太陽と向日葵

桑鶴七緒

太陽と向日葵

時代は昭和30年。東京の街が混沌とした背景から次第に色づき始めた頃の話であった。

今、此処に記してある、私が体験した出来事について語っていこうと思う。


私の年の頃は30歳を迎えたばかりだった。

名前は何れか明かしていくので、後に伝えることにしておこう。


かつて私には愛する人がいた。あの忌まわしい戦争で全て失くしてしまった。

妻も子供も大切な仲間たちも一瞬のうちに居なくなってしまった。


戦後、私は故郷であるこの東京の地に足を下ろし、再起をかけようと陸軍兵士から違う職へと…生まれ変わりたいという葛藤の最中、町工場などの日雇い重労働から中小企業の役職に籍を置いたりとがむしゃらに働き続けていた。


しかし世の中はそう甘くはない。我も我もと、労働者になりたい者たちで溢れていく中で埋もれる様に、まるでアリジゴクの渦の中をもがきながら這いずり回るかのように目まぐるしく日常を過ごしていたのである。


こんな世の中にどう生きて本当の幸福を手に入れていこうかと、四六時中考えて考えて夜の街を途方に暮れるかのように歩いていた。


山手線の外回り。台東区の繁華街もまた人混みで犇(ひし)めきを増していた。

気が付けば鶯谷駅に電車は停車した。確かここは繁華街。

身体が自然と駅のホームに足を降ろした。いつもは通り過ぎる場所。


どんな人間か居るかは大体想像がつく。欲望にまみれた者たちが夜な夜な誰かを求めては引きずり込ませ、悪い知恵を持ったものは大金をも要求してくる。

そんな野蛮で雑踏が渦巻く街。私にとっては未知の世界だが、もしかしたら私を受け入れてくれる…。


そんな余計なことを頭に過ぎりながら、東口の改札を抜けて足はいそいそと動き始めていた。空はガスかかった薄く青い空と化っしている。

ひっそり佇む道路を歩いていくと、何軒かの店らしき建物が見えてきた。

柔らかな、そして時折激しく点滅する小張のネオンの看板が軒を連ねている。


平日でもあるのに人の出入りがやたらと多い。遠くから高笑いの響く声。

また違った角度からは男女の言い合いの擦れた声が聞こえてくる。


ある店に足が止まった。外観の看板は目立たなくどうやら一軒家のような佇まいらしき建物。


「ローズバイン」と書かれた店の名前。薔薇のツルか…モダンな雰囲気でもあるのだろうか。それほど立ち寄りたいとは思ってもいなかったが、試しに入ってみよう。

酒の一杯ぐらいなら…と気休めな気持ちで店の扉をゆっくりと開けてみた。


ママ「いらっしゃい、お一人?」


そう出迎えてくれたのは見るからに男であった。胸のあたりまで長く金色に近い脱色した髪型。瞳は灰色がかった日本人とは少しかけ離れているかのような眼差しをしている。


私「初めきたのだが、ここは酒は出してくれるところなのか?」


恐る恐る訪ねていたその後ろから20代前半くらいの男2人がまるで恋人同士かのように肩を寄せ合いながらお互いに身体をくすぐり合っている。また、吹き抜けの2階の廊下からは先程の年頃であろう、またもや高笑いをしながら酒を飲み交わし合いながら階段を下りてくる3人組の男達。ここはやはりそのような場であるのか?


私「あの…もしやここは男色同士が居あう憩いの場であるのか…?」

ママ「意外と勘が鋭いわね貴方。そうよ、ここは色恋を求め合う場所よ。この外じゃ皆、邪険扱いされて生き場所を失くす人達もいるのよ。だから此処に来て本当の愛を探し合うのよ。」


私「本当の、愛…?」


来たばかりか気持ちが動揺を隠せない。だがもしもここに居れば自分も探したい相手を見つけることができるのであろうか。あの頃に出逢った人に、ここに長く通って居れば奇跡でも起こらない限り会えぬだろうか…。


ママ「ところで、どうしてウチの店に来た何か理由でもあるの?」

私「いや、その、もしかしたら知人がここに来ているかもしれないと思って、なんとなく雰囲気で入ったというか。とりあえず酒をいただきたい。出してくれるか?」

ママ「わかったよ、そこのカウンターに掛けて待ってて頂戴。」


酒を一杯だけ呑んだら直ぐにでも出ていきたい。兎に角こういう場所だ。悪い連中にでも引っかかったらどうにもならない。


一刻一刻時間が静かに流れていく。周りのざわついた声に埋もれるような感覚に耐えながら、酒を待っていた。先程の店主らしき男が来るのが遅いな。時間にして十数分は経ったであろう。ようやくして男が酒を運んで戻ってきた。


ママ「お待たせしました、どうぞごゆっくり」


そんな風に言われても誰が長居などするものか。グラスを急ぐかのように勢いよく口に運び、そのまま一気に飲み干した。もういいだろう、すぐに帰ろうとしたその時だった。


ママ「あら?どうしてそんなに慌てて帰ろうとしているの?まだ来たばかりでしょう、慌てて帰る理由でもあるのかしら?」

私「来て早々で申し訳ないが急用を思い出した、いくらかな?」

ママ「まだ電車の時間はいくらでもあるでしょう、気に入った子が見つかるまで居ていいのよ」

私「悪いが私はそういう目的で来たわけではない、たまたま入っただけの者だ、帰る」


頼むから帰らせてほしいと、そう頭に過ぎったその瞬間、私の左腕を店主が絡みつくように掴んできた。


ママ「もう少しだけ、居て欲しいんだけどね。ただ今日は本当に帰りたがっているから帰っていいわよ。また気になったら何時でも来て頂戴ね。」


帰り際に店主は目を細めながらそう言ってきて、酒代を支払い、出入り口の扉を開け店を後にした。ようやく店を出ることができた。本当に危ういところだな。気軽に来るところではなかったと少しだけ後悔の念が心を揺さぶっていた。私も気が早すぎたな。


外気の風は何時になく肌寒い。急ぎ足で駅へ向かい、改札に入り駆け上がるように階段を昇って行った。


タイミング良く電車がホームへと到着していた。扉が開き真っ先に飛び乗った。時計は23時半近くを廻っていた。ゆっくりと電車は走り出し鶯谷駅を後にした。山手線内回りの鶯谷駅から乗車して田端駅にて京浜東北線に乗り換え、自宅のある赤羽駅に下車した。

商店街の賑やかに行き交う酒場通りを抜けて、やがて人気の少なくなっている住宅地の薄暗い路地を歩き、時間にして35分程経過したであろう、自宅のアパートにようやく辿り着いた。


居間の電気を点け羽織っていた上着や洋服を脱ぎ棄てるかのように衣類は床に散乱した状態で、そのまま襖に置いてある布団を引っ張り出すかのように取り出し床に敷いた。緊張感や酒も身体からゆっくり抜けていき、すぐさま寝転がった。

明日が何も予定は入れていなくて良かったと感じながら、私は瞼を閉じてそのまま眠りについたのであった。


やがて時計の針が深夜2時を廻ってきた頃、浅い眠りから私は目を覚ました。先程入店した「ローズバイン」という名前の店のことを思い出していたのである。あのような似た店は新宿や上野あたりには幾らでもあるだろう。

ただ客層には独特の雰囲気があったな。男同士の情愛的な交流の場か。

もうあのような店には立ち入ることもないであろう。


ただ自分の心の中に他人とは違う「性」の違いがあることには、20歳の頃から持ち続けている感情がひしひしと揺らいでいるのである。


誰にも知られたくなかった現状だが、この先の事を考えると、私は何処かへ向かえば誰かに解ってもらえる日が来るのかもしれないと、僅かな希望も抱いていたのである。


また睡魔が身体を押し倒すかのように圧し掛かってきた。今日の事は一晩寝ればいずれ忘れるに違いない。私は再び深い眠りへとついていったのであった。


翌朝、東側の窓からやや強い日が差し込み始めて居間の周りを明るく照らしていった。

時間にして午前8時。まだ僅かに眠気の残る身体をゆっくり起こして上体を伸ばし、窓の外に目を向けた。土曜の朝だ。外からは親子連れであろう小さな話し声が家の壁を貫通するかのように音が漏れていた。数台の自家用車の騒音も聞こえている。


いつものよう洗面台へと向かい洗顔をして歯を磨いて、昨夜床に脱ぎ散らかした衣類をハンガーにかけて壁の衣類掛けに掛けた。布団もたたみ襖に入れた。

冷蔵庫の扉を開けたところ、殆ど中身が無いことに気付く。仕方あるまい、朝食の足しになるものでも買いに行こうか。急ぎ早に衣類を着替えてそののち買い物を済ませ再び自宅に戻った。あっという間に朝食も済ませた。


土曜日か…今日は何処へ行くにしても人込みになっている場所があちこち多いだろう。

暫く読書でもしていて時間を潰そうか。海外の翻訳された小説を読むことにした。


時計に目をやると既に13時を回っていた。それほど腹は減ってはいなかったが、気分転換に外にでも出てみようか。自宅から10分ほど歩いたところに公園がある。

そこのベンチに腰をかけてしばらく空を見上げていた。幼児の笑い声、大人たちのお喋り、遊具で戯れる学童達の弾む声が敷地内中を響かせていた。

樹々から差し込む木漏れ日も暖かく心地よい。


私は周りにいる人たちに微笑むかのように顔を緩めながら、低い空を再び見上げていた。その後商店街の通りを歩き数日振りにとある純喫茶の店に立ち寄った。


洋物がなんとなく食べたいと思い、オムライスを注文して、かき込むかの様にあっという間にたいらげた。食後直ぐに店を出た。特に行きたい所も無い…自宅へ戻ろう。


帰宅後、居間に座り込み、先程の小説の続きを読んでいた。時刻は既に18時を回ろうとしていた。今日もあっという間に一日が過ぎていった。無職の状態の身であるというのに何を呑気に日々を潰しているのだろうか。


友人や知人、前職の同僚たちの事も数名はどうしているのだろうかと頭に過ぎったが、それほど今すぐ会いたいと思うところではなかったのだ。実家の母親も兄弟たちも都内に居るか、何処かへ疎開し地方で暮らしているに違いない。


戦後東京へ戻ってきた当時、電報を試しに何度か送ってみたが、その後何の音沙汰も無く、連絡もつかないまま数年は過ぎていったのであった。所謂「孤独」というそのものを実感しながら日々暮らしていたのである。想いに更けている間に辺りは暗くなってきていた。残り少ない煙草をポケットから取り出しベランダの窓を数センチ開けて、ライターを着火した。一服吸うたびに身体に刷り込まれていたこれまでの出来事を消していくかのように、忌まわしい記憶を消し去りたいと心底願いつつあった。


翌週、私は総武線飯田橋駅の近くにある職業安定所に足を運び求人情報を閲覧しては、窓口の相談員の者と共に働き口を探していった。他の区域の職安にも出回り、数か所の企業に面接へと受けに行った。あとは採用の合否の連絡を待つばかり。流石に職安も人でごった返していた。


ひと段落気持ちが落ち着いたところで、何を思ったのか急に先日足を運んだあの「ローズバイン」の店の事を思い返していた。そういやあれから3週間以上は経過していた。自宅の居間で、胡座をかくように座り、何処となく店内にいた者たちの事が頭を過ぎった。


もうどうでもいいことだろう…ただまだ私には時間はある。身体の中から得体の知れない感情が沸々と湧き上がってきた。こんなに迷うことになっているのであれば、もう一度だけあの店にいけば何かが解るのか?いやすぐに答えなど出る訳もない。


時計に目をやった。18時か…今日だけであれば、今日最後にすれば少しは気が晴れるに違いない。取り敢えず出向くだけ出向いてみるか。


私は直ぐに衣類を着替えて、軽く足早に赤羽駅へと向かっていった。前回と同じく、平日のあの時の時間帯と似ていた街の灯りと人気の賑わう商店街。


駅のホームは会社帰りの者たちで溢れかえっていた。その波を横切るかのように電車へ飛び乗った。やがて鶯谷駅に到着し、改札を抜けて繁華街のある路地へと向かった。こんなに息も上がるくらい急いで行くことは無いのに、どういう訳か何時になく気持ちは高揚していた。やがて店へと辿り着き、一呼吸置いて扉を開いた。


ママ「いらっしゃい、あらあの時のお客さんじゃない。どうぞ中へ」


あの店主が出迎えてくれた。そうか、私の事を覚えていたのか。


ママ「この間は急いで帰って行ったから何事かと思ったけど、今日は久しぶりに来てくれて嬉しいわ。またカウンターでいい?」

私「ああ、とりあえずまた酒を貰いたい。お願いできるか?」

ママ「少々お待ちを」


まだ息が上がって興奮冷めやまない。この間来た時よりも今日は店内は静かな雰囲気だな。しばらくして店主が酒を運んできてくれた。


私「とりあえずいただきます」


そう言った後酒を少しずつ口に含みながら喉の渇きを潤すかのように呑んでいった。


ママ「あれからちょっとは考えてくれたかしら?」

私「何の話だ?」

ママ「ここのお店に出入りしている子の事よ。今日は気にいった子がいれば相手にしてもいいのよ。少しだけでも話し相手になって欲しいわね」

私「いや、今日はあんたに聞きたいことがあって尋ねてきた。」

ママ「あら、私?ふふ、珍しい客人だこと。いいわよ、ところで貴方は名前は何というの?」

私「浦井という」

ママ「どうしようかね…折角再びお店に来てくれたことだし、別の名前で名乗るっていうのもどうかしら?」

私「別の名前?何を唐突に言うんだ。私はここの人間でもないし今日で2度目の来店だ、何故、源氏名の様に他の名前で名乗らなければならない?」

ママ「もしかして誰か探している人間でもいるのかしら?再びこのお店に貴方のような紳士が来るにしては、此方としても聞いてみたいものよ」


駆け引きでもしたいのか?いやまだその様な感じで琴線に触れてきているものとは違うのだろうか。


私「確かに。ある人物を探しているのには間違いない。…他にも行く場所は幾らでもあるのに、自分も何故ここに来てこのような事を貴方に告げなければならないのかわからないのだ。」

ママ「そう、でもね焦って探す必要もないのかしらね。この大都市じゃ貴方と同じように探したい人達だって五万と居るわ。貴方は貴方なりの方法でじっくり探していく方がいいのかしらね。どう?名前、考えてくれるかしら?」

私「…では取り敢えず、ジュートという名で」

ママ「ジュート、素敵な名前ね。そう呼びましょう」


私も何を思ったのか、今読んでいる小説に出てくる人物の名をふと頭に過ぎったから適当に言っただけだったのに。まあいい、暫くその名で私はこの店主の前ではそう名乗るようにしようと決めたのであった。


私「失礼だが貴方の名前は?」

ママ「私はローズ。店名にもなっているそのままの名前よ。皆からはママって呼ばれているから貴方も私の事をママでいいわよ。」

私「では、ママは、この店はどのくらい働いているんだ?」

ママ「終戦後から数か月でこの店を立ち上げたの。昔、カフェを経営していた知り合いがいて、その縁でこのお店の経営者になったわ。初めは兎に角、この街にも人がわんさか溢れていてね。軍人上がりの人や10代の学生の子たちの出入りが激しくて、もう何が起きているのか付いていくのに必死だったわ。この10年でようやく景気も少しずつだけど良くなってきていることだしね。常連客もすっかり馴染んでくれて本当有り難いことだわ」

私「まだまだ経済は不安定なところもあるが、いずれこの国はもっと景気が良くなってくれるだろう。ところで話は逸れるが、ここの客層というのは…やはり若人の者たちが多く集まる所なのか?」

ママ「そうねぇ、確かに若い子も多いけど貴方ぐらいの…大体30代から50代近くのお客さんも来てくれることもあるしね。ただ客層にはそんなに拘りがないのよ。この繁華街は男女問わず色んな人達が軒並み通っているからね。」

私「そうなのか。鶯谷自体地名しか知らなかったし、電車さえ乗っていても通り過ぎる所だから、街を歩くまでは全く何も知らなかったよ。」

ママ「いつかはこの街を気に入ってくれたなら本望なんだけどね。ジュート、あなたのその動揺した気持ちはまだまだ落ち着くまで隠せそうにないようだね」


心なしかママとの会話が自然と弾んでいく。酒は3、4杯目といったところで身体に酔いが回ってき始めていた。


私「今日は店の中は静かな感じもするが、客人は何処かにいるのか?」


その時だった。2階の居間から若人であろう話し声が漏れてきていた。瓶のような物だろうか、割れる音がこちらまで筒抜けてきていた。すると引き戸の扉が勢いよく開き、一人の男が姿を現した。


ナツト「痛い!腕を離して!もうあんたとは口も聞きたくなくなったよ。そんなに強引に掴んでくるじゃ埒が明かないわ。もう僕には会いに来ないで!」

客人「おい、幾ら何でもそれはないだろう。頼むから話を聞いてくれ」


大きな足音を立てて階段を駆け下りてきて、ママの元に近づいてきた。


ナツト「ねぇママ、あの人僕の他に違う若い子と遊んでいるって言ってきたの。もう相手にしたくないからママからもここから出ていく様に説得させて!」

ママ「あんたね、お客さんに向かって何てことしているんだい。たかがそれくらいの事で騒ぎ立ててくるんじゃない!」


咄嗟にママは2階へ行き客人を宥めに行ったようだ。半泣きしているのか愚図つきながら私の顔を見てきた。


ナツト「見慣れない人だね、初めての方?こんな姿を見られて…はぁ僕もまだまだ半人前ってところかな」

私「あの、さっき物が割れるような音がしたが怪我はなかったか?」

ナツト「あああれね。酒瓶を叩き割ったの。大丈夫だよ、ありがとう。あんた優しい人ね」


数分後ママは再びカウンターへと戻ってきて先程の客人をどうにか説得させて店を出るように納得させたらしい。


客人「ったく、今日は取り敢えずママの顔を立ててやるよ。いいか!今度似たような事でやらかしてきたら、あとは無いと思えよ!」


そう罵声に近いような言葉を立てながら、客人は店を出ていったのである。


ママ「御免なさいね、あんな大声を出されたら皆びっくりするでしょう。あの人はね少し気が短い人でね、ついつい怒鳴ってしまったって。それにしてもナツト。貴方も客人に対してさっきのような態度はいけないことよ。きちんと謝るべきだったわ。このようなことを起こさないよう反省しなさい。」

ナツト「全部自分が悪い訳じゃないけど、分かった。気をつけます。御免。」


ナツトという若い男は、この店に入ってから2か月も経たない新人の身でいるらしい。年の頃もまだ18歳というではないか。ママから先程居座っていた居間の中を片付けるように指摘を受けてナツトは素直に立ち去っていった。


私「今日はあまり長居しないほうが良さそうだね、私も今日はこれで帰ることにするよ」

ママ「申し訳なかったわ、また来てね、ジュート」


私も今日はタイミングが悪かったのか、本当はもう少しだけママと話がしたかった気がして、何時になく心残りがしてならなかった。不思議だな、普通に賑やかな酒場で呑む酒とは違い、ここではゆっくりと酒の酔い方が身体中を巡らせるかのように、心地よく入ってくるものであった。足取りは程よく軽い方だった。


自宅に着いた頃には深夜24時を回っていた。居間の灯りを点け布団も敷かずに仰向けに寝転がった。天井を眺めながら今日の事を思い出していた。自分の居場所、と言うまでではないが、「ローズバイン」…危険な匂いを漂わせながらも特別な客引きもしないという独特の居場所。ママが言っていたように私が誰かを探していることに気づいてくれたことには、何処となく嬉しい気にもなったのであった。


あれから1週間が経ち、私はまた店に出向いたのであった。


ママ「いらっしゃいジュート、ここで掛けて待っていて頂戴」


ママが微笑ましく私を迎えてくれた。今日来て気が付いたことだった。奥の方にも居間があったのか。今日は客人が以前よりは多く出入りしている様子だった。男性の客層が多いと伺っていたが、あれは女性か?カウンターの奥から何やら甲高い話し声がこちらまで漏れてきていた。


