龍神の森の巫女
月代零
龍神の森で
頬に当たる夜風が心地よい。星はさやかにきらめき、月は丸く辺りを照らしている。
龍の鱗が、結晶のように輝き、砕けて地上に降り注ぐ。
わたしはその光景に、魅せられていた。
「おはようございます、カイ。今日も良い天気ですね」
朝食の後、日課である廊下の掃除をしていると、近くの部屋の戸が開いて、艶やかな長い黒髪の少女が顔をのぞかせた。彼女はにこりと花が咲くような笑顔で微笑みかけてくる。白い着物と朱色の袴がよく似合っていた。
「お、おはようございます、ニナ様」
その笑顔が眩しくて、カイはややしどろもどろになりながら答える。彼女の顔が見られただけで、今日は良い日だ。カイはそう思った。
「ねえ、カイ。少しよいですか?」
周囲に他に人がいないことを確かめると、ニナは小さく手招きする。
「このお菓子、先日村人からいただいたの。あなたにもあげようと思って、とっておいたのよ」
言って、油紙に包まれた何かをカイの手に握らせる。包みを開くと、つやつやと光るべっこう色の飴玉が転がり出た。
「わあ……。いただいてよいのですか?」
「もちろんよ。他の人に見つからないようにね」
唇の前に人差し指を立てる姿は、なんとも愛らしい。
「ありがとうございます!」
顔を見られただけでも至上の喜びなのに、こうしてお菓子を分けてもらえるなんて、夢のようだった。この龍神の社に暮らす者で、歳が近いのはニナとカイだけだった。それもあって、二人の距離は主と家来のそれより少し近いかもしれない。
この村は、龍神に守られている。清らかな水源も、肥えた土壌も、龍神の棲む森からの恵みだ。
ニナはこの村の巫女だった。村中の人々から尊敬され崇められ、何不自由ないように大切に育てられる。
そして、十五の年になると、龍神の嫁となる運命にある。その日は、数日後に迫っていた。
「ニナ様、こんにちは!」
「お元気そうで何よりです、ニナ様」
「ニナ様―!」
「皆さん、ごきげんよう。今日も良い日ですね」
外を歩くと、村人から次々に声がかかる。ニナはそれににこやかに応じている。カイはその後ろを、数人の護衛たちと共に歩く。
こうしてそばにいられる時間も、あとわずか。そう思うと、胸が痛んだ。
カイは親のない子だった。生まれ育った村を戦で焼け出され、逃げ惑っているうちに、気が付くと龍神の森へ迷い込んでいた。
「父ちゃん……母ちゃん……」
涙はとっくに枯れていた。何日もまともに食事を摂っておらず、空腹と頼れる者のいない心細さでどうにかなりそうだった時、森の中で龍神に舞を捧げるニナに出会ったのだ。
天女が舞っているのかと思った。木立が少し途切れて広場のようになっていて、月明かりが冴え冴えと注いでいた。
その光の中で、彼女は扇を広げ、着物の袖を払いながら、ゆったりと、しかし力強く舞っていた。白い着物と朱色の袴が、薄明かりの中で鮮やかな対比を浮かび上がらせていた。
その神々しさに、思わず見とれて、息をするのも忘れるくらいだった。
しかし、ふと視線を巡らせた彼女と目が合う。彼女は舞を止め、不思議そうに首を傾げながら、カイの方へ歩み寄ってきた。
白い肌に、くりっとした瞳。濡れた烏の羽のような髪。並み外れて美しいが、こうして話ができるということは、天女ではなく人間なのだろうか。もっとも、天女がどういうものかカイは知らないが。歳は自分と同じ十歳くらいに見えた。
「あなた、どこから来たの? この森は、決められた人しか入ってはいけないのよ」
そうだったのか。では禁を犯した自分は罰せられてしまうのだろうか。
恐ろしくて言葉を失っていると、腹の虫がぐきゅう、と情けない音を立てた。
彼女はきょとんと目を見開くと、
「お腹が空いているのね?」
少し待って、と言って懐を探った少女が取り出したのは、きれいな刺繍が施された小さな袋だった。
「手を出して」
言って、袋を逆さにしてカイの手のひらに中身を空ける。転がり出てきたのは、色とりどりの金平糖だった。
「甘いものは貴重だけど、少しだけ持ち歩いているの。他の人には内緒よ」
