第30話 蛸は塩で炙る。

 お盆のあとに海へ行くことになったんだけど、そのメンツがまた妙で。私を含めた二組の奴らがこぞってやってくるらしい。


 本当はそんな集まりに行く義理もないんだけど、魚さんがどうしても私に来て欲しいと言うので仕方なく重い腰をあげることにした。


 魚さんから何かをお願いされたことは、あったかもしれないけど。あんなふうに困ったような魚さんは初めて見た。魚さんでも、困ることがあるんだな。


「自転車」

「友達」

「いる」


 リビングで寝転ぶ母の尻に声をかけた。


 母との約束で、友達同伴なら自転車に乗ってもいいということになった。母も母で、いつまでも娘の行動範囲を狭めるのは可哀想だと思ったのかもしれない。その調子で優しいお母様になって欲しいものだ。


 リュックに水着を詰め込んで外に駆け出すと、ぶん殴られたみたいな暑さに目が開かなくなる。


 このあいだおじいちゃんちから持ってきた麦わら帽子を深く被って自転車のスタンドを足で蹴る。


 サドルに乗ると、ズボン越しでも熱さが伝わってくる。黒は熱を吸うというし、今度サドルを白に塗りつぶそうかな。ペンキとかでいいのかな。


 本当にやるかどうか微妙なラインの考え事をしながら自転車を漕ぐ。海には魚さんの棲んでるアパートのほうが近いので、私が向かうことになっている。


 魚さんのアパートの前に着いてメッセージを送ると、すぐに魚さんが出てきた。


「あ」


 髪、切ったんだ。


 腰まで伸びていた黒い髪が、肩甲骨あたりまでに留まっている。それでも長いけど。


 私は夏休みに入る前に髪をバッサリと切った。これをボブというらしい。ボブでもマイケルでも私はなんでもよかったんだけど、美容師の人が気を遣ってオサレにしてくれたのだ。


「暑いね」

「だからこそ」


 魚さんが自転車を引いて私の元へとやってくる。私と同じような、銀色の自転車だった。


「はやく海入りたいねー」

「急ごう!」


 魚さんが「おおー」と手を挙げる。袖のない白いワンピース。白い肌、無垢な脇が露出している。更地みたいなその肌は、見ていると危なっかしい。日焼け止めは、塗ったのだろうか。


 魚さんと並走して海を目指す。歩く人たちを追い越しながら、チャカチャカとチェーンを鳴らす。信号で止まって、止まっていた時間を取り戻すかのようにまた全力で漕ぐ。


 坂道は立って漕いで、下り坂は「うわっほーい」と足を離して風に乗る。


 海には三十分ほどで着いた。


「なんで二人ともそんな汗だくなの」


 先に待っていた二組の人たちが、私と魚さんを見てドン引きしていた。


「ども」


 この人たちと面識があるわけではなかった。私が来るということは魚さんが伝えておいてくれたはずだけど。


「んじゃ行こう!」


 聞くところによると、私以外にも他クラスの人は来ているようだった。クラスが替わっても変わらない友情。いいなぁ。私は前のクラスでつるんでいた奴らとはもう話すこともなくなったから。


「猫さん、いこ」


 八人ほどの集団を追いかける。


「魚さんでも緊張するよね、これは」


 クラス替えから四ヶ月経ったとはいっても、一緒に海へ来て手放しに楽しめるほどの関係を作るのは難しい。


「でも誘ってもらったんでしょ、よかったじゃん」


 ジーっという蝉の鳴き声に合わせるように、魚さんが私をじーっと見ている。


「そんなこと一言も言ってないのに」

「なんとなーくね」


 魚さんは面白い奴だから、いくらマジメ集団の二組とはいっても気にならないはずはない。海へ誘われる経緯の想像は簡単だった。


 ロッカーに服を突っ込んで水着に着替える。去年よりも着替えるのが早くなった気がする。たぶん、わかんないけど。


 たった一年でも、記憶には靄がかかる。でも、忘れられないこともいくつかあって。結局脳みそっていうのは自分の好きなことにしか興味がないんだろうな。分かるよその気持ち。


