11・撤退
『――パンデミックの原因は、今もって分からない。いや、今だからこそ、分からなくなった。もはや、文明と呼べるシステムは崩れ去り、過去を追求する術も存在しないからだ。
かつて、日本の近くの大陸には多くの国があった。中国、ロシア、そして南北朝鮮。そしてその周辺をさらに多くの国が取り巻き、せめぎ合った。互いの利益や主義主張をかけて争い、国境を侵しあい、宇宙や海底の覇権さえ奪いあった。その争いは全世界に及び、情報や通信システムの操作によって人々の精神まで冒し始めた。戦いは武力よるものから、資源、金融、食料、水、そして遺伝子操作によって細菌やウイルスまでが道具にされた。
世界が大きく2つの勢力に分断されたのち、世界にZVが蔓延した。それはおそらく、どちらかの陣営が作り出した生物兵器だったのだろう。今となっては、それすらも人類の進化の帰結だったと諦める他はない。争いが消えない以上、そして科学技術が進化し続ける以上、この結末はどこかで必ず訪れる宿命だったのだ。我々は、その知識を手放せるほど賢くはなかったのだ。
破綻は、かの時代に生きた我々の責任だ。進化や進歩はただの幻想で、自ずから袋小路だったのかもしれない。縄文時代は、1万年を遥かに超えて持続した。しかし近代文明は、ほんの数100年で人類を喰い尽くした。我々は、滅び去った旧世代の生き残りだ。わずかに残った文明の遺物とともに、消え去っていく。
人間は、いったい何を作ってしまったのか?
何を作れたのか?
旧世代にとっては、ただ虚しい設問だ。
それでも、命をつなぐ希望の誕生は見届けた。今はまだ、彼らは旧世代の〝ヘソの緒〟で生かされている胎児にすぎない。いずれ、電力も資源も底をつく。その時初めて、彼らは彼らの世界を構築し始めるだろう。破滅に向かって突き進んだ我々の世代とは全く違う、彼らの時代だ。人類の知らない、未知の時代だ。
それこそが、神が求めた進化の本筋なのかもしれない。
一体どんな世界が、そこに訪れるのだろうか。失敗した我々が、それを予測すること、ましてや決めることなど、できるはずもない。ただ、それが彼らにとって幸福な世界であることを祈るのみだ』
タケルは揺れる貨物車の壁にもたれて座り、懐中電灯の明かりの中で最後の文章を読んだ。そっとノートを閉じる。
全てが理解できたわけではない。それどころか、言葉の意味さえ10分の1も分からない。この先、何度も読み返さなければならないだろう。
だが、それが長老の――いや、パンデミックを生き延びた旧世代の叫びであったことは心に染み込んだ。あるいは、言葉の意味は理解すべきではないのかもしれない、とさえ思えた。
今は北海道の守備を立て直し、次の世界を模索することに専念するときだ。
ナナミは、タケルにもたれて眠っている。他の技術者や兵士たちも、大半は緊張から解放されて眠りについた。トンネルの最深部を越え、北海道はもう近い。
タケルも眠りたかった。列車の揺れは、普通なら眠気を誘うものだ。だが、まだ興奮は冷めない。
青函トンネルの激闘を思い起こさないわけにはいかなかった。
タケルたちを救出した部隊の先頭に長老自身が加わっていたことは、衝撃だった。しかしそれは、更なる驚きにすぐに塗り替えられてしまった。
トンネル入り口から姿を現した長老は、脱線したコンテナ車に登った偽長老を目視したはずだ。
異変は次の瞬間に起きた。
拳銃を取り出した偽長老は、付き従う副官たちを平然と撃ち殺していったのだ。そして、列車の中に姿を没した。
長老は全く驚きを見せなかった。テレパシーで結ばれているのが真実なら、会話をせずとも互いの意図を了解していたのだろう。
長老一行は銃弾を空にすると、タケルたちをかばいながら撤退を開始した。トンネルのすぐ奥には、空の列車が停車していた。民間人を運んだ第1便が折り返してきたのだ。生き残った兵士たちは列車に回収され、直ちに北海道へ向かって走り出した。列車の前後にそれぞれ2台のディーゼル機関車が接続され、後退は全く無駄な時間を費やさずに行われた。
緻密に計算されていたとしか思えない手際の良さだった。
それは、ショウヤがもたらした青森の現状報告と、長老兄弟のテレパシー通信によって組み上げられた作戦だったという。