丁度ママが戻ってきたので伺ってみたところ、女性の数名はここの踊り子として店を出入りしているとのことだった。踊り子か、何かのパフォーマンスでも見せてくれるのでもあろうか?客層がいつの間にか溢れてきている。今日は一体何かが行われるのか?するとママと若い男性と先程の女性らが店内の中央にある狭い舞台であろう場所に集まっていた。


突然店の照明が消え、舞台の上の天井のスポットライトが照らし出したのである。店中にBGMが流れてきた。ダンスショーが始まったのであった。私も暫くは彼女らのショーを見ていた。彼女らの表情は活き活きとしていて、手先や足の指先の動きも皆一体と化して舞台の隅々まで身体をめい一杯に踊っていたのであった。ショーが終わり、周りの客人の熱気に包まれつつ拍手が鳴り止まない。踊り子たちも笑顔が溢れていた。


これだけ受け入れてくれる人たちがいるなら、嬉しい気持ちになるのも分からなくもない。私もつられて彼女等に拍手を送った。


ママ「皆んな良い顔していたでしょう?」

私「あぁ、こんなに間近でショーなど見たことがなかったから、なんだか新鮮な感じがしたよ。ママ、ここは男が出入りしている場所だよね。何故女性も交えて店に居させているんだ?」

ママ「私はね、ここをただの男色限定だけのお店としてやっていくのは勿体無いところもあってね。他のお店にも負けないこの店独自のやり方で続いていきたいのよ。絶対大きくさせていく夢もあるのよ。」


ママはいつになく目を輝かせながら胸に秘めている想いを語ってくれた。そうか、ここに集まる者たちも、またそれぞれの思いを抱えて生き場所を探しながら店に居るのか。何処へ行っても皆気持ちは何処か同じものもあるのだな。私もまたその一人のうちに入っている様なものだ。


様々な思いに更けている内に、楽屋らしき奥の居間から先程の踊り子達の騒々しい声が響いている。そのうちの一人のあのナツトという男がこちらに駆け寄るように近づいてきて、


ナツト「ねぇママ、ちょっとこの人借りても良いかな?」

ママ「まぁいいけど、ジュート、この子に付き合ってくれる?」

私「何をするんだい?」

ナツト「踊り子たちの皆んながジュートと話がしたがっているんだよ。ねぇ奥に一緒に来てくれるかな?」


そう言うと私の右腕を引いてやや強引に身体ごと更に引っ張られて、奥の居間へと連れて行かれたのであった。着いた居間は3畳程の狭いところで、そこに踊り子たちが化粧を落としながら賑やかにお喋りをしていた。


踊り子「あっ来た来た。ねぇジュート、こっちに座って。」

踊り子「いきなり呼び出して御免ね、この間ママから聞いたんだけど、ここのお店に当分の間居てくれるって本当?」

私「それはどういう事だ?私はただ客人として来ているだけの者だぞ。何を根拠に言うんだ?」

踊り子「私達ジュートならお客さんでもなんでもいいから、一緒に働きたいの。貴方今日来てまだ三度目だけど、ジュート、此処の居場所に合っているんじゃないかってママと相談したの。だからここのお店に私達と居てほしいんだ。ねぇどう?」

私「いやそれは…急に言われてもその様な事には至らぬぞ。それに働くにしても私には到底無理な話だ。何故その様に独断で決められたのか、私には理解ができない。ママに改めて聞いてくるよ」

ナツト「あぁ待って!ねぇジュートお願い。考えてくれてもいいよね?」


私は振り返りらずに急ぎ足でカウンターへ戻った。なんて理不尽な決め付け方なのだ、

彼等は私を何だと思っているのだ?丁度ママがカウンターに座っていたので空かさず尋ねてみた。


私「今踊り子たちから聞いた。私がこの店で働くという話は何故そういう流れになっているんだ。勝手にも程があるじゃないか。」

ママ「勝手に話し合いになった事には申し分ないと思っているわ。ただ貴方、探している人間がいるんでしょう?ここだけの話、この店が開いてから、初めのうちは、実は米軍の兵士たちもちらほら尋ねては出入りしていた時期もあったのよ。だから貴方は日本人より…米国の人間を探しているんじゃないかって。私の独断だけどね。ジュートという名で私に告げてきた時、今まで来た客人や働き手の者達からは外国の、しかもヨーロッパ諸国の人種の名を名乗る人は誰一人居なかったわよ。」


やはりママも只者ではなかった。そこまで見抜かれていれば話は早いであろう。


私「そうだ、私は戦時中、激戦地であったフィリピンのレイテ島に連合国軍に連れて行かれそこでフィリピン軍と戦った。終戦が告げられてから、共にした日本兵達と連合国軍の基地に僅かだったが、かくまわれた期間があった。その時にあるイギリス軍の日本人との混血を持つ兵士から声を掛けられた。彼からはどういう訳だが、初めは射殺でもされるのかと思いきや、逆に気を良くしてもらった事があった。互いの祖国にいる家族の話になって随分気が合うなと。あの戦争も両国にとっては勝敗も無意味なものだと打ち明けたものだった。ただもうとうの昔の話だ。彼も祖国で生きているかさえ知らない。終わった話だ。」


ママ「やっと打ち明けてくれたわね。ここに来る度に貴方は素直になってくる。だから私は貴方にはここに居て皆んなで楽しんでもらいたい気持ちがあるのよ」

私「もう一つ話しておきたい事がある。実は再就職が決まって、来週からその会社に勤める事になったんだ。だからこの店に来るのも当分、いや今日で最後にしようかと考えていたんだ」

ママ「ジュート…そう決まった事なら致し方ないわね。もしまた来たくなったら何時でも寄って頂戴。皆んなで待っているわ」

私「こちらこそ急な話で悪かった。ママからこの事を皆に告げてほしい。それじゃあ帰るよ、酒代は幾らかな」


ママの顔が何時になく物憂げな表情を見せていた。私には私の生き方ややり方がある。

今日吐き出した昔話をあれだけ告げておけば、もう十二分。店を出て駅へと足は向かっていた。


家路に着いた頃、時刻は23時過ぎ。玄関の扉を開けてひと息着きたいとテーブルの上に置いてある煙草に目をやった。ライターが無い。衣類や居間や台所等探したが見当たらない。もう一度身に付けている衣類の数カ所のポケットに手を入れた。


すると何時の間にローズバインのお店で貰っていたマッチが出てきたのである。暫くマッチを眺めていた。もう立ち寄るこることは無いとママに告げた。ママが言っていた以前、外国人が店に出入りしていたという話を思い返していた。


流石にあの店の状況じゃ日本の人間しか居ないだろう。ただ私は、奇跡的な願いが叶うなら、もう一度戦地で出会った彼に会いたいと心底考えてしまうのである。そう、あの店に居られるならば。私も日本男児たるもの、本当に馬鹿な事を考える様になったものだ。来週からは新境地で働けるというというのに。そんなにあの場所が気になるのか。私の「身」がこのまま誰にも知られずに生きていくのなら…マッチの箱の側面にお店の電話番号が表記してある。今からでももしかしたら遅くは無いのだろうか。


私は迷わず電話の受話器に手を出して店の番号を回してかけてみた。取り出し先はママだった。


私「ママかな?私だジュートだ。一つお願いしたい事があるのだが…」


場所は鶯谷駅の繁華街に並ぶ店が軒を連ねている、金曜の16時を回ったところだ。この時間帯はあまり人通りが目立つことも無い。疎らに学生の姿も目に付く。理美容室や喫茶店の客層もちらほらと出入りしている様子が伺える。その頃ローズバインの店ではいつもの様に開店準備に追われていた。


従業員「ママー、2階の居間の掃除が終わったよ。次は何処を掃除すればいいの?」

ママ「ああありがとう。そうね、テーブル席の周りが何か汚れていないか、もう一度見てくれる?」

従業員「了解!」


ママと従業員らが慌ただしく店内を行き来していた。そこへミキトという年の頃にして23歳の男が入ってきた。


ミキト「ママおはよう、この間聞いた話なんだけど、今日から新人が入るって本当?もう来ているの?」

ママ「あらおはよう、今日も宜しくね。ええ、もう来ているわ。ちょっと待ってて頂戴」

後ろから女性の踊り子たちも来た。


踊り子「ミキトおはよう、あんた最近客層増えてきているってママから聞いてわよ。やるじゃない。」

踊り子「私も聞いたんだけど、新人ってどんな子なの?あんたより若くて可愛かったら良いライバルになりそうじゃない?」

ミキト「何言ってるんだよ、新人なんて直ぐに客人に相手にしてもらえるかどうかもやってみないと分かる訳ないだろう」


楽屋の奥からナツトが現れもう一人の人物の手を引っ張って出てきていた。


ナツト「ねぇほら早く、皆来ているよ。挨拶して」


従業員らがどよめいた。そこにはジュートの姿があったのである。


私「初めまして。今日からここで…一応働くことになった…ジュートと言います。宜しくお願いします。」

踊り子「ちょっと、どういうこと!?ねぇママ、なんでジュートがここに?他に働く会社が決まったって言ってたでしょう?まさかここでしばらく居座るつもりなの?」

ママ「先約の再就職先の件なんだけどね、身内に不幸があったから来月一日から働かせてくれってことで特別に許可してもらえたの。彼ね、わざわざ会社まで出向いて役職の方と交渉してもらったのよ。流石でしょ、本当に賢いわねジュートは。」

ナツト「それでまずは2週間お試し期間としてここで居座ることにしたんだよね、ママも初めは驚いていたけど、皆が元々一緒に居たいって押して押して願い出たら、交渉成立したってわけ」

ママ「短い期間だけど皆でジュートに色々教えて頂戴。この店の為をもあるわよ。皆で盛り上げていきましょう」

全員「はい!」

踊り子「もう嬉しい!ジュート、ママが言った通り色々教えていくから覚悟して頂戴ね」


不思議なことに、何故こんなに皆で迎えられているのかは知りもしなかったが、私は心の隅で小さく安堵の気持ちになっていた。


ママ「ジュート、常連客からのお花が届いてあるから、カウンターの横に置いて頂戴」

私「分かりました」

ママ「ねぇジュート、そんなに畏まることも無いのよ、もう少し肩の力を抜いてもいいんだからね。」

私「いや、私はまだ来たばかりだし、雑用係ってことでの扱いでかまいません。何か買い出しに行くことはありますか?」

ママ「本当に生真面目ね。今日はもう大丈夫よ。掃除用具を片付けてきて」


時間にして18時。開店時間となった。早速数名の客人が店内へと入ってきた。テーブル席へ案内して、注文された酒類を提供した。また2,3人とサラリーマンらしき客人が入ってきてカウンター席へと腰を掛けた。


客人「ママ、今日はミキトは居るのかな?この2人に紹介したくてね」

ママ「今呼んでくるので少々お待ちを。ジュート、2階にいるミキトを呼んできてくれる?」

私「はい」


2階の居間に他の客の相手をしているミキトを呼びに行った。


私「失礼します。ミキト、カウンターのお客さんが呼んでいます。」

ミキト「わかった。少し待ってて、また戻るから」

従業員「ジュート、降りてきてくれるかな、テーブル席に案内してくれ」


こんなにも店内に賑わいがあるのか、自分が客としてきた時よりも繁盛しているものだな。接客業も馬鹿にならないものだとつくづく実感していた。息つく暇もないまま先輩たちの言われたとおりに私は店内を巡っていた。


時間にして深夜1時。従業員たちが数名奥の楽屋へと休息を取りに行った。


ママ「ジュート、貴方も奥で休んできなさい」


ママから言われた通り奥の楽屋へと入っていくと、皆が煙草を吹かしている分、室内を煙で充満していた。自分も喫煙者だがここまでの煙の量は見たこともなかった。


従業員「ジュート、どう店の雰囲気は?意外とお客さん多くて驚いているでしょう?」

私「ああ、こんなに慌ただしいと思いもしなかったよ。ナツトもミキトも手馴れているみたいだしそこにも驚いたよ。」

踊り子「今日はまだ控えめな方よ。盛り上がるときはもっと盛り上がるからね。あんたの初日にしては可愛い方よ」


私も煙草を吸っていたが、充満する煙で息が上がるのが止みそうもない。再びカウンターへ戻りママの元へ言い寄った。


私「接客業が今回で初めてでまだ頭の中が目まぐるしく動いている。客層も今日じゃ控えめな方だって聞いたよ。」

ママ「ふふ、貴方もう疲れた顔しているわね、はいお水よ」

私「ありがとう」


差し出してくれた水を一気飲みしてもう一杯貰うことにした。ママはクスクスと私の表情を見ては何処か幼児を見るような眼差しで微笑していた。


ママ「可愛い人だわね」


ママは私の前髪を掻き上げて優しく撫でていた。私もどういう訳だが、そう優しく触れられると心地よい気持ちになっていたのである。初日にして目まぐるしく駆け巡っていたせいでもあった分だろうか、少しだけ眠気も出てきた頃合いになっていた。


私は、カウンターに寝そべるように俯いたままゆっくりと瞼を閉じた。数分程眠っていたのであろう、ママに呼びかけられ飛び起きた。


まだここの夜は長い。眠っている場合かと自分自身に奮い立たせるように、両手で頬を叩いた。更に客人が来店し、私は懸命に応対をした。まもなく今日最後の客人を見送った後、壁に掛かっている時計を見上げてみた。


午前5時。ママが告げてくれたように閉店時間となっていたのであった。従業員全員で店内の清掃や片づけを行い、私はバケツに入った排水を捨てるために店の外へと出た。当に朝日が昇っていて靄もかかっていた。


南西から吹く風が少しだけ冷たいが空気が気持ち良い。こんな朝を迎えたのは生まれて初めての事であった。店内に戻り、営業が終わったところでママが皆に会話をし始めた。


ママ「皆、今日もお勤めご苦労様でした。無事に何事も無く終えて良かったわ。皆の御陰よ。それにジュート。初日お疲れ様だったね。また明日も宜しくね」

私「はい、宜しくお願いします」

ママ「さあ皆、気を付けて帰るんだよ」

従業員「じゃまたねジュート、お疲れ!」

私「お疲れ様です」


一人また一人と家路に帰って行った。私も駅へと向かい改札を抜けてプラットホームの壁つたいをなぞりながら、通勤者たちの背中を眺めてはホームへ入ってきた電車を何本か見送っていた。それから数分後に来た電車に乗り、家路と向かったのであった。


自宅に着き玄関の扉を閉めた後、直ぐさま押し入れから布団を引き出し床に敷いて、疲労で重たくなっていた身体を横倒しにしてうつ伏せの状態で即さまに眠ったのであった。


それから5日間ほど経ったであろう頃、何時もの様に店へと出向いて、開店準備に取り掛かっている間に、2階の居間の畳の拭き掃除をしていた時にナツトからこう告げられた。


ナツト「ジュート、今日ここの居間が少しだけ使えるみたいだから、ちょっとだけ一緒に呑まないかい?」


ナツトはまだ未成年であるから、酒ではなく他の飲み物を飲むようにと言葉を返してやったら、何かを企むかの如く笑顔で喜んでいた。一体何を考えているんだ彼奴は…。


そうしている間に開店時間となり、常連客や初めてくる客人に教えられた通りのように皆の後ろ盾になるように接客を務めた。また別の常連客が来てママに花束を添えてきた。


ママ「あらいやだ、本当にいつもありがとうね。ボトルを開けましょう。ジュート手伝って頂戴」

私「はい」


グラスにその常連客専用のボトルをグラスに注ぎ提供した。


客人「君がママが話していたジュートか。真面目そうだが愛嬌がありそうでいいな。いただきます」


私は軽く会釈をした。横目でママの方を見ると彼女も嬉しそうに微笑んでいた。なんだか自分も嬉しく思えた。


客人「ところでジュートはカウンターに立つとやけに立ち振る舞いが似合うな。他の店で働いていたことはあるのか?」

私「いえ、ここが初めての接客の場所なんです」

客人「そうか。随分と落ち着いているから、様になっていてこりゃあ驚いたわ」

私「ありがとうございます」


今日はなんだか調子が良い。このまま何事も無く閉店まで上手くいくといいなと、そう気分良く客人たちの相手をしていた時、また一人今度は貴婦人のような女性が店の中に入って来た。


ママ「あらお久しぶりね、いらっしゃい」

洋子「ママ本当久しぶりね、相変わらず元気そうで何よりだわ。もしかして貴方がジュートって人かしら?」

私「はい、そうですが…あの何か」

洋子「いいえ。私のお店の者から、以前からね、ここに新人さんが入ったから、偵察してきたらどうなんて言われたから。今日丁度時間もあったことだし、会いに来て見たかったの。挨拶が遅れて御免なさい。私は上野にあるお店の店主をしている洋子といいます。宜しくね」


そう話しかけてきて握手を求められたので私もすかさず手を握り返した。


洋子「ねぇママ早速なんだけど近いうちに相談したいことがあってね、お時間取れるかしら?」

ママ「いいわよ、ちょっと待ってて。手帳を取りに行って来るわね」

そうママが話すとカウンターには私と洋子さんだけが二人きりとなっていた。

私「ジュート、貴方ここに来てどのくらい経つの?」

洋子「まだ1週間程です」

私「そう。でも随分と落ち着いているじゃない、偉いわね。ここにも色んなお客さんが来て大変じゃない?」

私「まあまだまだ慣れていないこともありますが、客層の雰囲気も今のところ悪くは無いので、居心地は良い方かと」

洋子「年齢も他の子たちよりも上みたいだし、もしかしたら面倒見が良い方なのかもしれないわね、貴方」

私「いえ、私はまだまだ新人の身です。皆から教えてもらいながら働いているものですから」洋子「良い根性もしてそうね。期待しているわ」

会話を交わしているうちにママが裏から戻って来た。

ママ「ジュートありがとうね、あとは洋子ママと話をするからあちらのテーブル席の片づけをお願い」

私「では失礼します、洋子さんごゆっくり」


そう告げて私はテーブル席の後片付けをしていた。2階の居間からナツトが私を呼んでいたので、ひと段落着いた後2階へと階段を昇っていった。居間の扉を開けるとナツトは客人の相手をしていた最中だった。


私「あの、私はここに入ってもいいのか?」

ナツト「ジュート、良いよ。中へどうぞ。紹介するよ、僕の常連さんの安井様」

安井「君がジュートか、宜しくね」

ナツト「安井様ね、大手企業の経営者でもある社長さんなんだよ。週1くらいで僕に会いに来てくれてるよね」

安井「ああそうだな、もう一杯酒が欲しいな。ジュート、君も一緒に呑まないか?」

私「ああでは、一杯だけなら」


そう返答してその客人としばらく話の相手をしていた。時間になったと客人から告げられ、其の人は店を後にした。再び2階の居間へと戻りナツトと二人きりとなっていた。


居間の中は小さな照明の灯りが点いていてやや薄暗かった。洋式のベッドと赤褐色の柄模様の入ったソファ、客人用の酒やナツトが飲むであろうお茶類やつまみ等が備えてあった。彼から腰を掛けるようにと告げられてきた。


ナツト「突然呼び出して御免ね。」

私「ナツト、何かあったのかい」

ナツト「ジュートとこうして二人きりで前々から話したいなって思っていたんだ。やっとこうして向かいあえたなってさ。」

私「ナツトも客人の相手をしていて何か困った事はないのかい?例えば無理矢理身体を求められてくるとか、呑めない酒を強要されたりしないかなと思ってさ」

ナツト「ジュートは本当に優しいね。自分の事でまだまだ精一杯の筈なのに、皆んなのことを真っ先に考えていてさ。僕は自分の事しか考えられないから、羨ましい限りだよ」

私「前に来てた客人で酒瓶を割ったってあっただろう?あれはどういう経緯いきさつだったんだ?」

ナツト「僕の居る前で他の気に入っている男の話をし始めてさ、聞いている内になんだか腹が立ってしまってね。だからあれは僕の責任なんだ。ママに怒られるのも当然だったよ。僕も直ぐに他人を羨んだり妬んだりしてさ、まだまだ半人前だ」

