あせくしある

真野てん

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 14歳。

 まわりが思うほど子供でもなく、自分で思っているほど大人でもない宙ぶらりんな時代。

 世間ではそれを思春期と呼んでいる。

 時田ときた 小春子こはるこもまた、そんな時代の申し子だった。


 とくに彼女は168㎝という恵まれた体格も手伝ってか、年齢以上に見られがち。

 進級してレギュラー争いも激化する部活のバレーボールに集中したいが、自然とクラスメートらの他愛のない恋バナに巻き込まれていった。


 正直、億劫だった。

 小春子には生まれてこの方、他者に対して「好き」という恋愛感情が芽生えたことがない。

 幼心に同性愛も疑ったが、異性はおろか、同性に対しても、友愛以上の「好き」を感じたことなどなかったのである。


 かつてはこれをそのまま口にすると、友人たちはこぞって彼女のことを血も涙もない無感動な冷血人間であるかのように罵った。

 自分も子供であったが、相手もまた同年代の幼さである。

 悪口にブレーキを掛けるメンタリティも持ち合わせていないのだから、当時はかなり傷ついたものだ。


 中学へ進むと多少の知恵も付いた。

 恋愛なんてまだ自分には早いから――と、当たり障りのない返答が出来るようになる。


 すると今度は、やれ「まだ本当の恋を知らないだけ」とか「運命のひとに出会っていない」みたいなセリフを浴びせてくる。

 まるで彼女を洗脳したいかのように。


 煩わしい時間を少しでも回避せんがため、小春子は昼食後の休み時間の多くを図書室で過ごすようになった。

 母の作ったお弁当を物凄い勢いで胃に納めてしまうと、さっさと教室をあとにする。

 たまに捕まることもあるが、おおむね脱出には成功していた。

 小学校から面識のある子たちからは「最近、付き合い悪いよね」と陰口を叩かれることもしばしば。だが興味もない話題で時間を浪費するよりは随分マシだった。


 そんなことが常態化していたある日、小春子は「彼」と出会う。


 小春子はいつものように早々と弁当箱を空にすると、大きな身体を縮こまらせて、こっそりと教室から出ていった。

 慣れてきたのか、一連の挙動がスマートになってきている。

 上履き代わりのスクールサンダルをパタパタと鳴らし、ご機嫌で図書室へと向かう。

 入室前に手洗い場で指先を清めると、横開きのドアを静かにスライドさせた。


 開放感のあまり、毎度、鼻歌が出てしまうのだが、その日に限っては「フンフーン」くらいですぐに止まった。

 いつもとは違う図書室の異変に気づいたからだ。


 図書室ではお静かに――。


 それは分かっている。

 しかしそれにしたって静かすぎる。


 いつもであれば、たとえ図書室とはいえ多少のざわつきは耳に入る。

 だがその日はしわぶき一つしないという比喩がしっくりとくるほどの静謐さであった。


 誰もいない。

 いやそうではない。


 緑色のカーペットのうえに几帳面に並べられた作荷台。

 そこにただひとり、ポツンと座って脚を組み、軽く頬杖をついて文庫本を読んでいる男子生徒がいる。

 彼と小春子、そして当番の図書委員を含めても、いまこの場所には5人しかいなかった。

 静かなはずである。


 たまたまなのか、それともいつもより早めに教室を出てこれたからなのか。

 利用者のいない図書室で、小春子は「彼」を初めて認識した。


 女の子ような顔立ちに前下がりのボブ。男子生徒にしては長すぎる髪型だが、学校側はそれを許している。なぜそんなことを小春子が知っているのかというと「彼」はちょっとした有名人であり問題児でもあったからだ。


 長谷川はせがわ りく

 学区が違ったので小春子は小学生の頃のことは知らないが、彼は中学へ進学する際に「女子生徒へのスラックス着用が認められているのに、男子生徒がスカートで登校出来ないのは納得がいかない」と親同伴で学校側に掛け合ったことがあった。