そして撤退開始直後、トンネルの入り口から大きな爆発音が追いかけてきた。偽長老が自爆装置を起爆したのだ。
列車が安定走行に入ると、長老がタケルに説明した。
「コンテナの中身は偽物だ。本物の原発も設計図も、とっくに苫小牧に到着している」
ショウヤは、長老の横ですまなそうに顔を伏せていた。
彼らは共謀していたのだ。それは、タケルが予測した通りだ。
だが、目的は全く逆だった。
そもそもタケルが本州に送り込まれた小型原発回収計画そのものが、オニの軍勢を欺く陽動作戦だったのだ。
撤退する列車の中で長老は語った。
「私たち兄弟はテレパシーによって本州の実情を共有していた。そして長年、オニの集団同士を敵対させて力をそぐ方向に誘導していた。人類の聖域となった北海道を、オニの侵略から守るためだ。
しかし大陸からのハガネ流入が活発化し、オニたちの軍事組織化は止められない流れになってしまった。しかも中国由来のハガネたちは、戦わずして敵の中枢を抱き込む策略に長けている。目立つ部隊での北海道攻撃で目を逸らしながら、小規模な浸透工作部隊を送り込んでいたのだ。そして時間をかけて北海道の弱点を探り、評議会と防衛隊の不和を探り出したのだろう。
弱点を見つければ、そこをこじ開けるのが彼らの伝統だ。着々と評議会への浸透工作を進め、すでにその大半を抱き込んでしまっていた。評議会は私を殺して泊の実権を奪い、堂々とオニの軍隊を引き込むつもりでいたようだ。タケルの父親は、次の長老の座を約束されていたのだよ。それを探り出してきたのは、ショウヤだ。私の指示を受けて、オニに寝返ったふりをしながら評議会を探っていたのだ。評議会の信頼を得られたショウヤは、同時に偽の情報を流してオニたちを誘導していった。
泊の電力が枯渇し始めていることは動かし難い事実だ。そして、北海道はまだ原発なしでの自立は難しい。下北半島の各施設を連携させて研究を続けていた小型原発が持ち込めれば、あと数10年はその限界を引き延ばせる。防衛隊はその猶予期間を使って、苫小牧でのエネルギー生産体制を完成させようと考えていた。一方で、オニたちに操られた評議会の不穏な空気も察知していた。だから、この計画が必要だったのだ。
防衛隊の目的は、小型原発を北海道に移設させることだ。だがオニは、原発を奪って青函トンネルの支配権を握り、東北で軍隊を強化することを狙っていた。北海道を奪取できるまでに鍛え上げるにも、エネルギーが欠かせないからだ。
とはいえ原発の資材を奪ったところで、オニたち自身には完成させる能力はない。どこに知識や技術があるのかも分かっていないだろう。だが移設が決行されれば、燃料や資材のみならず、研究資料や技術者まで一ヶ所に集められることになる。そこを襲えば、全てが一度に手に入る。何より欲しかったのは、技術者だったんだ。彼らを洗脳すれば、いずれは豊富な電力が得られると考えた。
そういう作戦が進行しているという知らせが、弟からもたらされた。その種の軍事情報を得るために、あいつは長い時間をかけて自分を偽り、軍の幹部にまでのし上がっていったんだ。
評議会はそんなオニたちの狙いにも気づかず、いとも簡単に欺かれていた。だから、防衛隊の遠征計画には協力的だった。だが代償として、タケルをはじめとする次期指導者3人を同行させろとねじ込んできた。その要求をゴリ押ししてきたのは、実は評議会の方だった。オニから要求されたのだろう。
遠征軍を襲えば、自動的に次期指導者も殺せる。北海道は一段と弱体化していくだろう。評議会にも利益はある。自分たちの言いなりにできる〝弱い指導者〟を後釜に据えて、後見人としての権力を振えるからな。彼らの考えは読めていたが、あえて反対はしなかった。タケルたちの同行を強硬に拒否すれば、遠征自体が潰されかねなかったからだ。原発を回収するためには、妥協する以外になかったのだ。
しかし、危険はあるものの、これは敵の策略を逆用するチャンスでもあった。オニの軍事組織を壊滅させたかったのだ。コンテナの中身は偽物だ。だが、最終決戦ともなればオニも総力を投じるしかない。それを見越して用意した餌だったのだよ。トンネルに引きつけた敵軍を壊滅させられれば、数10年は立ち直れないだろう。最後はトンネルを水没させて、追ってくるオニたちを始末する計画だ」