私「それでもナツトは何時か此処で頂点になりたい、そういう思いは強いんだろう?」

ナツト「あぁまぁね、先ずはミキトに近づける様になってそれからその自分よりももっと皆んなの届かない様な高い壁の上を超えた所にいる、そんな人間を目指すんだ。悪くないだろ?」

私「それくらい高い目標があれば、その内良い頂点に居れるよ。若いのにしっかりしているじゃないか」

ナツト「ジュートだって年齢なんか関係ないよ。確かにここのお店じゃ最年長になるけど…あぁいやそういう意味じゃなくて、頼もしい兄って言う意味でだよ。ジュートは此処にはあと1週間程しか居られないんでしょう?本当に新境地の会社で働くって事でいいの?」


私「あぁ、久々にガツガツ働いてやるよ。管理職の立場になる予定だから、色んな人間を育てていきたい意欲があるんだ。日本をもっとより良く働きやすい職場環境を作りたいんだ。そうすれば働きたい者達の権限も活かしていけるし、企業も増やしていける。世界に負けない日本国を俺も仲間と作りたいんだよ」


ナツト「僕より凄い野望を持っているんだね。やっぱりジュートは考えている事が半端無いよ」

私「こういう世の中だ、誰もが作りたい人や物を掲げて生きていこうと強く願うんだよ。ナツトも上手く長くやっていけるさ」


私はそう言いナツトの肩に手を置いた。するとナツトは私のその手をそっと握り返したのである。


ナツト「ジュート、僕の横に座ってくれる?」

彼に言われた通りに私はナツトの座っているベッドの左側に腰を掛けた。


ナツト「ジュート、僕と一緒に試さない?」

私「えっ?」


するとナツトは私の身体を強く押し倒し私の上体に身体を乗せてきた。


ナツト「僕はジュートの様にたくましい人間になる。僕も何時まで此処に居れるか分からないしさ。最後って訳じゃないけど、今日はジュートを抱きたいんだ」

私「ちょっと待て、下にはママ達も客人もまだ居るんだぞ。もし此処に二人居るのがバレたなら騒ぎにならないか?」

ナツト「大丈夫だよ、さっきママにここの居間には客人と一緒に長居したいって言ったら許してくれたんだ。ジュート、目をつぶって」


私はどういう訳だか身体を振り切ろうと等と考えずにナツトの言われたままに従った。彼は私の唇に優しく口づけをしてきた。


ナツト「思った通りだ、唇が柔らかい。温かいね」


ナツトは私の首元に唇をやり、そのまま撫で下ろして肩を強く噛んできた。上半身のシャツを脱がされ再び腰や腹に唇を付けてきて愛撫するかの様に舌で舐め始めた。私も声をうずく間もなく天井を見つめながら右手でナツトの背中をそっと触れた。身体をまた押し返すかの様に、今度は私がナツトの上体に乗り込むような姿勢になり、続けて話してきた。


ナツト「ジュート、今度は君の番だよ。今、僕がした様に同じ様にしてきて」

私「ナツト、俺はこういうのは殆ど慣れていないんだ。どうして良いものかよく分かってないで、今、君の上に居る」

ナツト「大丈夫だよ、沢山考えてしまう事があるんだね。そんなに考えなくていいんだよ。身体のなすがままにしていいんだよ。全身で感じてほしい。それだけで良いんだよ」


ナツトは上体を起こして私と同じ視線になり、また彼から口づけしてきた。


ナツト「ジュート、君の正直な姿を僕は見たい」


彼は私の額にぴたりとくっつけてきて目を閉じた。私は数秒間彼の顔を見つめ、ゆっくりと身体をベッドに押し倒した。


先程ナツトがしてきたように私も彼の頬に口づけをし始め、首元を軽く舌で舐めてみた。次第に頭の中は空になるような感覚を覚えるかの如く、胸元へと唇を下ろしていった。やはりよく分からない、これで良いものかと目を見開き再び我に返った。


ナツト「ジュート、止めないで。そのまま続けて」


ナツトは少しだけ強い口調で言い返してきた。私は顔をぐっとしかめるように強く眉間に皺を寄せていたが、どうなってもいいものかと我を忘れるかの様に、顏を緩めてナツトのズボンのベルトを取り外し、チャックを開けてズボンを膝下ぐらいまで下げて下着の中の右側の尻に手を入れて優しく撫でてみた。すると彼も吐息を少し漏らし、何かを感じていたのであった。私はそのままズボンを全て脱がせて、彼の身体をうつ伏せの状態にさせた。


ナツト「いいよ、もっと触れてきて」


ナツトは先程より興奮している様子で枕をつかみ背中から僅かな汗を掻き始めていた。私は僅かに当たる照明の光と共にナツトの身体を眺めてみた。


彼は何処となく10代の女性のような色白い肌をしていたのに気づいた。綺麗だと心がどよめいた。私は自分の身体を重ねる様に首を垂れ、彼の背中の中央を唇でなぞる様に愛撫していき、居間中に響く吐息を聞きながら、私も自分のズボンを脱いでいた。彼の左の耳元で優しく声をかけた。


私「ナツト、痛かったら直ぐに言ってね」


私は彼の下着の中に手を入れて性器を愛撫し始めた。どんどん興奮してきて軽く喘ぐ声も漏れている。私も彼と同じ気持ちになりそうで怖くなったが、興奮している姿を見ている内に腰に再び軽く甘噛みをした。


ナツト「ジュート、もっと強く握って」


そう告げてきて私は直ぐに手を止めた。


私「ナツト無理しなくてもいいんだぞ。俺もこれ以上は強いてするのも行き過ぎてるんじゃないかと…」

ナツト「良いんだよ、ジュート…ママから聞いたよ。会いたい男の人を探しているって。その人に会えるまで僕も協力するから、このまま最後まで続けてくれ。僕はジュートが好きなんだ。イキたいんだ」


ナツトは私にそう告げてこちらに顔を振り向き細い目で私の顔を伺う様にじっと見つめていた。


ナツト「お願いジュート、もっと僕の"中"に入ってきて」


私は、この様な初めての事に、全身から溢れて出ているもどかしいさが耐えられるのかと考えたが、ナツトの要望どおり彼の勃起した性器を握り上下に動かした。私も気持ちが昂り、彼の首の後ろに顔をうずめる様に強く吐息が出ていた。


ナツトは少し涙声を漏らし枕元のシーツを強く握っていた。私達は後戻りが出来ぬ関係になるのかと私も揺らぎながら声を押し殺してナツトの後頭部を見つめていた。そうだ、私は求めていた事はこういう事だったのか。彼の高揚する身体が頂点に達したのであろうか、その後首が下がり身体も同時に力が抜けてナツトはベッドの上に身体を伏せた。私も我に返ると彼の背中に顔をうずめて息を切らしていた。


ナツト「ジュート、今日初めてだったのに凄く気持ち良かったよ。なんだか嬉しい、ありがとう…」


ありがとうか、そう言われると、こちらもして良かったのかと、後悔の念があまり感じてはいなかったのである。


女性の身体は抱いた事があるのに、男同士…男色者同士としては自分にとっては18歳のナツトが初めてであった。ひと回り以上も年下な彼の身体を抱いたなんて思いもよらぬ事だったが、なんだか心は穏やかなのであった。


私達は互いの身体を寄せ合い浅い眠りについたのであった。30分程経過したのだろうか、目が覚めた頃に先にナツトが起きていてベッドの横に座っていた。私の表情を眺めながら頭を撫でていた。


ナツト「ようやく目を覚ましたね、身体起き上がれそう?」

私「ああ大丈夫だ、俺もつい眠ってしまった。ナツト、さっきは結構痛がっていたよな、俺とは初めてだったのにあんなに強く触れてしまって申し訳なかった。」

ナツト「いいや、無理してないよ。僕もつい興奮してあんな声も出してしまって…でも悪く思わなくていいからね。僕達は悪い事をしていないんだよ。これは正当なんだ。何も誰も責めてこないから今後も心配しなくていいんだよ。ジュート、自分自身も責めなくていいんだよ。正直に想いを出してくれたんだ。身体は嘘をつかないってこれで証明できたんだよ。僕達はもっと堂々としていていいんだよ」


ナツトは正直、そう素直に生きたいと強く抱いている人間なんだな。私も彼の様に正直に生きていたい。彼から短い時間の中何かを教えてくれた様な気がした。


ナツト「今晩の事は勿論誰にも言わないさ。僕達だけの秘密。楽しかったよ」


ナツトがそう言うと私は彼に微笑み返して肩を叩いた。私達二人は直ぐさま衣類を着て身なりを整えた。


そろそろ夜が明ける頃だった。居間の引き戸をそっと開けて、下に居るママや客人等の様子を伺っていた。皆は陽気に何時もの様に笑っていた。何事も無かったかのように、居間から出ていき、ナツトは1階の奥の楽屋へ行き、私はママの居るカウンターへと戻りグラス等の食器類を洗い片付けをした。


やがて閉店時間となり、来客人を全員で見送った。私にとってはあっという間の一日が過ぎた気がした。長柄の付いた雑巾で床の拭き掃除をしていた時に、店の出入り口から外気の風が中へと入っていきた。今日は暖かな日になりそうだ、そう感じながら念入りに掃除をしていた。


その数日後。私が店で働き始めてからあれから約束の2週間が経ち、開店準備後ママから皆へ揃う様に店内の中央に立たされた。


ママ「今日でジュートはこの店とも最後となる日よ。それでも私達は何時も通りお客様を迎え入れて御もてなしをすること。さあ、開店するわよ!」

全員「はい!」

踊り子「ジュート、閉店時間まで楽しく盛り上げていこうね」

踊り子「最後だからってヘマするんじゃないよ」


女性の踊り子たちは相変わらず気を立てるように私に声をかけてくれた。今日も店内は客人で溢れて活気を仰ぐように賑やかさで包まれていた。やがて店内にとある一人の男性が入って来た。身長にして175センチ程はあるであろう。先にママが出迎えてカウンターへと案内した。


男は腰を掛けて、「貴方はここの店主かい?」

ママ「そうですけど何か?」

客人「ちょっと人を探していてね。浦井 直純ただすみという人物なんだが、この店に出入りしていないか」

ママ「御宅はどういった用でこちらへ?警察の方かしら?」

客人「いや違う。ある人から捜査依頼を頼まれていて、もしかしたらこちらにいらっしゃるかと思い訪ねたのだ。何か知って要ることがあれば教えていただきたいのだが?」

ママ「申し訳ないですが、そのような人は此方にはいらっしゃらないわ。」

客人「そうか、取り敢えず一杯だけ酒を頂きたい。お願いできるかな」

ママ「少々お待ちを」


ママはカウンターから席を外し奥の楽屋へと入っていき、私を呼び出した。先程の客人の男の事を打ち明けると、


ママ「もしかしたらと思ったんだけど、警察の人間かもしれない。ちょっとだけ顔を確かめてきてくれないかしら?」


ママの言われた通り私はカウンターへとすかさず出ていった。私は驚いた。出来るだけ動揺した素振りを見せずにしようと平然とした出で立ちでその男の前に立った。


私「いらっしゃいませ、今、お酒を出します。」

客人「先程の店主、ママは何処へ行った?」

私「他のテーブル席のお客様のところへ」

客人「そうか、わかった。頼む」


間違いない。あの時、終戦後の新橋駅付近の闇市で何度か見かけた男だ。私の中で色々な事が渦を巻いて、どうすれば良いのか行き詰まりを感じている。この客人に震える両手が気づかれない様に私は平然と振る舞った。


私「お待たせしました。」

客人「どうも」


私が今のところ何者かはまだ気づいてない様だ。男はグラスの酒をゆっくり味わうかの様に呑んでいた。すると唐突に私に質問を幾つかして来た。


客人「君は此処で働いている者だろう?どれくらいになるんだ?」

私「今日で丁度2週間です」

客人「まだ日が浅いんだね。私は今、上野やこの鶯谷界隈のあちこちの店に行っては、人を探しているんだ。そうだな、丁度君の外観…背丈と似ている所があるんだよ。身に覚えのある者は知っているかい?」

私「私はあまり多く接客していないものですから、ちょっと分からないです。失礼ですが、具体的にはどういった方なのでしょうか?」

客人「あまり詳しくは言えないが、終戦後にあちこちで働いては彷徨ってる様な男でね。陸軍の兵士上がりの者で生真面目な人柄だった。周囲からも親しまれてた男だったと聞いている」

私「その様な方だと探すのには大変苦労を要するでしょう。こちらも力になれず申し訳無いです」

客人「いやいいんだ、私も頼まれて動いている者だ。見つかればその依頼主の所へ帰還させる予定だ」

私「その方のご出生は何方に?」

客人「北陸地方と聞いてるよ」

私「そうですか」


なんとか免れる用が無いかと考えているうちに手前のテーブル席に居るママと目が合った。私は軽く頷きその男に話しかけた。


私「今ママから呼ばれたので、ちょっと席を外します、失礼」


直ぐさまママいるテーブル席へと行き、ママが座っている横へ膝まづくように身を寄せた。


私「失礼します。ママ、彼方のカウンターに居るお客様がお呼びです。」

ママ「分かったわ、皆んな楽しんでね」


席を立ち上がるとママが私に囁く様に耳元でこう尋ねた。


ママ「どう?彼の方貴方の知っている方で間違いない?」

客人「あぁ、恐らく同一人物かと」

ママ「貴方は2階の居間に身を寄せて居なさい。なんとか上手く帰らせる様に仕向けるわ」

私「お願いします」


私はすかさず2階へ少し急ぐ様に階段を駆け上がり、誰も居ない居間の引き戸を開閉した。先程より息が上がっている。今にも心臓が飛び出してきそうな感覚だった。私もあれだけ平然としながら会話が出来たものだった。


何度も見かけた顔なだけに動揺の鼓動が止まらない。私は右手で胸を当てなだめる様に深呼吸をした。大丈夫だ、この場はママが上手く話をまとめてくれるだろう。十数分後に客人を見送るママの声が聞こえてきたので、居間の引き戸を片目が収まるくらいゆっくりと開けた。


下のフロアを見渡すとどうやらあの男は帰ったようだった。私は引き戸に額を当てて大きく溜め息を付いた。取り敢えず自分の身分を知らせずに済ませる事が出来た。1階へ降りてカウンターに立つママの傍に近寄った。


ママ「貴方と少し話がしたいわ。楽屋に来て頂戴。」


ママから言われた通りに奥の楽屋へ向かい、中に入るとママは煙草を吸い始めた。


ママ「ジュート、貴方が今日で此処を辞めるのに丁度良いタイミングでさっきの客人が来てくれたものね」

私「ママ、本当に申し訳無かった」

ママ「良いのよ、私も色んな客人たちを相手にしてきているものなのよ。あれくらいはどうって事ないわ。但し、貴方もこれからも誰かに追われながら生きていく事には間違いないわ。気を付けて頂戴」


何時になく敢えて強めな口調で私にそう言ってくれた。私は何も言い返す事が出来ずに軽く頷いた後に、店内へと戻った。


やがて閉店時間となり、従業員の皆と一緒に店内の清掃を各自で担当を決めて行った。カウンター周りの拭き掃除をしていると、ママから皆を全員呼んでくるように言われたので従った。フロアに皆が揃い、ママが前に出てきてこう語った。


ママ「今日は私やジュートにちょっとした客人が訪ねてきたけど、上手くまとめてお返しすることができました。これからも似たような人物がジュートに限らず誰かかしら宛にくる方もいるでしょう。その様な時は起きた場合は直ぐに私に報告するようにして頂戴。いいわね?」

全員「はい」

ママ「それからジュート、お勤めご苦労様でした。寂しいけど貴方も元気でやっていきなさいね。私たちの為に居てくれてありがとう」

従業員「ジュートありがとう」

踊り子「元気でね、またお店に来たいときがあれば何時でも待っているからね」

私「皆、ありがとう、最後の最後に騒がせた事をしてしまい申し訳なかったが、ここで皆と働けたことは感謝しています。本当にありがとうございました」


皆が私に向って拍手をしてくれた。本当にここの者たちは気遣いが行き届いていて温かい人ばかりだ。挨拶が終わると皆もそれぞれ家路へと帰って行った。店には私が一人最後に残っていた。自分も帰ろうとしたその時、ママからある物を差し出してくれた。


ママ「ジュート、これ少ないけど、今回働いてくれた分のお給料よ。」

私「いやママ、私はたいした働いていないので受け取る訳には…」

ママ「いいの。私達からのお礼よ。受け取って頂戴」


そう告げられ快く私は給料袋を受け取った。


私「ママ、今日で此処を去るけど元気でいてね。皆にも改めて宜しく伝えといて下さい。本当にお世話になりました。」


ママにお辞儀をして私はお店を後にした。家路に着いて居間の電気は点けずに窓から僅かに漏れる青白い外の夜の光を頼りに机に荷物を置いた。もうあの店に行くことが無くなったと思いに更けていると、身体に鳥肌が立ち身震いし始めた。


私にとっては濃く焼き付いた2週間だった。来月からは新しい会社に勤めるのだ。心機一転、気持ちを切り替えなければならない。


その後畳の上に敷いた布団を全身を被る様に覆った。これで少しは気が休まる、もう何も考えたくはない。そう頭の中で考えているうちに、私は深い眠りにいつしかついたのであった。


月日は変わり、季節は初夏の梅雨時に差し掛かっていた。新境地の会社に勤め始めてから半年後のある曜日に差し掛かっていた日の夕方、私は上司から応接室に来るように呼び止められた。


私「失礼します。」

上司「ここへ掛けなさい」

上司「突然呼び出してすまない。君の事について上層部の者たちと会議を行ったのだが、入社して早々で大変申し訳ないが、君の辞令が出された。」

私「あの…それは一体どの様なことでしょうか?」

上司「君の退職処分が下された。本当に申し訳無い。今週を持ってここを辞めていただきたい」

私「それは何故決まったのでしょうか?もう少し詳しく教えて下さい。」

上司「君がここに来る前にある店で働いて居たという話が耳に入ってきてね。何やら普通ではないというか…如何いかがわしい所で客人と相手をしていたと聞いたのだが、それは本当か?」私「それは間違いです。誰かが在る事無い事の噂話でも作って漏れたのに違いありません。それに、私はその様な店などに通ったことなど一度もありません。もう一度考え直していただけないでしょうか?」


私は突発的に起きたことで気が動転していたが、なお故実際に合ったことを隠しながら必死で上司達に交渉したが、誰も首を振ってくれはしなかった。一体どこから、誰が告げてきたのだろう…失意の中、私は命令通りに従い、デスクの荷物を片付けて会社を退社した。


ただひたすら惜しさともどかしさが身体の中を駆け巡っていた。気が付けば自宅の玄関に立ち竦み、突然の怒りが全身から溢れ出て、抱えていた荷物などを床に思い切り叩きつけた。息が上がり鼻息も治まらない。畳に両手の拳をバンっと叩き打ち、両目も見開いた状態でうめき声を上げていた。


何故だ、如何してこの様な事になる?やっと見つけた働き先だったんだぞ。経緯は何なのか?先月来ていたあの尋ね人の男か?全く思い当たらない、それにママたちや従業員達も、自分たちの身分を匿いながらあの店に居るんだ。そう簡単に情報がバレるなどない筈だ。


これからどうすればいいのだ…ただもう過ぎた事だ。これ以上怒りをぶつけても仕方あるまい。また明日以降職安で働き場所を探すしかない。何時までもくよくよしているものか。前に進まなくてはならないのだ。


場所は鶯谷のローズバイン。何時もの様にママや従業員達もせわしく動いては陽気に客人たちに振る舞いを見せて店内が活気づいていた。店の扉が開きママが出迎えると、其処にはジュートの姿があった。


