ヤツメウナギ

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「ヤツメウナギ」fromドライブ・マイ・カー

1「恋からアイ」


 彼女は、県立高校に通う高校3年生。真面目で、学業成績も優秀。いわゆる、「陽キャ」に分類されるというわけでもないが、優しい性格のため、友達も多かった。先生や親からの信頼も厚かった。高校に入ってからは、華やかでもなく、地味でもない、そんな生活を送り、時間は刻々と過ぎていっていた。そんな彼女は、高校3年生になり、クラス替えで初めて同じクラスになった男子生徒に思いを寄せていた。間違いなく初恋だった。一目惚れだった。明るく、スポーツ万能でサッカー部のキャプテンをしていた、みんなの人気者だった彼。しかし、彼女はそういうところに惹かれたというわけではない。彼の所作や動作、立ち振舞のもっと奥底にある、深く、根源的な”何か”を感じ、彼に瞬間的に引き寄せられていった。もちろん、恋をしたことがない彼女にとって、それは刺激的すぎる体験だった。彼のことを考えるだけで、幸せになり、心臓の拍動が強く、早くなった。この気持を彼に知ってほしい、とは微塵も思わなかったが、「彼のことをもっと知りたい」と思った。彼女は賢かった。友達から、彼のことをさり気なく聞き出し、情報を集めた。彼のことを新しく1つ知るたびに、彼女は彼のことすべてを愛おしく思った。彼女の恋は愛と呼ぶに足りるものとなり、その愛情は指数関数的に増大していった。



2「一線をコエル」


 ある日、彼女は彼の自宅に空き巣に入った。彼に少しでも近づきたかった。彼のことを知りたかった。彼の家の場所は友達から聞き出していた。予想どおり、玄関脇の植木鉢の下から、鍵を発見し、家の中に入った。彼は一人っ子、父親はサラリーマンで、母親は学校の教師だった。平日の昼間には誰もいないことを知っていた。彼女は、多くの人から、多くの信頼を勝ち取っていた。だから、このことが万が一、バレたときのリスクは、人の何倍か大きかった。でも彼女は一線を超えた。だからこそ、失敗はできなかった。彼が学校にいるとき、彼女は彼の家にいた。玄関で靴を脱ぎ、階段を一段一段登っていった。二階の突き当りの部屋に入った。その壁にかかっている、サッカーのユニフォームの背番号で、彼の部屋だとわかる。部屋は、男子高校生のものとは思えないほど、整理され、小綺麗にされていた。彼女はそんな部屋を見て、母親からの彼に対する強い束縛を感じる。平日昼12時の部屋は静まり返っていた。補聴器や、ノイズキャンセリングイヤホンをつけ、無音の空間にいるような、強調された静寂を全身で受け止め、感じ、噛みしめる。彼のベッドに倒れ込み、寝具についた彼の香りを肺の隅々まで吸い込み、堪能する。心拍音だけが彼女の鼓膜を刺激し、その加速感も彼女を刺激し続けた。間違いなくこのとき、一線は踏み越えられ、背後には線の跡もなくなっていた。



3「彼女のシルシ」


 彼女の空き巣は常体化していった。彼が学校にいるとき、彼女は彼の部屋のベッドに倒れ込む。学校も休みがちになり、周囲の人は心配した。しかし、彼女はうまくやり過ごした。学校では、以前と変わらず友達と接し、家では仮病を演じた。彼女の過去が、周囲の人の彼女に対する信頼の担保となった。彼女は彼の部屋に通うたび、彼を母親から解放してあげたいと思うようになった。そうするうち、彼女は彼の部屋に自分のものを置いて帰るようになった。そして、代わりに彼のものを持って帰る。はじめは、自分自身のペンを置いて帰り、彼の机の中の消しゴムのかけらを持って帰った。もちろん彼が気づくはずもない。しかし、そのペンは、彼女が彼の部屋にいたことを証明してくれる、彼女の「シルシ」だった。はじめは、些細なものを置き、持って帰ったが、次第にエスカレートしていった。最終的に、彼女は自分の履いていた下着を脱ぎ、彼のクローゼットの奥底に押し込んだ。彼の母親がこの下着に気づくことを想像するだけで、彼女の胸は高鳴った。それと同時に彼女はシルシを媒介として、彼に母親からの束縛から抜け出すためのエネルギーを供給しているような気持ちになった。彼女の手元には彼のものが増え、彼の部屋には彼女のものが一つ一つ増えていった。彼女は彼と、ゆっくり、確実に交わっていくような感覚を覚え、いつか一つになるような予感さえも感じていた。