一気に説明した長老が一息つく。
タケルは確かめないわけにかなかった。
「勝てる確証があったのか?」
「そんなものはない。だが、老兵たちは撤退戦で死ぬ覚悟を決めていた。いかにオニでも、そんな兵士を相手にして容易に勝てるはずもない。そもそもがオニを欺くための作戦だ。たとえ失敗したところで、原発が回収できれば成功だ」
「俺たちが殺されても、か?」
「確かにその危険は大きかった。お前たちが死ねば、泊も深い傷を負う。それでも、オニの軍勢と引き換えなら悪くはない。最悪の場合は自爆が決定されていたからな。致命傷にはならない。お前たちが有能な後継者を育ててくれたおかげだ」
タケルがつぶやく。
「それが、防衛隊の考え方なんだな……」
「第一に守らなければならないのは、北海道の安全なのだよ」
タケルには、その判断に異論を唱える気力は残っていなかった。少なくとも、生き残れはしたのだ。それが偶然の積み重ねだったとしても……。
失ったものも多いが、危険を恐れるだけでは得られるものはない。タケルにも、それは理解できる。
「それで、長老の弟はどうなったんだ」
長老は淡々と答えた。
「死んだよ。列車に乗せた偽物の原発機材と共にな」
「偽物なら、何も死ななくても――」
「確かに原発が北海道に渡ったと知られても、しばらくは大勢に影響はないだろう。だが、知られずに済むなら、こちらも作戦が立てやすい。極秘のうちに武装を強化することも可能になるかもしれない。自爆でオニの軍隊を減らす意味も大きい」
「そんなに危険な爆弾を使ったのか?」
「モアブ、という。周辺一体を爆発に巻き込んで、更地に変える。核爆弾を別にすれば最も強力だというが、それが三沢基地に保管されていた」
「なぜそんな物騒なものを……」
「全ての希望が絶たれた時にしか使えない兵器だ。オニに奪われてはならない技術者ともども、消し去る覚悟で用意した」
「だからって……」
「弟は、死期が近いと悟っていたんだ。本州は泊ほど穏やかな世界ではない。その中でオニたちを操って争わせ、今では指揮官にまでのし上がっていた。その間にどれだけの危機があったか、どれだけの苦悩があったか、テレパシーで繋がっていたところで体感できるものではない。命に関わる怪我をしたことも一度や二度ではない。それでも私と力を合わせて北海道を守るために力を尽くしてくれたんだ。すでに身も心もボロボロだったのだよ。なのに、こんな歳まで生き残ってしまった。ようやく楽になれる――それが、最後に私が受けた念だった」
「だったら、技術者たちは何も知らないでついてきてたのか?」
「知っていたのはそれぞれの部門のトップ数人だ。守備隊司令官、古くからの友人であるトム、そして技術部門のタチバナと、信頼できる彼らの副官たちだ。全員、命を捨てると決めていた」
「老兵はともかく、技術者は本物と一緒にトマコマイに渡れば良かったものを」
「それではオニを欺ききれない恐れがあった。組み立てができる技術者は北海道にもいる。設計資料を読めさえすれば、あとはどうにかなる。申し訳ないとは思うが、オニを引きつけるエサは本物でなければならなかった」
「殺されたかもしれなかったんだぞ」
「だが、生きている」
ショウヤが長老を庇うように後を引き取る。
「俺の部隊はその作戦を管理するために泊を出た。同時に、六カ所村に向かうことをオニに知らせた。全て計画の一部だった。だから六カ所村にはあらかじめ偽のコンテナを用意し、オニたちをそこに集中させた。本物は大間原発に隠し、その間に海上を輸送した。エルキャックはもう1台、苫小牧に隠してあったんだよ。原発はとっくに苫小牧に到着している。オレはオニたちを引き付けながら、青函トンネルに軍隊を集中させた。そこで一気に主力を叩き潰すためだ」
「だが、まだ生き残りがこの列車を追っているんじゃないのか?」