ママ「まぁ久しぶりね、元気だった?さぁ中に入って」


ママは嬉しそうな表情で私の腕を引きカウンターへと案内してくれた。周りにいたナツトやミキト等も驚いた顔でこちらを見ていた。


ママ「どう仕事は?捗っているかい?」

私「うん、まぁね…」

ママ「なんだが浮かない顔ね、何かあったのかい?」

私「あのねママ、大事な話があるんだ。奥の楽屋へ案内してもらってもいいかな?」

まま「分かったわ、行きましょう」


ママは迷わず楽屋へと案内してくれた。中の楽屋には誰も居なかった。相変わらず煙草のヤニ臭さで溢れてて懐かしいな。そんな思いにも浸りながら、ママに向かって会社を辞めた経緯を話した。彼女も何処となく侘しい表情をしながら私の話を聞いていた。


私「これから、また新しい職を探さなければならない。ただ…俺、どうやらここの店の事が気になって仕方がないんだ。もしもの話だが、その…皆が一致してくれれば…また此処で働きたいと考えている。ママ、悪い提案ではないだろう?」

ママ「もし此処で働きたいなら、貴方は以前とは違う覚悟で生きて行かなければならないのよ。私は貴方には真っ当な道を歩んで欲しい所もあるの。ただ、貴方が今以上の許容量を超えていける覚悟があるなら、その誠意を私達に見せて欲しいの。分かるかい?」

私「自分が両性愛者という自覚はある。真っ当な道というのは俺にはまだ今後の人生の中でもいくらでも開ける自信はある。だから…」

ママ「自ら死のうが誰かに殺されようが、どちらも選択できているのなら、あんたの全てを出し尽くして此処で、いやこの上野界隈でトップの名を挙げる様に目指していく様に私達に見せて頂戴。見えない道も見えて来た時に、自分で判断できる覚悟も持っていて。いいかしら?」

私「分かった、約束する。必ず頂点に立つ人間になる」


この私でさえこれまで生死を幾ら彷徨いながら歩いて来た事か…ママとの約束は必ず果たしてやる。私の中で何時に無い野心が燃えているのを全身で奮い立たせていた。カウンターへ戻るとナツトとミキトが腰を掛けていた。


ナツト「ママから今聞いたよ。ここでまた一緒に働けるんだね、良かった」

ナツトは無邪気に嬉しそうな気持ちで軽く抱きついてきた。


ミキト「ジュート、ママからも言われたかと思うが、色々と容赦なく遠慮なく、こちらも体当たりで勝負させてもらうよ。」


ミキトは宿敵の念が強いのか、私に対してそう宣告してきた。そうだ、皆それぞれの想いで此処に居るのだ、簡単に引きさかるか。窮地に立てば私一人でも対立して挑まなければならない事もあるだろう。全て覚悟の上だ。絶対此処で生きてきてみせる。


私はナツトから楽屋の隣にある衣装部屋へ呼ばれ、クローゼットから何やら衣類を彼是と取り出している彼の背中を眺めていた。


私「ナツト、お前また痩せたか?前よりも背中の筋肉が落ちている様に見えるのだが?」

ナツト「ううん、体重は変わらないよ。もしかしたらちょっと疲れているのかもしれないね」

私「そうか、それならいい。出来るだけ飯を食う様にしてよ」

ナツト「お気遣いありがとう。相変わらず優しいね」

ナツトは微笑みながら私に衣類を渡してくれた。

ナツト「これ、今日からジュートのここでの衣装だよ。早く着替えて」


渡されれた衣類は、白生地の無地の長袖のシャツと明るめの薄茶色い長ズボンだった。ナツトが部屋を後にすると、私は直ぐに着替えをした。衣装部屋からまた店内へと戻ると、ママや従業員の皆が揃って待っていてくれた。


従業員「ジュート、いいね服似合っているよ。良かったね、ママ」

ママ「後は貴方の髪型ね、もう少し整えたい気もするから、早速だけど明日美容室へ一緒に行くわよ。いいね?」

私「あ…わかったよ、お願い」

従業員「何もそんなに緊張する事無いよ。ママね良い美容室知って要るんだ。連れてってもらいなよ」


やはりもう少し身なりを整えた方が良いのか、まあいい。ここはママに言う通りにしてみよう。


ママ「さあ皆、あともう少しだから頑張って頂戴。ジュート、行程は覚えているかしら?皆のフォロー宜しくね」

私「はい、宜しくお願いします」


それから皆それぞれ客人の相手をして、私も従業員達の補助をするように忙しく働いた。この感覚が懐かしく思えた、店内の吹き抜けの天井、カウンターから流れてくるレコード機のジャズ調の音楽、皆の行き交う楽しそうな歓声に似た響く音…


そうだ、ここは私にとっても居心地の良い場所なんだと改めて気が付いた。そうしている間に時間は過ぎて行き、何時もの閉店時間となり、来客を見送った後の清掃を終えて、皆それぞれ身支度をしてから家路へと帰って行った。午前6時の鶯谷駅のプラットホーム。人だかりの中、私は押し込まれるように車内へと乗り、赤羽の自宅へと帰ったのであった。


翌日、私はママと一緒に知り合いだという銀座にある美容室へと足を運んだ。


銀座自体は滅多に来ない場所だったが、客層が老若男女問わず行き交う人達で溢れて居た。髪型は自分ではどうすれば良いのかが分からず、ママの意見を交えながら美容師に任せる事にした。


その後、店を後にして、近くの喫茶店へと立ち寄る事にした。私は先程の初めて入った美容室での緊張感から抜け出せず、喉いっぱいに潤したい気持ちで沢山だった。注文した物を店員が持ち運んできて、私にはアイス珈琲という冷たい飲み物を出された。中にはきらきらと輝く様に音を立てて氷が擦り合わせながら溶けてきていた。ひと口飲んでみると堪らず私は美味しいと伝えると、


ママ「貴方は初めての物を見たり口にしたりする時は、子供の様に嬉しがるわよね。」


と、ママが幼な子を見守る様な眼差しで私に微笑んできた。私もついつられて微笑み返した。少しの雑談をした後店を出て、夕日が差し込み始めている街を歩き、和光ビルの通り沿いにある地下鉄の銀座線通路口に入って行った。電車に乗り、上野駅にてJR線に乗り換え、鶯谷駅に下車してから、ローズバインへと向かった。店には数名の従業員と踊り子らが先に出勤していた。


踊り子「ママおはよう。ジュート、美容室行ってきたんだ。良いじゃない、モダンな髪型で似合っているわよ。ねぇ皆んな見て!ジュートが別人になったみたい!」


踊り子の一人がそう言うと、その声に応えるかの様に私に近寄ってきた。これもママのお陰だなと、少し照れ臭い感じで皆の声に耳を傾けていた。その後からナツトやミキトらも出勤してきて、全員が店内の支度をした後、衣装部屋のロッカーにて着替えをし、楽屋にて身なりを整えた。


開店時間から2時間程経った時、一人の紳士風の男が来店した。テーブル席に座り、ママ達と楽しそうに話が弾んでいた。その後私も呼ばれたので、男の隣に腰を掛けた。


石田「君が、ママが言っていたジュートだね。私は上野にある寫眞館で経営をしているんだよ。もし良ければ、今度記念に写真を撮ってあげようかと話していたんだ。考えてくれるかい?」


そう言われて名刺を渡された。男の名は石田と表記されていた。落ち着いた身なりと口調。悪い人では無さそうだなと思い、いつか撮って頂きたいと返答した。石田様はここの店にはたまに来るぐらいの方らしく、ママとの付き合いも長いと聞いた。


どうやら同性愛者でも無いとの事だが、私達の様な人間に対しては幾らかの理解はしてくれているみたいで、逆に世の中にそういった少数派の者達をもっと受け入れていける様になって欲しいと向上心を抱いているのだと言う。


その様な熱意を聞くと、私個人もそういう世の中に広まって欲しいものだと胸が熱くなっていた。やがて石田様は帰り際に私に近寄って声を掛けてきた。


石田「ジュート、自分なりの人生を楽しみなさい」そう一言添えて店を出て行った。


翌週後の中日のある休日、私はナツトを赤羽の自宅へと誘った。帰宅途中に二人で商店街の各店を周り買い出しに行っていた。自宅に到着した時は外は日が暮れていた。自宅の玄関の灯りを付けて、すぐさまナツトはある物に目が入って居た。


ナツト「ねぇジュート、レコードが置いてある。凄い、自分で買ったの?」

私「あぁ、安い物だが手に入れる事ができたんだ。後で何か聴こうか?」

ナツト「うん、お願い」


私は早速夕飯の支度をし始めた。ナツトも手伝いたいと言い寄ってきたが、自分一人で充分だから腰を掛けて待って居て欲しいと答えた。


招き人に手料理を振る舞うのは久しぶりだった。台所に立ち買ってきた材料や調味料を出して、幾つかの品物を作ってあげた。出来上がるとナツトはとても喜んでいた。夕飯を食べながら私達は会話をした。


私「ナツトは普段は料理はするのかい?」

ナツト「ううん、殆どしないよ。前に米を洗っていた時に全て排水口に流して駄目にしてしまった事がある。味噌汁も作ってみたけど、隠し味にと酢を入れてしまった事もあって目に遭ったよ」


陽気に話す内容に私はやや戸惑いと疑念を持ちながらも、彼の話を聞いてあげた。夕飯を済ませた後、ナツトはお礼にと食器類の後片付けをしてくれた。


ナツト「こんなに沢山美味しい手料理を食べたのは久々だったよ。ご馳走様でした、ありがとう」

私「こちらこそ美味そうに食べてくれて嬉しかったよ」


彼との何気ない会話が心地よく、まるで生前の実家の家族との他愛ない雰囲気を思い出し懐かしく愛しい感覚に浸っていた。


私「ナツト珈琲は飲めるか?」

ナツト「うん飲みたいな」

私「分かった、今淹れるから待ってて」


私は台所のやかんに火をかけて、戸棚の中にある珈琲の缶と珈琲カップを取り出した。やがてお湯が沸いて火を止めて、ドリッパーに設置した中の珈琲の粉にお湯を注いで、抽出した滴が落ちて来るのを見てはお湯を再び注いでいった。

抽出した珈琲をカップに淹れて、ナツトの元へ運んでいった。


私「お待たせしました、どうぞ」

ナツト「わぁ美味しそう、いただきます」

私「そうだ、レコードをかけよう。曲は俺が選んでもいいかな?」


ナツトは美味しそうに珈琲を飲みながら頷いてくれた。私はレコード機に円盤を置き、針を落として曲をかけた。


ナツト「新曲の洋楽のジャズだね。良いよね、なんか落ち着くよ」


ナツトは穏やかな顔でレコード機を眺めながら珈琲を口にしていた。二人で壁に寄りかかり部屋中に音楽が流れて私達は暫くの間聴き入っていた。私は珈琲カップを机に置き、ナツトに向かって話しかけようとした時、彼もまた私の右肩に頭をそっと置く様に身を寄せてきた。


ナツト「ねぇジュート、一晩泊まっても良いかな?」

私「良いよ、そう言うと思って布団も用意してある。泊まっていけよ。」

ナツト「布団は一つで良いよ、一緒に寝たいんだ」

私「今日ぐらいは別々にしよう。ここは俺の住処なんだから」

ナツト「ジュートは、僕の事をどう考えているの?」

私「大切な仲間だ、前からそれは同じさ」

ナツト「じゃあ何故今日此処に招待してくれたの?それもお店の仲間だから?」

私「そうだな…仲間でもあるし、戦友って言い方もあるかな」

ナツト「戦友?同志じゃなくて?」

私「戦友でも同志でも構わないよ。大切な仲間なのには変わらないさ」

ナツト「僕はこのままの関係じゃなくて…もっと深い仲になっていきたいな。ジュート、同志以上の仲になってくれないか?僕、気持ちがやきもきして自分でも上手く抑えられないんだよ。」


ナツトは持っていた珈琲カップを机に置き、私の両肩に手を置きお互い向き合いながら、更に話を続けた。


ナツト「僕らはお互いが世の中に置いてある立場に対しては何も間違ってはいないんだよ。僕だって今こうして勇気を持って君に話している。ねぇもっとあのお店を繁盛させていく気はあるかい?僕らが良い関係になれば上手くいく事も沢山増やせていける気がするんだ。お願い、真剣に考えてくれないかな?…ジュートの逞しさが好きだ。僕と付き合ってください」


彼が告白をしてくれた後、優しく口づけしてきた。お互いの唇が離れると私は彼に返答した。


私「少し考えさせてくれ。それから答えを出したい」


ナツトは少し俯き加減になり、私の身から離れて襖の布団を二人分引き出して畳に敷いた。


ナツト「返事、待っているね。先に寝かせてもらうよ」


そう言うと彼は東側に敷いた布団を被り横になって眠り始めた。私は飲みかけの珈琲カップを後片付けした。


時間は進み、深夜0時を回ろうとしていた。時計の針が音を立てて、通りかかった車のエンジンの振動の音が静寂の中を響鳴らしていた。私は少し眠りかけてあったが、先程のナツトの言葉が頭から離れずに居た。目を覚ますとナツトがこちらに身体を向けて眠っていた。私は片腕で身体を支える様に上体を起こし、彼の顔を暫く見つめていた。その後左手を伸ばし彼の頭を撫でていた。そうするとナツトは目を覚まして私の手を握ってきた。


ナツト「ジュート、そっちに行っても良いかな?」

私「あぁ、おいで」


ナツトは私の身体を抱き抱える様に身を寄せてきた。私もまた彼の身体を優しく抱きしめた。


ナツト「ジュート、正直に答えて。僕の事どう思っているの?」

私「俺も…お前が好きだ。お前の言う通り俺が考えている事は間違ってはいないんだよな。俺ももっと正直に生きたい。ありのままの姿をお前に見せていきたいんだ。もっと言うと戸惑いが思う様に制御できずに居て、正直になれと言われても焦って上手く言葉にできない所もある。ナツトの様にあるがままの人間になってみたいものだ。」

ナツト「それだけ正直に言ってくれたら充分だよ。もっと時間をかけてお互いを知っていけばいいんだよ。ジュート、一歩踏み出す事が出来たね」


ナツトは以前よりも成長しているかの様に見えた。


ナツト「あのね、前から聞きたいことがあったんだけど、ジュートはどうしてまた店に出戻ってきたの?やっぱり例の人探しが目的?」

私「真っ先にそれもある。また俺にはあの店が自分の本来の"居場所"の様な気がして…ママの影響が強いのかもしれないな。」


私達はお互いに額を寄せ合い、そのまま共に眠りについていったのであった。


翌日。時間は昼近くに差し掛かろうとしていた頃だった。昨夜の返答をしなければならないと思ながら、身支度をしていた。


私「ナツト、昨日の返事だが…改めて俺と付き合ってください。いいかな?」


ナツトは直ぐさま満面の笑顔で私に飛びつく様に身体を抱いてきた。


ナツト「ありがとう、宜しくね」


彼はそう告げて共に自宅を出た。人通りの多い商店街を歩き、私は駅の改札口まで彼を見送った。


数日後のローズバインの店内は何時もよりかは客人の数も少ないと感じていた。客の居ぬ間に私はママとナツトを呼び出して、ナツトと恋人になることを告げた。

そうするとママは本気なのかとやや呆れた様な顔をしていたが、二人で決めたことなら其れで良いと答えてくれた。男同士の恋人…私にとっては初めての経験だ。ただ何も恐れることはなかった。何時か皆に知られても、堂々と構えていればいずれか分かってくれるに違いないと、希望を抱いていた。


開店時間から3時間経った21時を過ぎた頃、一人の客人が来店した。いつもナツトを指名して来る常連の姿があった。彼の名は安井と言う。


ナツト「いらっしゃいませ安井様、2階の居間へどうぞ」


ナツトが丁度出迎えをしたので、そのまま二人は2階へと階段を昇っていった。私はママから安井様に専用の瓶に入った酒やつまみを運ぶ様にと指示があったので、用意した後居間へ向かった。


私「失礼します。お酒をお持ちしました」

安井「あぁ入りなさい」


中の引き戸を開けると二人は身を寄り添う様にして、此方を見ていた。


私「お待たせしました。此処に置かせていただきます。」


居間から出ようとした時、安井様が私に声を掛けてきた。


安井「君は確かジュートと言ったね。そうだな、ナツト、悪いが君は席を外してくれるかな?ジュートに今日は酒を注いで貰いたい。相手になってくれるか?」

ナツト「え?…はい、分かりました」

私「安井様…私で宜しいのでしょうか?」

安井「今日だけで良いんだ、君と酒が呑みたいんだよ」

ナツト「では僕は席を外します。ジュート、お願いします」


ナツトが居間を出て行って後、私は安井様が胡座をかいて座る側まで近寄った。


安井「ジュート、もっと傍に来なさい。酒を注いでくれ」

私「はい。あの安井様、今日は私を指名したというのは、ナツトに対して何かお気に召さない処でもありましたか?」

安井「いやいやそうじゃない。ナツトもいつも相手にしてくれて大変有難いのだよ。ただ以前から君ともどんな人物か話がしたくてね。だから呼び止めたんだよ」

私「そうでしたか、ありがとうございます」

安井「君も呑みなさい。私が注いであげよう」

私「あぁはい。では頂きます」


私と安井様はお互いのグラスを寄り当てて乾杯を交わした。私は自分のグラスを一気に飲み干した。


安井「ほほう、良い呑みっぷりだな。さぁ続けて呑みなさい」


安井様の言われた通り、またグラスに酒を注いで頂いた。


安井「ジュート、ここの店に働き始めた経緯はママからの提案でかな?」

私「えぇ。私も最初は客人として何度か通っていたんです。そうしている内にママから素質があるから此処で一緒に働いてみないかと声を掛けてもらいまして…」

安井「素質も何も、君はナツトやミキト達と同様に男色の身であるだろう。他の店で働くにしても長く続いていくには、到底難しいところだ。身分を隠しながら世の中で周りと同等に就労しても長続きし難い所だってあるだろうし。ここの店にいる方が安全であるだろう。ママの人を見抜く洞察力は大したものだな」

私「確かに安井様のおっしゃる通り、私も前職は通常の労働者としてあちこちの企業を渡り歩いていたようなものです。色々と身の程を知りました…」


その言葉はまるで棘を指すかの様に胸に響くところがあってヒリヒリと痛みが走った。


安井「少し酔いが回ってきたな。ジュート、もっと私のところに寄り掛かりなさい」


そう言われて私は安井様の身体にぴたりと自分の身を添えた。すると彼は私の頭を撫で始めて、顔を近づけてきた。私の左頬に手を添えて、更に顎をやや斜め上に持ち上げてきた。


安井「ジュート、私の要求にちょっと付き合ってくれるかな?」


そう言われて私は安井様から一度身体から離れて、居間の引き戸側に立つ様に指示してきた。


安井「ジュート、服を全部脱ぎなさい」


私はやや目線を床に下げ少しの間に躊躇いを見せた。


安井「大丈夫、誰にも言わないから。君の裸を見てみたい」


安井様は私の顔をじっと見つめてきて、品定めをするかの様に身体も眺めていた。私は上半身のシャツをゆっくりと女性が振る舞うかの様に脱ぎ始め、ランニングシャツを脱いだ後、下半身のベルトを取り外し、ズボンも全て床に脱ぎ捨てた。


