第31話 殻は猫で散る。
「あーーーー!」
思いっきり叫んでみても、晴れ渡る空の下で遊ぶ子供達の笑い声には勝てそうにない。手からシャーペンが滑り落ちて、思い切り仰け反った。
「おわんねー!」
愚痴は大きければ大きいほどいい。小さくなるとそれは陰口になってしまうから。
ばか、あほ教師。拷問、尋問官。
夏休みの宿題という概念を思いついた人はきっと他人の苦しむ顔が大好きだったのだろう。自分の趣味嗜好を遠い未来まで持ち込まないで欲しい。そいつのおかげで、私は現在進行形で苦しんでいる。
英単語と日本語を見比べながら、これなんだっけあれなんだっけと、楽しかった夏休みの思い出が勉学というものに押し潰されていく。
人はこうして賢くなっていくのか。
賢い人って、大変なんだなぁ。これを努力とは、私は思わないけど。
どうせ何かに向けて頑張るなら、汗を流して泣くくらいはしたい。勉強は汗は流れないし、自分との戦いとはいっても「眠い」とか「面倒」ばかりなのでただの雑魚戦だ。
負けたくない、勝ちたい。あの舞台へ、今度こそ。悔しいほどに泣いてしまうくらいの経験を、そういえば私はしたことがない。
今も世界のどこかで、私と正反対の人種が何かを追いかけて泣いているだろうか。
「はいはい、やればいいんでしょやれば」
元はといえばやらなくちゃいけないことを先送りにしていた私がいけないのだ。楽しんだ代償と思えば、苦なだけで辛くはなかった。
お昼になるとリビングに降りて、冷たいそうめんを啜った。宿題の進捗が芳しくなかったこともあって、開放的な気分とはほど遠い。
昼のテレビ番組も、甲子園が終わったこともあっていつも通りの雰囲気に戻りつつある。再放送のドラマをぽけーっと眺めていると、母が私に回覧板を渡してきた。
「たまには行け」
行ってきて、とかじゃなくて行けだった。頼み方というものの重要性を肉親から教えてもらう。
「対価は」
「焼きプリン」
「ほう」
母にしては珍しい。対価があるのなら、いってやらんこともなかった。
外に出ると、私が焼きプリンになりそうだった。暑すぎる。
サンダルの底からコンクリートの熱が伝わってくる。ゆっくり歩くことを封じられているようだ。
隣の家のチャイムを鳴らすと、メガネをかけたおばさんが顔を出した。
「あら、猫ちゃんじゃない! 久しぶりねぇ、こんな大人になっちゃって」
「いえ、とんでもないです。今日は回覧板を渡しにきました」
大人と言われて悪い気はしなかった。すらすらと、大人っぽい社交辞令の方便がそうめんみたいに流れ出る。
家に戻ると、母がスイカを食っていた。
「はい、焼きプリン」
回覧板を渡してきたら焼きプリンをくれるんじゃなくて、焼きプリンをたまたま買ってきたからそれを餌に回覧板を渡しに行かせよう。そういう魂胆が丸見えだった。
「ふふん、くるしゅうないぞ」
だけど、私はもうとっくに大人っぽくなったので大人の対応をする。
「はあ、なにそれ」
「私はもう大人なので。さっき隣の家の人にも言われたよ。猫ちゃん大人っぽくなったねーって」
「かーっ!」
笑っているような、呆れているような奇声を母があげる。
「猫が大人!? どこがぁ」
「親というのは子供の成長に気付かないものだよ。ちなみに子は親の衰えにいち早く気付く」
「なんだと」
母が掃除機の頭を取り外して私に投げてくる。なんて野蛮な。そこらのがきんちょと変わらないじゃないか。
「仕方ないでしょ、私は思う存分青春を楽しんだんだから」
思えば魚さんと出会ったときもこの『青春』という言葉に突き動かされていた気がする。
青春とは後悔のなんちゃら、みたいな言葉を魚さんが言っていた。一年も前になるから、なんて言っていたかは覚えていないけど、なんとなくは分かる。
大人っぽくなったって言われたのもそうだ。たぶん私は、一年前に比べて少し変わった。
磁石にひっつきながら砂鉄みたいな日々を過ごしていたけど、魚さんと出会うことによって、自分の気持ちに気付くことができた。
私は魚さんみたいに面白可笑しく、奇想天外に、飽きる暇もない日々を送りたかった。要は刺激が欲しかったんだ。
文化祭だって中学生のときは準備も適当で当日は家に帰ったりしてたのに、去年は精一杯頑張った気がする。
そう思うと、家にこもって文化祭をサボっていた自分が少し愛おしくなる。あんなこともあった。でも、あの頃があったからこそ、今が輝いている。バカなことしてたなぁって思えるってことは、今の私はバカじゃないってことだと思うし。
きっと青春って見えないもので、過去を振り返ることで初めて青春って呼べるものなのだ。
「青春? 青春ってなにさ」
母がスイカを食べているというのに、梅干しを食べたみたいに渋い顔をしていた。
しょうがない、教えてやろう。
「子供が大人になる瞬間のことを言うんだよ」
すると母は、スイカの種を盛大に噴き出してゲラゲラと笑い始めた。
「あっははは! なーんにも分かってないんだこのバカ娘は」
「なんだと」
「ぜんっぜん、逆だから」
「ぎゃくー?」
何が、誰の立場から見た、逆だ?