「どうせ大した数じゃない。追わせればいいさ。もう列車はないから、歩くしかないがな。電動車もバッテリーを破壊した。途中、何カ所にも時限爆弾を仕掛けてる。数時間後には次々に爆発が始まる。そんなものでトンネルは壊れないが、壁に亀裂が入れば湧き水も増える。そして俺たちが北海道に出たら、電力を遮断する。元々排水ポンプを動かし続けなければ湧き水で埋まってしまうトンネルだ。すぐに通行不可能になるだろう。追手も水没してくれれば、新たな指揮官が現れても軍隊は簡単に再建できない」
タケルは問わずにはいられなかった。
「お前はナナミを殺そうとしたんじゃなかったのか……?」
「それはすまないと思う。だが、原発の資料はオニを騙すためにも本物を準備した。何部か同じ物が残っていたものだけ、だがな。それでも、オニには渡したくない。奪われそうになった時には、真っ先に燃やし尽くすつもりだった。しかしナナミが内容を覚えていたら、話されてしまう恐れもある。だから消すしかなかったんだ」
「人の命をそんなふうに語るのか?」
ショウヤは微笑んだ。
「タケルがそう考えることは知っている。だから次期指導者の候補になっていることも分かっている。だが俺は、守備隊の責任者だ。人の命さえそんなふうに考えなければならないのが、俺の役目だ」
長老が続ける。
「ショウヤには厳しい任務を与えてしまった。評議会がどこまで汚染されているかを知るために、潜入を命じたのも私だ。その結果オニと内通することになり、原発回収の行動も逐一通報する役目を担った」
ショウヤが後を引き取る。
「トランシーバーは、六ヶ所村に着いて現地のスパイから渡されたものだ。それで誰がスパイか判明した。で、サチを使って処分したんだ。代わりに俺が偽情報を流し続けてオニたちを誘導した。だからオニの軍をトンネルに集中させられたんだ」
「サチは最初からお前の仲間だったのか?」
ショウヤが悲しげに微笑む。
「殺された……んだよな?」
「ああ。残念だ」
どんな死を迎えたかは、話せない。ショウヤも聞かなかった。
「あいつもトムも、本当の計画を知っていた。だから小芝居を打って俺を自由にした。ナナミを殺そうとしたのも、2度目は演技だ。俺は単独でトンネルに入り、中の電話で援軍の出動を要請した」そして、悲しげに付け足す。「また、一緒に暮らす女を探さなくちゃな……。つらいよ……。俺も、アカゴと暮らす方法を覚えるべきなのかも……」
タケルには次々に疑問が湧いてくる。
「評議員を襲ったのは誰だ?」
ショウヤがうなずく。
「俺だよ。あらかじめ壁にクレイモアを仕込んだ。無線リモコンを持ったのは長老だがね。最終判断を任せるためだ。射線から外れた場所で起爆できるしな。あくまでも万一の時のための安全対策で、最初から殺そうと計画していたわけじゃない。しかし、仕掛けてきたのは評議会が先だった。長老をオニのスパイに仕立て上げて、暗殺しようと企んだんだ。残念だが、評議会は救いようがないほど汚染されていた。いかにも政治家だ。オニとさえ取引ができると他愛なく信じ込んでいた。自分たちが北海道全域の支配者になるために、オニに泊を売ったんだ。自分たちもすぐに処分される……とは疑いもしないでね」
長老が続ける。
「私の暗殺を試みはしたが、いかにも手際が悪かった。所詮彼らは政治家で、銃の扱いは素人だ。外しようのない至近距離からなのに、腕しか打ち抜けなかった。老いたとはいえ、私は自衛隊上がりだからな。残念だが、身を守るためにも起爆する他なかったのだ」
その言葉に嘘はないことは、ナナミの記憶で確認している。タケルの中で燻っていたたくさんの疑問が、1つに結びついた。
「ショウヤは最初からトマリを救うために動いていたのか……?」
ショウヤがうなずく。
「目的を隠していてすまなかった。情報の秘匿には敏感になるしかなかったんだ」
「だが、なぜオレたちを同行させた? 評議会を納得させるだけなら、他にも方法がありそうなのに。急に船に乗れなくなった、とか言い訳できなかったのか?」
「資質を見極める意味もあったんだ。誰もが、3人のうち誰かがいずれは泊のリーダーになると考えていたからな。そして、ナオキの性根を見極めたかった。もしも評議会と一緒に泊を陥れる策略に加わっていたなら、ここで処分するつもりでいた」
「そのために連れてきたのか⁉」