安井「下着も脱ぎなさい」


一瞬だけだったが、何処となく怒りが湧き上がり、拒否したい気持ちになり手を止めてしまった。


安井「ジュート、見せてくれ。頼む」


彼の身体に酒の酔いが大分回ってきているかの様に見えてきた。今日だけの事だ、と思い、私は下着を全て脱いだ。暫く安井様は私の全身を眺めて次にこう告げてきた。


安井「そこで一回りしなさい。」


私は言われた通りに身体を一回りした。


安井「君も年の割には筋肉質で良い肉付きをしているじゃないか。さぁそのまま私の傍に来なさい」


私は彼の身体に寄り添う様に隣に座った。何故か小さな怒りが収まらない。私は反抗するかの様に試しにこう囁いてみた。


私「安井様、試しにこのまま…私を抱いてみては如何かと?」


私は彼の手を引き頬に擦り合わせ、そのまま指を一本ずつ噛んでいった。


私「貴方が私を欲するなら何をされても構いません。抱いてくれませんか?」


そう告げると彼は勢いよく私を押し倒してきた。


安井「君も良い根性をしているな。言う通り相手にしてあげよう」


彼の薄気味悪い笑い顔が手元のランプ(洋燈)の光で余計にそう見えて、私は全身に身震いを起こした。私は身体を反らしながら、やや鼻息を荒く上げ、彼の顔を怪しげに微笑み返した。彼もまた上半身の衣類を脱いで、私の首元や胸元を唇で舐め始めてきた。もっと相手を興奮させてやろうと私は荒く息遣いをしていた。


最後までやってみるが良い。


どんな思いに更けようが私には関係あるまい。ナツトが此の人からから受けてきた仕打ちを分かれば、納得のいく所もあるだろうと考えながら、なすがままに身体のあちこちに愛撫をしていた。やがて私の身体をうつ伏せにさせ、尻や太ももを噛んできては舐めていた。


安井「ジュート、自分の手で口を塞ぎない。声をあまり出さない様にしてくれ」


そう言うと彼は私の尻の間に勃起した性器を挟んできて、腰を上下に振り始めた。全身を強く揺さぶられていたので、痛くて声を上げたい思いでいっぱいだった。


喉が渇いてきていた。ここで逃げたら恐らくもっと抵抗するに違いない。このくらいで逃げるものか、逃げたら負けを認める事になるだろう。私は彼と同様に気持ちも昂り、床に脱ぎ捨てた衣類を両手で掴みながら最後までその場を耐え抜いたのであった。


時にして2時間は経ったであろう。安井様は先に衣服を着始め、床に横たわっている私に近寄りこう告げた。


安井「なかなか良い身体をしているじゃないか。今度来る時には君を指名しよう」

私「ありがとう…ございます」


彼が私に贈り物だと煙草を一箱渡して、居間から一人で出て行き、ママと僅かな雑談をした後、会計を済ませて店を後にした。


居間の中には私一人だけ取り残されていた。私は下半身の下着やズボンを履き、明かりの灯る壁側に身を寄せて腰を掛けた。貰った煙草を開けて一本取り出し、口元に咥えてライターで火をつけた。天井を見上げながら吸って吐いては、先程の余韻に浸っていた。私は人の気配も無いのに、次第に腹の底から笑いが止まらなくなり、安井様の相手をしていた事を思い出しては、高笑いをし始めた。


情が崩壊されるというのはこういう時に目の当たりにされるものなのかと、全身から堪らない感情で溢れていた。暫くすると私は上半身の衣類を来て居間から出て行き、カウンターに居るママの所へ近寄り、外の空気を吸いたいから、少しの間近くを出歩きたいと告げると、店の扉を開閉した。


街頭の明かりを頼りに煙草を吹かしながらゆっくりと歩き始めた。人通りは真ばらだが、若い男女や年配者、男色同士等の恋人同士の姿、30代くらいの酔っ払い仲間同士の罵声の様な叫び声が行き交う中、私は彷徨う様に身体がぶつからない様にふらつきながらも3、40分は往復して歩いていた。まるで現実逃避の様に身を浸っていたのであった。


店に戻るとママやナツトが私の様子を伺っては、


ナツト「ジュート何かあったの?」

私「何とも無い。ただ気分転換に出掛けていただけだ」


そう告げてカウンターに腰を掛けた。私等は次の客人を待ち構えながら、従業員らと雑談を交え、来客者に何時もの様に出迎えておもてなしをしていった。こうした中で、私は日を追う毎に、複数の客人の男等と身体を重ねていく内に、所謂“快楽”というものの存在を覚えていったのであった。


数週間が過ぎたある日の店内の賑やかな声で行き交う中、以前私を尋ね人としてやってきた男が現れた。


谷沢「今日は客人として来たんだ、酒を頂きたい。」


男はカウンターにすかさず座って、店内を見渡していた。彼は谷沢だと自ら名を名乗り、ママに名刺を渡していた。そこにはある大手の広告代理店の名も記されていた。


ママ「まぁあの企業にお勤めでいらっしゃるのね。ところであれから探していた人は見つかったのかしら?」

谷沢「いや、まだ手掛かりが見つからず難航しているんだよ。ママ、やはり貴方の協力もこうなった以上必要になってくるんだよ。私に手を貸してくれないかな?」

ママ「そうね、考えても良いけど、お店の子達に個人的に近寄る事はよして頂戴ね。それが条件よ」

谷沢「ありがとう。もう一杯酒を注いでくれ」

ママは軽く笑顔を振る舞いながらも、いつしか化けの皮を剥がしてくるに違いないと警戒心を持ちながら彼に接していた。既にジュートが狙われているのだと気づいていたのである。

谷沢「そういやここでは、誰かを指名できる場であるんだよね?君、そう君だ。名は何と言う?」

私「ジュートと言います」

ママ「谷沢様、今この子は他のお客様とお相手をしている最中でして。別の方をお呼びしますが、如何されますか?」

谷沢「私はその…君、ジュートと話がしたいんだよ」

ママ「分かりました。ジュート、奥のテーブル席の方に事情を説明してから、此方にまた戻ってきて頂戴」

私「はい」

私はテーブル席の客人に急遽別の接待が入ったと伝えて、客人相手をしてくれる者を呼び出して、再びカウンター席に戻ってきた。

私「お待たせしました」

谷沢「忙しいのに悪いね。さぁ君も一緒に呑もう」

私「頂きます」


谷沢様から酒瓶を注いで貰い、私も共に酒を頂いた。


谷沢「私はね、あまりこういうお店に来る様な者ではなくてね。つまり…性の対象は女性しか抱かないというもので、残念だが本来此処に来てもどの方にも相手をするというのは恐れがましくてね。」

ママ「いいえ、こうしてお酒を頂いてくださるだけでもとても有難いものなのよ。ここの店は他の店とは違って、そういった処では規制がないものですから」

谷沢「そうか、私の様な者でも良いのなら遠慮なく来させてもらおうかな、なんてね」

谷沢様は続けて話をして来た。

谷沢「ジュート、君にもちょっと尋ねたい事があってね。以前も同じ事を聞いたが、あれから私が話していた男を見かけた事はないかい?」

私「えぇ、ありません」

谷沢「名前が浦井直純と言う者なのだが…」

その時、私は洗い物として持っていたグラスを滑らせシンクの中に落として割ってしまった。私の本名を告げられ一瞬動揺しまったのであった。

谷沢「大丈夫か?手は怪我してないか?」

私「すみません、つい手を滑らせてしまいまして。そちらにガラスの破片は飛ばなかったですか?」


私は慌てて布巾を持ち、谷沢様の元へ駆け寄った。


私「驚かせて本当に申し訳ございません。お怪我はありませんか?」

谷沢「私は大丈夫だよ、そんな大した事はないから心配しなくてよい」


私は彼に頭を下げて、再びカウンターの中に戻った。谷沢様は私の表情を暫く眺めていたが、疑う事無くグラスの酒をゆっくりと呑んでいた。


谷沢「時間が来たので今日は帰る事にするよ」


彼がそう告げるとママがまたお待ちしておりますと返答し、帰る背中を見送っていった。


ママ「ジュート、貴方本当に怪我はしていないかい?」

私「あぁ大丈夫。何処も痛くは無いから」

ママ「さっきの話だけど、客人から本名を聞かれても、あまり動揺する素振りを見せるのは気不味いわ。今度彼の方が来ても堂々としていなさい」

私「気を付けます」


あまり顔を見せたく無い客人だが、私はふと戦地での出会ったイギリス兵の男の姿と谷沢様の面影を何となく重ねて合わせていた。いや、そんな筈がない。同じ人物で有れば一発で見抜ける筈だ。背丈が何処となく似ていただけで、後は丸っ切り赤の他人…。さぁ後半も頑張らないと、そう奮い立たせる様に私は後から入ってきた客人を迎え入れ、接客に専念していた。


数日後、休日が明けたある日、2階の居間の客人の相手を終えて1階の奥の楽屋に休息を取ろうと中へ入っていった。踊り子達が煙草を吹かしている中で私も彼女達の会話に耳を傾けていた。


踊り子「ねぇジュート、この間来た谷沢って客人、貴方が休みの日に店に来ていたのよ。ジュートの事も尋ねていたわ。何かしつこくて嫌だよね。貴方本当に気をつけるんだよ」

私「あぁ分かったよ、教えてくれてありがとう」


煙草を一服した後、店内へと戻るとミキトからテーブル席の客人の相手をする様にと告げて来たので、向かってみるとそこには石田様の姿があった。


石田「やぁジュート。久しぶりだね。ここに来てくれないか?」

私「石田様、お久しぶりです。来てくれて嬉しいです。あの、石田様専用のボトルを用意してくれないか?」


通り掛かりの従業員に声を掛けて、その後彼とグラスを乾杯をした。


石田「ジュート、私が前に言っていた寫眞だが、ママと相談したら来週空きがあるから店に来る様にと話をしたんだ。君も一緒に来てくれるかな?」

私「では行かせてもらいます。寫眞なんて何時振りだろう…ちょっと緊張するなぁ」

石田「何も肩肘を張らずにしていていいんだよ。良い寫眞を撮ってあげるから、期待していてくれ」


石田様との会話は何故か心が落ち着く。何処か憧れるなぁ…そう雰囲気に浸っていると、また別の来客が来たので、ママが出迎えると、また谷沢様が店に来ていたのである。彼は此方に気付いたのか、私の居る席にやって来た。


谷沢「石田さんご無沙汰しています。以前は大変お世話になりました」

石田「谷沢じゃないか。久しぶりだな、あの時以来か。奥さんもお元気で?」

谷沢「あの、もし良ければ此方に同席しても構いませんか?」

石田「是非座ってくれ。皆も良いだろう?」

石田様と谷沢様は昔からのお得意様同士らしく、今日が数年振りの再会だったという。

石田「君もこの様な店に来ているなんて不思議なものだな。誰か常連の相手でもいるのかな?」

谷沢「いえ、私は只の客人として来ているんです。実はちょっとある知り合いから尋ね人を探す様にと依頼を受けてましてね。流石に東京は広くて人が多いから、探すのにも一苦労していましてね」

石田「それは大変だな。店の方達も流石に見かける客人はいないだろうし」


会話が弾む中、私はその話をされるとやや気持ちが昂ってしまう様で気を紛らわしたかったが、此処は我慢を虐げられている様な気がしてならなかった。やがて石田様は時間になったから先にお暇すると告げてきて、席を立った。


私「また来てくださいね」


そう声を掛けると振り向き様に石田様は微笑んでくれた。


谷沢「そうだ、ジュート。君に話がしたい事があってね。今日は2階は空いているのかな?」

私「ええ、ではお2階へ案内させて頂きます。」


従業員に谷沢様専用の酒を用意する様に注文をして、私は彼と二人で居間へと入っていった。彼を居間の中へ案内をして客人専用の席に座る様に告げた後、従業員が酒を運んできてくれた。ありがとうと一言添えて従業員が出て言った後、彼は直ぐさま私に話しかけてきた。


谷沢「いつも私が来ると君は少し浮かない顔をするね。もしかして何か悩み事でもあるのかい?」

私「いえ、特にはありません。少し疲れているのかと…お客様の前ではその様な表情を見せるのはご法度かもしれませんが…」

谷沢「いや、只聞いてみただけだ。気にするでない」

グラスに酒を注ぎ谷沢様は酒を半分まで呑んでいた。

私「谷沢様、一つ伺いたい事がありまして…以前からある男性を探しているとの事ですが、もしかしてやはり…私の事なのでしょうか?」

谷沢「…やはり君は気付いていたんだね。君は本名は浦井というのか?」

私「いえ違います。申し訳ないのですが本名は店では伏せるようにとママから命令されてまして。」

谷沢「そうか、済まぬ」

私「あの、前々から聞きたかった事がもう一つありまして。谷沢様は戦後に新橋駅の闇市にいらしていたことはありましたでしょうか?」

谷沢「ああ、そういや何度か足を運んでいた時期があったよ。もしかして私の事をその頃よりから知っていたのかい?」

私「はい、私も当時その場所に行き来しいてたことがありまして…やはりあの時の方でしたか」

谷沢「よく私の事を覚えていてくれていたな。これも何かの奇遇な出会いなのかね。面白いものだ」


谷沢様は私の素性にまだ気付いていない様子だったが、顏を覚えてくれたことには嬉しそうな眼差しだった。その思いにつられてか私はある知人の話をしてみた。


私「個人的なお話になるのですが、谷沢様は、私の遠い昔の友人に背格好が似ていて、なんだか懐かしく思い出します」

谷沢「どういう人だったのかい」

谷沢「戦地で出会ったイギリス兵の男でした。日本語が少し分かる方でして。彼もまた当時故郷に居る家族について私に拙い日本語で話をしてくれたものでした。本当良い出会いでした」

谷沢「私も当時は海軍の兵士として出兵をしていた。仲間の半数は捕虜として帰らぬ人となってしまってね。あんな現状をしいたげられては身も心も何もかも崩れてしまいそうだった。そんな中で終戦を迎えたね」

私「生きて帰還した者たちは皆、それぞれの思いで国に帰って行きましたね。」

谷沢「今はもうそんな世の中ではない。これからは自由を共に作り上げていく国にしていきたいものだな」

私「自由ですか?」

谷沢「ああ。共に生き、共に共感し合う、世界中の者たちが分け隔てなく殺されない国を…私等で作っていくのだ」

私「殺されない国…素晴らしいですね」

谷沢「そう皆が願いながら生きている。君もそうして行きたいだろう。」

私「希望のあるお言葉、なんだか私も勇気が湧いてきました。」

谷沢「ジュート、君も私と一緒に捜査に協力してくれないか?」

私「僕は貴方の依頼に対して力になれるかどうかは判断し難い所もありますが、それでも良ければ協力はしても良いかと」

谷沢「あまり危険を伴わないからそんなに負担を感じなくて良い。もし探している人物が現れたら直ぐに私に連絡してくれ」


そう言って谷沢様は私に名刺を渡してくれた。目の前に私という張本人が居るというのに、私もどうかしているなと何処となく感じていた。


私「谷沢様、今日はもうお酒は呑まれないのですか?」

谷沢「あぁ…実はあまり酒は強い方ではなくてな。この通り顔も赤くなっている。折角店にいながら失敬な事だよな」

私「そんな事ありません。無理に呑まれてもこちらもお客様に対してご迷惑をお掛けしてしまいますし」

谷沢「ジュート、君は本当に皆が言う様に優しい男だな」


谷沢様が悪酔いしないよう配慮をして、なるべく帰宅するようにと促した。私は優しい男…いや只その様に振る舞っているだけの人間だ。帰り際谷沢様が私にこう告げてきた。


谷沢「先程の戦地で出会った男の名は何という?」

私「…ルドルフと言います」

谷沢「ルドルフか、またいつか何処かで会えるといいな」


彼と共に居間を出ていき、階段を下り、背中を見つめながら帰るのを見送った。私はその名前を伝えてしまったことに若干の後悔をしてしまった。もう会えぬ仲だと分かっているのに谷沢様に個人の心情を伝えてしまったから。私は気持ちを切り替えて従業員に新しい客人が私を呼んでいると告げられたのでそのままテーブル席へと向かったのであった。


その1時間後の事であった。とある一人の客人が来店したので私から出迎えていくと、唐突に声を張り上げてこう言ってきた。


客人「ここの店主は何方かね?」

ママ「私でございます。何かご用でも?」

客人「ここでは他の客人もいることだ。少し外で話がしたい」


ママはその男と二人で店の外へと出ていった。あとで聞いた話、その男は公安の人間だと伝えてきた。ここ最近、上野や鶯谷の周辺で変死体の事件が多発しているという。私達従業員等も事件の容疑にかけられるのもおかしくは無い事だと発令してきたのである。この時代じゃまだまだ世間も物騒他ならない。ママから皆に気をつけるようにと警告してきたのであった。


翌日の深夜。私は赤羽の自宅の居間で深い眠りついては夢を見ていた。何処かで見たことのある風景だった。


場所は何処か分からぬが、果てしなく広い野原に、無数の向日葵が咲いていた。私は其処であのイギリス兵の男と再会し、その喜びを噛み締めるかのようにお互いに強く抱き合っていた。


やがて空襲の大きなサイレン音が鳴り、向日葵畑は投下された爆弾で次々を向日葵がなぎ倒されていった。熱い、焼けて死んでしまいそうだ。


止めろ、もう止めてくれ。これ以上世界中を火の海にするな…!


その中で私はふと目が覚めた。身体は汗を掻いていて、硬直した状態で仰向けになっていた。上体を起こして両手で顔をうずめた。


谷沢様と出会ってからこの数週間の間その様な夢を繰り返し見てしまうのであった。たかが夢だ。虫の知らせでもない限り、この国に夢で見た現状などもう起こる筈が無い。

ふと窓の外の窓に目をやった。小さな雪の結晶が空からはらりはらりと降って来たのである。季節は師走の中頃を迎える時期であったのだった。


翌日私は何時もの時間通りに店へと出勤して、店内の清掃をしていた。丁度そこへナツトが通りかかったので渡したい物があると告げた。奥の衣装部屋のロッカーに二人で行き、ある物を彼に手渡した。


私「クリスマスが近いから良ければ受け取ってくれ」

ナツト「うわぁ!綺麗だね、此れは何という物なの?」

私「スノードームという物で、西洋では今の時期の贈り物としてある品物みたいだ。ナツト、これ…気に入ってくれたかな?」

ナツト「うん。凄く素敵だよ。ありがとうジュート!」


ナツトは終始笑顔を絶やさなかった。彼は大事に自宅に飾っておくと告げて、自身のロッカーに閉まった。私は一先ず安堵の気持ちになった。ここ数日間の間に、クリスマスの贈り物は何をあげたら喜ぶか、色々品物を選んで見て来たからである。


ナツトのあの笑顔が私にとって本当に微笑ましく有難いものだと何時も感じている。彼を心から好きで居て良いのだと感謝の意で沢山だった。私は、更に彼を近々招待したい場所があるから、ある日にちを空けておいてくれと告げて、何処の場所かは当日まで楽しみに待っていて欲しいと頼んだ。


明くる日の夕方、私はナツトと二人で招待した場所へ連れて行った。

其処は常連客の石田様の経営する寫眞しゃしん館だった。


石田「やぁ二人ともいらっしゃい。よく来てくれたね」

私「お忙しい時期に急に来てしまい申し訳なかったです」

石田「そんな事ないよ。君がナツトだね」

ナツト「はい、いつもお世話になっております。ジュート、行きたい場所って石田様の所だったんだね」

私「あぁ。ちょっとお前を驚かせたくてね。」

石田「二人とも、早速だが奥の椅子が置いてある所へ入って行ってくれ」


石田様は私達を撮影する位置へと案内して、寫眞機の前に立った。


石田「さぁ撮影していくよ。二人とも表情が硬いな。もっとリラックスしなさい。」


あまり慣れていない寫眞機のレンズに顔を向けては、石田様は様々な姿勢を私達に要求してきた。次第に慣れて来たのか、私とナツトは自然と笑顔で寫眞機の前で柔らかな表情を出していったのであった。


石田「とても良い寫眞が撮れたよ。二人とも、お疲れさま。ありがとう」

私「こちらこそありがとうございます」

ナツト「来てよかったね」


撮影が終えると石田様は寫眞が出来上がり次第、後日連絡してくださると教えてくれた。


石田「君達は本当に良いパートナーだ。ずっと幸せに居れる様に私も力になりたい。」


石田様の言葉には殆どというくらい嘘偽りが無かった。私達やお店の事をこんなにも考えてくれているだなんて。心強い方だと心底感じながら店を後にした。私とナツトはそのままローズバインへと向かい、雑談をしながら時折目が合うと、二人で笑い合っていた。


