第3話 治って、それから

 あれからまた数日後。ノドカの体調もほぼ完全に復活し、元気に登校できるようになった。

 レンとノドカの家は近く、学校も同じであるため、一緒に通学することもそれなりにある。そして今日はタイミングが合い、ノドカの家の前で落ち合った二人は一緒に登校となった。


「おはよー。……この前は看病、ありがとね」

 彼女自身、思うところがないわけではないのだが、特になにも気にしていないように振る舞っていた。


 一方でレンはというと、どうやらノドカに渡すものがあるらしい。鞄の中からビニール袋を取り出すと、さらにその中の物を取り出し、彼女に手渡す。

「え、わたしに……? これ、なに?」

 それは金属製で少し大きめの、イルカの形をしたキーホルダーだった。この数日間のうちに購入したもののようで、そしてノドカが触ることを想定したのか、キーホルダーからは包装が外されていた。

「かわいい……。イルカ、のキーホルダー? ……18.2」

 早速それを指で撫でて、その温度を口にした。二回、三回とキーホルダーを指で撫でるノドカだったが、急にハッとして少し眉をひそめる。


「あ……、うぅ。せっかくで悪いけど、キーホルダーはあんまり……、かな。バッグの外に付けてると、陽に当たっちゃうでしょ? それだと温度が上がっちゃうし……。」

 キーホルダーが好かない理由については、先日の看病の際にも言っていた。しかも理由はそれだけではないらしく、さらに言葉を続ける。

「あとはバッグの中に入れるとしても……、落とすのが怖くて鍵に付けたくないの」

 キーホルダーとはその名の通り、鍵を保管するためのアイテムである。アクセサリーとして使うことが一般的になっている昨今では、前述のようにバッグなど別の物に付ける使い道もあるのだが、やはり「使う」としたら鍵に付けることになるだろう。だがキーホルダーを出し入れするとなると、鍵も出し入れすることになってしまう。そうなると落としやすくなる訳で……。

 要するに効果が見込めないか、無視できないリスクがあるということらしい。しかしレンはそのあたりのことを想定済であった。なので彼女に簡単な解決策を伝える。


「……え? キーホルダーだけを、バッグの中に?」

 バッグの外に付けず、鍵にも付けない使い方。そう、単純に「キーホルダーを単体でバッグの中に入れればいい」のだ。しかもキーホルダーは留め具が存在するので、例えば留め具はバッグの紐に着けて、キーホルダー自体はバッグの中に入れておく。そうすれば前述の問題を二つとも解決できるうえに、落としてしまうリスクまで減らすことができる。


「そっか……、そっか。なーんだ、こんなに簡単なことだったんだ……」

 そういったレンの提案を聞き、ノドカはひとり呟くように感心した。キーホルダーはアクセサリーとして、なにかに付けなければならない。そういう固定概念があったのだが、レンはそれを打ち破ってくれたのだ。

「じゃあ、これ。ホントに……、貰っていいの」

 もちろん彼は承諾する。それを聞いて喜んだノドカは、正式にイルカのキーホルダーを受け入れることにしたようで、自身の体温が移らない程度に何度も指で撫でる。

「ふふ、18.5……。うれしい」


 そんなノドカを尻目に、レンはビニール袋からもう一個のあるものを取り出す。それはノドカの物と同じ製品である、イルカのキーホルダー。

「あ、キミの分のキーホルダーもあるんだ。……え、じゃあ、おそろい?」

 実はレンはもともと薄っすらとキーホルダーを買おうと考えており、いざ行ってみた売り場で金属製だったイルカのキーホルダーを見つけたのだ。そして普段からナイフを持ち歩いているであろうノドカのことを気にかけて、そのキーホルダーがそこまで高価ではないということもあり、彼女の分も含めて二個買った、という訳である。

「でも……。前聞いたけど、キミは温度が分かるわけじゃないよね? なんでわたしと同じのを?」

 確かに彼女が言うように、レンは具体的な温度が分かるわけではなかった。しかしそれでも、金属と肌の温度の違いは触ることでひんやりと感じることができる。レンとしてはキーホルダーにそこまでこだわりを持っていなかったので、それだけでも金属製の物を買う理由になりえたのだ。


「触ると『ひんやり』するから? ……ひんやり」

 ノドカはレンの言葉を聞き、温度が分からないほうの「普通の左手」でキーホルダーを包み込む。そして黙り込み、金属の温度を感じ取ろうと左手に気を向ける。

「………………」

 なるべく右手で触れないよう、しかし温度が移りすぎてしまわないよう、左の手のひらにキーホルダーを置くように持ち、指を開いては閉じ、開いては閉じ、を繰り返す。

「うん。ひんやり、する……。……これが、キミの感覚」

 それは彼女が、右手で具体的な温度を感じ取れるようになってからは蔑ろにしていた、曖昧な感覚。数字なんてものを知る前は同じように感じていたそれを、昔を思い返すように。「ひんやり」に没頭するノドカだった。