「試験だと分かっていたんだろう?」
「それは聞いていたが……」
「注意深く観察していたが、ナオキもアキも陰謀とは無縁だと確認できた」
「アキまで疑っていたのか?」
「身辺調査とは、そういうものだ。指導者になる人間には、欠かせない関門なんだよ。アキは残念だったが……指導者の素質には欠けていたと諦めるしかない」
「オレも疑っていたんだろう?」
「もちろんだ。だがタケルの危機回避能力は、予想外に高かった。今回の作戦の最大の収穫かもしれない」
「何度も殺されかけたがな……」
「危険を承知の賭けだったからな。だから俺たちの部隊が付きっきりになった。これでも精鋭部隊だ。タケルたちを守ることが一番の任務だったんだよ。正直、失敗ばかりだったがね。死人を出してしまったのは、俺たちの力不足だ。だが、得るものも大きかった。最後まで戦う気概を持っていたのは、タケルだけだ。つまり、選別は無事に終えた」
「オレは運が良かっただけだ」
「リーダーには、運が必要なんだよ。それは、神様が味方についているという証だ。もしも俺たちに正しい神様がついているなら、だが」
「リーダーなんて柄じゃない。お前がなるべきだ」
「俺は戦える。策略も得意だ。だが、人は率いていけない。平和には、向いていない」
「それでも――」
「やりたくないんだから、仕方ないだろう? 武装に関してなら、なんでも手伝ってやるから、安心しろ」
「オレだって、リーダーなんて柄じゃない」
「違う。発想も決断力も応用力もずば抜けていた。何度も驚かされたよ。しかも、諦めない。こうしてナナミたちとも穏やかな関係を作れる。これからは多分、そういう才能が価値を持つのだろう」
長老が悲しげに微笑む。
「私はもう用済みの老ぼれだが……また生き残ってしまったな……。これからは、お前たちの時代だ」
「そんなことはない。生きていてくれて、嬉しい」
「いや、生き残るべき人間は他にいた。老兵は新たな世界には不要だ。だからこそ、みんなこの場に集った。決着をつけなければならなかったんだ。殺し合うことしかできなかった旧世代の遺物の……そしてオニを生み出してしまった時代の生き残りの、けじめだよ」
「まだ教えて欲しいことはたくさんある」
「学ばなければならないのは、私たちだ。お前たちが導いてくれ。許されることなら、次の世界を見せてほしい」
「そう言われても、何をすればいいのか分からない……」
「焦ることはない。今回の作戦で北海道の電力は今しばらく確保できた。オニの脅威も当面は排除できる。おそらくは10年間はこれまで通りに過ごしていけるだろう。その間に、学べ。悩め。考えろ。そして探しだせ。袋小路に入り込んだ我々の文明とは違う何かを、作り出せ。手探りしかできないだろうが、皆が幸せになれる世界を目指してほしい」
その時、車両の後方から兵士が声をかけた。
「長老! 指示をお願いしたい!」
だが長老は、ショウヤに言った。
「お前が行ってこい」
「判断するのは長老だろう?」
「お前は、計画を全部知っている。山場も超えた。防衛隊の決断は、これからはお前がしろ。年寄りには、少し楽をさせてくれ。休みたいんだ」そして、兵士に返す。「ショウヤに任せる!」
「分かった! 来てくれ!」
ショウヤはその場を離れた。タケルも、立ち上がろうとする。
しかし長老は、小声で言った。
「私はね、評議会を道連れに死ぬつもりだったんだ……」
いきなりの告白にタケルが戸惑う。
「なんでそんなことを⁉」
「私が生き残っていたら、泊ムラに確執を残すからだ。評議会を支持する住民もまだ多い。次の時代を探るには、旧世代はお荷物なだけだからな。それに、弟が死ぬことは分かっていた。大人になってからは顔を合わせたことすらなかったが、力を合わせてオニと戦ってきた同志だ。私だけが生き残るのは、つらい。助かったのは、本当に偶然なんだ。神は、残酷な仕打ちを楽しむものなんだな……」
「ショウヤは……知らないんだよな?」
「知っていたら、反対したろう。計画も進まなかった。だから、騙した。ショウヤには言うなよ。あいつが自分を責めたら不憫だ」
「なんでオレに話す?」
