雨の日、不良少年、犬を助ける。よくある話。
人生
私が犬になった夢を見ているのか、犬が私だった夢を見ていたのか。
こんなこと、誰にも言えない。
だって、話したって信じてもらえないだろうから。
でも、日記にするなり、誰かに話して共有するなりしないと、いつか私自身がこの体験を忘れてしまう、信じられなくなってしまう。そんな気がするから、こうして私が経験した、とある一日の出来事を書き記す。
ある日、私は犬になっていた。
……うーん、なんだか怪しい大人の話みたいに思われるから、たぶんこの書き出しは間違い。犬耳とか首輪とかつけて顔を赤らめる女の子を想像されると私が恥ずかしいし、いやこれはあの時の感覚を忘れないためにですね、とかなんとかとっさに言い訳を考えちゃって、まるでそれが私の願望であるかのように思えちゃうのも死にたくなる。
……こほん。
では、改めて――それは、ある雨の日のことです。
気が付いた時、私は雨に打たれて震えていた。
目の前には、見知らぬ――いや、しばらくするとそこがよく見知った、通学路の途中にある河川敷であることが分かってくる。連日続いていた雨のせいか水嵩が増していて、流れが激しい。動物園で大人しそうなライオンを見た後に、草食動物を集団で狩る映像を目撃してしまったかのようなギャップ感。
夏場、涼むために靴を脱いで足をつけていたあの憩いの場が、子どもくらい簡単に丸飲みにしてしまいそうなほどに狂暴な様相を呈している――川を見てこんなにも恐いと感じるなんて、これまで思いもしなかった。
私は、風雨に打たれぼろぼろになった段ボール箱のなかから、その光景を眺めていた――箱のふちに手をかけ、身を乗り出し、外に出ようとしたところにそれを目撃してしまって硬直したかのような――そんな格好。そんな心の動きを覚えている。
そうだ、私は――棄てられたのだ――誰に?
……棄てられた?
不思議な感覚だ。自分の受けた仕打ちをそうやって言語化できるのに、振り返ってみた時に蘇る心の動きとのあいだにどうにも違和感がある。
優しく抱かれて、車に乗って――箱の中に入れられた。マテ、そんな声がした。許しが出るのを待っていた――暗闇のなかで。しかし、いつまで経っても声は聞こえない――
そう、棄てられた自覚がなかったのだ。今の今まで、それを「ペットを棄てる」行為だと認識していなかった。
棄てられるという体験だと、理解していなかった。
それなのに、急に自分の立場が理解できた。
そして、それがおかしいことにも薄々感づいている。
……どゆこと?
私には名前がある。えっと――そうだ、
……女の子なのだけど、何か、こう、変だ。
脚のあいだというか――いやいや、もっと全体的に、何かがおかしい――
前足に力を込める。箱が傾き、私はそこから転がり出した。
私は、犬なっていた。
――雨の中を歩いていたようだ。
雑踏を、車道を。お家を目指して歩いていたようだった。
その途中に――あれは、たぶん、私の傘だ。私の傘が、投げ出されていた。
私が倒れている。私が私を見ている――私は私の顔を見つめる。とてつもない恐怖が色濃く記憶されている。
お家に帰りたいけど、それはいけないことなのだと思った。
マテ、と言われた。だから、待っていなければならない。言われたことを守らなかったから、こんな恐い思いをしたのだ。
帰ろう、元に場所に戻ろう――痛む脚を引きずって、雨の中を歩いて行く――私は私が遠ざかる光景を見つめている――――
気が付いた時、泥だらけでずぶ濡れの私は、あの箱の中でないていたのだ。
横に倒れたことで雨をしのげるようになった箱に隠れ、帰って来るのを待っていた。
脚が痛い――寒い。苦しい。お腹が空いた。
私は――――私は、ただ声をあげることしか出来ない、ただの子犬だった。
夢を見ているのだろうか?
意識がぼんやりとしている。
雨に打たれて鳴いている子犬――に、なった私。そんな夢。私は夢のなかで、犬の記憶を垣間見ている。それを我がことのように感じる一方でどこか客観的に、この犬は棄てられたのだな、とか、事故に遭ったのだな、とか。そんなことを考えている。
人間の私が出てきて、車道を歩く犬を助けようとしていた。そんな私を、犬を、もっと客観的に、まるで幽霊にでもなかったかのように、空からその光景を見守っていた。
不思議な夢だな、と思った。
――本当に?
