第11話 例えば明日

「例えば明日世界が滅ぶとして」


 最悪の例えを、風子はどこか楽しそうに口にした。


「死ぬ前の日、最後に何がしたい?」


 死なんて、映画やドラマの安っぽい感動シーンか、眠れない夜の布団の中にしか存在しない、そんなもの。だからわたしにはいまいちピンとこない。


「……おいしいもの食べる」

「何食べるの」

「うーん……ハンバーグ?」

「それは別にいつでも食べるくない?」

「それもそうか」


 学校帰り、風子は制服のプリーツスカートをおかしそうに揺らして笑う。


「じゃあ、キャビアとか」

「おいしいの?」

「わかんない。食べたことないし」

「それでもしマズかったら嫌じゃない?」

「それはそう」

「なんだよー、それ」


 別に普段の意味のない雑談となんら変わりないと言えばそうなんだけど、なんだか少しだけ違う気もする。


「あ、もう駅か。じゃあ私こっちだから」

「え、なんで駅? 帰んないの?」


 いつもの下校路を、なぜかいつもとは違う道で曲がろうとする風子の手首を、わたしもなぜか咄嗟に掴んでいた。


「……あー、やー、まあちょっと野暮用、みたいな?」

「それじゃわかんないし」

「……いやー、別にホントになんでもないんだけど」


 歯切れ悪そうに手をぶらぶらとさせる風子は、全然なんでもない感じじゃなくて。


「それ、一人じゃないとダメなやつ?」

「いや、別に」

「ふーん。じゃあわたしも行くね」

「……え? なんで?」


 別れかけた行き先を強引に一つに戻して駅舎へ足先を向けるわたしに、風子はぽかんと口を開けた。


「なんでって別に、意味なんてないけど」


 意味なんてなくて、そこには確かな予感だけがあった。言葉にすれば馬鹿げていて、けれど、このまま彼女を一人にすれば明日わたしはきっと後悔するだろう、という確信が。


「……へーんなの!」


 さっさか改札へと歩き出すわたしの肩にどーん、とちょっと痛めの勢いでぶつかってきながら、風子はふは、と笑った。


「いや、変なのはそっち」

「んー、じゃあお互い様ってことで!」


 二人隣り合って改札をくぐり、肩同士を軽くぶつけ合いながら、わたしたちはホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。


 数駅分の見慣れた景色が、コンクリートの灰色と、暮れ始めた空の暖色の尾を引いて流れていく。


 数度乗り換えをして、最終的に乗ったことのない路線の降りたこともない寂れた駅で、風子はシートから立ち上がった。


「ここを目的地とします」


 まるで今決めたかのような言い草に、また一つ、変なの、と思う。


 降り立った駅は無人で、橙色と藍色を混ぜて溶かしたみたいな色の空が、いつもより遠く感じる。


 遠い空の下、ざざ、と海が鳴っている。


「行こっか」

「海に?」

「海に」


 汚れの浮いた改札を通り抜け、風子は軽い足取りで先へ立つ。湿り気を含んだ涼しい風が、彼女のプリーツをさやさやと揺らす。


 十分くらい歩いて、わたしと風子は海へ突き出した堤防に着いた。


「砂浜とかじゃないんだ」

「なかったねー、砂浜」


 あはは、と笑う風子は残念そうで、けれどどうでもよさそうでもあった。


 風で乱れた髪は潮風を孕んで、差し込んだ指先にもわりと纏わりつく。


「……で?」

「で、って?」

「なんで海にきたの?」

「いやー、景色とか綺麗かなーって」

「綺麗かなー?」


 ぐるり、と視線を巡らせてみても、暮色の空の下の海はなんだか薄暗く濁っていて、少し離れたところでお爺さんが釣り糸を垂らしている光景もなんだか、冴えない海辺って感じ。


「あれだね、現実って感じ」

「つまり?」

「つまんねー、ってこと!」

「最悪だよ、言い方」


 小石を蹴って海に落としながら嘯く風子に、わたしは笑って突っ込む。


 なんか、楽しいのに悲しくって、わたしはふいに泣きそうになる。


「……なに、その顔」


 潮風にバタバタと揺れる髪が纏わりつくわたしの顔を覗き込んで、風子は困ったように笑う。


「だって、変じゃん、風子。いつもならこんなこと、絶対しないのに」

「そうかな。しそうな気もするけど」


 べたつく風に吹かれながら、風子は灰色の海を見下ろして呟く。


「するとしても、一人ではしないじゃん。わたしのこと、誘うでしょ」

「……あー、それもそっか」


 きっとわたしがあの曲がり角で見送っていたら、風子は一人でここへ来ていたのだろう。こんな、つまらない現実のどん詰まりみたいな、灰色の海しか見えないちっちゃな堤防に。