 地方局ではあるが、一時期はマスコミにも取り上げられてしまい、困窮した学校側だったが、本人の性自認を確認したうえで、学業に支障をきたさないならばあえてスカートをはかずともいいのではないかという提案をしたことで、本人と家族もこれを了承した。

 それ以来、先生たちも「彼」の身だしなみに関してはあまり強く言えないのだそうだ。


 たしかに彼の容姿はまるで女子のそれだ。

 肩幅も小さく、背も小春子の口元くらいまでしかない。そんな彼に規則内の男子っぽい髪型が似合うとは思えないが。

 無理強いをすれば虐待とも取られかねない。学校側の苦悩もまた察するに余りある。


 そんな彼が一体なにを読んでいるのか。

 小春子は気になった。


 彼女は横を通り抜けがてら、大きな身体をよじって彼が片手に持つ文庫本の背表紙を盗み見ようとした。

 だがあたりには彼女たち以外に利用者はおらず、ただでさえデカい小春子の動作は目立つ。


 彼女が文庫本の正体を吉川英治の三国志だと看破したのと、彼のほうから小春子に声を掛けてきたのがほぼ同時だった。


「何度も読み直してるし史実も知ってるはずなのに、もしかしたらこのまま孫策そんさくが天下統一してしまうんじゃないかって毎回思ってしまうんだよね」


 そう言って彼は――長谷川 陸は小春子に笑い掛けた。

 ちょっとハスキーがかったソプラノ。

 声もまた女の子そのものだった。


 男の子の声変わりっていつだっけ?

 小春子はそう心のなかで呟いた。

 そして返答しないのも失礼だなっと思い、とっさに――。


「私は何度キャッチ&リリースされても懲りない孟獲もうかくに萌えるの」


 小春子がそう応えると、陸はニッコリと笑みを浮かべて「長谷川 陸」とだけ返して小春子に握手を求めてきた。


「時田 小春子。時間の時に田んぼの田。小春日和の小春って書くの」


 彼女がいつも初対面のひとにしている自己紹介をすると、今度は彼が。


「鬼平犯科帳の長谷川平蔵の長谷川に、大陸棚限界委員会の陸って書いて長谷川 陸だよ」


「ちょ、そのチョイスっ」


 ふたりはわずかこの数分の会話ですぐに打ち解けたのだった。

 それからというもの小春子と陸は、時間があえばふたりでいることが多くなった。

 読んだ本の感想を言い合い、将来のことについて相談し合ったり。

 お互いが気を許せる、唯一の存在。


 だがそれは男女の関係というわけではなかった。

 よく気の合う年頃の異性。

 ソウルメイトという言い方が一番しっくりときたかもしれない。


 小春子が部活のない休日は、ふたりで買い物などにも行った。

 かわいい小物や輸入雑貨、洋服など扱う店を冷やかしに。


 どう見ても美少女にしか見えない陸だったが、こういう店にひとりで入るのには気が引けてしまう――ということで小春子は付き添っているのだが、はたから見ても違和感などはない。

