待宵月の照らす頃、図書室で。
三木冬親
待宵月の照らす頃、図書室で。
「すみません、これの四巻って貸出中?」
突然降りかかってきた声に、わたしの意識は現実に引き戻された。放課後の図書室で、本の貸出を行うカウンターテーブルの内側に座り、本のページをめくっていたところだった。
顔を上げると、男子生徒がカウンターの外側に立って、わたしを見下ろしていた。
快活そうな、軽くセットされた短髪。部活動に行く前なのか、大きなスポーツバッグを肩に掛けている。
あまり図書室では見かけないタイプなのに、近づいてくるまで気づかなかった。読書に集中しすぎて、図書委員の仕事をおろそかにしていたと反省する。
彼が持っている本のタイトルを目でなぞって、密かに驚く。
「ああ、ありますよ、ここに」
ついさっきまで読んでいた本を閉じて両手で掲げてみせた。途端、彼の表情がパッと綻んだ。
「えっ、俺しか読まないと思ってた」
友だちを見つけたみたいな屈託のない光が瞳にきらめいて、わたしは内心面食らう。
どうぞ、と差し出すが、彼は軽く手を上げて制した。
「いいよ、そっちが先に読んでたんだし」
「借りてもらっていいのに。わたしは図書委員の合間に読んでただけ。借りたい人優先」
「でも、続き気にならない? このシリーズ」
「……うん」
素直に頷くと、彼はからりと笑った。
「だろ? あ、部活始まるな。二組の葉山さんだよね? 読み終わったら教えてよ。それじゃ」
教えてよと言われても――とか、わたしの名前知っていたんだ――とか、戸惑いと驚きで結局何も言えずに彼の背中を見送った。
わたしも一応彼のことは見知っていた。
同じ一年生で、一組の佐村くんだ。
隣のクラスなので、合同授業や廊下で見かけることがあった。彼も同じような理由でなんとなくわたしのことを知っていたのだろう。
佐村くんはサッカー部で、読書家だった。
忙しい部活の合間を縫って、本を借りては読んでいく。
わたしは部活に入っていなくて、放課後は大体図書室に入り浸っているものだから、本の貸し借りのときは度々顔を合わせることになった。
彼はいつも屈託なく本の感想を語っていった。
部活が始まる前の時間を使って本を借りに来るのだけど、部活に遅刻してはいけないため、いつも慌ただしい。本を吟味する間もなかったのか、ある日彼はこういった。
「葉山さんのおすすめの本を教えてよ」
図書委員をコンシェルジュか何かだと思ってるの、“今月のおすすめ”コーナーの本でも借りていけばいいのに、と正直思ったが、「葉山さんのセンスは結構俺に近い気がする」と言われて、わたしも少し嬉しかったのだと思う。結局、わたしの好きな本の中でとりあえず万人受けしそうなものをセレクトして彼に渡したのだった。
佐村くんは、わたしにコンシェルジュとしての信頼を置いてくれたらしい。時間がない時や、特に読みたい本がないときはわたしに頼って本を選ぶことがお約束になった。
「ずいぶん気軽におすすめを聞いてくるけど、誰かのために本を選ぶってけっこう気を遣うんだよ。佐村くんの好みはわからないし、単純にわたしの好きな本を薦めればいいってわけじゃないんだから」
思い切って文句を言ってみたら、
「ごめんって。葉山さんのセンスを信頼してのことだったんだけど。うーん、確かにフェアじゃなかったな」
そういって、彼はカウンターから離れて、しばらくして本を三冊持って戻ってきた。
「これ、俺のお薦め」
フェアってそういうこと。確かに、わたしの知らない素敵な本を彼が教えてくれるのなら平等かもしれない。でも、わたしはその三冊のタイトルを見て思わず吹き出してしまった。
「これ、全部読んだことあるよ。フェアじゃないよ」
「ほら、こうなるだろ」
どこか得意気な佐村くんの態度がおかしかった。
それから、わたしは彼がサッカー部の女子マネージャーと付き合いはじめたことを噂で知った。
彼女ができたのなら、読書なんてしている暇もなくなるかと思ったが、彼のルーティンは変わらないようで、図書室に変わらず通うし、わたしも淡々と図書委員の仕事をこなした。
ある日のこと、いつものように佐村くんが現れた。いや、正確にはいつもと違うところが二つあった。次に借りる本を選ばずに、まっすぐにカウンターにやってきたこと。そしていつもまとっている軽やかな空気が、雨降り前みたいに重くなっていること。
「これ、返却」
すっと滑らせるように差し出された本を机上で受け取る。いつもと違う点をもうひとつ付け加えるならば、距離も違う。彼とカウンターとの距離がいつもより半歩、遠いのだ。わたしは毎日定位置から図書室の風景を見ているから。だからこの違和感はものすごくざらついた。