「例えば、明日世界が滅ぶとして」

「だからなに、その例え。全然面白くないんだけど」


 耳元で叫ぶような風に消されないように、わたしは少し風子に近づく。


「でも、自分だけがその滅びを止められるボタンを押すことができるとして」


 急に、風子は真剣な眼差しでわたしを見つめた。その瞳の強い光に、わたしは「なにそれ」なんて言えなくなってしまう。


「……それを押す? それとも押さずに明日を迎える?」


 気づけば風子はスカートのポケットに右手を突っ込んでいて、その指先が布越しに何かを握りしめているような気がする。


 放課後の、いつもの他愛ない、意味のない問答にも似た、けれど、答えを間違えたらもう二度とこうやって話すことはできないような感覚に襲われる。


 潮風がびゅうびゅうと肌を湿らせ、背中がひんやりと冷えていく。


 世界が滅ぶ、と考えて、それって何か困ることあるかな、と思う。


「風子は? 押すの?」

「どうだろ。多分、迷う」


 右手をポケットの中で遊ばせながら、風子はもう片っぽうの手で髪を押さえる。


「なんで迷うの?」

「なんでって、別に、世界が滅んだって困ることってあんまないな、って思うけど、でも今日を最後に滅ぶとしたら急に何か勿体ないような気持ちにもなるし」

「……わたしも、似たような感じかも」


 頷くと、風子は喉をこくり、と上下させてわたしを見た。


「それじゃあ――」

「でも――」


 言いかけた言葉がぶつかって砕けて、灰色の海に不格好に落ちた。


「なに、風子?」

「いや、そっちが先に言ってよ」


 爪先でわたしのローファーを蹴りながら、風子は拗ねたように言う。


「えっと、じゃあ言うけど……わたしも確かに世界なんて滅んだっていいって思う。特に未来に希望とかないし、ぶっちゃけ毎日色々メンドイし、世界消えろって思うことよくあるし」

「やば、魔王じゃん」


 くつくつと喉を鳴らしながら、風子は右手をポケットから引き抜く。何かを握り込んでいるみたいなその手を彼女は海に向かって突き出す。


「――でもさ」


 灰色の海の上に突き出された風子の右手に向かって、わたしは言う。


「世界はどうでもいいけど、風子がいなくなるのは、やだよ」


 わたしの頼りない言葉を、潮風が叩きつけるみたいにして散らしていく。


 けれど、ゆっくりと振り向いた風子の右手。

 ゆらり、と力なく下ろしたそれを、風子は再びポケットにしまい込んだ。


「別に未来に希望はないけど、多分大人になったら今よりもずっと嫌なこととか辛いこととかあると思うけど、こんな世界うぜーいらねーってなるかもだけど」


 わたしが弱々しく言葉を紡ぐ度、風子も同じように弱くなっていくみたいに肩を震わせた。


「でも、そんな世界でも、風子となら全然耐えられるよ」

「……なんだよー、それ」


 ぽつり、と呟くと、風子は「あーあ」と馬鹿でかいため息と共にスカートのポケットの中、何かを強く握りしめた。


 ぽちん、とちっちゃな音がして、それが何かわからないわたしを置いて、風子は堤防を駆け出す。


「ちょっと、風子?」

「帰る!」

「はぁ?」


 潮風を受けてどんどんと遠くなる風子の背中を追いかけて、わたしも負けじと走り出す。


 駅に着くと風子は汗だくで、汗と潮の匂いが混ざり合ってなんか普通にちょっと臭かった。


 制服の胸元をちょんと摘んで鼻を鳴らすと、風子は不満げに唸る。


「臭くて最悪。海も、世界も」

「言い過ぎでしょ。今風子が臭いのは風子が悪いよ」

「あーあ! 滅べばよかったのに、世界なんて!」


 なんて、最悪の願いを過去形で言うから、わたしはちょっと安心する。


「いいの? そしたらわたしもいなくなるけど」

「……そしたら私が、私の好きなものだけの新しい世界を作るし」

「魔王かよ、やば」


 ホームに滑り込んできた電車に乗りながら、わたしは笑って風子をどついた。


 橙色の夕景が群青の夜に沈んでいくうちに、見慣れない海辺の景色はやがて見慣れた日常の風景へと――わたしの知っている世界へと、姿を変えた。

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『わたし』と風子(百合風味掌編集) 悠木りん @rin-yuki

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