17時を回っていた頃に、お店の近くまで来ると、隣の建物から何やら煙らしき物が上がっていたので、急いで駆けつけていくと、店の勝手口側からボヤが出ていた。人集りの中、私とナツトはママとミキトと従業員と踊り子等の姿を見つけて、


私「ママ!何があったんだ?」

ママ「分からないの。誰かが火を点けたみたい」

私「ミキト、俺と中へ入って。行くぞ!」


直ぐざま私はミキトと店内へと入り、カウンター席の傍に設置してあった消化器を取り出して、勝手口へと行き、煙を消化した。すると反対側の楽屋から炎が立ち込み始めたので、もう一つあった消化器で火を消そうと当てたが、なかなか消化出来なかった為、一旦店の外へと出て行った。


既に誰かが電話で報告してくれたのか、数分後に消防車が駆けつけて消火に当たった。直ぐに火は取り消されて、周囲も更に人集りが増えていた。消防士から聞いた話だが、怪我人は一人もいなかったが、一連の放火騒動の真犯人が近くを彷徨いているから、今後とも慎重にして欲しいと警告してきた。


僅かな時間であれば中に入っても良いと許可をもらったので、ママとミキトやナツトと一緒に入っていった。店の中は何時もよりも薄暗く焼け焦げた匂いが漂っていた。照明が僅かに点ける事はできたものの、警察からは改装をしないと、営業をするのは極めて難しいという事だった。ママは所々焼けた壁やテーブル席、2階の居間を見渡していた。


ママ「たった十年でこの様な姿になるなんて…私は何か罰を与えられた気がしてならないわ」

ナツト「ママ、大丈夫だよ。新しく建て直せばまたお店は続けられるさ。僕達もついているから、ね」

ミキト「ママ、当分の間は会えないかもしれないけど、俺たちは別の働き口を探すから心配しないで。生活も工面していけるから」

ママ「一応知人の設計士さんがこの店の内装図をまだ持っていてくれている筈。取り敢えず其処から尋ねてみるわ。貴方達もその間しっかりやるのよ。ありがとうね」


ナツトやミキトはそうママに励まし合いながら、彼女の背中をさすっていた。私達はその後店を出て、警察の元へ向かい、事情聴取を受けた。犯人らしき人物は見当が付かず、刑事の者からも真相が出るまでは暫くは時間がかかると返答してきた。


ママや私達の事、あの店を恨む者…あくまでも憶測だが、店に以前から出入りしている者には違いないかも知れない。クリスマスが近づく前の、私達への仕打ちとも云うべくかの様に受けた、眼に見えぬ悪魔からの贈り物だったに過ぎない。そんな一夜の出来事だった。


ローズバインが改装が終えるまでの間、私達は各自働き場所を探していた。

新しい年が明けたばかりということもあり、そうそう簡単に見つかるまでは時間が要した。私は前職での同僚とも連絡を取り、何か宛はあるかと尋ねてみたところ、喫茶店を経営している者がいるからと、一先ず其処を紹介してくれた。


日暮里駅から徒歩で10分の狭い路地に構えてある、こぢんまりとした場所だった。

客層は何方かといえば自分より年配者の多い者が集う処だ。店内もレコード機から流れている音楽がかかっており、店主はよく邦楽の楽曲を流していた。労働時間も何時もと違って早い時間での雇用だったため、体が慣れるまでの間は、やや眠気がさしていたこともあった。

それに気づいてくれたかの様に、時々店主は休憩室で休んでも良いと声を掛けてくれた。


仕事を終えて、赤羽駅の商店街で夕飯の足しになる様にと、惣菜を買って帰宅した。

夕食後、以前石田様から撮ってもらった、幾つか寫眞が入ったアルバムを、机の上に並ぶ本棚から取り出して眺めていた。私とナツトはそれぞれ姿勢を構えては、時折見せた笑顔で写っている寫眞を見て、当時の情景を思い浮かべながら、私も自然と笑みがこぼれていた。


そろそろナツトにも逢いたい頃だと、堪らなく胸が熱くなっていたのであった。


働き始めてから2か月近くが経った後、私は休日を使い、ローズバインが改装工事をしている鶯谷へ訪れてみた。

工事は大分完成に近い状態で終わりに差し掛かっていた時であった。

あともう少しで又皆に会える…期待に胸を膨らませて再び働く意欲が湧いてきた。


帰り際に、偶然ナツトの姿を駅の改札口で見かけたので声を掛けた。


すると彼も私が居ることに気付いてくれて駆け寄ってきた。

お互いに時間が開いていると話しをして、私の自宅へと二人で向かった。

田端駅を下車して改札口を抜け、商店街の一角にある洋食店へ入った。そこで昼食を済ませて、その後自宅に到着した。玄関口に立ち止まると、私はナツトを後ろからそっと抱きしめた。


ナツト「ジュート、まだ素面しらふのままなのにどうしたの?」

私「急に、お前の事が恋しくなったんだ。少しの間こうして居させてくれ」


暫くしてからナツトが振り返り、私は彼の後頭部に手を廻して唇に口づけをした。

何度も唇を噛んでは口の中に舌を入れ交えていた。

ナツトは少し息苦しそうにしていたが、私はそのまま同じ行為を繰り返していた。

遣り切れない思いでいっぱいだった。一日でも早くローズバインの皆に会いたい一心で気持ちが止められない感覚でいたのだ。履いていた靴を脱ぎ捨てて、そのまま床へ彼を押し倒した。


ナツト「ジュート、気が早すぎるよ。もっとゆっくり抱いて欲しい。」


ナツトの言葉を振り切るかのように、私は夢中で何度も彼に口づけを交わした。

彼の上半身の衣類を脱がせて首元に口を近づけようとした時、居間の窓側に置いてある机の上の電話が鳴った。電話の相手はママだった。

お店が近々再開業する予定だから、店内の整備の手伝いをしに来てほしいと告げてきた。


私「そうなんだね、ママ。わかったよ、近いうちにお店に手伝いに行くよ。今ナツトも一緒なんだ。彼に換わるよ。」

ナツト「ママ?僕だよナツト。良かった、お店やっと再開できるんだね。僕も手伝いに行くから、皆にも伝えておいてね。」


電話が済むと私達は一安心して喜び合った。


私「なぁ当日二人でママにお祝いの花束を用意しないか?」

ナツト「そうだね、良い提案だ。ママ、きっと喜んでくれるよ。それから、僕、明日で今働いている所が最終日なんだ。だから今日はこのまま帰る事にするよ。折角家に上がらせてくれたのに、申し訳ない。御飯ご馳走様でした」

私「ああ、帰り送っていくよ」

ナツト「いや大丈夫だよ。またお店で皆で会おう。楽しみだね」

私「気を付けて帰れよ」


そう告げると、彼はやや俯きながら自宅の玄関の扉を開けて、優しく笑って手を振って帰って行った。扉を閉めた後、居間の窓側に腰を下ろして胡座をかき、徐ろに煙草を取り出した。ライターの灯火を見つめて直ぐに火を消した。


やっとお店が再開できる…自分の居場所に戻れるという思いが溢れてきて、目頭が熱くなっていた。


数日後、私はナツトと共に出勤前に花屋に立ち寄り、花束を購入した。ナツトが嬉しそうに花束を抱えながら、鶯谷のローズバインへと到着した。店はすっかり元の近い状態に改装されていた。

店の中に入り、カウンターに立っていたママと再会した。


私「おはようママ。これ俺とナツトからの贈り物だよ」

ママ「おはよう。元気そうで良かったわ。お花綺麗ね、わざわざありがとう」

ナツト「内装も前と同じにしたんだね。嬉しいな、一緒で雰囲気も心地良いね」

ママ「私もこの方が落ち着くからね」

ママの表情は明るく何時もの彼女の姿勢に戻っていた。

ママ「貴方達、早速なんだけど、テーブル席の方からビニルシートを外していってくれる?」


やがてミキトや従業員等も入ってきて、ママの言われた通り、作業に取り掛かった。

テーブルや椅子、窓のステンドガラス等は新しい物に買え変わっていた。

2階の居間に設置してある内装も以前と殆ど変わらず、奥の楽屋や衣装部屋は綺麗に正装されていた。一通り作業を終えるとママは皆を呼び出した。


ママ「皆お疲れ様。一先ず休憩を取って頂戴」

ママは皆に冷たい飲み物を差し出して振る舞ってくれた。

ママ「明日から久々にローズバインは開業します。皆もやっと働く事が出来るわ。こんな事になるとは想定もつかなかったけど、また一緒に…今まで以上にお店を盛り上げて行きましょう。何処にも負けないお店にしていくわよ」

全員「はい!」


皆はママに向かって手を叩き合い、終始笑顔で喜びを分かち合った。


翌日、お店の皆が全員出勤して、開店準備に取り掛かった。お店には常連の客人から沢山の開店の祝い花で敷き詰められていた。開店すると同時に常連や新規の客人が連なるかの様に、店の中へと入って行った。


私達は客人等から首を長くして待ち侘びていたと、沢山声を掛けていただいた。改めてこのお店の存在が客人にとって大事な場所なのかと思い知らされた。


私等は訪れる客人の話に耳を傾けて、色々な話が飛び交う活気ある声が店内に響き渡るのを、悦びに溢れ返していた。また一人の客人が店内へと入ってきた。その姿は石田様だった。


石田「ママおめでとう、私から皆にお花を持ってきたよ。受け取ってくれ」

ママ「いらっしゃいませ、石田様お気遣いありがとうございます。カウンター席で良いかしら?」

石田「店の内装は以前と変わらないんだね。ああ、窓のステンドガラスが薔薇の飾りになっている。素敵だよママ」


其れから時間が1時間程経ち、石田様は私を呼び出した。


石田「皆にもう一つ渡したいものがあるんだ」


石田様は持ち抱えていた風呂敷を取り出して、額縁に入ってある絵画を渡してくれた。


私「うわぁ、向日葵の絵だ。」

石田「日本人画家の者が私にくれた物なんだが、この店に是非飾っていただきたいんだよ。この向日葵の花言葉には、願望や明るい未来という思いがあってね。皆にとってより良い未来を作っていってほしいんだ」


石田様はにこやかに私達への感謝の意を込めて贈りたいと話してくれた。石田様は明日が早い用が有るからと言い、やがてお店を出て行かれた。ママがカウンター横の出入り口の壁側に絵画を飾る様にと従業員に伝えて、飾った後に暫く絵を眺めていた。


数週間後、季節は桜の蕾が膨らみ始めていた頃の事だった。開店前の夕方時にある一人の女性が浦井と言う人物が此処を出入りしているのを聞き訪れたという。


女性の名も同じ苗字で、遥々新潟からやってきて、自分の夫を探しに来ていたらしい。其れをママが対応していた時、手渡された寫眞に写っていたのは、紛れもなくジュート其の者だった。見ず知らずの人物でママも疑わしかったが、念の為連絡先を伝えておくと告げられて、後に去ったという。


更に数日後、開店時から2時間程経過した頃、今度はまた別の女性が私を探していると店を訪れていた。私は丁度2階の居間の客人の相手をしている最中だった。女性が店内を入るとミキトが出迎えをして、浦井という人物は此処で働いているかと話しかけてきた。


私は扉の音に反応して、居間を出た瞬間に話し声に気付き、居間の出入り口の影からそっと覗く様に会話を聴いていた。


女性「私の夫が此処に居ると警察の方が教えてくれました。もし本当であれば、彼が居るのなら会わせていただけないでしょうか?」

ミキト「悪いが浦井という人物は此処には働いていない。他を当たっていただきたい」

女性「私の連絡先を教えておきます。もしその人物が現れたら、其方に御連絡下さい」


女性は連絡先が書かれた紙を渡して一礼をして、店を出て行った。僅かに顔は見えたが、全くの見知らぬ人間だった。何故続け様に私の所に訪ねてくるのか不思議で仕様がなかった。


ママ「この間、新潟から来たという女性は着物を羽織っていたわ。奥ゆかしい方というか、わざわざ遠方から駆け付けたという感じで嘘をついている様ではなかったの。先程の女性はAラインのワンピースに上着を着て高いヒールの靴を履いていたわよね。恐らく出で立ちからはホステスのような雰囲気が漂っていたわ。如何にも都会に居る、モダンな女性だったし。後者の方は誰かに頼まれて偵察にしに来たに違いない」

ミキト「もし後者の方がまた訪れたら、事情を聞いて追い返したほうが良さそうだね」

ママ「ジュートにも此の事を知らせなくてはならないわ。ミキト、後で私の所に呼んできて頂戴」


ママ達の会話が終わると、私は居間に居る客人に呼ばれたので一先ず戻って行った。

何処となく後味が悪い気がしてならなった。自分の妻や子は当に亡くなっている筈なのに、此処までして私を訪ねてきたいんだろうか。やはり、公安の人間が絡んでいるに違いないと、何時も以上に警戒心を抱いていた。果たして公安に狙われているのは私だけだろうか。


此処の店内に出入りしている者で私の個人的情報を言える者…


一番私の今を知る身近な者はママ、ナツト、ミキトぐらいだ…

もし浮上した人達の中で居るならば、一体何の為に漏らしているというのだろうか。

想像もつかないししたくも無い程だ。これ以上疑うのであれば、最終的に此処を辞めざるを得ないだろうし。懐疑的に浸る中、そうしている間に休憩時間となった。


ママから先程の二人の女性の話を改めて聞かされ、前者は現在の住地から特定すると、もしかしたら生存している者であるかもしれないと告げた。また後者の者は渡された紙に記載されている住所が、都内の見知らぬ在地だった為、特定し難い所から様子を伺うと返答した。ママは更に私にこう告げてきた。


ママ「貴方の事を狙う者は紛れもなく近くに居るわ。誰を疑ってもおかしくは無い。暫く店に出勤するのを自粛してもらおうかと考えているんだけど、どうする?」

私「いや、逆に早い内に顔をあからさまになる方が事も治まる。その方が皆の為にも良いだろう。自粛はしないよ。ママ、心配をかけてしまっている事には申し訳ないが、俺はこの位の事で動じたりなんかしないよ。」


兎に角私は強気でいるしかならなかった。発言した通りに事が早く纏まって欲しかったからである。私は其れから普段通りに振る舞う様に心掛けて、せわしく来店する客人に応対していた。


あれから暫くは私を訪ねて来る者は来なかった。常連の谷沢様は捜査の依頼から一旦手を引いたと話していた。ママからも少しは気を楽にしても良いだろうと告げてくれた。ナツトも相変わらず私の事を対等に考えてくれながら、懐いている事だった。自分も肩の力を抜き始めていた頃、桜の樹樹は満開を迎えていた。


歳月にして2年の月日が流れた。私はローズバインにすっかりと馴染んでいた。


ナツトが丁度二十歳の誕生月を迎えて、店の皆でお祝いを兼ねて、客人とも一緒に酒を振る舞おうという話で盛り上がっていた。店内に客人が入ってくると、ナツトは楽しそうに接客していた。やがて常連の安井様が来店したので、何時もの通り2階の居間へ案内をした。


安井「ナツト、お誕生日おめでとう。今日は君に祝い花を持ってきた。さぁ受け取ってくれ」

ナツト「安井様ありがとうございます。お店のカウンターに飾っておきますね」

安井「因みに今日はジュートは居るかな?」

ナツト「はい。呼んできましょうか?」

安井「ああ頼む」


カウンターに花束を抱えながらナツトが私の所へ来て、一緒に2階へ来て欲しいと告げられた。居間へ入ると安井様がナツトの誕生日にちなみ、祝い酒を持参されたと言う。


安井「今日は盛大に皆で祝おう。二人とも、私の隣に来なさい」


私とナツトは居間の椅子に座って、交互に安井様に酒を注いでは安井様からも酒を呑むようにせがんできたので、間髪入れずに酒を勢いよく呑み交わした。やがて身体に酔いが回ってきて、陽気な気分に浸り、安井様の衣類をわざと脱がせては、私とナツトも衣類を脱げと言われ、上半身が裸になった状態で、戯れる様に笑い合っていた。私は酒の呑む勢いが止まらなくなり、居間の引き戸を開けて階段の手すりに身を乗り出して、1階の吹き抜けに居る客人等に向かって叫んでいた。


私「おい、ナツト!お前もこっちに来い!皆聞いてくれ。今日はナツトの誕生日だ。この祝いを兼ねて今日は俺が全部、皆に奢ろうじゃないか!さぁ、皆呑んで騒いで楽しんでくれ!」


ナツト「ジュート!やり過ぎだよ、皆さん騒いでしまって申し訳ない…でも僕の事が好きなら今日はめいいっぱい楽しんでいってね!」


兎に角身も蓋もなく私達は騒ぎ立てていた。其れを見かねたママが静かにしてくれと声を掛けても、聞く耳が持っていなかった。

再び居間の引き戸を閉めると安井様と突拍子もなくふざけ合っていた。


その後安井様が帰られて、ほとぼりが覚めてきた頃、私とナツトはママから楽屋に呼び出しをされて軽い説教を受けていた。


ママが真剣に話している間も、私達二人は顔を寄せ合いながら笑いが止まらず口を吹いてしまい、またママを怒らせ困らせていた。


私は翌日の自宅では、その騒ぎ立てた余韻と酷い二日酔いで身体や頭が痛く、抜けていくまで時間を要した。

何時もの時間に店に出勤して、開店時から3時間を過ぎた頃、久しぶりに洋子ママが店内を訪れていた。


洋子「まぁジュート久しぶりね。」

私「洋子さんご無沙汰しています。今日はママに用でも?」

洋子「いいえ、久々に此処で呑みたくなってね。ちょっと来ちゃったわ」

ママ「良かったら、ジュートの作るカクテルでも呑んでみる?」

洋子「貴方、カクテル作れるの?凄いじゃない。良いわ、頂くわ。お任せので作って頂戴」

私「かしこまりました」

私はカクテルを作る酒類を用意して、洋子ママの雰囲気に似合いそうな物を考えて、幾つか飲み物を組み合わせシェイカーを振った。グラスに酒を注ぎ、洋子ママに差し出した。

洋子「うん、美味しいわ。もしかしてグレープフルーツが入っている?」

私「当たり。ミントも入っているから、すっきりとした風味に仕上げたんだ。どうかな?」

洋子「お洒落ね。気に入ったわ」

ママ「ジュート、テーブル席のお客様の所に行くから、カウンターをお願い」

私「洋子さん、今日の御召し物の着物の素敵ですね。何方かに行かれたのですか?」

洋子「ええ、知人と一緒に夕食を食べてきたわ。銀座は相変わらず人が多いわよね」

私「今日はお店はお休みですか?」

洋子「いいえ、営業しているわよ。息抜きをしたくて、ちょっと立ち寄ったの。皆の顔も見たかったし」

私「洋子さんいつも明るくて楽しそうですね」

洋子「そう?ねぇジュート、貴方は…見違える程変わったわね。以前より柔らかく素敵になっている」

私「ありがとうございます」

洋子「此処で働き始めた頃は、なんかガチガチに表情が硬い所があって大丈夫かしらって思っていたけど、大分皆んなに馴染んできたから安心したわ。良かった。」

私「お話は変わるんですが、洋子さんのお店に例の尋ね人はまだ出入りしているの?」

洋子「最近はあまり来なくなってきたけど、先週だったかしら…そうそう、谷沢と名乗る男性の方がその探している浦井という人物の件で訪ねてきていたわね」

私「谷沢様…もしかしたらうちの店にも以前から出入りしている方がいて、同じ谷沢姓を名乗って、此処に呑みに来ていたんだ。」

洋子「そうなのね。一体浦井って人物は何者なのかしらね?なんだか物騒な事でも起こらない様にと祈っていたいわよね」

私「洋子さんのお店は兎も角、此方の店を中心に目当てに来ているのは確かだから、僕等も気をつける事にするよ」


洋子ママはやや不安げな表情をしていたが、皆の元気な姿が見れて良かったとローズママにも伝えて欲しいと告げて、店を後にした。谷沢様が再び捜査依頼に動き出している…やはり公安と繋がりは在りそうだな。


