第2話 看病する
ノドカが看病に出向いてから三日後の、午前十時ごろ。この日は世間一般で言う休日だったが、彼女は自分の部屋で苦しそうにしていた。
「はぁ……、はぁ……」
なんと彼女に、レンの風邪が移ってしまったのだ。とはいえそれも無理のない話で、何故なら風邪のウイルスが付着した彼の唾液を、ノドカは思いっきり舐めてしまったのだ。むしろ感染しないほうが不思議というものである。
「ふぅ……、はぁ……。――ごほっ!」
どうにか目を閉じて眠ろうとするが、体温の上昇と咳に邪魔されてどうにもならない様子であった。
「わかんない……」
しかし、本人が気にしていたのは眠れないということではない。ノドカは無意識的に右手を強く握りしめており、「人差し指が手のひらに触れている」状態だった。その状態で「わかんない」と言ったのだ。
また、続いて右手で自分のおでこに触れる。さらには、口の中に人差し指を突っ込む。しかしそれでも……。
「あぅ、わかんない……、わかんないよぉ……」
そしてそんなところにたった今、レンがやって来ていた。二人の家は近く、要するに幼馴染だったのだ。彼はここに来るのが初めてという訳ではないが、異性として意識している状態で来るのは初めてであった。なので最初は入るのを遠慮していたのだが、数日前に自分が看病してもらった手前、なにもせずにはいられなかったという訳である。
部屋に入ったレンがノドカに近づいたところで、彼女は薄く目を開けていたらしく、彼の存在に気づいた。
「……あ、れ? キミ、来てくれたの……?」
ゆっくりと起き上がり、レンのほうを見つめる。そんな彼女の顔は赤くなっており、一目見るだけで体温が高くなっていることが分かるほどだった。
「ね……、わかんないの。わたし、わかんなくなっちゃったの……。数字……、温度……」
か細い声で、弱弱しくもどこか
……。
数秒の長い沈黙の後、痺れを切らしたのか、ノドカが口を閉じた後に言う。
「わたしの、体温……。触って、確かめてほしい……」
ノドカは、口の中で正確な体温を測らなければならないということ、いつもなら自分の指でやるが今はできないということ、代わりにそれをレンの指でやってほしいということを、まとめて無意識的に考えていた。それらを総合して要するに、「口を開けるから触って温度を確かめてほしい」という意味の行動だったのだ。
そしてレンはどうにかその意図を汲み取ることができたのだが、そもそも彼はそんな能力を持ち合わせていない。しかもそのことは以前彼女に説明済みなはずで、それを覚えていないのだとしたら、今のノドカは正常な判断ができていないのだろう。また、仮にレンにその能力があったとしても、衛生的に――という建前で、女の子に対してそんなことをする訳にはいかない、という考えから――やめたほうがいいだろうと思っていた。それにまたあの時のような間接キスが発生しては、レンの精神のほうが持たないとも思っていた。
ゆえに、口の中を触らせるのは良くないという旨をノドカに伝える。
「……あ、そっか……。指と口は、だめだったね……、うん」
ノドカはすんなりそれを受け入れ、身体を後ろに引いた。加えて、彼女は以前の間接キスのことを思い出したのか、同時に少しだけレンから目を逸らした。
「う……。でも、どうしよ……、体温は口の中じゃないと……」
彼女は風邪のせいであまり頭が回っていないようで、「体温測定=口の中」という固定概念が生まれていた。今の彼女には、考え直すという簡単な行動すら難しかったようで、他の固定概念をもとに最短距離で答えを導き出すことしかできない。
「じゃあ……、そうだ。ねぇ、おねがい。もっとちかくに……」
ノドカは頭の中にある固定概念を集めて、ひとつの結論に至ったらしい。レンに近づいてほしいと言ってきた。レンは今回の発言の意図を掴めなかったが、とりあえずレンは彼女に近寄ることにした。
……今、ノドカとレンの距離は五十センチメートルほど。
「もう、ちょっと」
それでもまだ近づいてほしいとねだるノドカ。不審に思うも、特に従わない理由も無いのでレンは近づく。
「……もっと」
そして、二人の距離は三十センチもないくらいまで近づいた。
いくらなんでも近すぎる。そう考えたレンは、何故こんなことをしようとしたのか聞こうとした。何故こんなに近づかなければいけないのか、と……、レンが口を開こうとしたその時。
――レンの口の中に、わずかに甘味を感じるなにかが飛びこんできた。
「ん……っ! ……っ」
なんとノドカはわずかに開いたレンの口の中に、ねじ込むように舌を入れていた。
人間の舌と舌が口の中で絡み合う。そう、いわゆる「ディープキス」の形となったのだ。
ノドカは、体温は口の中で測るもの、口の中に指を入れてはいけない、体温を測るためにレンと自分の体温を比べたい。この三つを同時に考えた結果、そこに行き着いてしまった。今まで彼女は何度か突拍子もないことをしてきたが、まさかこんなことになるとはレンも一切想像しておらず……、完全にその思考を止めていた。
