女装少女はさかさまの夢を見る

サクラクロニクル

夢を見る時、真実はいつもさかさまになっている

 はちみつのような甘さを帯びて、少女の声が夏の図書室にこだまする。


藤堂とうどうくん、ちょっといい?」


 図書委員の姫海棠ひめかいどう海夏みかが、スカートの裾をひょいと持ち上げてみせる。ふとももがちらりと見えてしまうくらいに。

 そういうしぐさをされると、思わず視線をやってしまう。それが藤堂とうどう秋彦あきひこの残念なところだった。自分の残念さに気づき、あわてて顔をあげる。


「いまふたりきりだしさ。ちょっとだけ話があって」


 海夏は手間のかかってそうな三つ編みをなでてから、すでにだいぶ膨らんでいる胸元に手を置いた。制服のリボンがゆれる。そうしたやり方のひとつひとつが、秋彦の目に毒素を流しこむ。

 ふたりきりのこの状況で〈ちょっといい?〉だってさ。

 秋彦は自分がドキドキしているのを感じていた。

 これは、もしかしたらもしかするのでは……?


 たっぷりを間をあけてから、彼女が声を低くして問いかけてきた。


「――藤堂は、トランスジェンダーって知ってるか?」

 

 普段との違いに戸惑いながら、秋彦は考えをめぐらせた。

 トランスジェンダー。どこかで聞いたような言葉だ。だが、それのことを考えようとすると思考が停止してしまう。

 彼女は秋彦のそういうところを見て、くすくすと笑ってみせた。


「簡単に言えば、見た目と性別が一致してないってことだ。見ろよ、女に見えるだろ? オレにもそう見える。それもかなり上等な部類だ。そう思わないか?」


 彼女は、常に正確な評価をする。図書への評価も、他人への評価も。そしてそれは、自身に対しても同じだった。彼女はこの中学でも、トップ付近に位置するスペックの持ち主だ。


「そうだね。女に見える。それもかなり上等な部類」


「おまえに上等とか言われると腹が立つな」


「はい」


 秋彦もそういう言われ方をすると心がとんがってくる。なので、短い返答ののちに図書の片づけに専念することにした。混乱して絡まった思考をほどいてやる必要もあった。


「いつも自分の姿を見るたび思う。どうしてこれが自分の身体なのだろうかと。いや、どうしてこの身体に入ってしまったのだろう、かな?」


 なんとも言えない空気があたりにただよってきた。秋彦は呼吸するたび、その不穏な粒子を吸い込むはめになる。

 深呼吸を、一回、二回、三回。そうしているうちに、使ってるシャンプーが同じなんだよな、みたいな気持ちの余裕が出てきた。


「オレとおまえ、心が入れ替えられたらいいのにな」


 だが油断していてはいけない。海夏がいよいよファンタジーの領域に足を踏み込んでくる。


「そういうストーリーがなかったっけ?」


 秋彦はごまかそうとテキトーなことを言うが、彼女のレシーブ能力はかなり高い。


「入れ替わり系の話はわりとよくある。一番効果的なのは全力疾走から頭突きをかますパターンだ。物理的な衝撃によって魂が入れ替わる。やってみる価値はあるかもしれないな……」


