと心掛けながら、その心はどこまでも冷徹に――己の意思を許さない。


 この心は一つの氷塊である。


 だから――だから、と。

 走る。疾駆する。

 奔る熱を冷ますため、恋煩いから覚めるため。


 ――あの子はうまくいったらしい。偶然見かけた、楽しそうな横顔。それを素直に喜べない自分ごと、あの白のなかに塗り潰す。


「はあ――はあ……」


 少しずつ、歩調を緩めていく。心臓はとうに悲鳴を上げていた。断末魔の寸前になんとか気持ちにとどめをさした。呼吸を整えながら、汗の滴るに任せて歩く。


 ぶうん、という低い音。頭上の街灯から聞こえてくる。周囲を飛び交う羽虫の群れ。遠く、車道を走る車の音を聞く。街灯の下を離れ、等間隔の闇のなか。少し離れた先にある街灯の下に、自販機が置いてある。


「ふう――」


 自販機の光に誘われて、この時期は羽虫が多くて困る。大きな蛾を見た日には、一瞬で血の気とともに汗が引いた。なるべく見ないようにと視線はおのずと下を向きながら、地面を確かめるように歩を進める。


 重い駆動音が近づいてくる。今日は何を飲もう。上から順に、いろんな飲み物を試している。最近の楽しみといえばそれくらい。夜も遅いし、カフェインのあるものは避けるべきか。それとも朝まで起きていようか――と、


「っ――」


 息が止まったのは、顔を上げた瞬間。ただえさえ事切れそうだった心臓が、本当に死を意識した。


 そこには、白い女が立っていた。


 白い――肌。黒い髪に、ほのかに赤い唇。夜闇に溶けるような青い着物をまとっていて、静かにそこに佇んでいる。


 それは少女のようにも、成人の女性のようにも見える――不思議なひとだった。


 街灯の下、自販機の前。にもかかわらず、一匹の羽虫も飛んでいない。空気が冷たく感じる一方で、頭はどこか熱に浮かされているかのようにぼうっとしている。


 少年は渇いた喉を潤そうと硬い唾を飲み、かすれた声を絞り出す。


「……こんばんは」


 知らない相手だったが、女がこちらを見ていたのだ。目が合ったからには、何か言わなければならないだろう。黒い、深い、光を吸い込むような瞳だった。


「こんばんは」


 女はやんわりと微笑んで、それから、手に持っていたペットボトルを少年に差し出した。


 わずかに結露したそれは、その自販機の商品の一つだ。しかし、商品が落ちる音は聞こえなかった。コインを入れてボタンを押せば、うるさいくらいの音がするのに。


「どうぞ」


 手渡され、素直に受け取る。不思議と抵抗はない。女の言葉に促されるまま、自然と体が動いていた。


「……どうも」


 キャップを開け、飲み干しそうな勢いでボトルを傾ける。渇いた喉に染み入る甘さ――


「たまに、走っていますよね。よく、見かけていたので」


「……そ、そうですか」


 むせそうになりながら少年は答え、


「あなたみたいな人が近くにいたら、気付きそうなものなんですけど」


「それは、どうして?」


「……とても美しいので」


 自分で言ってておかしくなってくる。たぶん、走り疲れたせいだろう。ランナーズハイというやつかもしれない。普段なら隠すような本心をそのまま口にする。しかし少しの照れがあって、だから自然と、不自然な言い回しになってしまった。


「ふふ」


 と、軽やかに彼女は笑った。


「それは、いわゆるナンパというものですか?」


「……忘れてください」


 さすがに恥ずかしくなって、ぶり返してきた熱を冷まそうとボトルをあおった。




 ――初めてのやりとりは、そういう感じ。

 それから何度か、二人は夜に逢瀬を交わした。

 ある日、勇気を出して、彼は彼女を映画に誘った。いわゆるデートというやつになるかもしれないが、そういうつもりはない。ただ、日中に、どこか遊びに行こうという、ただそれだけの感情。

 セレクトしたのは子どもっぽい映画だったかもしれないが、話題性のあるものだし、普通にエンタメとして楽しめるだろう――


 しかし――彼女は、現れるだろうか?