4「過ちをオカス」


 彼女はこの日も普段どおり、彼の部屋にいた。いつもよりも静寂が誇張されているような一日だった。一段と静かな昼だった。彼の香りに包まれながら、時間は流れていった。


 彼女は深い眠りについた。


 心地よい彼の香りと、不自然なほどまでの静寂の中、目を覚ました時には、もう外は暗かった。彼女は焦って、荷物をまとめて帰ろうとした。その時、一階から物音が聞こえた。彼女の背筋が凍った。父親が帰ってきたのか?それとも母親かもしれない。彼自身が部活を終え帰ってきたのかもしれない。足音は、階段をゆっくりと上り、一歩一歩、彼女のいる彼の部屋に近づいてきた。「終わった。」彼女はそう思った。扉が開く。彼女は覚悟した。入ってきたのは、「空き巣」だった。刹那の間、二人は目を合わせた。次の瞬間、空き巣は刃物を取り出し、彼女に斬りかかった。ベッドの上でもみ合いになった後、彼女の手に刃物が渡った。彼女は必死に、ナイフを空き巣に突き刺した。無我夢中で突き刺した。こめかみにも、喉にも、腹にも、ピクリとも動かなくなるまで、突き刺し続けた。防衛であったはずの応戦が、いつの間にか、彼女の中で明確な殺意に変わっていた。彼女は空き巣を「殺した」。彼のベッドの上には、空き巣の血が飛び散っており、彼女も返り血を浴びた。彼女は、彼の家でシャワーを浴び、血を簡単に洗い流して、帰った。死体はそのままにしておいた。その死体が、今日の彼女が残した「シルシ」だった。



5「変わったセカイ」


 彼女は、次の日に学校に行った。すべてのことを、直接彼に話し、すべてを償おうと思った。学校につくと彼を見つけた。しかし彼は、なんの変化もなく、いつもどおりに学校生活を送っていた。明るい声で笑い、友人たちと談笑し、姿勢良く授業をうけた。おまけに、放課後の部活動も熱心に打ち込んでいた。彼女はひどく混乱した。わからなくなった。昨日のことも、今までのことも、自分の妄想の中で行われていただけかもしれない。そう思うと、そんな気もしてきた。しかし、彼女の筆箱の中には、彼の机の中から持って帰ってきた消しゴムのかけらが確かに入っていた。彼女は、学校からの帰り、直接彼の家に向かった。すべてを確かめようとしたのだ。彼の家についた。怪しまれないよう、立ち止まらず、通り過ぎを演じながら、横目で彼の家を見た。警察の捜査車両もなければ、立入禁止の黄色いテープさえも、そこにはなかった。何一つ昨日と変わっていなかった。ただ、玄関の上に新しい防犯カメラが設置されていたことを除いては。彼女は、ゆっくりと、彼の家に入っていった。植木鉢の鉢の下をチェックした。鍵はなくなっていた。彼女はまっすぐに立ち、顔を上げ、防犯カメラをじっと見つめ、

 「私が殺した。」

と言った。防犯カメラにマイクが付いていなくとも伝わるように、はっきりと

 「私が殺した。」

と言った。彼女は、かすかな微笑みと、涙を同時に浮かべながら

 「私が殺した。」

と言った。その防犯カメラは、彼女がこの世の中に作り出した、唯一の変化だった。彼女には世界が色づいて見えた。以前見ていた世界は、もう二度と見ることはないだろう。彼女は、華麗に踵を返し、ゆっくりと歩き出した。

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