 おもしれー女。秋彦は頭を抱える。


「そういうのはちょっと。それより、さっきのやつ初めて聞いたんだけど」


「どれのことだ」


「トランスジェンダー」


「言ってないからな。なんとなく、おまえには伝えてもいいころあいだと思った。一番仲がいい男はおまえなわけだし、ふたりきりだ」


 フムン。同じ図書委員だからかな。こちらとしては、お近づきになりたいから図書委員になったのだから、距離が縮まっているのはいい。

 だけど、彼女の言っていることを総合すると、海夏の魂は男のものであるらしい。


「うーん、うーん?」


 秋彦はいくらか唸ってから問いかける。


「じゃあなんで女子の制服を着てるの? やっぱり見た目と中身が不一致だとイジメられるからとか、そういうこと?」


 おそらくデリケートなことなので、自分なりに気を使った。


「女装が趣味なんだ。合法的に好き勝手できる。自分でなければ最高だったんだが」


 損した。


「じゃあ、姫海棠さんは、いまの自分が理想の女子ってこと?」


「変な気を使わなくていい。でも、伝わってるならうれしいよ。自分で自分を理想だと思うなんて、実に悩ましい」


 こっちも悩ましいよ。秋彦はそう思ってため息を吐いた。


「んじゃ、男には興味ないわけだ」


 微妙な間があった。秋彦は地雷を踏んだ可能性を恐れた。


「…………あるわけないだろ」


 海夏はそう答えて、それきりなにも話さなくなってしまった。


 爆発によって秋彦の目の前はまっくらになり、夜には悪夢を見た。

 内容は、こうだ。

 海夏がふたりに分裂して、お互いに手を取って走り去っていく。見事なまでの並走だった。そうか。そういうことになるのか。彼女が〈彼〉であるならば、もちろん作るのは彼氏でなくて〈彼女〉になる。どちらかの少女は魂が女の子でできていて、それが海夏にとって理想の相手。

 気がつくと、ふたりの姫海棠が隣り合って、お互いの位置を入れ替え始める。

 シュッシュ。シュッシュ。見事なシャッフルだ。どっちがどっちだか、またたく間にわからなくなる。


「問題です。どちらが本当の姫海棠海夏でしょうか?」


「当てたらプレゼントがあるぞ、秋彦」


 ていねいな方が、ふだんの姫海棠海夏。

 そうじゃない方が、本当の姫海棠海夏。


「こっちかな」


 秋彦は本物だと思う方を指さした。


「よく当てたな。デートをしてやろう。そっちから誘えよ。女ってのは押しに弱いものだ。やってみせろよ、藤堂。なんとでもなるはずだ」


 デートだと?

 どこかで聞いた構文だったが、海夏の言葉は頼もしい。秋彦は従うことにした。


 目が覚めると、時計の針がいつもより十五分ほど先に進んでいる。

 ここで問題です。ふだんからギリギリで生活している人間が寝坊をするとどうなるでしょうか。制限時間は五秒。はい藤堂さん早かった。答えをどうぞ。


「遅刻だ」


 正解。


     *


「おはよう、藤堂とうどうくん」


 昨日のことが嘘みたいに、海夏はていねいにあいさつしてきた。秋彦は自分の中にある美少女の定義と、今朝の彼女とを照らし合わせてみる。それは見事に一致した。


「おはよう、姫海棠ひめかいどうさん」


 このまま昨日のことをなかったことにすることも可能だった。しかし秋彦はそれほど頭がよくなかった。


「放課後に、ちょっといいかな?」


 夢のお告げの通り、やってみせることにしたのだ。


「いいよ」


 彼女は笑って、軽く手を振った。どこからどう見たって女の子だった。



 それで放課後。

 図書室より奥の廊下で、他の人に見られないよう気持ちを伝えてみる。


「デートし「正気か?」」


 秋彦は姫海棠のアドバイスを信じ切っていたので、発言を潰されたくらいでは引き下がらなかった。


「かるく喫茶店に入ってコーヒーを召喚する呪文トールアイスカフェモカエクストラホイップを唱え、それからゲーセンでゾンビをシバく。クレーンゲームも得意だから、姫海棠さんの欲しいやつを取ってあげる」