「分かってるだろう? これが、指導者の孤独だ。お前はこの先ずっと、その孤独に耐えなければならない。……いや、ナナミがいるな。アカゴでよかったな。ナナミは清い。決してお前を裏切らない。苦しい時は、きっとお前を救ってくれるだろう」
「だが、指導者なんて……オレが決めることじゃない」
「もう決まったようなものだ。それだけの働きを、お前はしてきた。撤退戦でも、兵士たちに胆力を見せつけた。反対する者などいないよ」
「だが――」
「諦めろ。未来は、お前が背負うんだ。そして、大きな決断をしなければならない時に備えろ」
タケルは、長老の目の真剣さに怯えた。誰にも語らなかった究極の本心を、タケルにだけ託そうとしている。
そうとしか感じられなかった。
「決断? 備えるって……これ以上、何に?」
「お前はオニの正体を見たはずだ。私はずっと、あの姿こそが人間の本質なのではないかという恐れを抱いてきた。人間は、残酷な生き物だ。ならば、再びこの地球を人間が治める星にしてもいいものなのか……そう、自らに問いかけてきた。しかしそんな壮大な命題に簡単に結論が出せるはずもない。その時間も私には残っていない。だから、お前に預けたいのだ」
「どうしろ……と?」
「まずは北海道を担い、人々の営みを育み、穏やかに暮らせる国を作って欲しい。それには苫小牧に集約しつつある資源が大いに生かせるだろう」
「それは、みんなが願っていることだ」
長老の気迫がさらに増す。
「その上で、だ。もしも人間が旧世代のように欲深く他者を貪り始めるなら……オニの本性を捨てられずに、それに溺れる兆候が見えたなら……その時は、苫小牧の資産を全て破壊することも考慮して欲しい。北海道から全ての科学技術を奪って欲しいのだ。その判断と決断を、タケルに委ねたい」
それはタケルが全く予期していなかった未来だ。タケルは原発を得るために命をかけた。今度は、その破壊を考えろという……。
「破壊……? なぜ……?」
「そうすれば、人類の進化が違う方向に進むかもしれないからだ。今のまま旧世代が復活すれば、同じように奪い合いや殺し合いが世界を覆いかねない。そしてまたいつか、滅びていくだろう。北海道は豊かな土地だ。今は旧世代の技術に頼って生活を支えているが、それがなければ全く新しい方法で生きていかなければならない。それでも、生きていける。かつてこの地に根付いていた縄文文明のように、殺し合わずに支え合える世界が作れるかもしれない。その選択を、任せたい。それは、オニの中で生き続けてきた弟の希望でもあるのだ……」
「なんでオレなんかに……?」
「ナナミだよ」
「は? ナナミがどうした?」
「お前は純粋だ。そしてナナミたちアカゴは、それ以上に汚れを知らない。アカゴは、文明をやり直すための切り札かもしれないのだ。神が与えてくれた希望かもしれないのだ。人間が正しく生きる道を探るには、おそらくアカゴが欠かせない。そして、今一番アカゴを理解しているのは、タケルだ。アカゴと共に生きるムラを作れるのは、たぶんお前だけだろう。だから……この重すぎる荷物を背負えるのは、タケルだけなのだと感じるのだ……」
タケルはその願いの重みに返す言葉を見つけられないまま、考え込んでしまったのだ――。
タケルは、肩を小さく揺すられて目を覚ました。
いつの間にか眠っていたことに驚く。
ナナミだった。今まで見たこともない、不安そうな表情だ。
「ナナミ……どうした?」
「よんでる」
タケルはぼんやりとナナミが指さす方を見た。窮屈な車内に、わずかな隙間ができていた。誰かが横たわっている。
それがアケミだと分かった途端、目が覚める。
アケミを囲んだ兵士たちが道を開ける。タケルは走り寄って、傍にひざまづいた。顔色は蒼白で、目も開けていられないようだ。血液が足りていないことは一目で分かる。
軽く握ったアケミの拳を、両手で包む。
「タケルだ。呼んだか?」
アケミはかすかに目を開けた。
「来てくれたんだね……最後にあんたたちに会えてよかった。それが言いたかったんだ……」
「死ぬな」
「どうしてだい? 人はいつか死ぬ。あたしはもう、充分に生きた……それに……」
「それに、なんだ?」
「ケンジがあっちで……待ってる……。そうなんだろう?」