母は意図してふわふわした言い方をしている。見ろ、誇らしげに、実の娘を嘲笑っている。
「では母上は青春をお持ちだというのですか」
「持ってるけど、今はない」
「ええ、なにそれ」
「なにそれって、置いてくればないでしょ。今は実家に預けてるから」
「ノスタルジーってやつですか」
小じわのなかったピッチピチの若い頃。とかなんとか言うと本気で怒られそうなのでやめておく。私って大人だなぁ。
こういう気遣いができるようになったのは大きな進歩だ。
ずっとマイペースだねって言われてきたから。
「見上げすぎ」
「ほ」
母がビシッと指をさして得意げに笑っていた。
「そこら辺に落ちてるでしょ、青春なんて」
それだけ言って、母はスイカにかぶりついた。
「んほー! 青春の味!」
赤いけどなぁ、スイカ。
やっぱり青春って、形あるものじゃないと思う。
青い春って書くからダメなのかな。一瞬を生きる、でセイシュン。生瞬。の方がいいんじゃないだろうか。
多分セイシュンってそんなようなことだと思うから。
部屋に戻って宿題を再開することにした。
本当は嫌だけど、嫌なことから逃げてたら前に進めないから。
「よーしやったるぞー!」
暑い夏の昼。シャツの袖をまくって、シャーペンを握りしめた。
一時間ほど経つと、シャーペンは私の口の上に乗っかっていた。口をタコにしてバランスをとるゲームをする。嫌なことから逃げるためなら、こんな馬鹿げたゲームでも面白いものだ。
思い立って立ち上がり、電気の紐を殴ってみる。
帰ってくる紐を避けて、またパンチ! ボクサーの真似事を十分くらい続けた。
するとスマホが震えて、私はデンプシーロールをしながら机に近づいた。
「あら」
魚さんから電話が来ていた。
珍しいな、と思いつつもどんな話をしてくれるんだろうとワクワクしながら応答のボタンを押した。
「もしもーし、猫でーす」
『あ、猫さんお久しぶりぃ』
語尾が溶けていた。魚さんも暑いのかな。
「どうしたの?」
『てゃ』
なんかの途中みたいな声だ。
「てゃ、って?」
『猫さんの声が聞きたくて』
キザなことを言ってくれる。
『あ、じゃなくて。猫さんの声が聞きたかった』
「じゃなくてじゃないこともないんじゃない?」
『じゃないかなぁ』
この辺りで、私は確信していた。
たぶん、たいした話じゃないな。
背にもたれて、足を机に乗せた。先生が見たらノータイムで注意してきそうな体勢でスマホの向こうの魚さんに話しかける。
『夏休みどうしてた?』
「海に行って以降はずっとだらけてたよ。そんで今は放置してた夏休みの宿題と睨めっこ中」
『勝てた?』
「負けた。途方もなさすぎて笑っちゃうよ。特に単語練習が。もうお経みたいになってる」
『あはは、分かる』
ん?