 秋彦のただならぬ気配を察したのか、海夏が三つ編みをなでる。


「払いは?」


「むろん、こっち持ち」


 彼女がため息を吐いた。


「オーケイ。わかった。つきあってやる。けどデートじゃないからな。男友達と遊びに行くだけだ。そこんところはしっかりと認識しとけ」


 上出来だ、と秋彦は思った。

 細かい日取りが決まり、週末は念願のデートということになった。秋彦にとってはそうだった。相手がどう考えていようと。

 でもそれは、海夏にとってあまり喜ばしいことじゃなさそうだ。

 身勝手には、おそらく報いがくる。

 秋彦は毎晩、様々なバリエーションで彼女にフラれ続けた。


     *


「よう」


 海夏の私服は素敵だった。カジュアルな青っぽいワンピースと、白いレディスのサンダル。三つ編みはいつも通りで、陽射しよけの麦わら帽子をかぶっている。


「今日は熱いな」


 海夏は最初から男モードでしゃべった。これをデートにする気はさらさらないということらしい。また、段取りに一部変更が加えられた。まずゲーセンからということになった。

 海夏と一緒にコーラを買って喉をうるおしてから、百円玉を二枚使ってゾンビをシバく。それは恐ろしく古い機種のシューティングで、よく現役で稼働しているものだと感心するようなやつだった。銃の形はショットガンで、両手で持たないと保持するのは難しい。

 秋彦はこのゲームが得意だ。どのルートでどんな敵がどこから出てくるのかすべて暗記しているし、ライフ回復アイテムの位置だってわかっている。自分は被弾しないので、回復アイテムはすべて海夏に取らせていく。


「おまえ、やり込みすぎだろ」


 ゲーセンだと声が聞きとりづらいので、かなり大声でのやりとりとなる。


「普通だよ、普通。ガンシューやってたら自然とこうなる」


「いや、絶対にそんなことないぞ。だいたいおまえ、銃の持ち方がおかしくないか?」


 秋彦は左手で銃身を身体に押し当てて固定しつつ、リロードと照準をこなす。右手は人差し指でトリガーを引く動作だけを延々とやり続けている。

 なお、こんな持ち方をするのはガチ勢以外にはいない。


「普通です」


「いや、おまえはだいぶ頭がおかしい」


 最初に使ったツーコインだけでクリアして、ギャラリー界観客は大いに盛り上がった。


 クレーンゲームに欲しいやつがなかったので、ふたりはコーヒーチェーン店に入った。コーヒーを召喚する呪文トールアイスカフェモカエクストラシロップエクストラホイップを二回唱えてから、窓際の席に座る。


「まあ、楽しかったよ」


 彼女はそう言ってから、ストローでアイスのカフェモカをすすった。


「男は男同士で遊ぶものだとずっと思ってた。でもオレのこの見た目では、どうあがいてもデートにしかならない。おまえはちょうどいいよ、藤堂。気を使ってるだろ。変に距離を詰めてこない。オレのことを男だと信じきっているわけではないが、普通の女子ではないということもわかっている」


 あの日を境に、海夏は100%純粋な恋愛対象ではなくなっていた。

 見た目は美少女でも、姫海棠海夏が自身をトランスジェンダーと称するのであれば、それを尊重してあげないといけない。

 それに、海夏は思い通りの自分をやろうとチャレンジしている。ありのままを受け止めた方がいい。どの表情も彼女自身のものであることに違いはない。

 それで、今日の海夏は男子の側面を見せたがっている。おそらくは意図的に。

 でも、それはとてもはかなく感じる。


「普通の女子じゃないことは知ってた」


 なんて言ってみるが、大嘘だ。いまこうして話していても、彼女はいかにもわざとらしい男子をやってるように感じる。いくら声を低くしようが、言葉遣いをあらっぽくしようが、海夏は秋彦の恋した少女から大きく離れたりしなかった。


「おまえは言われるまで気づかないタイプだろ。目つきもいやらしいしな。でもあの日から変わった。変わっちまったな、藤堂」


 なにが変わったのか、海夏は教えてくれなかった。

 そのかわり、ひとつの提案をしてきた。


「遊びにつきあってやったんだ。オレにもちょっとつきあえよ」


 彼女の〈ちょっと〉がちょっとで済むはずがない。しかし秋彦はうなずくだけうなずいた。


     *


 月曜日の放課後、他に誰もいない図書室でふたりきり。

 内側から鍵をかけて図書室を占有するなど、本来は言語道断の行為。なのだが、今日のふたりはそういうことを気にするこころもちじゃなかった。図書室の備品整理というそれっぽい理由をつけて閉鎖空間を作り上げた。