「ありがとう」次の本、借りないの? そう続けても良かったけれど、言い淀む気配を感じ、言葉を待った。
「しばらく、本読む時間が取れそうになくてさ。大会の予選控えてるから。図書室にも寄れなくなると思う」
一拍、二拍ほど間が空いた後、告げられた言葉に、わたしは少なからず落胆した。
「そう……。忙しくなるんだね」
佐村くんはいつも部活のことを話題にしない。『ここテストに出るぞ』の情報共有、課題の量が尋常じゃない教師への愚痴、一番人気の唐揚げバーガーを購買で初めて買えたとか、そんな他愛のない雑談はしても、まるで避けているかのようにサッカー部の話だけはしない。わたしに話してもしょうがないと思われているのかもしれない。だけど、佐村くんの方から話題に出してくれたおかけで、ひとつ伝えたかったことが言えそうだ。
「佐村くん、レギュラーチームのメンバーに選ばれたって聞いたよ」
佐村くんは驚いたようだった。
「葉山、知ってたの」
うちのサッカー部は、名門校とまではいかないけれど、近隣ではかなり有名な部類だそうだ。運動部の活動に明るくないわたしでさえ活躍が耳に入ってくるほどには生徒たちに注目されていた。
「レギュラーっていったって補欠だよ。試合に出る訳じゃない」
彼にしては珍しい自嘲めいた声色に、わたしは焦った。
「補欠でも、一年生で選ばれるなんてすごいと思う」
「たまたまだよ」
謙遜というより卑屈な口調だった。そんなふうに言わせたかった訳じゃないのに。わたしは若干前のめり気味になりながら言葉を重ねる。
「たまたまで選ばれる訳ないよ! わたし、きっとすごく頑張ったんだなって思った」
思わず語尾に力が入ってしまった。呆気にとられたような佐村くんの顔をみて、やっぱり言わない方が良かったかもと後悔がよぎる。
紛れもなく本心で、ただおめでとうと伝えたかっただけなのだけど、余計なお世話だったかもしれない。小さく付け加える。
「サッカーのことは、詳しくないけど……」
「いや、なんかごめん。……ありがとう」
なぜか謝られた。
「それで、部活はいつぐらいまで忙しいの?」
「――ごめん、マジで当分来られない」
『当分来ない』が『もう来ない』に聞こえた。予選が落ち着いたら、また本を借りに来るのだと当然のように考えていたわたしの心が、小さく軋むのを自覚した。
「そうなんだ……」
佐村くんは決まり悪そうに軽く肩をすくめた。
「――キャプテンと、マネージャーに言われてさ。部活前にバタバタ図書室に寄る暇があるのかって」
今さらそんなこと。佐村くんの図書室通いは今に始まったわけじゃないのに。唐突に合点がいく。サッカー部のマネージャーは数人いるらしいが、誰が彼に苦言を呈したのか。
「マネージャーって付き合ってる彼女のこと?」
つとめて平坦に発したわたしの指摘に、佐村くんはもう驚かなかった。
「それも知ってたんだ。俺、部活に支障出してるつもりはなかったんだけどな。まぁこの時期だし、突かれると痛いとこではある」
「何いってるんだか。佐村くんってば、行間が読めてない」
「えっ、なに」
「本なんか読む暇があるんだったら、彼氏らしくもっと構ってってことでしょ」
あくまで想像だけれど、彼女だって小耳に挟んだ事くらいあるんじゃないだろうか。彼氏が定期的に図書室に通っていて、図書委員となんだか話し込んでるらしいとか。いくら地味な図書委員が相手だって、彼女は嫌だろう。
「なんてね、勝手に想像しただけだよ。わたしが彼女だったらそう思うかもって」
「さすが。優秀なコンシェルジュなだけある」
佐村くんはふっと笑う。微妙なニュアンスすぎて、図星なのか判断がつかない笑みだった。
もうそろそろ時間だろう。もうひとつだけ、ひどく事務的な確認事項があった。
「このあいだ佐村くんが予約した本。昨日返却されたから借りられるけど、どうする?」
「いや、いいよ」
「わかった。キャンセルしておくね。次の予約も入ってるから」
いつでも佐村くんに渡せるように、カウンターの内側に取り置いておいた話題作。わたしは生徒たちの予約と予約の間に読み切っていた。読み始めてから早い段階で、絶対佐村くんも好きな本だと確信し、読み終わってすぐにわたしが彼に勧めたのだ。人気作でなかなか貸出が途切れず、ようやく渡せると思っていたのに、感想が聞けないのは、残念だ。
「葉山は彼氏そっちのけで本ばっか読んでそうだけどな」