「……っ、……んっ」
ただひたすらに、レンの口の中を舌で触れる。彼女にとってはそれでなにをどう感じるか、自分の感覚を確認する作業に過ぎない。なのである程度レンの口内を舐め回したと思うと……、何事もなかったかのように身体を後ろに引き、ベッドに仰向けで倒れ込んで呟いた。
「……はぁ、はぁ、……わかんない。どーして……?」
彼女はどこか虚ろな目をしており、まるでレンのことが見えていないような調子だった。
一方のレンというと、一方的にされるがままだったこともあり、未だ硬直していた。あまりにも突然なことで一瞬夢かとも思っていたが、あんな濃厚な感触が夢であるはずがないとも思っていた。
もしこれが仮に「段階を踏んだうえ」で行われていた行為であれば、そうはなっていなかっただろう。しかし唐突だったことで心の準備をしておらず、その行為に熱中することはなかった。だからこそ逆に、すぐにレンは冷静に落ち着きを取り戻していた。だからこそ……、そのことに気づくことができたのだ。
なんの気もなくレンがノドカの部屋の机の上を見ると、病院で貰ったと思われる薬の袋があった。もしかしたらと思った彼がその袋の中を見ると、錠剤タイプの薬が入っていたのだが、なんと「薬が一錠も減っていなかった」。おそらく薬を貰ったはいいが、まだ服用していなかったのだろう。それなら症状が落ち着くはずもなく、あの暴走っぷりも頷けるというものだった。
ノドカがまたとんでもない行動をしてしまい、ケガにでも繋がったら危ないと考えたレンは、薬を飲ませようと考えて一度部屋から出ることにした。この部屋には水もなにも無いからである。
………………。
少し時間が経った後、レンはコップと水が入った麦茶ポットを持って、ノドカの部屋に戻ってきた。ベッドの横にちょうどいい台があったので、そこに水と薬を置く。
「……うぅ、わかんない……、どうしよ……」
ノドカは薄く目を開けて天井を見ながら、うわごとのように呟いていた。しかしレンが水を置いた物音を聞き、首を少し傾ける。そこでレンはノドカに薬を飲むよう勧めた。
「え……? あ、くすり、のむ……。うん」
レンは水を注ぎ、すぐ飲めるように薬を一錠だけ取り出して渡す。ゆっくりと上半身を起こしたノドカはそれを口に入れ、少しずつ水を飲み、そしてゆっくりと枕に頭を預ける。特に問題なく、薬を飲むことができたようだった。
これで一安心と思ったレンは、ノドカから視線を外して時計を見る。いつの間にか結構な時間が経っており、もうちょっと様子を見たら帰ろうと思うのだった。
「……ありがと」
そこで、視界の外からノドカの小さな声が聞こえてきた。彼女のほうへ視線を戻すと、もう眠っているように見えた。あくまで目を閉じて呼吸をしているだけだが、もしかしたら彼女は寝つけずに疲労が溜まっていたのかもしれない。
もう少しここに居ようかと思っていたレンだったが、こうなってしまったら邪魔しないほうが良さそうだと思い、なるべく物音を立てないように部屋から出ることにした。
■
その日の午後、昼過ぎのこと。自宅でごろごろしていたレンの携帯電話に、ノドカからただ一言「うちにきて」と文字での連絡が来ていた。特に予定もなかったレンは、彼女の体調が気になっていたのもあり、再度部屋へ向かうことにした。
………………。
……。
「……来てくれて、ありがと。……ごほっ、ごほっ」
ノドカの部屋に行くと、ベッドの上で身体を起こした彼女がいた。その顔色は午前中のそれとは異なり、ほとんどいつもと変わらない様子だった。咳は少し出ているようだが、もう体調は落ち着いてきたらしい。
「ちょっと……、気になることがあって。キミって今日、ここに来てくれてた?」
どうやらあの時は頭がボーッとしていたためか、レンが部屋に来ていたことをはっきりと覚えていないようだった。レンは答えようとしたが、その前にノドカが言葉を続ける。
「キミが看病に来てくれた夢を見た、と思うんだけど……、どうなんだろうって。なんだか、すごいことが起きてたような気がして。でも、なんかリアリティがすごくて」
そう言いながらノドカは、分かりやすいくらいに顔を赤らめる。これは体温の上昇ではなく、照れから来るものと思われた。「すごいこと」というと、それはおそらく……。
「ごほんっ。……そ、その、夢の中身は、い、言えないけどっ」
それはおそらく……、具体的に表すなら「ディープキス」の件についてだろう。情緒もへったくれもなかったということもそうだが、なにより、異性とそんなことをしてしまったこと自体を認めたくないようだった。
もしかしたら、ここで本当に起きていたことを伝えれば、「進展」するのかもしれない。しかし、それはなんというか……。
いろいろ考えたレンは、来ていないと伝えることにした。
「……そっか。よ、よかった」
ホッと胸をなでおろすノドカ。しかしこの場の空気は少し気まずく、ぎこちないような雰囲気となっていた。