「あいつは……戻ってこなかった……」
「バカな子だよ……あたしなんかに構っていなけりゃ、長生きもできたものを……」
「ケンジはあんたを助けるために行ったんだ」
「あたしのためじゃないさ。みんなを助けたいから……行くしかなかったんだ……そういう子なんだよ……」
「ケンジのためにも生きてくれ……」
アケミには、もうタケルの言葉もはっきりとは聞こえていないようだった。
「ケンジは……見たって……。ナナミがあんたの身代わりに……なろうとしたって……。命令じゃなくて……心から助けたいっていう……一心で……」
「なんのことだ?」
「だから見捨てられなかったんだって……すばしこい大オニからは……ずっと逃げてきたのに……。そうしてあたしを……守ってきてくれたのに……」
それがケンジとの出会いの時のことだと気づく。
「オレはケンジに助けられた。あんたのことを預けられた……死なないでくれ……ケンジを裏切らせないでくれ……」
アケミはかすかに目を開き、急に微笑んだ。
「大丈夫だよ……あたしが謝っておくから……。ナナミを大事にしなよ……この娘はアカゴだが……人間になろうとしている……。大事な希望だ……」
「まだ聞きたいことがいっぱいある! 昔のことを話してくれ!」
「これでやっと……自由になれるんだね……」
「研究、どうするんだよ⁉」
「助手が……いないとね……。あれでも……そこそこ……使えたんだよ……」
そして、握った手を開く。タケルの手の中に、硬いものを押し付けた。縄文土器のかけらだった。アケミの温もりを宿した、お守りだ。
「これは……?」
「あんたが持っていて……。このかけらには……あたしたちの記憶が刻み込まれている……。古代から続く魂だ……。これは……未来を生きる……あんたが持っていて……。つらいだろうけど……人間を……諦めないでね……」
そしてアケミは、息絶えた。表情は何も変わらなかったが、体から何かが抜け出ていく瞬間が見えるようだった。
タケルはその場に座り込んだ。アケミに出会ったのはたった半日前だ。なのに、胸が苦しい。
しかも、またしても重すぎる荷物だ。アケミの言葉は長老とは違うが、言いたいことは同じだとしか思えない。
いつかタケルは、北海道の命運を決めなければならないのかもしれない……。
青森守備隊の生き残りが、アケミを取り囲んでいく。彼らは無言だったが、深い悲しみをにじませていた。彼らの方が、アケミとのつながりは遥かに深いのだ。タケルは身を引くように、壁際に離れていく。
そこには、ナオキが座り込んでいた。青森脱出の際には、ずっとアケミと行動を共にしていたのだろう。
ナオキはタケルを見上げた。だがその視線には、気力はなかった。アケミの死にも、動揺した様子はない。
おそらくナオキは六ヶ所村でのアキの死と同時に、何かを失ったのだろう。その直後は原発の知識の吸収に熱心になったように見えたが、折れそうになる気持ちを支える手段に過ぎなかったのかもしれない。その後に連続した生死の境目は、かろうじて保っていた理性を叩き潰したようだ。
もはや抜け殻にしか見えない。
タケルは言った。
「大丈夫か?」
ナオキは唇を歪めた。笑ってみせたのだろう。
「生きてるよ……。なんでだろうな、大した怪我もしていないみたいだ。何もしなかったのにな……逃げ回ってただけで……。なんで守られているんだろう……」
怪我は、心の奥深くに刻まれているようだ。
「心配はない。ナオキは大事な仕事をしているから、守ってもらえる。泊にもどれば、元通りだ」
「本当にそう思うか? アキも防衛隊も、みんな殺されたっていうのに……?」
タケルは、なぜナオキを慰めるようなことを言ったのか、自分の気持ちが理解できなかった。だが、言わずにいられなかった。
「厳しかったな……だが、もう終わった。あれがオレたちの役目だったんだろう」
「死ぬことが、か?」
「こうして生きている。生き残ることが役目なんだ」
ナオキは小さなため息をついて、不意に話を変えた。