 だが……。没頭し過ぎるあまり、気がつけば危ない時間となっていた。なにが危ないかというと、そろそろ始業の時間になりつつある。要するに「遅刻」の危機であった。

「……あ、あんまりのんびりしてると遅れちゃう。行こっ」

 二人は慌てながら、学校へ急ぐのであった。


 ………………。



 時は進み、その日の夜。ノドカは自分の部屋で窓を開けたまま、外を見てイルカのキーホルダーを左手で触っていた。

「左手で……、ひんやりする……」


 ノドカの指先の感覚は、他の誰も持ち合わせていない個性的なものであり、言い換えればそれは孤独なものであった。

 彼女はその能力に気づいてから今まで、温度について他人と共有したことがなかった。ノドカが生まれた時にはとっくに温度計が存在しており、また日常的に具体的な温度を知りたい場面というものは存外少ないものである。

 例えばその日の気温。35度や40度など極度の高温や、0度を下回るなど極度の低温時は情報としてあると便利だが、無くても「暑い」「寒い」という言葉があるので大多数の人間にとっては不要である。

 例えば風呂の温度。現在は風呂釜の温度を設定すると「追い炊き」などで調整してくれるので、一般人からすればそもそも測ることはない。

 例えば料理の温度。こちらは冷やす場合、冷蔵庫や冷凍庫に入れてからの時間を測ることが多い。また逆に温める場合は、人肌よりも高温になることが普通であり、その場合はむしろ指で触れないほうがいい。

 ……このようにノドカの能力は役に立つ場面が少なく、具体的な温度を測って他者と共有する場面などなかったのだ。


 しかし今は、レンと同じキーホルダーを通じて「ひんやり」という感覚を共有できている。

「ひんやりする、ってことは……」

 左手でキーホルダーを握りしめ、夜空に浮かぶ月を見ながら、ノドカは呟く。

「こうしてれば、おんなじものを感じられてるのかな。……えへへ」

 彼のことを思い、笑みを浮かべながら。


「おんなじ……。……あ、そうだ」

 そうしてゆったりとした時間を過ごしていたノドカだったが、あることを思いついた。それは……。



 ディスプレイには「秋崎ノドカ」の文字。レンの持つ携帯電話に、彼女から着信が来ていた。こんな夜にいったいどんな用だろうかと思いつつも、レンは電話に出る。


『――急にごめんね。今、だいじょぶ?』

 しくもノドカと同様に、レンも夜空の月を見ていた。夜も遅くに着きを眺めるなど、天体観察でもなければする必要性がない。言ってしまえば彼は暇だったので、話ができない理由もなかった。


『今朝の、キーホルダー。お礼ちゃんと言ってなかった気がするから。……ありがとね』

 電話口から聞こえる、彼女の感謝の言葉。それを聞けてレンはうれしい気持ちになったものの、わざわざお礼の言葉を言うためだけに電話したことに疑問を抱き、質問することにした。

『え? それだけ、って? ……うん、あのね。今、キーホルダー持ってる?』

 レンはキーホルダーを持っているわけではなかったが、すぐに手の届く範囲に置いていた。なので手に取り、すぐにそれをノドカに報告する。

『うん。じゃあそれ今、ひんやりしてる?』

 夜の風は涼しく、時にはそれを超えて冷たくなるもの。レンのキーホルダーもそれに触れており、当然「ひんやり」していた。そしてそのことを聞いたノドカは言う。

『……ふふ、そっか。そのキーホルダーなんだけど、教えてあげる。今、10.3。……度、だよ』

 彼女が口にした数字は、キーホルダーの温度らしい。同じものを触り、同じように感じている。そしてそれは具体的にどういったものか。それをノドカは伝えたのであった。


『……これでおそろいで、おそろいで、おそろいだね』

 「おそろいのキーホルダー」で、「おそろいのひんやり」で、おそらく「具体的な温度もおそろい」。彼女からすれば三つも共有できるものがあるという意味だったのだが……、しかし、言葉の上ではどれもただの「おそろい」でしかなかった。そのおかしさに、思わずレンは笑ってしまう。