キャンセル処理をしかけた手を止めて顔を上げると、佐村くんは「じゃあ」と言って背中を向けて去っていくところだった。
その捨て台詞を胸のうちで咀嚼する。さっきのわたしの発言『わたしが彼女だったら』に対するものだろうか。今思えば、わたし自身が勝手に佐村くんの彼女だったらという想像をしたという文脈になってしまっている気がしてきた。そうじゃない。あくまで一般的な彼女の思考を想像して代弁してみただけだ。
――大体、本ばっか読んでそうって、何。余計なお世話よ、なにがコンシェルジュだ、せっかく本を取り置いてあげたっていうのに。
だんだん腹が立ってきて、わたしはさっさとキャンセル処理を済ませた。
例の話題作も、二ヶ月も経てば予約ラッシュが収まり、校内様々な生徒の手を渡り歩いた末に今は書架に腰を落ち着かせている。
その二ヶ月の間、佐村くんは本当に一度も図書室を訪れることはなかった。
わたしはカウンターテーブルの定位置に座り、電気ポットで淹れた紅茶と、適当に選んだ小説を机に広げて、ページをめくっていた。今、室内にはわたし以外誰もいない。
最終下校時刻の十八時はとうに過ぎており、さっきまで遠くに聞こえていた生徒たちの声も途絶えてしまった。
季節は日に日に秋が深まり、この頃は日の入るにつれひんやりとした空気が足元から立ち上ってくる。放課後の図書室の静けさがしんと身に染みた。
滑るように追っていた文字から目を離し、がらんとした館内の薄闇をぼんやりと見やる。
閉架後の一、二時間、こうして独りで読書に耽るのが、わたしの何よりの休息だった。でも今は、こうして本を開いていても、少しも心の波がおさまらない。自分のためだけに本を読む。簡単にできていたはずのことが、一体どうやっていたのかわからないのだ。もうここは安息地ではなくなってしまった。
いい加減、教師に追い出される頃合いだろうと考えていると、廊下から図書室に近づく足音が耳に届いてきた。広げていた本を片付け、ポットやコップを片付けようと立ち上がったとき、ガラリと図書室の扉が開かれた。
「葉山、まだ残ってたの」
「佐村くん」
心臓が止まるかと思った。
「いや、びっくりした。まさか本当に居るとは思わなかった。毎日図書室遅くまでうっすら電気付いてるなって気になってて。あれ、葉山だったんだ」
「言ったでしょ。入り浸ってるって」
油断していたせいで憮然とした態度になるわたしに構わず、佐村くんはまっすぐこちらに近づいてきた。
カウンターデスクに並んだポットとコップを目に留め、茶化すように言ってくる。
「葉山の城だなぁ」
どうしてそう屈託なく笑えるの。こちらはどういう顔をしていいか分からないのに。
「冷やかしにきたの? あいにくだけど、もう閉めます」
「冷やかしじゃないって。予選が終わってちょっとだけ落ち着いたからさ、久しぶりに本読みたいんだけど、駄目?」
「まあ、すぐ選んでくれるならいいけど。本当は貸出時間外なんだからね」
「やった。じゃ、あの本ある?」
佐村くんは例の話題作のタイトルを口にした。わたしが彼のために予約し、結局キャンセルした本。そんなに読みたかったのなら、あのとき借りてくれれば良かったのにという恨み言を吐きたくなる。
「うん、借りられるよ。今は書架にあるから――案内するね」
スイングドアを手で押してカウンターの外側に出る。錆びた蝶番と木材の軋むギィッという音が、静かな図書室に響いた。
先導するわたしのあとを佐村くんがついてくる。
書架が整然と立ちならぶエリアに入ると、紙の匂いが濃くなる。カウンター周辺以外の照明は落としており、仄暗い。奥に覗いている窓の外では、宵の口の紫紺が刻々と深みを増していた。
わたしは歩きながらそういえば、と口にした。
「サッカー部、県大会出場が決まったんだってね。おめでとう」
「ありがとう。結局、補欠に出番はなかったんだけど、予選、めっちゃいい試合だったんだ」
佐村くんの声にはもう自嘲や卑屈めいた響きはなくてわたしはホッとした。
「サッカー部のこと、気にかけてくれてたんだな。なんか嬉しいな」
「気にかけてたというか……。良いニュースは自然と耳に入ってくるものじゃない」
「そうかなあ。しょうもない噂話とかの方がよっぽど回るのが早いと思うけどな」
「というか、予選が終わったからって、彼女はいいの? 部活終わりに図書室なんて来て」
「ああ、彼女とは別れてるよ」
「ええっ?」
ぎょっとして思わず足を止め、振り返る。まさか、図書室通いのせいで関係が悪くなってしまったとか?