もしかすると、私はもともと犬だったのかもしれない。人間になった夢を、見ていたのかもしれない。人間だった、なんて、そんなことを思い込んでしまった、おばかなワンちゃんなのかも。
そういう話を聞いたことがある。蝶になった夢を見たのか、蝶が私の夢を見ているのか――
「お前、ケガしてるのか」
気付いた時、私は宙に浮いていた。
脇の下に手を突っ込まれて、中空に持ち上げられているのだ。
わあ、なんだこいつ、巨人か? ――目の前にいる人間を見て、私はまだ混乱している。
私はそいつを知っていた。同じクラスの――ちょっと、ガラの悪いというか、近寄りがたい感じの、目つきの悪い男の子。いわゆる不良なんだけど、雨の日に濡れた子犬とか拾ってそうだよね、とか、そんな感じのことを友達と話した覚えがある。
……まさに今、その状況。
やっぱりこれ、夢なのかも。
「……どうしたらいいんだ。救急車呼ぶか……?」
遠く、サイレンの音が聞こえていた。彼は私を抱えたまま、そちらの方角に顔を向けている。傘は肩と首のあいだに挟むようにして持っていて、ぱらぱらという雨音が頭上で鳴っている。
「……動物病院……」
つぶやきながらスマホを取り出そうとして、両手で抱えた私を見て、いったん私を段ボール箱のなかに戻した。スマホを手に、何かを調べている。
「金……、まあ、なんとかなるか」
ずっとひとりでぶつぶつとつぶやいている――かと思えば、傘を畳んで地面に置き、箱ごと私を抱え上げる。蓋を閉められ、視界が薄暗くなった。
箱が揺れている。脚に激しい痛みが走る。声が漏れると、揺れが止まった。まるでエレベーターにでも載っているかのように、地面は動いていないのに、確実に空間を移動している感覚が続く。
次に光が戻った時、私は嫌なにおいのする建物の中にいた。
わんわんぎゃんぎゃん、騒がしい声が雨音をかき消していた。
「あの――怪我、してる……みたいで」
彼の声が聞こえ、まばたきながら私はそちらを見上げる。ぐっしょりと濡れた前髪が顔に張り付いていた。
――そうして、私はその人に助けられた。
……いや、まあ、正確には、助けてくれたのは獣医さんなんだけども。
それからの私がどうなったのか、私にはまだ分からない。
というのも、次に気が付いた時――麻酔か何かを打たれて意識がもうろうとし、手術台の上で眠りについた後――
私は、ベッドの上にいた。
見慣れない天井を見上げて、仰向けに横たわっていたのだ。
そこは病院で、カーテンに覆われたむこう側に多くの人間が息づいている、そんな気配を感じた。
甲高い悲鳴が上がる。何かと思えば、人間の女性が私を見て目に涙を浮かべていた。私のことを抱きしめようとして思いとどまり、慌てて枕元にあった何かのスイッチに手を伸ばした。ボタンを押しながら私に何かまくしたて、それからカーテンの向こうへと駆け出して行った。そのあいだもずっと何か声を上げていた。しばらくして、白い人たちが――お医者さんがやってきて、軽い検査を受けたのだ。
ここは人間の病院で、私は怪我をしてそこに運ばれて来たのだと――だいぶ遅れて理解した。
正直、全然実感が湧かなかった。まるで他人事のように感じられ――母いわく、ぼんやりしていた、頭を打ったせいだ、とのこと――まさに「上の空」という言葉がぴったりの心境。
起きながら夢を見ているような、夢の中で目を覚ましているかのような――
検査やら何やらを受けて、二、三日入院して、そのあいだに先生とか学校の友達が来て、それからやっと退院。うちに帰ってようやく自分のベッドで眠りにつくという段になって――そのあたりで、あぁ、私、事故に遭って入院してたんだな、という実感が湧いてきたのである。
そして、不思議な夢を見ていたことを思い出したのだ。
ふって湧いたように――助けられた記憶が蘇ってきたのである。
記憶というより、映像だろうか。あるいはにおいみたいなものかもしれない。一瞬それを感じたかと思えば、すぐに消え去ってしまいそうになる――本当に、夢のようとしか言いようのない記憶。
だけど、一つだけ、しっかりと覚えていることがある。
その人の名前を思い出す。それまでの私とは、縁もゆかりもない――ひとりの男の子のことを。
……明日、学校で顔を合わせるだろう。ふとその事実に気付くと、なんだかそわそわしてきて急に眼が冴えてきた。
眠れない――眠っていない。起きているのに夢心地。何を考えているのだろう、馬鹿みたい。でも実際、私は抱きあげられたことを覚えている――
冷静になってみれば、彼にとって私はただのクラスメイトの一人。たぶん名前も知られていない――まったくの、赤の他人なのだと分かるのだけど。
どうにも他人とは思えない私はたぶん、顔を合わせるなり声をかけてしまうのだろう――
尻尾があったらぶんぶん振り回しながら、駆け寄って「おはよう」と声をかける。
誰だお前、とか、急になんだこいつ、みたいな表情をされているのを理解しながらも私は続けてこんなことを口走る。
でも途中で我に返って――
「私、あの時あなたに助けてもらった犬です――……みたいな」
雨の日、不良少年、犬を助ける。よくある話。 人生 @hitoiki
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