『むー、なんでそんなに笑うの。そんなにヘンなこと言った?』

 当人としてはいたってマジメに言ったことのようなので、笑ったレンに対して少し「むっ」としている様子だった。

『でもわたし、本当にうれしいの。こんなに一緒の、おそろいのものがあって。今までおそろいなんて、なにもなかったから』

 ノドカの口調はしみじみとしたもので、心から発しているような、気持ちがよく伝わってくるような言葉だった。レンはそれを聞いてつい感傷に浸り、黙ってしまう。そして、相手が黙っている様子を感じ取ったノドカも黙ってしまった。


 ……。


 しばしの沈黙の後、ノドカがふと口を開く。

『ん……、そういえば、このキーホルダーっていくらしたの?』

 質問の内容に不自然な部分はないのだが、何故急に聞いてくるのかが分からなかったレンは「なんで?」と言う。

『なんでって、一方的に貰うだけはちょっと、申し訳ないっていうか。なにかお礼を、って』

 おそらくキーホルダーの値段を聞き、その額以上のお礼をしたいと考えたのだろう。しかしレンとしてはお礼が欲しくてやったことではなく、またキーホルダーもそこまで大した値段ではないことから、そのお礼をやんわりと拒否した。

『お礼なんていらない? 言葉で充分? えー……』

 すこし沈んだような声色になるノドカ。だが良いことを思いついたのか、すぐに声の雰囲気が元に戻る。


『あ、なら、そうだ。えっとね、最初に言った「ありがと」、取り消す』

 雰囲気が戻ったかと思えばなんと、ノドカは通話の最初に言った言葉、言うなればきっかけである感謝の言葉を取り消すと言い出した。

『だから代わりにお礼が必要になるんだけど、なにか欲しい物とかない?』

 レンは「言葉で充分」と言ったのだが、もしその言葉がなかったことになるのであれば。それならお礼をする理由をつくることができる。……どうやらそのように考えたようだ。実に彼女らしい、苦肉の策であった。

 もちろん言葉を取り消すことなどできないので、そう言いながら拒否すればいいのだが、そうしたからといって彼女が諦めるとは思えない。ゆえに彼女が満足できる程度に欲しいものを言えばいいのだが……、レンは手ごろな欲しい物が思いつかなかった。

『じゃ、じゃあ。なにか食べたいものとか』

 電話口で困っている気配が伝わったのか、ノドカは内容の具体性を上げてきた。レンは、食べることは特段嫌いではなかったが、急に言われても食べたいものは浮かんでこない。

『特にない……? あ、それなら甘いものとか、なんか。……ほ、ほら。今度の土曜とか、どっか行けたらな、なんて』

 内容がどんどん具体的になっていくノドカの提案を聞いたレンは、実は彼女が行きたい場所があるのではないかと考えた。

『わ、わたしが行きたいだけだろって……、ち、ち、……チガウヨ?』

 明らかに「チガウヨ?」の声の調子が、いつも通りのそれではない。おそらく図星だったのだろう。だがレンとしてはその誘いを断る理由もなかったので、それに乗ることにした。

『え……、い、いいの? ホントに……? あ、ありが……』

 レンの返答を聞いて、つい感謝の言葉を口にしようとしたノドカだったが、ここで言ってしまっては先ほど取り消した意味がないと、慌てて途中でやめる。

『――じゃない。えっとね、じゃあ、この前駅前にできた……』


 ………………。



「――じゃ、じゃあ。今度の土曜日、ね。それじゃ……っ!」

 いろいろ話して具体的な約束を取り付けることができたノドカは、電話を切った。


「……うー、バレなかったかな」

 ノドカが心配したのは、彼女の本意について。

 レンから土曜日の行き先について「お前が行きたいだけだろ」と言われた時、彼女は動揺していた。だが別に彼女自身、行きたい場所があった訳ではない。肝心だったのは、場所ではなく人のほう。つまり、レンと行くことそのものが目的だったからである。それは何故かと言えば……。



 ノドカは、ひとまず気を落ち着かせようと深呼吸。しかしそれだけでは落ち着きが足りなかったので、ナイフを触……ろうとしたが、咄嗟にイルカのキーホルダーを触るように気持ちを切り替える。

「9.9……。10.3……」

 次第に落ち着いてきたノドカは、キーホルダーを左手に持ち直した。

「……ふふ。ひんやり、する」


 この感覚は、レンがくれたもの。彼と同じように感じることができていると考えるだけで、ノドカは満たされた気持ちになる。

 ――彼女の指先はもう、孤独なものではなくなったのだ。


 ノドカはふと夜空を見上げ、独り言を呟く。

「はー……。月、綺麗だなぁ……」

 どういう訳かその月は、彼女の目にはとても美しく映るのだった。



おしまい

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カノジョの孤独な指先 ぐぅ先 @GooSakiSP

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