同じく立ち止まった佐村くんはあっけらかんとしたものだった。
「あ、別に揉めたりしてないから。今はキャプテンの彼女だし」
「それ、本当に揉めてないの……?」
なんだ。一瞬でも自分のせいだなんて考えてしまったのが気恥ずかしい。おそらく、別れ話にわたしの存在は一切関係ない。思わず嘆息する。
「色々大変だったみたいだね。まあ、諸々お疲れ様」
「なんか労いが雑じゃない?」
「気のせいだと思う」
「というわけで、諸々落ち着いたからさ、また来てもいい?」
「それはどうぞ。別にわたしに許可とる必要ないよ」
「じゃ、また俺に本を選んでくれる?」
さらりと告げられたオーダーに虚をつかれ、わたしは言葉に詰まった。
佐村くんはまっすぐにわたしを見ている。この薄闇では、表情の機微までは掴めない。
ごく軽く応じれば良いのに、往生際の悪いわたしは、くるりと佐村くんに背を向けた。
「都合がいいんだから。来られなくなったって言ったと思ったら、また選んで欲しいなんて」
「あれ、もしかして葉山怒ってる?」
焦った様子の佐村くんがおかしい。意地悪するつもりはないのだけど、構わず進むことにした。
足の裏がなんだかふわふわする。長年生徒たちに踏みしめられ固くなったタイルカーペットが、急に毛足の長い絨毯になったみたいだ。
やがて窓際に面した書架に辿り着き、足を止めた。
「たしか、このあたり……」
記憶を頼りに、整列している背表紙達を目でさらっていく。
「あった」
程なくして見つけたけれど、わたしの身長ではぎりぎり届かない高さにその本はあった。
「ごめん、佐村くん、自分でとってもらえる?」
「どこ?」
「あそこ、この棚の二段目」
佐村くんの立ち位置のすぐ近くにあるのだけど、すぐには探し当たらない。本の並び順と、本そのものの形で記憶していたわたしと違って、目をこらしてタイトルを読もうとする佐村くんは難航している。
わたしはつま先立ちになりながら、腕をめいっぱい伸ばして指をさす。
「これ、これだよ」
佐村くんが、こちらへ一歩身を寄せる。わたしの指先を追いかけ――「あった!」そして見つけた。本を棚から抜きざま、わたしの方へぱっと振り向く。
今度は佐村くんの表情がはっきりとわかった。
密着しそうなほど、距離が近い。
久し振りに見る、あの友達を見つけたみたいな屈託のない笑顔。その表情に驚きの色が差す移ろいを、克明に読み取れるほどの至近距離。お互い何も言葉はなく、見つめ合う。
本を片手に持ったポーズのままの佐村くんの輪郭を淡白い光が縁取っている。いつの間に月が登ったのだろう。窓から図書室の薄闇へ溶け込んだ月光が、わたしたちの間を静かに揺蕩っていた。
――何か言わなくちゃ。
――何か言ってくれたらいいのに。
我にかえった途端、浮いたままの踵がバランスを失いわたしの体がぐらりと傾ぐ。咄嗟に佐村くんが空いている手を伸ばし、支えてくれた。
「……ごめん、ありがとう」
気恥ずかしく、なんだか居たたまれなくて顔を伏せてしまう。わたしが佐村くんの表情をはっきり読み取れるように、彼だってわたしの顔がよく見えることだろう。そうか。月明かりが想像しているよりも闇夜を照らすのだということを、不意に思い出すのと同時に気がついた。わたしはいつもカウンターの内側で、彼はその外側で、それがわたしの世界との距離だった。外側での出来事はまるで関係がないかのような態度で、ただ訪れるものを待っていた。
ところが今、わたしと彼の間を隔てるものはない。
それにしたって距離が近いけれど――。でも、もしも、もっと近づいたら一体どうなるのだろうか? どこから湧き出てくるのか不思議な感覚が胸のうちを満たしつつあるのを感じる。それはわたしの愛する物語の世界への期待や興奮に勝るとも劣らない、生まれたばかりの好奇心。
「葉山、あのさ……」
観念したように口を開いた佐村くんを遮って、わたしはまっすぐに顔をあげた。
「佐村くん、」
その一歩はわたしが踏み出したい。
待宵月の照らす頃、図書室で。 三木冬親 @avonlea
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