私がそう考えている中の一方で谷沢様はと或る人物と会話のやり取りをしていた。

千代田区霞が関の桜田門駅の付近にあると或る場所だった。


谷沢「佐野さん、申し訳ないが、私は此れ以上捜査依頼に協力するのは手を引きたい。幾ら鶯谷の店を当たっても見当が付かないのだ。他の者に引き渡しをしてはくれないだろうか?」

佐野「谷沢、お前も人を探しているのだろう。根気よく捜査しなければ、何時まで経ってもその人物には永遠に会えぬのだぞ。其れでもいいのか?」

谷沢「佐野さん、以前からお聞きしたかったのですが、同性愛者として生きている彼等を、何故其処まで嫌っているのですか?」

佐野「俺はな、奴等みたいに道徳を侵すもの等というのは嫌いでな。世の為になる事等微塵にも該当しない。あの店で出入りする浦井はな、俺が陸軍上層部に在籍していた頃の、つまり部下に当たる者でな。お前から彼奴の事実を知らされたからには、消さなければならない者に匹敵するんだよ。彼奴はこの世の罪人だ。これ以上生かす訳にはいかん。」

谷沢「佐野さん、世の中は変わりつつあります。彼等もまた私達と同じ人間です。肩を並べなくても、片隅でも良いから、そっと生かすべく者でも良いのではないでしょうか?」

佐野「貴様!…俺に頼って来た以上、後戻りは出来んぞ。お前の家族が巻き添えになっても良いのか?!」


谷沢様はそれ以上口を出す事は出来なかった。自分を含め、家族にも手を出さない様に土下座をして説得させた。佐野は引き続き店を当たっていく様にと命じた。


谷沢「私は此れ以上家族に迷惑をかけたくない。仕事にも支障が出ているのだ。」

佐野「分かった、取り敢えずこれを最後としよう。お前に彼奴の寫眞を渡しておく。

もう誰だか見当は付く筈だ」


谷沢様はその寫眞を見て驚き息を詰めた。もう行く当ては一つと其処で確信していたのであった。


1種間ほど経った或る日の開店時間頃、或る一人の客人が店に来ていた。


学生「あの、こちらにジュートという名前の方が働いていらっしゃると伺っているんですが?」

ママ「貴方その方の知り合いでも?」

学生「いえ、私の同期生の者がこちらを来た事があると教えてくれて。それで今日来たんです。」


彼は都内の美術学校に通う20歳の若人だという。

私はママからその客人を案内して欲しいと頼まれて、2階の居間へと入って行った。


私「改めまして、ジュートといいます。」

学生「はじめまして。あの、僕…貴方にお会いしたかったんです。光栄です。」

私「光栄だなんてとんでもない。来ていただいてありがとうございます」


彼は初めて来店したせいか、震える様に声を出しながら私に告げてきた。

椅子に腰を掛けた後、酒を提供しようとしたが、彼は先に或る事をお願いしたいと話しかけてきた。


学生「学校の課題で校外の者を対象にデッサンをしなければならなくなったんです。今日デッサンノートを持参して来ました。早速のお願いなのですが、貴方をモデルに絵を描かせていただけないでしょうか?」

私「私をモデルに?」

学生「はい、是非描いたんです」

私「ならば、もっと若い年の者を選ぶ方が良いのでは?」

学生「いえ、貴方が良いんです。お、お願いします。」


私は彼が緊張した面持ちで深く頭を下げてきたので、直ぐ顔を上げる様にと返答した。


私「分かった、私で良ければ描きなさい」

学生「ありがとうございます!あまり時間をかけずに描いていくので、お付き合いお願いします」


彼は大きな鞄からノートと鉛筆を取り出して、部屋の北西側の角に椅子を移動させ、私も対照になる様にと、南東側の隅にあるベッドの枕元に座る様にと依頼してきた。先ず衣類を着たままの状態から描いていきたいと告げてきたので、私は彼が指示した姿勢で身を構えた。


30分程経った後に、彼は一先ず描きあげたと伝えると、次は衣類を全部脱いで欲しいと躊躇う様に告げてきたが、私は快く承諾し、着ていた衣類を全て脱いで、また指示した姿勢を取り、無言のまま身を構えた。


その後デッサンを終えて、私が衣類を着ている間に、彼は自身で描いた絵を眺めていた。


学生「なんて言うのかな…貴方の身体つきからは何処か、人の強さが伝わってくるというか。描いて良かったと安心しています」

私「私も絵画のモデルになるなんて思いもよらなかったよ。良い経験をさせてもらった」


お互いに椅子を元の位置に戻した後、私は彼に酒を注いであげた。


学生「僕はこの様な場所に来たのは初めてなのに、こんなにも納得した絵を描く事が出来たなんて。同期生もきっと羨ましがるよなぁ」

私「君は画家を目指しているのか?」

学生「はい、絵で食べていける様になるまで、一生懸命沢山の絵を描いて行きたいんです」

私「学校に入る時も倍率は高かっただろう?其れでも凄い事ではないか」

学生「家族に納得させるまでは、相当時間はかかりそうですが…頑張って続けていきたいです」


すると彼は別の相談事を聞いて欲しいと告げてきた。


学生「実は僕、貴方方と同じ様に…つまり性の対象が男性なんです。家族や学校の皆には誰にもその事には話した事がないんです。正直、なんと打ち明けていけば良いのか、分からなくて…」

私「どう打ち明けるかは、全て君次第によって方向は進んでくる筈だよ。身近に話せる者は、やはり家族が一番良いと思うが…親御さんには言えそうか?」

学生「取り敢えず先に両親に打ち明けてみます。どう反応するかは、薄々分からなくもないですが…」


すると彼は着けていた眼鏡を外し、目から涙を流し始めてきた。私は彼の隣に座り込み、肩を寄せて背中を摩った。


学生「僕は全てを吐き出したら、きっと両親は野蛮人だと言うに違いありません。勘当されれば、学校も辞めなくてはならないし。何故僕はこの様な思いを抱えながら生まれてきたのか…そう考えると、とても怖いんです」

私「弱気になる必要はないよ。君は君のままで突き進めば良いのだ。例え周りに分かってもらえる人間が居なくても、強い信念を持って堂々として居れば良い。必ず受け入れてくれる者はいるさ」

学生「僕はありのままの人間として生きていっても良いんですよね。そうですよね?」


私は泣きじゃくる様に身を崩す彼を優しく抱きしめた。


私「私達も君と似た様な想いで此処の店に客人と対話をしている。色々な者達が集まる場所だからな。話を聞いているうちに、自然と打ち解けてくるものなんだ」

学生「ジュートさんは、どうやって立ち直れたんですか?」

私「兎に角、目の前にある事に懸命に取り組んでいれば良い。そして何より全てを愉しむ事だ」

学生「全てを愉しむ?」

私「君には絵画がある。また別の角度から挑戦したい事も増えていくだろう。先ずは親御さんに話す事だ。大丈夫、君は勇気ある人間だ。私にも打ち明ける事が出来たし。一歩前身したな」


彼は私と会話をして安心したのか、先程の強張っていた表情から一転して、明るく穏やかな顔付きになっていた。


私「もう一つ忠告しておく。例え孤独な身に狭まる様な立場になっても、決して死を選んではいけない。絶対だ。その約束は守ってくれるか?」

学生「はい、必ず生きてみせます」


人というのは単純な者だが、その方が永い目で自ずと見極めながら生きていけるものだと、私も此処の店で教えられてきた様な者だから、そう彼に促す事が言えたのだった。時間にして2時間程は居たであろう。帰り際に私は彼にこう告げた。


私「金銭に余裕がある時で良い。また此処に来てね。また絵のモデルにでもなって良いぞ」


彼は笑顔で一礼をして、店を後にした。

奥の楽屋へ入って行くと、中にミキトが煙草を吹いて休憩していた。


ミキト「やけに表情が清々しいな。さっきの学生と早速抱いたのか?」

私「違うよ。色々と話し相手になっているうちに、またお店に来たいと話してくれたんだ」

ミキト「そうか?あの客人、泣き声が漏れていたが…ジュート、何か悪い事でも告げたのか?」

私「ミキト、まさか居間の前で、お前、立ち聞きしていたのか?」

ミキト「たまたま通りかかっただけだ。お前も偶に余計な事を口に出してくる時があるからな」

私「どういう意味だ?」

ミキト「どうもこうもじゃない。だがお前にあの客人に対して権限をつけるべきではないという事だけは言っておく。ここには様々な客人が来る。だから俺等は客人を選ぶ権利はできない。それを覚えておけ。」


最近お店の売上を気にしているのか、私がミキトに近い評価で並んでいる事に対して、彼は私に敵対視する様になっていた。やはり其処は譲れない所もあるに違いないと感じていた。


7月の初旬に差し掛かっていた頃、店に新しく入る給仕人がいるとママから紹介された。現れたのはあの美術学生の男だった。学校が長期休暇になるといい、その期間此処で働きたいと願い出たという。


彼の名は真木と言った。従業員らに指導を受けて、懸命に働いていた。私はある日衣装部屋のロッカーで着替えて外へ出ようとした時、丁度真木から呼び止められた。


真木「ジュートさん、僕は貴方のことを慕っても良いですよね?」


彼は私にそう告げると、次の休日に会って話しがしたいと伝えてきたので、少しの時間であれば良いと言い、約束をした。


その後日、私は待ち合わせ場所の上野公園の正面出入口の付近に居た。その数分後に真木も到着して、暫く二人で園内の池沿いの歩道を歩いていた。


すると彼から絡めるかの様に私の手を握ってきた。何かを考えていそうな表情を浮かべながら、真木は或る場所へ行きたいと告げて来たので、何処かと尋ねると誰もいない所でもっと話がしたいと言い、ビジネスホテルが良いと言った。私は言われたまま彼の跡をついていく様に、近くのホテルへと向かった。


フロントでお互いが男色同士だと気づかれない様に自然と振る舞いを見せながら、シングルの部屋を2つ指定をした。エレベーターで10階のフロアへ到着後、各自荷物を置くのに部屋へと入り、真木は私の部屋で話がしたいと告げて来たので、彼を中へ入れた。


真木「やっと二人きりになれましたね。」

私「何故此処の場所を指定した?」

真木「僕は狭い所が落ち着くんです」

真木は私の真正面に寄ってきて、顔を見つめながらこう告げてきた。

私「ジュートさん。今日、僕を抱いてください」


私はやや躊躇ためらいがちな思いになっていたが、言われた通りに従った。


彼の眼鏡を取り外して、頬に手を添えると、彼は手を優しく擦り合わせてきた。彼は間近で見ると、目鼻立ちの整った、とても強い目をしていて、まるで深い海の底の中の景色を見ている様な漂いを感じた。その眼差しに惹かれたかの様に、私は彼にそっと唇に口づけをした。


暫くお互いに長い口づけを交わすと、彼の方から衣類と靴を脱ぎ始めたので、私も併せて彼の衣類を脱がせてあげた。彼は吐息が荒くなってきて、気持ちが昂ぶり始めていた。ベッドに腰をかけて、また何度も口づけをした。私も上半身の衣類と靴を脱いで、彼の下着のシャツを捲し上げ、首元や鎖骨の周りを舌で舐め始めた。


真木「ジュートさん、僕が上に乗っても良いですか?」

私「あぁ」


そう告げると、私は身体を仰向けにして、彼はズボンを脱ぎ、私の太腿に身体を乗せる様にベッドの上に座った。私の片手を彼の身に引き寄せて、自身の性器を愛撫し始めた。


真木「ジュートさん、僕を見ていてください」


やがて彼は目を瞑り、首を天井の方へ向けて、声を出しながら高揚する素振りを出してきた。暫く私は彼の表情を眺めていた。ずっと我慢していた想いを相手の触れる手で感じ取りながら、何か想いを馳せるかの様に彼は全身を揺さぶっていた。


その後、私の身体を抱きしめてきて、耳元で最後まで止めぬ様にと告げてきた。彼の身体を四つん這いにさせて、首の後ろから背中、腰へと唇でなぞる様に舐めてあげた。下着を脱がしても良いかと承諾させた後、再び彼の性器を愛撫して、お互いの気持ちが高揚してきたので、私は彼の尻に自分の性器を当てた。


しかし、彼は急に我に返ったかの様に、身体を丸くうずくまったので、どうしたかと尋ねたら、彼は此方を振り向いて、私の顔に迫る様に近づけた。


真木「どうしよう、これ以上イってしまったらもう会えなくなるのかな?」

私「そんな事はないさ。真木、何か悩んでいる事でもあるのか?」

真木「やっぱり…察するのが早いですよね、貴方は。」


私達は身体をベッドのシーツで覆い、暫くの沈黙の後、真木から或る事を語り始めた。


真木「この前の家族に話すと言っていた事、まだ言っていないんです。絵も思う様に描きたいものを探していても、中々見つからずにやきもきしているんです」

私「真木、そういう時は無理に誰かに抱いて欲しいとせがむ事はしない方がいいのかもしれないな」

真木「だけど、僕は今日はジュートさんに抱いてもらいたくて此処にきたんです。嘘じゃないです。」

私「誰かと口論にでもなったのか?」

真木「休暇前に学校の女生徒の友人と喧嘩別れしてしまいました。絵の事も含めて、色々話している内にズレが生じてしまって…価値観の違いでしょうね」

私「ずっと親しかったのか?」

真木「えぇまぁ、中学からの同期生で、親友の様に近い仲でした。」

私「それに、君は以前、他の男と関係を持ったことがあるね」

真木「…!…何故其処まで分かるんですか?」

私「ホテルに連れ込むなんて、余程の経験がある者でしか考えないと思ったからな。それにあまり、望まない情愛も抱えてきただろう?」

真木「ジュートさんも色々と経験されてきたんでしょうね。そうでなければ、僕は貴方にとっくに最後まで無心のまま抱かれていた筈だ。」


私「言える範囲で良い。何があったのだ?」


真木「16歳の時、僕は遠縁の伯父の家に行った時の事でした。その晩、誰も住居に居ない時に、寝ている僕の傍に伯父が来て、唐突に身体を要求されたのです。抵抗はしました。ただ思い切り顔を殴られて、さっきみたいに四つん這いにされて、衣服を脱がされ…まさか、そんな人だとは思いも寄らなかったけど、何故か僕は妙な快感を覚えました。」

私「その後も関係は続いたのか?」

真木「5回くらいは。伯父は独り身でした。後々聞いていく内に、自身も男色だと知らされました」

私「それ以外に相手をした者は?」

真木「喧嘩別れした学校の女の友人と。正直彼女を抱いた時は、まるで自分が女性の様になった気分でした。女性には穴がある。僕にも同じ様に穴を持っていれば、その中に埋れればどれだけ満たされる事なのかと。…気が狂っていて、どうしようもないですよね」

私「無理もない。ずっと話せずに辛かっただろう」

真木「記憶が中々消せなくて、未だ胸をつかえている感じです。けれど、自分も男色だと分かった以上、引き下がる事はしまいと決めたんです」

私「強く、なりたいんだな?」

真木「はい。絵だけしかない僕だけれど、ジュートさんが言ってくれた様に、今後も違う事に直面しても乗り越えていく自分になると。」


真木は私の背後から身体を抱き寄せて、こう告げてきた。


真木「僕は貴方を愛しています。けれど、それは人間としてです。貴方やママ達みたいに、芯の強い人間になりたい」

私「ナツトがこの状況を知ったら、彼奴、嫉妬するしな」

私達は笑い合って、私は彼の額に口づけをした。

私「また何か思い詰まった時があれば、何時でも聞いてあげるからな。独りで抱えるな」

真木「ありがとうございます」


お互いに衣類を着た後に、真木は部屋へと戻っていった。


翌朝、彼の部屋を訪れたが気配がしなかったので、フロントに問い合わせたら先に出て行ったと告げられた。


上野駅構内の人混みをかき分けながら、改札口を通り、赤羽駅直通の電車に乗った。自宅に着いた頃には7時を回っていた。身体が何処となく気怠い感じがしたので、襖から布団を取り出して居間の畳の上に敷き、横になって静かに眠りについた。


数日後、店内が賑わいを表していた20時頃の時間に、谷沢様が一人店へと入って来た。

私と別の場所で話がしたいと告げてきたが、ママが2階の居間が空いているから其処で話をして欲しいと言ってきた。私は谷沢様を2階へ案内し、事を急ぐように谷沢様は語り始めた。


谷沢「ジュート、この寫眞を見てくれ。此処に写っているのは、間違いなく君だ。」

差し出してきた寫眞を見て確認し、暫くの沈黙の後、私は静かに口を開いた。

私「そうです。私に間違いありません。この寫眞は何方から入手した物ですか?」

谷沢「…公安だ」

私「やはり公安の方と手を組んでいたんですね。何が目的で今回の様に動いているのですか?探し人であれば通常は警察の人間が動く所を、何故公安が動いているんですか?」

谷沢「君は陸軍一等兵として出兵を命じられ戦地へと向かった。その様に功績を挙げられた者が、何故この様な場所で居座っているんだ?」

私「私も…貴方と同じ様に或る人物を探しています。谷沢様、いえルドルフ…君は新橋の闇市で出会う前に、あの時レイテ島から引き揚げた際に…私に話しかけてくれた者で間違いないだろう?」

谷沢「ああそうだ。本来ならば祖国に居るはずだったのだが、日本人の父親の元に帰還するように命じられた。終戦後、船で日本へと辿り着き、東京の新橋駅の闇市を渡り歩いていた。そこで、君の姿を…私も見かけた。とても驚いたよ、こんなにも世間は広いのに、何故君と又巡り会えたのか。不思議で仕方がないよ。」

私「私の存在に君も気付いていたんだね。長い間、待ちわびただろう。」

谷沢「初めは警察の者に捜査を依頼したのだか、なかなか交渉できずに難航したんだよ。そうしたら公安へ出向けと言われたので、其処へと足を運んだ。丁度その時に、佐野さんという者に出会い、捜査依頼を引き受けてくれたのだ。私がハーフの人間だからな。困っている様子を見て、受けてくれたのに違いない。」

私「通常なら警察内部の人間が動いて良いところを、君が外国の血が流れていると言う理由で公安に案内された?それもおかしな話だな。佐野と言う人物も一体何者だ?」

谷沢「私にも詳しくは聞かされていない。だか、君の出身地や身分を告げたら、捜査に協力してくれると承諾してくれた」

私「恐らく、その佐野という物も上層部の軍人だったに違いない。君も下手したら狙われる可能性もあるだろう。気をつけるが良い」


谷沢様は続けて、或る話を語った。


谷沢「以前に新潟から来た女性が、君の所に尋ねてきたと言う話は聞いているだろう。その女性は、浦井 泰江よしえ…君の奥さんだ。亡くなったというのは誤報で、空襲を上手く逃れて、終戦後出生地の新潟に身を隠したんだ。」


私「信じられない話だが、其れは事実の様だな。しかし子供は…どうなったんだ?」

谷沢「残念だが、逃げ遅れて襲撃されて帰らぬ者になったみたいだ。」

私「そうだったのか…妻だけでも生き延びた事は何よりだ」

谷沢「ジュート、君は本来は此処に居る人間ではないぞ。内心心細い所もあるだろうが、君は家族と一緒に居て生活しても長く生きていけるぞ。何故其れを捨ててまで此処に居座るんだ?」


私「称号、名誉、軍人万歳…そんな物など糞喰らえだ。確かに当時私は自分の任務に全うした。まさか十数年後に元軍人が此のような場所でいかがわしい行為をしているなんて、反吐が出そうで仕方ないよな。但しそれを見つけたならば直ぐにでも抹殺せよと…その佐野という者から命じられたな。」


谷沢「君はやはり頭の良い人間だな。」

私「此処に居座る様になってからは、大分私も変わったよ。ただ君が来る様になってからは、此処の皆も君に対して警戒心が強くなってしまった。だから此れ以上他の者達を巻き込みたく無い。犠牲になるなら私だけを狙え。」