『わたしはもういいかなって投げ出したよ。使い切れなかった花火もあるし、どこかで消費してこようかな』
今、魚さん。笑った?
『猫さん?』
「あ、ううん。それで?」
『猫さんも、どうかなって、花火。一緒にしない?』
少しだけ、声色から緊張が伝わってくる。だけど、どこか嬉しそうで。電話越しなのに魚さんの口元が想像できた。
魚さんも、私と出会ったことで変わってくれたのだろうか。
「えー、でも宿題あるしなぁ」
『そっかぁ』
残念そうな魚さんの声を最後に、会話が途切れる。
時々スマホの向こうから風鈴の音が聞こえてきて、窓際なのかな、なんて想像してみたりした。
『あのね猫さんそういえば答えてなかったから答えるけどわたしもすきだよ』
「あ、ちょっ、なに?」
そんな静寂のなかいきなり聞こえてきたから、置いていかれそうになった。
「トキの学名ってニッポニア・ニッポンなんだけどなんでニアってついてるのにニッポンなんだろうねそこまでいったら全部英語にすればいいのにでもそれだとジャパニア・ジャパンになっちゃうかなそもそもニッポニアってなんだろうニッポンニアじゃないんだね」
「お、おおう」
本当に置いてかれていたみたいだった。話の途中で居眠りでもしたか私。
『だから』
足踏みするみたいな魚さんの声。
『一緒に花火したいな』
うー、とのぼせたみたいに額が暑くなる。どうしようかなぁ。
天気は良いから、自転車で会いにいけるだろうけど。
宿題がなぁ。
ここで逃げちゃったら私は一生私のままな気がする。来年は受験も控えているわけだし、それが終わればすぐに大学生。大学を卒業したら・・・・・・どうなるんだろう。
スーツを着られるくらいには痩せていたいけど。
『しようよー! 花火しようよしようよしようよしようよー!』
「うわ! うるさ! 分かったよ行くよ!」
『本当? わーい』
いつのまにか勢いで押し切られてしまった。
それはマズイでしょと思う勤勉な私と、行っちゃおうぜ絶対楽しいぜと企む不真面目な私がいる。勝ったのは後者だった。
はぁ、とため息を吐く。
舵を切っちゃったなぁ。
決めちゃったなあ。
明日先生に怒られるなぁ。
「じゃあ、何時にする? あんまり夜中だと危ないから、夕方にしよっか」
『猫さんの家でしよ。今から向かうね』
「ええ!?」
『だめ?』
「ダメじゃないけど」
『まあもう向かってるんだけど』
「早!」
そういえばさっきからチャカチャカ音が聞こえてたけど、これ自転車を漕ぐ音だったのか。
次第に風を裂く音が混じり始めて、スマホの向こうからはそんなような雑音と、魚さんの吐息だけが聞こえてくる。
自転車に乗りながら電話しなくてもいいのに。
でも、手放したくないと思ってくれているなら、ちょっとだけ嬉しい。
「がんばれー」
『ふい、ふいぃ』
魚さんの頑張る声が聞こえる。
これって、なんなんだろうなぁ。友達、なのかなぁ。それ以上を望んでいる自分もいるのだろうけど、不明瞭な道でも不満はない自分もきちんといてくれた。
まあどうせ、来年にはまた変わってるから。
春夏秋冬いろんな季節を巡り巡って、人は大人になっていく。大人になるその瞬間を青春というのなら、私はこれからも思う存分青春を楽しもう。
『ぎゃ、ぎゃくぅー』
道でも間違えたのか、魚さんの情けない声が聞こえる。
「あはは」
それじゃあ、魚さんが家に着くまで電話を繋いでいることにしようか。
気が付けば私は、とっくに勉強机から離れたところに立っていた。
時計を見ると、まだ三時だ。
夏の昼って、案外長い。夜も長い。
人生って、長いなぁ。
スマホを耳に当てたまま、ベッドに飛び込む。
枕に頭を乗せたその瞬間、ジャリっという音がして私は思わず飛び起きた。
な、なんだ?
おそるおそる枕を持ち上げて見る。
するとそこには。
魚さんがくれた、セミの抜け殻が落ちていた。
魚は猫で釣る。 野水はた @hata_hata
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