場の流れを変えるため、ノドカが口を開く。
「ね、そこのナイフ取って」
それは彼女の机の上にある、折り畳みナイフのこと。彼女にとって思い入れのある物のようだが、ケガのリスクがある危ない物でもあるので、レンは何故必要かということを聞くことにした。
「なんでって、触ってて落ち着くから。……ね」
思うところはあるものの、レンはナイフを取りに行き、ノドカに渡した。
「……ありがと」
そしてノドカは感謝の言葉を伝えながら、ナイフを軽く振って刃を出し、右手人差し指で金属を撫でる。
「……16、17? くらい……。ちょっとだけ分かるかも」
続いてノドカは、右手を握りしめる。すると彼女の人差し指は、手のひらに当たる形となる。
「こうすると37、38くらい……。これが、けっこう違いがあって、好きなの」
人間の体温はだいたい36度くらいで、金属は熱が伝わりやすいという性質上、気温・室温とほぼ同じくらいの温度になる。気温が36度近くになるのは夏場の昼間の屋外くらいなので、だいたいの場合は金属のほうが温度が低く、触るとひんやりするものである。
そのひんやりする感覚が具体的な値の変化という形で伝わり、それが彼女にとっては面白いものであるので、好きだと言っているらしい。しかしレンはその話を聞く限り、ナイフである必要はないように思った。
「え、金属ならなんでもいいんじゃないかって? うーん、そうかも。そうかもだけど……」
やや否定的に考え込むノドカ。どうやら過去にいろいろ試したことがあるらしい。
「例えば、指輪とかブレスレットだと、ずっと肌に着けるから温度が移っちゃうし……」
肌に着けるアクセサリーは常に体温と隣り合わせなので、金属部分に温度が移ってしまいやすい。そうなってしまうと、温度の移り変わりが感じにくいのだろう。
「それに、バッグの中に入れておきたいの。キーホルダーとかを外に着けてると、陽に当たっちゃう……」
そしてバッグに付けるアクセサリーは陽に当たりやすいため、やはり気温より高くなりやすいらしい。具体的な温度が分かる彼女にとっては微妙な差も大きいのか、妥協したくないようだった。
そんな中「バッグの中」と聞いてレンは別方向の心配を思いつき、もし職務質問を受けたら大変なことになりそうだと言った。仮にか弱な少女であっても、刃物を持ち歩いているのは法律的に危ないので、彼の言うことはもっともである。
「職質? だいじょぶ、なんじゃないかなぁ」
対して、楽観的なノドカ。おそらく今まで職質を受けたことは無いのだろう。
だがレンは、それは運が良かっただけだと言う。体調不良で朦朧としていたとはいえ薬を飲み忘れるくらい抜けているのに、本当に職務質問を受けたらどんな「うっかり」をしてしまうことだろうか、と。
「薬飲み忘れたのに、って。うぅ、そうだけど」
しかし、ノドカは抜けている部分があれど、しっかりしている部分もあったらしい。何故なら……。
「……あれ? わたしが薬飲み忘れたって、知ってるの?」
先ほどレンは、ノドカの看病に「来ていない」と答えた。そしてノドカが薬を飲み忘れていたことは、当人の口から一度も出ていない。
するとここで矛盾が生じる。そこにいた者にしか知り得ない情報を、そこにいなかった者が知っている、と。その矛盾を突けるくらいの鋭さを、ノドカは持っていたらしい。
当然ながらレンはその場にいたので、ノドカが薬を飲み忘れていたことを知っている。なんなら薬を飲ませた本人なのだ。しかしその時そこにいたことが分かると、件のキスについても言及しなくてはならないだろう。となれば……、沈黙するしかない、のだが。
「ね、もしかしてキミは……」
これだけ勘が鋭いとなると、「バレる」のも時間の問題だった。むしろ沈黙がヒントとなり、やがて答えに行き着くことだろう。ならどうすればいいか。……これ以上のヒントを与えないようにすればいい。
レンは時間を見る素振りをして、強引に部屋から出ることにした。もうかなり元気を取り戻しているとはいえ、ノドカは病人なのだ。部屋の外へ逃げてしまえば追って来られないだろう。彼はそう考えた。
そう、ノドカは元気を取り戻している状態なのだ。薬も問題なく飲んでおり、ほとんどいつも通り。そんな状態なら、看病しなくても大丈夫だろう。レンはそう自分に言い聞かせる。
「あっ、待って……」
そして一言だけ、「ごめん」と添えてレンは部屋から出ていった。
………………。
「……行っちゃった」
ベッドの上で一人になったノドカは、レンの行動に違和感を抱いた。それも当然のことである。
「わたしやっぱり、もしかして……」
しかし彼女は……、その「もしかして」の先については口を噤み、考えるのをやめた。もし本当にそうだったらと思うと。本当に濃厚な口づけをしてしまっていたと思うと。それを自分がしてしまったと思うと、口に出すことも躊躇われたのだ。
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