「まさか……来るとは思いませんでした」


「それは、どうして?」


 彼女は夜にだけ現れる夢幻ゆめまぼろしのようなものだと思っていたからだ。

 それほどに彼女は幻想的で、美しく――けれどもそれは、日の下にあっても変わらずそこにあった。


「もしかして、口説いているのですか?」


 人工の照明の下ではない、日差しの中で微笑む彼女。とても活き活きとしていて、確かにそこに在る――


 そのときはじめて――あるいは、改めて。

 明確に、彼は彼女に心を奪われたと、自覚した。




「……雪男ってもっさりしてるイメージが多いけど、雪女といえば、美人な印象ですよね」


「……え?」


「いえ、なんとなく。怪獣を見たから……ちょっと、思っただけです」


 ――それからも、何度か二人はそうして昼間に会い、言葉を交わした。


 良き友人として過ごし、月日が流れた。


 ソレは、自分がまるで最初から人の子であったように錯覚するほど、確かにそこに在る日々を送っていた。


 しかし、いずれ終わりが訪れることも、心のどこかでは悟っている。


 ――今の人の世は、整備されすぎている。


 この世に忽然と現れ、それ以前の背景もない――親もいなければ、戸籍も、経歴もない。その空白は、その事実は、やがて彼に違和感をもたらすだろう。


 たとえば――結婚を届け出ようとした際なんかに。

 夢は疑いを抱けば解けてしまう。幻は現実に飲み込まれる。


 これは、ひと時の夢――夢とはいつか覚めるもの。


 ならばせめて、甘い想い出だけ抱いて――消えましょう。




 少年は青年になって、やがて生まれ育った町を旅立つときがやってきた。


 今更であることを自覚しながら、彼は言う。


「俺と、付き合ってください」


 それは終わりに繋がる言葉。


 当然ソレは、応えられなかった。


 これが潮時、別れの時。しかしソレは――人ならざるものである故に。

 胸に抱いた執着から目を背けることが難しい。

 だから、別れを告げることが出来なかった。


 ただ、黙って、彼が去りゆく時を待つ。


 ――しかしその内心で、願う。


 もう、気付いているのでしょう? ならば、私にそれを問うてはくれませんか。


 ――そうすれば、私は契りを果たして消えるのに。


 誰にもあなたを渡さないのに。


 浅ましく願うそんな彼女を――不意に。


「君に……秘密があるのは分かってる」


 彼の腕がかき抱く。


「だけど、それでもいい。言えないことの一つや二つ、誰にでもあるから。夫婦だって、そうなんだ。うちの親も……へそくりとか、たまの贅沢とか、いろいろお互いに隠してた。それでも――」


 それでも、そばにいられる。だから、


「君に……俺と一緒に、来てほしい……です」


 突然敬語になるのはどうしてだろう。また自分の台詞に恥ずかしくなってしまったのか。


「俺だって、秘密があるよ。……人には言えないことがある。これはたとえば、だけど――俺は実は、女の子の汗のにおいとかに興奮する、変態かもしれない」


「……なんですか、それ」


 思わず、笑みが漏れる。


「いや、あくまで、たとえば、の話。そういう……隠したいことなんて、みんないっぱいあるから。だから」


 頑なだった心が解けそうになる。冷たい氷が溶けだすように、雪がとけ、春が訪れるように。


「君がいたから、俺は今まで生きて来たんだ。だから、これからも――いっしょに、生きてほしい……みたいな、感じ、です」


 こうして逃すまいとするように抱き締めておいて、正式な交際を認めるより先に、プロポーズ。そこまでしながら、まだどこか照れがある。変わらない、昔から。


 ――全てを察していながら、決して語らないその秘密。


 それが、約束だから。


 口にしなければ、言葉に霊は宿らない。

 それが守られるなら、たとえ心が通じていても――通じているからこそ。


「私は、あなたのことを――」




 ――いつか、自分を助けてくれた誰かに、せめて一言お礼を言いたいと思っていた。


 しかしそれは、生涯かなうことはないだろう。


 その機会が訪れるとしたら、きっと今わの際、最期を迎えるその時に。


 愛する人に、口付けるように。



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