 むしろ太まゆ丸顔でやたら図体のデカい万年ジャージ姿の自分よりも、はるかにお似合いだよと言ってやりたかった。

 その日も水色のパーカーに白のホットパンツ。ほんとに男かとツッコミたくなるほど綺麗な脚がまぶしかった。

 街中を歩いていても、10人中に8人の男が振り返る。

 そして――陸の貞操を守らんと鬼の形相をした小春子を見てはナンパを諦めるのだった。


 一通りお目当ての店を冷やかして回ると、最後はいつも古民家を改装したというコーヒーショップでおしゃべりをすることがルーティンになっている。

 店内に併設されている洋菓子店の日替わりスイーツが毎回楽しみだった。


 清潔感のあるパティシエさんが、イチゴのタルトとアイスカフェオレを持ってきてくれた。

 カフェオレはミルクと氷の入ったグラスに、その場でコーヒーを注いでくれる。

 丁寧な仕事で氷に伝わせ、琥珀の液体がグラスへと落ちていく。

 完全に二層に分かれた白と黒。

 混ぜるのがもったいないとさえ思うほどに綺麗。


「ごゆっくりどうぞ」


 パティシエさんはいつもそう言って小春子たちにウィンクをしてから、バックヤードへと消えていく。そうした所作が嫌味にならないのが凄いと、彼女は常々感心している。


 甘いスイーツに美味しいカフェオレ。

 いつもとおなじ他愛もない会話。


 すると陸が何とはなしにこんなことを――。


「アセクシュアルって言うんだってさ。ぼくたちみたいなの」


「あせく……しある?」


「そう」


 耳なじみのないカタカナ言葉に、小春子はカミカミである。陸はカフェオレをストローで静かにかき混ぜながら言った。


「他者に対して性的欲求や恋愛感情を抱かないセクシュアリティ――だってさ」


「ああ……」


 なるほど、と合点がいった。

 性の多様性だのLGBTQだのとはよく聞く話だ。もしやと思って、自分でも調べないではなかったが恋愛自体に気持ちが入らない性的指向があるというのは小春子も初耳だった。


「なんかね。恋愛しないことがカッコいいと思ってるんじゃないのって言われたことがあって」


「うん」


 心底、面倒くさそうな陸の口振りに小春子が応じる。

 汗をかいたグラスのなかで、氷がカランと乾いた音を立てた。じわじわとミルクとコーヒーが混ざってゆくが、透明な塊だけがいつまでもまわりと溶けあわない。

 まるで自分たちのようだと小春子は思う。


「そんなわけないじゃない。わざわざそんなことをさ。言う必要がないよ。カッコつけに。信頼できるひと――だと思ったんだけどな」


 伏せられた長いまつ毛が窓から漏れる夕焼けに照らされて白い肌に影を落とす。

 小春子はストローの包み紙を弄んでは何かを言い掛け、やっぱり止める。言葉にするのが難しい感情に困っていた。


 そんな彼女を見た陸は、笑顔を作って「ごめん」と言った。


「自分でもよく分かってないんだ。自分の本当の気持ち」


「分かるよ。私もそうだもん」


 ふたりはしばらく押し黙った。

 だけど言葉はたくさん交わしていた。心のなかで。

 言葉にならない複雑な気持ちを。

 そうしたらフッと、張り詰めていた糸が切れてしまった。いつもなら負けてなるものかと我慢していた気持ちの糸が。


「恋愛って――しなきゃいけないの? ひとを好きにならないってそんなに変なことなの?」


 言葉にならない思いは、やがて冷たい雫となって小春子の頬を伝った。

 まわりから責め立てられるかのように浴びせられる「普通」という言葉は、知らず知らずのうちに彼女を追いつめていた。

 大人びているようでまだまだむき出しな幼い心は、激しい感情を受け止め切れないでいる。


 そっと。

 陸はハンカチを差し出して、彼女の手に触れる。


「変じゃないよ。変じゃない。絶対」


 同じように潤んだ瞳。

 だけど決して涙は流さないところに、やっぱり男の子なんだなと小春子は思った。


「この先、何年かして――」


 陸は優しい声で気恥ずかしそうに話し出した。


「それでも誰かを好きになることがなかったら――」


「……なかったら?」


 鼻を真っ赤にした小春子はハンカチで目を拭いながら聞き返す。

 健康的な太いまゆがハの字に垂れている。


「一緒になる?」


 いつしか完全に溶けあったカフェオレのなか、最後まで消えなかった異物の氷。そんな自分たちのような透明の塊も気づけばいなくなっていた。

 社会に認められなくても、したたかに溶け込んで――。


 これは恋ではない。

 だからと言って恋に劣るというわけでもない。そんな単純な話ではないのだ。


 苦しまなくてもいいよ――。


 陸はそう言ってるんだと。

 彼女は、彼の言葉にならないたくさんの想いに救われたのだ。

 

 上目遣いに答えを待っている陸に向かって、小春子は泣きはらした顔をくしゃりとさせて、あっかんべーをした。


 照れ隠し。

 陸にもすぐに見破られた。その答えは――この世界でふたりだけが知っている。



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あせくしある 真野てん @heberex

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