鈴蟲
小富 百(コトミ モモ)
鈴蟲
ある夕からりーんりーんという翅の音が街一帯を包み始めた。昼夜問わず鳴るその音に人々は怯えあまり外を彷徨かなくなった。そのせいで私は昼間に母屋を歩きにくくなり、より一層離れの奥座敷に仕舞い込まれた。暗がりという名のものの中でやることといえば夜にどうやってここを抜け出すかということばかりを考えていた。
幸い人々は怯えのあまりに日の暮れと同時に眠るようになっていたから私は秋の夜長の内に裾を引き摺り抜け出すこととした。私はそのりーんりーんという音がちっとも恐ろしくなかったから。
風が運んでくるその波数を頼りに私は壁伝いに街を歩いた。草履も下駄も与えられていない私の素足に細かな砂利が心地良い。これを感じられない街の人間達は憐れだ。風の匂いも夜の濃淡も全て私の味方、それに一生巡り会えない彼らは可哀想だ。
ふいに右足に下草が触れた、街を抜けたのだ。音が大きくなっている、その翅の主は私のもうすぐそこ。固い棘で足を刺した。血が流れているのが分かる、きっと嗅ぎ付けられてしまうと思う。
「お前、めくらかい」
りーんりーんという音の狭間で声がした。木々のさざめき、女の声だった。
「はい、めくらです」
そう答えた。めくら。随分と懐かしい響きだ。
「ここまでどうやって?」
「壁を伝って」
「ああ、あの白い蔵の」
「白い」
私は白というものを知らない。夜も昼も空も水も花弁の色も知らない。
「なんだい。生まれつきかい」
翅の主は笑った。りーんりーんという音はどんどん大きくなっていたけれど街の人間が怯えるほど怖いひととはとても思えなかった。
「貴女は人を喰うの」
「喰わないよ。不味いからね」
「じゃあどうしてこんな所にいるの」
人間達は貴女を怖がっている。人間達は馬鹿だからこんなに美しい音の持ち主である貴女に火をつけるかもしれない。
「不敬だわ」
「では聞くが、どうしてお前はここに来た」
お前も人間ならば私を恐れ、人間達の中に混ざっているのが普通だろうに。
「私は人よりものを知らないから」
闇しか知らないから。
「だから貴女が怖くないみたい」
鈴。貴女は目が見えないからね。可哀想な子だからね。とても危ない、だからここに居て離れないで、座敷から離れないでいてね。
『鈴。
決してお外に出てはいけないよ』
うちの面汚しだからね。
女が私の頰に触れた。冷たい、夜の香りがした。
「けれど頭が悪いわけじゃなさそうだ」
「ええ、私は賢い」
「そういう奴を探しに来た」
「私みたいなのを?」
「お前みたいなのを」
そう。私は女の指にそっと擦りより、納得して小さく頷いた。ようやくか。待っていたわ、この日が来るのを。
鈴。
「私の側仕えになりなさい」
りーんりーんと、女は翅を震わせてそう言った。十五年、待っていた。いや、私というものが生まれる以前より待ち続けていたのかもしれない。私は今宵、とうとう私ではない美しく強いなにものかになるのだ。
その私こそ、真の私であるのだと、
瞼の裏の闇がそう告げているのだ。
「はい、主様」
りーんりーんと翅の音がふたつ、
波のようにどこまでも響いている。
鈴蟲 小富 百(コトミ モモ) @cotomi_momo
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