さびしい背中 🌠

上月くるを

さびしい背中 🌠




 今年は神さまイジワルなさらなかったね。🎋

 そうだね、年に一度の逢瀬なんだも……。🌌


 この季節にしてはご褒美のような夜空を、ウッドデッキから見ているときだった。

 返事もそこそこに、「あ、ごめん、おれ……」夫は急いでリビングに飛びこんだ。


 織姫と彦星(琴座のベガ&牽牛星)に心をのこしながらも、アンリもあとを追う。

 夫はもどかしげにピアノの蓋を開けると最初のキーを叩き、澄んだ音色を出した。


 一瞬の間も置かず、完璧に華麗な演奏が始まるのはいつものことだ。

 何かが憑依ひょういしたように、夫はとつぜん天才ピアニストに変身する。


 もちろん(というのもヘンだが)譜面の類は一切ない。📒

 つぎつぎに心に浮かぶメロディをそのまま奏でてゆく。🎶


 ソファに座ったアンリは、自分のものでなくなった背中を、黙って見守っている。

 ときとして緊張で強張りがちな肩甲骨周辺が、演奏中はやさしくやわらいでいる。


 そのことがうれしくて、この時間が永遠につづけばいいと、本気で思ったりする。

 たとえ何億劫年も隔たった異次元を夫の魂魄がひとりで浮遊しているにせよ……。



      👤



 きわめて特異な才能を発見したのは、音楽教室の講師をしていた生母だった。

 まだ離乳食の月齢でピアノに興味を示し、オムツをしたままキーを鳴らした。


 それがちゃんと音楽になっていることを知った母親はわが子ながら怯んだらしい。

 お決まりのバイエルから始めたが、すぐにソナタまで進み、あとは独学になった。


 ある日、母親は聴いたこともない清冽な楽曲が幼い手で紡がれていることを知る。

 「音がこんにちわって言うから、お返事しているの」息子はこともなげに答えた。


 絶対音感以上のなにかを持っていることはたしかで、当然ながら将来を期したが、その母親が病気で亡くなると、天才少年はとつぜん、周囲から浮いた存在になった。


 大手商社の管理職だった父親の部下の若い女性は、音楽には全く関心がなかった。

 日常は不器用でいくら言っても食べこぼすのに、ピアノだけ異常に巧みな子ども。


 若い継母はそう言って薄気味わるがり、少年に先妻の面影を見つけては苛立った。

 海外出張が多い父親が不在の、ふたりきりの家庭で、少年は限りなく孤独だった。



      🖼️



 そんな恋人の過去を知ったとき、アンリは不遜にも自分は生母の転生だと思った。

 なぜなら、天才をそっくり丸ごと受け入れても、まったく違和感がなかったから。


 結婚して同居する前から、どんなとき彼の感覚が宇宙的に尖るのか熟知していた。

 ひとつは星、ひとつは水……視覚と聴覚に佳い刺激を受けたとき音楽が生まれる。


 今夜のように星を見ているとき、海辺の波の音、大河の奔流、谷川のせせらぎetc.それどころか、靴底の地下を奔る水の音にも、天才の音感はちりっと鋭く反応する。


 もっとも彼は養母のトラウマもあってか天才と言われることをいやがり「徒然草の鴨長明は『才能は煩悩の増長せるなり』と言ったんだよ」ぽつりと呟くこともある。


 職場でも変人扱いされていることは容易に想像がつくし、決して居心地がいいはずはないが、さびしい背中で我慢して働いてくれている夫が愛おしくてならない。💦



      🍚



 フォルティシモとピアニッシモの海を自在に泳ぎきると、演奏は静かに終了した。

 自分という個体を音に託しきった夫は、頬を紅潮させ、恥ずかしそうにしている。


 こういうとき、アンリは、賢しら気な感想を口にしないように自分を戒めている。

 孤独な天才児を遺して星になった義母に代わって、黙って微笑むだけに……。🌟


 明日は金曜日……お疲れさま、ありがとうの感謝をこめて、夕飯には夫の好きな、亡き義母も好んだという豆ごはんをつくろう、身体にやさしい蜆の味噌汁を添えて。


 

 


 


 

 


 

 


 


 




 

 

 


 


 

 

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