カイは恐る恐るそれを口に入れる。とろけるような甘さが、口の中いっぱいに広がった。
そして、彼女に連れられて森を出て、以来お社で下働きをする下男として暮らしている。
食うものに困らなくはなったが、あの時の金平糖の味は、今でも忘れられない。
あの時からずっと、カイはニナのことを慕っている。龍神の妻となる娘に、この想いを打ち明けるわけにはいかないのだけれども。
「皆に、龍神様のご加護がありますように」
ニナは村の中央の広場で龍神へ捧げる舞を披露し、祈りを捧げる。
数日に一度行われるこの儀式も、今日が最後になる。龍神の元へ嫁いだ後は、龍神と共にこの村を見守り続ける。そうやって、代々村は守られてきた。
龍神の妻になることは、とても名誉で喜ばしいことだ。皆、そう思っている。
だが、カイにとってはニナが目の前からいなくなってしまうという、悲しい事実があるだけだった。
これから三日間、ニナは禊として、誰にも会わずに過ごす。彼女を連れ出すなら、またとない機会だった。このまま彼女と会えなくなってしまうなんて、カイには耐えられなかった。
龍神の妻となった後、彼女はどうなるのだろう。暗い森の中で、誰にも会わずに暮らすのか、神の住まう異界へ消えてしまうのか。それは誰にもわからない。
だが、いずれにしてもそれはとても寂しいだろうと、カイは思う。生まれた時からそう運命付けられているなんて、あんまりだ。
だから、ここから逃げ出して、どこかで二人で暮らそう。
そう決心し、カイはニナのいる奥殿へ向かう。
見張りの目をかいくぐり、ニナのいる部屋へ向かう。
彼女は、庭に面した障子戸を開け放して、夜空を見上げていた。
「ニナ様」
カイはそっと声をかける。ニナは驚いて目を見開いた。
「どうしたのですか。こんなところに来てはいけませんよ」
「ニナ様、俺と逃げましょう」
カイの言葉に、ニナは黒い瞳を大きく瞬かせた。
「俺が必ずあなたを幸せにします。この世界からいなくなるなんてだめです。だから、一緒に行きましょう」
ニナはぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、その言葉を聞いていたが、やがて飲み込んで、ふっといつものように微笑む。
「わたしのことを心配してくれているのですね。ありがとう、カイ」
でも、と彼女は続ける。
「わたしは龍神様を、この村を愛しています。わたしを育ててくれた皆が、この村の全てが大好きです。だから行くのですよ。生まれた時から決められていたことだけれど、いやだと思ったことはありません」
カイは何も言えずに、彼女の言葉を聞いていた。
「この地の水も、風も、土も緑も、とても美しい。それをもたらしてくださる龍神様も、わたしは愛しております。わたしは龍神様とひとつになって、ずっとあなたたちを見守りますから」
だからどうか、寂しく思わないでくださいね。
そう言ってニナは微笑む。
その瞳に浮かぶものに、カイは息を飲んだ。
彼女の中にあるものは、村人たちへの慈しみや、自分を育んでくれたこの大地への感謝、そして、龍神への愛だった。
その深い決意に、淡い恋心など敵うはずもないことを、カイは知った。
そうして、期日を迎えると、ニナは純白の婚礼衣装に身を包み、森の奥へと消えていった。その後、彼女の姿を見た者はいない。
それから幾年かの時が流れ、カイ自身も伴侶を得て、子も生まれた。
しかし、あの龍神の妻となったあの少女のことを、忘れたことはない。
彼女は今も、この大地のどこかにいるのだろうか。
今日も、龍神の森からの流れは田畑を潤し、豊かな恵みをもたらしてくれる。
ならば。
俺は彼女の愛したこの地を守ろう。
カイは神域との境界線ぎりぎりに立って、森の奥を見つめた。
満月の夜に、空を渡る大きな龍の姿が見えた気がした。星の欠片かと思うような光の粒が降り注ぎ、大地に溶けていった。
了
龍神の森の巫女 月代零 @ReiTsukishiro
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