私は谷沢様の目の前まで近づき、顔を見上げる

様に傾け話を続けた。


私「お前の標的は直ぐ目の前に居る。その左胸に潜ませている銃で…早く撃つが良い。」

谷沢「何もかも見透かれている様で、君も恐ろしい人間だな。だがこの銃は君を撃つ為に持っているものじゃない。」

私「では何の為だ!?」

谷沢「護身用だ。もし君が凶器を持っている場合、その時に使う物として構えてあるだけだ。佐野さんから特別に借りた物だ。そう簡単に君を撃たないよ」

私「そう容易く信じるものか。私が下手に動けば引き金を引くが良い」

谷沢「ジュート、私は君を殺しはしない。前にも言っただろう。私は殺されない国を作っていけるなら、平等に共に分かち合いながら生きていける世の中にしていきたいと。発言したその約束は守る。」

私「ならば、嘘でも良い…私を抱きしめてくれ。私は…ルドルフが好きなんだ。ずっと会いたかったんだ。君にそんな感情が無くても良いから、私を両腕で抱きしめてくれないか?」

谷沢「申し訳ないが、其れは…出来ない。君を敬意を込めて同志としてしか見れない」


私は谷沢様、ならぬルドルフの背広の胸元に手を当てて、中から銃を取り出した。ルドルフの額に銃を暫く当てた後に、私は両手で自分の口の中に銃口を入れた。


谷沢「ジュート、駄目だ。其処には弾が入っている。無茶はよせ。気を落ち着かせて、私に銃を返すんだ」


私は身震いをしながら、そのまま黙って銃を口に入れたまま、ルドルフを見つめていた。


谷沢「私は今日で身を引くから、頼むからもう止めてくれ。私の目の前で君が血を流す姿を見るのは嫌だ。もう、全てを終わらせたい。さぁ、返すんだ」


私は涙目になりながら、ゆっくりと銃を下ろし、椅子の隣にある背の低い丸い机の上に置いた。その後、ルドルフの襟首を両手で強く掴み、続け様にこう話した。


私「ずっと怖くて堪らなかったんだよ。あの戦地で今か今かと、自分も玉砕されるか自害を責められるか…今でも寝てる間の夢の中に出てきては、身を滅ぼされる…そんな日々を過ごしているんだよ。君に新橋の闇市で見かけた時から、又2年前に此処で再会してから…どんな気持ちで居たか分かるか?…愛おしいという想いで溢れていて、何度君に私の事実を伝えたかった事か…今やこんな無様な姿で、不特定多数の男に身を売っている。そんな私でも、今、君にこの愛を告げている事か…それがどれだけ苦しい事か、お前には解るのか!?」


私は叫ぶ様に声を出しながら、ルドルフに向かって自分のありのままの思いを身を振り絞る様に伝えた。


谷沢「戦争は全てを奪っていった。私も、どれだけ死を責められた事か。世界中の皆が同じ苦しみの中、終戦を迎えた時は、誰一人喜びはしなかった。だが、歳月を追う毎に穏やかな日を共に歩んできた。忘れる事なく…こうして今を生きている。私はひたすら前を向いて進めば、誰かが其れに気づいてくれて、やがて希望ある未来に繋がる事がどんどん増してくる。まだ見ぬ世界を、私の知らない私を、私は築いていきたいのだ。君だってそうだろう?自分の行いに間違いはないと胸を張って堂々としていれば、良いんだよジュート」


するとルドルフが私の頭に手を掛けて、優しく触れるように撫でてきた。ルドルフにも愛する家族や仲間が健在している。そう考えると、私は次第に目頭が熱くなっていた。


谷沢「君に出逢えたこと、本当に誇りに思うよ。君の思いも、私は受け取った。安心していずれイギリスに戻ることができるだろう。暫くは日本に居るが、やがて別離する時は必ず来る。ジュート、君の事は忘れないよ。良い同志に逢えた。」


ルドルフが私から離れようとした時、私は彼の手を引き、自分の胸元に彼の手を添えた。


私「また会いに来てくれないか?どんな関係でも構わぬ。此処に居る皆にも会いに来てほしいんだ」


彼は首を横に振り、片手で私の手を掴み、身体から手を離した。


谷沢「私の任務は此れで終わりだ。十二分皆に迷惑をかけてしまい申し訳なかった。どんなに詫びても切りが無いかもしれないな。」

私「そんな事は無い。私の家族について提供してくれた事は感謝する。ありがとう」

谷沢「私こそ、ありがとう。ジュート」


ルドルフは居間から出ていき、ママに挨拶をして店を後にした。私は一気に気が抜けた感覚になり、そのままベッドに横たわり、涙を流しながら浅い眠りについた。


やがて深い眠りに入ったのか、私はあの夢を再び見ていた。何時しか見た果てしなく続く野原に一杯に広がる無数の向日葵を見渡していた。

遠く離れたところにある人物が立っていた。

ルドルフだった。


私は勢いよく向日葵の間を駆け抜けて、彼の元へ近寄った。ルドルフも私の姿に気が付いて、笑顔で迎え入れてくれた。私はそのまま彼に抱き着き、きつく抱擁した。会いたくてたまらなかったと告げると、私の両頬に手を添えて、終始微笑んでくれていた。


太陽が燦々と日差しを強く照り付けて、今にも焼け焦げてしまいそうなくらい全身が熱くなった。太陽は私達を強い光で包み込むように、眼も開けられないくらい、より強い光を放って行った。


やがて目が覚めて、ゆっくり瞼を開くと、其処は居間のベッドの上に居た。何時間か眠ってしまった様だった。しかし誰の声も聞こえてこない。


居間の引き戸を開けると、店内は1階の照明がついたままで、どうやら閉店時間の時を迎えた頃合いだったようだ。ママやナツトやミキトたちの名を呼んでも誰も出て気はしない。


様子が変だと気付いたその時、勝手口側から或る男が現れて、無言のまま迷いも無く持ち構えていた銃を私に向かって撃って来た。あの公安の佐野だった。


佐野「貴様のような者たちが居るから世の中は荒んでいく。私はお前らの様な虫けらどもは一人残らず排除していく。何が未来或る希望だ。お前らにはそんなもの必要など無い」

私「待て、何様のつもりだ?くっそ…逃げられてしまったか」


佐野は奥の勝手口から店の外へと出ていき、私は撃たれた左側の下腹部に手を当て、流血が少しでも止まる様にと手で押さえていたが、一向に血は止まらない。


ドクドクと音を立てながら全身に猛毒が回るかのように、身体が熱くなっていた。やがて私はその場で倒れて気を失ってしまったのであった。


店の周辺には、警察車両のサイレン音が鳴り響き、通行人も疎らだがいそいそと群がっていた。ママやナツトやミキトが警察の者たちと店内に入り、カウンター寄りのテーブル席の前で倒れている私を見つけて、警察官が大至急救急車を呼ぶ様にと、併せて捜査班の応援要請を無線で知らせていた。


ママ達が私の身体を触れようとしたが、警察官から下手に触ると、より身の危険があると告げられたので、どうする事も出来ぬままに私に向かって声を掛け続けていた。


数分後、救急隊が到着し店内へと入り、タンカーで私の身を運んだ。ママとミキトは警察官等と現場検証に同行し、ナツトは救急隊員の一人から同行する様にと告げられて、救急車の中へ入り、病院へと向かった。


長時間に及ぶ手術が終わり、私は一先ずは一命を取り留めた。執刀した医師からも、銃弾が急所から外れていたので、運が良かった方だと報告を受けた。呼吸器と点滴を繋がれた状態で病室に入り、看護師等に病床に移された。同席したナツトが深い眠りにつく私の手を握りしめて、不安げな表情で見つめていた。


更に時間は経ち、ようやくママとミキトも病室へと駆け着けて、ナツトから私の容体を告げたところ、深い溜め息を付き、安堵の胸を撫で下ろしていた。


銃撃されてから3日後の早朝、私は長い眠りから目を覚ました。まだ意識が朧気の中、医師や看護師が容体を健診し、あと1ヶ月弱ほど安静にすれば退院しても良いと告げてくれた。あの撃たれた日の事を思い出そうとしても、ぼんやりと人影しか頭の中から出てこない状態だった。1週間後、ママとナツトが病室に見舞いに来てくれた。


ナツト「ジュート、まだ身体は痛むかい?」

私「一日中の殆どを睡眠の時間として使っているから、以前よりかは楽になってきているよ」ママ「踊り子の皆んなから貴方に渡してほしいと言われて此れを持ってきたわ。食べれたら頂いて頂戴ね」


ママから手渡しされた紙袋からは、手作りの香ばしい焼き菓子が入っていた。

私「皆んなに気を遣わせて申し訳ない。でも有り難く受け取るよ」


ママ「それから銃撃してきた佐野という人物が、あの後、警察に逮捕されたわ。今回の件は、その人単独での犯行だったらしいの。此れで一先ず騒ぎは収まったわ。」

私「どうなるのかと内心気が晴れなかったが、それを聞いて安心したよ。」

ママ「またこれからお店に行くわ。貴方も大事にしてね」

ナツト「ジュート、また来るね」


やがて二人は病院を後にした。焼き菓子の入っている袋の中を覗いていた時に底のところに、何やら封筒が入っていたので、開いてみたら真木からの直筆の手紙が添えられていた。


“学校の始業が近いこともあり、見舞いに行けずに申し訳ない。また会える日が来たらお店に顔を出す。今度はナツトの二人の絵が描きたい”と書かれていた。


あれから、彼に会えないまま、この様な事態になってしまった事に、彼にも心配をかけてしまった事に詫びたい気持ちで一杯になっていた。


その夜、再び身体に痛みが走ってきたので、医師に診てもらうと、術後の後遺症で痛みが発症しているが、大事には至らないと告げてくれた。


度々痛みが巡るとあの日銃撃された記憶が蘇って来る事に不安を覚えたが、

店の皆の顔や活気ある店内の声を思い出すと、心身が緩和する様で、入院中はずっとその繰り返しだった。


翌週、私の元に或る人物が面会しに来ていると看護師から告げられたので、中に通したら、新潟に居住している妻の泰江の姿があった。


鶯谷の店に行ったのかと尋ねると、赤羽の自宅に行ったと言う。人の気配がしないから大家に尋ねたところ、此処の病院に居る事を聞いた為、駆け着けたと告げた。私は今までの経緯を全て打ち明け、新しい恋人も居ると話した。泰江も信じたい現状の面持ちだったが冷静に話を聞いてくれていた。


泰江とは金輪際会わないと言ったら、持っていた鞄の中から離婚届とペンと朱肉を出してきて、此の場で書いて欲しいと告げてきた。


合意の上で私は書類の全ての項目に記し、親指で捺印をした。その後、お互い元気で居てほしいと別れを告げ、泰江は病室から無言のまま出て行った。正直私も肩の荷が降りて吹っ切れた気分になっていた。


退院の前日、ママとナツトとミキトが病室に来てくれた。すると、ナツトの口から私達に告白しなければならない事があると告げてきた。


自分の二十歳の誕生日の祝いをしてくれた翌月に、公安の佐野から呼び出されて、私の経緯を話したと言う。脅す様な素振りを見せて来たから、耐えきれず私の身分について吐いたと言う。


この件がきっかけで銃撃されたのはナツト自身のせいだと語ったが、私は彼を責める事はせず、寧ろこれで良かったのだと告げたら、彼は泣きながら私の手を握り締めて謝罪していた。


私「ナツト、そんなに泣くんじゃない。綺麗な顔が台無しになる。お前は泣き顔より笑顔が良い。俺が回復したら、また以前の様に一緒に店で客人と騒ごう。」


そう伝えると彼は、笑いながら素手で顔を拭い、泣くのを止めた。その姿を見てママやミキトも微笑んでいた。


翌日、私は看護師等に見送られながら、退院をした。赤羽の自宅に着くと、郵便受けの中が中一杯に詰まっている状態だった。


玄関の扉を開閉し、居間の窓を開け空気の入れ替えをした。穏やかな残暑の風が部屋中を包み込むかの様に流れてきた。ママに電話をかけて退院した事を告げると、何時頃から店に出れるかと聞かれたので、あと10日程だと伝えた。


台所の冷蔵庫は当然空の状態だったので、商店街へと買い出しに出掛けた。夕飯は体調を気遣いながらと焼き魚や惣菜類を調理して、食後に久々にとコーヒーも淹れた。レコードをかけて襖側の壁に寄りかかり、耳を傾けながら店の皆の事を考えていた。


ママの威勢の良い高い声、私とナツトがじゃれ合うとミキトが敵対視するかの如く冷たい視線を送る眼差し、力がみなぎる様な踊り子達の甲高い笑い声と、舞台に立って踊って居る時の活き活きとした表情。常連の客人達の行き交う楽し気な笑い声…。


兎に角今は皆に会いたい気持ちで一杯だった。私は何時の間にかあの店をこんなに愛するようになったのかと。そんな風に酔いしれるように想いに更けていた。


約束の日の夕方、私はひと月半振りに店へと出向いた。店内へ入り、ママが既に出勤していた。


ママ「ジュートおはよう、御帰りなさい」

私「おはようございます、只今」

踊り子「ジュートおはよう!何さアンタ、ピンピンしているじゃない。まさかずっとサボっていたんじゃないでしょうね?」

私「おはよう、相変わらず五月蠅いな。」

ミキト「ジュート、おはよう。何時もの顔つきだな、俺も負けないからな。」

私「ミキトおはよう、ああ今日も楽しもうな」

ナツト「おはようジュート!もう皆で待っていたよ。また一緒に働けるね!」

私「おいナツト、そんなに俺の首を絞めるな。ったくまだまだ子供だな!」


皆それぞれの思いもあってか、私に其れなりの歓迎をしてくれた。


やがて開店時間となり、店内には数名新規の客人が入って来た。その後常連の客人も入って、何時もの様に賑わいで溢れていた。私も久しぶりに顔を合わせたという事もあり、何名かの客人から細やかな贈り物を有り難く頂いた。深夜1時、休憩を取るようにと告げられたので、ナツトに声を掛け、楽屋へ入って行った。


ナツト「旅行に行きたいよね。ママから何日か休み取れないかなぁ?近くでもいいよね。

何処にしようか?」

私「なあナツト、俺、今度不動産屋に行くんだよ」

ナツト「え?ジュート、今の所から引っ越すの?」

私「ああ。…今度の休日、お前も付いてくるか?」

ナツト「良いよ。また同じ路線沿いにするの?」

私「いや、俺たちの新居だ。ナツト、何処が良いか決めてもいいぞ。其れなりに居るものだけ、片付ける準備もしておけよ」

ナツト「ジュート…分かったよ。いろいろ考えておくね」


私とナツトはお互いの顔を合わせながら微笑み合った。するとナツトが私の頭を両手で勢いよく撫で回してきたので、止める様にと注意したが、彼は両目を大きく開き、舌を出してからかい出して店内へと戻って行った。それを追い掛けるかの様に私も店内へと出戻り、ナツトを呼び止めようとした。ママが何かあったのかと尋ねてきたが、相変わらず仲の良い兄弟の様に楽しんでいるのだなと、終始優しい眼差しで私達を見ていた。


更に歳月は流れていき、時代は昭和36年。

色なき風が包み込む様に吹く季節の中、或る日ママから全員に早めの出勤を告げられたので、私は、何時もより早く自宅を出発した。店に到着し、従業員等の数名が先に清掃に当たっていたので、私も手伝っていた。全員が集まったところで、ママがカウンターの前に集合する様、声を掛けてきて、ある事柄について口を開いた。


ママ「此処の区域の管轄の方から店の立ち退きの命令が下されたわ。此処だけじゃなく、周辺の飲食店や風俗店も営業法に基づいて、辞めなければいけなくなったの。来年の3月末までよ。」


皆がどよめく中、ママは続けて話をしてきた。


ママ「今後の振り当ては一部私から紹介できる所もあるから、相談したい人は後で私の所に来て頂戴。其れ迄の間は、何時も通り、皆でお客様をおもてなしをして、頑張って行きましょう。」


皆が解散した後、ママは目を天井に向けて、胸に秘めた想いを噛み締めながら、顔を下ろして、私達一人一人の顔を見渡しては微笑んでいた。衣装部屋のロッカーで着替えを済ませようとしていた時、私はミキトから呼び止められた。


ミキト「ジュート、お前は此れからどうするんだ?」

私「まだ決めては居ないが、恐らく知人を頼って職を探していく予定だ。ミキトはどうするんだ?」

ミキト「俺も誰か宛が有れば良いが、もしかしたら東京から離れるかもしれない」

私「そうか。離れてしまうのは寂しいが、元気で居てくれれば其れで良い。其れ迄はお互いに皆で店を盛り上げていこうな」

ミキト「相変わらず前向きだな。その根が羨ましいよ。俺は何処に行くか分からないから、正直後ろめたさがある」

私「ミキト、お前は強いよ。心配する事はないさ。」

ミキト「何故そう言い切れるんだ?」

私「此処に来てから気づいた事がある。お前は自分の事を一番に理解している。そして、皆の事にも気遣える所もある。そういう者は、何処に行っても正しい道を歩んでいける。お前は俺より自信のある男で間違いはないだろう?」

ミキト「ああ、その通りだ。最後まで此処にいる限り、お前には歯向かうつもりでいるからな」

私「…ミキト、ありがとうな」


ミキトは口角を上げて滅多に出さない表情で笑っていた。


開店時間から数時間が経った頃、常連客の石田様の姿があった。予めママから立ち退きの話を聞いていたと言う事で、店に来てくれたらしい。私は暫し石田様の話し相手をしていた。


石田「ジュート、君は今後どうするんだい?」

私「まだ行く宛は決めていません。」

石田「そうか。実はね、私も近々今の場所から少し離れた所で、新しく寫眞館を開業する事に決めたんだよ。港区の三田の辺りだ。新規で従業員も探しているんだが、もし良ければ、君に来て欲しいと考えているんだ。悪くない話だと思う。まだ時間があるから、その間に検討していて欲しい。何時でも連絡を待っているよ。」

私「ありがとうございます。考えておきます。」


本当はあまり頼りにしたくは無かった。もし共に働く事になったとしても、何処かで迷惑をかけてしまうのではないかという思いがあるからだ。此処から離れた後でも、良き知人として永く接していきたいという願いもあるのだ。心残りな様な事は殆ど望まない様にしているからだ。


また新しい年を越して、厳しい真冬の季節を耐え抜き、時は3月の末日の最終の出勤の日を迎えた。


早朝5時。ママの閉店の挨拶を終えて、皆がそれぞれ握手や抱擁をしながら、別れを惜しみ、各自店を後にした。私はママに挨拶をした後、彼女の身体に抱き寄せて、ありがとうと告げると、何時も見せてくれていた眼差しで私の顔を見て頷き、頭を撫でてくれた。


ローズバインに別れを告げた後、翌月、私は職安へと一人出向いて、新しい働き口を探しに行った。お店に居た頃は、当初頂点を目指すとママに誓って志していた。しかし、私自身の年齢や立場や今後の事を考えた時、ナツトと一生涯共に生きていく事を決めた上で、其れまでの違った闘争心を持ちながら長い道のりを歩いていこうと心に決めたのであった。


その後、日暮里駅の付近に構える知人の小さな設計事務所での就労が決まり、私は事務員として働き始めていた。その頃ナツトは新宿駅の東口から近くにある大久保公園寄りの飲食店で働いていた。それぞれ別の場所で働いていた事もあり、時折喧嘩もする事もあったが、仲睦まじく共に暮らしていた。


東京は日々変化を増して、高層ビル群や都市開発等で活気に満ち溢れていった。空の色は相変わらず濁る様に街並みを包み込んでは、颯爽と突風が流れていった。


私は自分の人生に悔いはなかった。鶯谷のローズバインでの出来事は一生忘れぬ事は無いであろう。皆に出逢えた事に深謝して、此処に記しておこう。


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太陽と向日葵 桑鶴七緒 @hyesu

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