「現実を思い知らされたよ……。戦場なんて別世界のことだと思っていたのにな……。私は旧世代のことは何も知らない。なのに、旧世代の考え方に縛られている。それをイヤというほど実感した……。正直に言おう。私はタケルのことをどうしても理解できない。アキとなら分かり合えた気もするが、それもただの思い込みだったかもしれない。それでも私は、アキと一緒に死んだような気がする……。だからタケル、次のリーダーはお前だ。北海道はお前が率いていけ。諦めなかったお前なら、きっとそれができるんだろう」そして、傍のナナミに目をやる。「未来は、過去に縛られないお前たちが作っていくんだろうな……」
そしてナオキは、目を閉じた。
タケルには、もはやかけられる言葉はなかった。
元の場所に戻って壁にもたれて、ぐったりと首をうなだれた。
ナナミが寄り添う。
「アケミは?」
「死んだよ……」
「もう、いない?」
「ああ……みんな死んでしまった。どうしたらいいんだろうな……」
「ナナミは、いる」
「そうだな……」
ナナミはタケルの手を握って、真剣に問いかけた。
「あたし……いらない?」
最初、タケルにはその意味が分からなかった。ナナミの目を覗き込む。
「いらない……って、何が?」
「あたし」
「どうしてそんなことを?」
「ショウヤ、あたしを、ころした」
ナナミは記憶を捨てられない。ショウヤに銃撃されたことは、たぶん忘れられない。なのに、たとえ入念に説明したところで、複雑な裏事情は理解できない。理解できないまま、考え続けていたに違いない。
自分に非があるのではないかと、ずっと責め続けていたのだろうか……。
タケルは、そんなナナミを愛おしく思った。そっと肩を抱く。
「大丈夫だ。あれは間違いだった。ショウヤはもう、決してナナミを殺さない。誰も、ナナミを殺さない。だから、もう忘れていい」
「ショウヤ、もうしない?」
「しないよ、絶対に。それにナナミは、大事なことをたくさん覚えた。トマリに着いたら、ゆっくり思い出してもらう。とても大事なことばかりだ。だから今はもう、ナナミはみんなにとって大事な役目を持っているんだ」
「やくにたつ?」
「ああ、とても大事だ」
「いらなくない?」
「もちろん。大切な仲間だ。ナナミが頑張ったから、トマリは守れた。オレたちは、やり遂げたんだよ」
ナナミは不意に、屈託のない笑顔を見せた。タケルが今まで見たことのない、心が宿った無垢な笑顔だった。
その笑顔は、タケルの中にも何かを目覚めさせた。それは、今まで感じたことのない温度を持っていた。
暖かい。
ナオキの心は、冷え切っていた。
アケミの手も、冷たかった。なのにアケミの最後の笑顔は、暖かかった。
そして、タケルは理解した。
アキやナオキが求めていたものは、この温度なのだ。そしてこの暖かさは、得ることが叶わないと悟った時に、命を捨てるほどの絶望をもたらすのだ。
タケルが死ななかったのは、この暖かさを知らずにいられたからなのかもしれない。執着があれば、逆に行動をためらう場面もあったと思う。
だからといって、価値がないわけではない。それどころか、理屈を超えた重さを感じる。体の奥底の、さらに隅々にまで、暖かさが染み込んでいく。そして逆に、体が軽くなっていく。
タケルは、それを表す言葉を知らない。けれど、体感してしまった。もう、忘れることはできないだろう。
今なら、分かる。今はもう、理解した。
心は、人を生かし、人を殺す。
それでも……だからこそ、人間なのだ。
人間は、心を取り戻せる。
ハガネはきっと、本当の人間になれる。
アカゴもまた、人間に育つ。
殺し合う世界とは別の、次なる世界のよりどころだ。
自分だけでは背負いきれない荷物でも、たくさんの心が集まれば支えられるかもしれない。時間は、まだある。タケルがリーダーになることも決まったわけではない。それでも、逃げる気はなかった。
もっと人間を学ぼう。ムラの復興に力を尽くそう。そして、心を鍛えよう。
本当に決断すべき時が来るのなら、恐れずに正しい判断が下せるように――。
トンネルを抜け、列車に光が溢れていく。
北海道の、そして人間の大地の太陽だ。
――了
崩れゆく世界で 岡 辰郎 @cathands
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