 夏の暑さを冷房が紛らわしている。その風の音に耳を傾けながら、制服姿で距離を取る。


「全力疾走でお互いに体当たりをする。やるだけやってみよう。ファンタジーが起こるかもしれない」


 作り話ではよくある。うっかり衝突した結果、身体が入れ替わるというやつだ。それを意識的にやってみる。まあおそらく、失敗に終わるだろう。

 だけど、海夏が身も心も男になりたいなら、つきあってやろうと思った。秋彦の方も男の身体に未練があるわけではない。海夏の身体が自分のものになり、自分の身体が海夏のものになる。多少は混乱するだろうが、それならそれで流されるままやってやろうという気持ちだった。

 このように、恋は人の判断力を劇的に低下させる。秋彦が自分自身の身体に恋ができる保証など、どこにもない。


「いくぞ」


「了解」


 ふたりでダッシュし、正面衝突を引き起こす。弾き飛ばされた海夏が書棚にぶつかり、その衝撃で本がバサバサと落ちてくる。秋彦はふらつきながらも、本の雪崩から海夏をかばった。


「入れ替わってるか?」


 秋彦は男子モードっぽく話してみた。


「特に変化はないね、藤堂くん……」


 本と秋彦に押しつぶされながら、海夏がそう呟いた。


     *


「やっぱりだめみたい」


 海夏が窓の外を見る。まだ陽が高く、外はかなり暑そうだ。


「〈女の子〉になっていく気がするんだよね。自分が」


 海夏の完成度は日に日に上がっていく。秋彦から見ても明らかなことだった。


「小学校まではサッカーやってたんだけど、なんか違うなって感じがして。本を読むのとかが自分にしっくりくるから、とりあえず図書委員、文芸部って思ったんだけど。この学校、文芸部ないんだよね」


「たしかにたしかに」


 テキトーにあいづちを打つ。


「…………それで、運動をやめたのが仇になったみたいで。身体が一気に女の子になって、お赤飯まであっという間だった。自分でもびっくりだよ」


 話がいきなり深刻になったので、秋彦は黙ってしまう。


「最近、あたまの中がぐちゃぐちゃになっていく気がする。自分が自分でなくなって、オレはオレではなくて私になるんじゃないかなって気持ちになる。トランスジェンダーだと思い込んでいたけど、実はそんなことなんてなくて。私は姫海棠海夏っていう美少女になってしまうんじゃないか。そう思っちゃうんだよね」


 あんまり同情しなくてもよさそうな気はする。


 けど、秋彦は彼女とそれなりの距離を取る。結局、秋彦にとって姫海棠海夏は恋愛対象であって、大切にしたい相手だった。彼女の魂が男なのであれば、いっそのこと自分の魂が女であればいいとさえ想う。

 なんでそんなことをと、秋彦は考えてみる。


     *


 自分の身体は男だから、いつも男の服を着ている。それ以上の理由はない。

 秋彦には確たる自己の性がわからなかった。

 姫海棠海夏という存在はとてもまぶしい。自他ともに認める美少女だ。

 それに引き換え、自分はどうだ? 自分は男だと言えるのだろうか?

 ふたりの中身がもしもさかさまになったら、どうなっていたことか。

 考えるほどに、秋彦には不安がつのる。

 秋彦は女の子の海夏が好きで、もしかすると身体の方だけが好きなのかもしれなかった。だから、魂を入れ替えたりなんてしたら、すべてがまぼろしとなっても不思議じゃない。

 だから秋彦は、いまの感情が炭酸の泡のように消える前に、彼女になぐさめの笑みを向けてみる。


「海夏はいつまでも女装ができるよ。そんだけかわいいんだし」


 すると、海夏はけらけらと笑った。


「言っておくが、男には興味ないぞ」


 おそらくはあざけり混じりの笑顔。それでも彼女は美しい。

 秋彦は長く伸びた髪を切ろうと思う。ぼさぼさの髪に指を通すと、とてもこんなやつに恋などしないと思える。

 だから海夏がうらやましかった。

 

 さかさまになりたかったのは、本当は秋彦の方だったのだ。

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