 魚さんも私と同じスク水だった。私たちの他にもスク水を着ている子は何人かいて、唯一ビキニを着ている子は恥ずかしそうにしていた。


「私も去年はそんな風な水着着てたから大丈夫だよ。それにいい水着を着るとね、物腰が大人っぽくなるんだよ。いい姉ちゃんに見えるぜ」


 親指をぐっと立ててやると、その子は「なにそれ」と言いながらもくすくすと笑っていた。


「あたしたち先に海の家行ってくるけど、みんなはどうする?」


 一人がそんなことを言ったので、私と魚さんは顔を見合わせた。


「私は海で泳ぎたい」


 ぱっと手を挙げてみる。


「わかった! たしかに、海に来たんだから泳がなくっちゃね。あたしらも目的果たしたら合流するわ!」


 それから二手に分かれて、私と魚さんは海へ向かうことになった。


 言ってみるもんなんだな。


 意見や都合、いろんなものがぶら下がって重くなった腕を、どうしてか挙げることができた。なんでだろう。今日は異様に、軽かった。


「猫さん、この前くれたトマトとナス食べたよ。すっごく美味しかった。お母さんも喜んでた」

「よかった。おじいちゃん自慢の野菜だから」


 自分のことじゃないのに褒められて嬉しい。こういうのを誇らしいっていうのかな。


 それから魚さんと海で泳いで、足元を泳ぐフグを捕まえようと必死に水底をかきわけた。そんな私を見て、魚さんは怯えていた。熊にでも見えただろうか。


「タコ」


 魚さんがぷかーっと水面に浮かんでそんなことを言う。じゃあ食うか。タコ好きだし。


 私がぷかぷか中の魚さんにダイブすると、大きな水しぶきがあがる。魚さんの細い体は、タコの触手みたいに私の腕をするりと抜けていく。


 一時間ほど経つと他の子も合流してきた。海にくるなりさっそく魚さんの手を引いた子がいた。


「一年生のときから魚さんと仲良くなってみたかったんだ! ねぇ、一年生のときも、髪染めてたよね。なんであんな色にするの?」

「四季折々だから」

「えー? でも春なのにかき氷だったよ」


 不服そうにその子が頬を膨らます。


「まあいいや。ねぇ、一緒に泳ごうよ。せっかく同じクラスになったんだし! それにグラデの入れ方も教えてほしいし!」

「ぐ、ぐらびてぃなんですよね」

「あ、魚さん!?」


 魚さんはその子から逃げるように海へと飛び込んだ。でも浅い。海に尻と頭だけが浮いていた。


 そのままネッシーみたいにうねーっと移動していく。


「ど、どういうことだったの? あたし振られたのかな」

「嫌われてるんじゃない?」

「えー!? もう!? ねえ、猫さんって魚さんと仲良いよね、あれってどういうことかわかる?」


 いきなり話の矛先が私に向いたので驚いた。


 魚さんと私が仲良い。遠くから見ても、そう見えるんだ。


 そういえば母も、そんなようなことを言っていた気がする。


「どうだろうね」

「ね、猫さんでもわからないの!?」

「うん。でも、何も考えてないわけじゃないと思うよ」


 水面に浮かぶネッシー。遠くから見たら恐竜の生き残りか!? なんて思ってしまうけど、水の中を見たらただの舟かもしれないし、流木かもしれない。


 でも、もしかしたら、恥ずかしさに頬を染めてテンパっているだけの大きな魚かもしれない。


 見ただけじゃ、分かんない。


「魚さんの気持ちを理解するのにはもうちょっと時間かかりそう」


 困ったようにその子が笑う。私も愛想をよくするみたいに、あははと笑う。


 魚さんを理解してあげられるのは、私だけでいいかなぁ。疲れるよ、きっと。



 空が茜色になると、私たちは海からあがってシャワールームに向かった。


 時間帯もあってか、シャワールームは非常に混雑していた。


 一つ空きを見つけたけど、まだ後はつっかえている。


「魚さん、一緒に入る?」

「お、おお?」


 ちょっと誘ってみただけなのに、魚さんの黒目はぐるぐると回っていた。


「混んでるし」


 私がそう言うと、魚さんは観念したように頷いた。


 シャワールームの個室は入ってみると案外狭く、掃除用のロッカー二つ分くらいの広さしかなかった。


 ぬるいシャワーが二人に行き渡るように、体をくっつけて洗う。魚さんの方が背が高いから、自然と魚さんから滴る水を探しながら浴びることになった。


 当たり前のように触れる魚さんと私の肌は、じっとりと汗ばんでいる。それを全部洗い流せるほどシャワーの水圧は高くない。


 胸元に粘ついた水が溜まって、布を引っ張って空間を作る。これまで守られていた場所に水が落ちて、体がピクッと震える。


「せっけん欲しいね」


 ちょっと上を見ると、至近距離にいる魚さんが私をじっと見ていた。


 魚さんと視線を交差させた回数を、私はいちいち覚えていない。でも、出会ってから今まで、何度も交わった気がする。


 魚さんのことを知りたくて、気になって、惹かれて、憧れて、手を伸ばした。魚さんはこの通り背が高いから、つま先を立てたこともあった。


 一年って振り返ってみると案外短い。でも、変わっていくものはたくさんあった。


 魚さんとの関係や、クラス。それからおじいちゃんからもらうお小遣いの値段。つるむメンツも変わった。移動方法も変わった。変わっていくものばかりだ。


「あ、あの。猫さん」


 魚さんが、タコになっていた。さっきの続きかな。


 赤くなって、口をすぼめている。


「一個、一個だけ嘘ついた」


 触れ合う肌から直接、魚さんの鼓動が伝わってきた。すごく早い。


「あのね」

「うん」


 魚さんの手が震えている。魚さんが、緊張している。魚さんが、言葉で気持ちを伝えようとしている。


「一番好きなのは虫って言ったけど、本当はそこまで好きじゃない」

「え、じゃあ一番好きじゃないじゃん」


 魚さんはこっくりと頷いた。


「だから、ランキング変動」

「したのか」

「しました」

「へー」


 わざと目を細めて魚さんを睨んでやる。魚さんは私から逃げるように顔を背けた。


 その様子が妙に可笑しくて私は笑った。


「あのさ、知ってるからそんなこと」

「へ」

「魚さんのことくらいもう知ってるから」


 風邪を引いた魚さんの看病をしたときから、まぐろ丼を食べたときから。なんとなく気付いてた。


 でも、治せとは言えなかった。欠点とも言える魚さんの習性に惹かれたのは私だから。


「そんな恥ずかしがらないでよ。私だってカロリー高いデザート買うとき、恥ずかしいから健康志向の寒天ゼリー混ぜてカモフラージュするし。気持ちは分かるよ」

「うおわかるの」

「うおわかるの」


 この世で魚さんのことを理解しているのは私だけ。別にいろんな人に分かってもらえるようになんてことは思っていない。私はそこまでお人好しじゃないし行動力や正義感に溢れてはいない。


 でも、それは今年の私の話だ。


 また春夏秋冬を繰り返せば、私は変わっているかもしれない。


 それは恐ろしくもあり、また楽しみでもある。


 夜中にプリンを買うことだけが娯楽だったあの頃の私には、空から鯉が降ってくることなんて想像すらできなかっただろう。


 だから来年には、地面からハトが生えてくるかもしれない。可能性は、ゼロじゃない。


 時間の経過って、そういうものだ。


 狭い個室でぬるいシャワーを浴びているというのに、花の蜜のような甘ったるい空気が漂い始めていた。


 つま先を立てると、魚さんは首を傾げた。まだ、何をされるかは分かっていない。


「にゃーん」


 私が鳴くと、魚さんはようやく理解したみたいだった。


 一度目は鯛焼きの味。


 二度目は枝豆の味。


 そして三度目は、思わず顔をしかめてしまうような、塩の味だった。

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