「ねえ、今から出掛けない?」

 昼食のインスタントラーメンを食べ終えた彼女が言う。窓の外はしとしとと雨が降っていて、とても出掛けたくなるような陽気ではない。

「なにか買い物ですか? 外は雨ですし、明日でも――」

「明日は仕事でしょ? 一緒に散歩しようよ」

 私にせがむ彼女は意外と頑固で、なかなか引き下がろうとはしない。外出ができるだけ彼女は回復したのだから、これも良い傾向なのかもしれない。結局私が根負けして、近所のディスカウントストアまで散歩兼買い物をすることとなった。

 彼女は私のコーディネートやメイクをしたいと言い出し、私は着せ替え人形のように彼女のなすがままになった。これまで服装にアドバイスをもらうことはあっても、彼女に全てを任せることは初めてだった。

「こういうのやってみたかったんだよね。ファッションとかそこまで興味ないって言ってたけど、やっぱり素材がいいから磨けば光るし」

 そう言いながら私の顔をまじまじと見て、様々な化粧品を塗りたくっていた。彼女のすっぴんを初めて見たときは驚いた。それは化粧した姿と大きく異なっていたからではない。逆に、化粧した姿の美しさに勝るとも劣らないほどの素顔であったからだ。大きな目も、陶器のような美しい肌も、高い鼻も、彼女は生まれながらにして手にしていたのだ。

 そんなことを思い出しているうちに、私の容姿は彼女の計画通りに完成していった。彼女はそんな私を満足そうに上から下までじっくり眺めた。

「うん、完璧」

 鏡を見ると、普段の私とはかけ離れた素敵な女性がそこに映っていた。顔にはナチュラルだが若々しくも見えるメイクが施され、髪はゆったりとひとつにまとめられている。白いカジュアルなカットソーにはひざ丈のライトブルーのスカートをあわせていて、全体的に爽やかな雰囲気だ。

「すごい……」

 鏡にくぎ付けになっていると、鏡のなかで彼女と目が合う。彼女はカーキ色のシンプルなワンピースだ。私と同じように髪を一つに結んでいて、白いうなじが見える。

「じゃあ、行こうか」

 彼女は満面の笑みを浮かべる。近所を散歩する程度なのに、少し大袈裟だ。でもそんなことよりも、彼女がこんなに楽しそうにしているのが何よりも嬉しかった。

 小雨のなか、傘をさしてふたりで歩く。運よく雨が落ち着いてきた時間帯に私たちは出掛けたようだった。普段の日曜日であればにぎやかな街中も、今日は時が止まったように静かで、人も車もほとんど通らない。

 左に視線をやると、ビニール傘ごしに鈍色の空を見つめる美しい横顔があった。

「あの赤い傘、使わないんですか?」

 いつか雨の日に彼女と会ったときにさしていた赤い傘。彼女の美しさを引き立てるように、華やかで目を引いていた。

「赤い傘? ああ、アパートから持ってきてないの。面倒で」

「あの傘、なんか素敵ですよね。お似合いでしたよ」

 困ったように「でも少し重くて持ってると疲れちゃうの」と彼女は笑う。小さくかしげた首は白くて、細くて、綺麗だった。それは官能的にさえ見える。私は少しどきりとして、それを悟られまいと内心慌てる。

「そういえばアパートってここから電車で十分くらいですよね? 駅から近いんですか? 今度私も行ってみたいです」

 引き払って私の家に住めばいいと言っているが、彼女はまだアパートを借りたままだ。私はそのアパートがどこにあるのかを知らない。いつか彼女がそのアパートに行ったきり、戻ってこなくなるのではないかと私はひそかに案じていた。

「うーん……ちょっと汚いんだよね。物が多くてぐちゃぐちゃだから恥ずかしいかな。駅から少し歩くし」

 なんだか上手く躱されたような気がする。そんな話をしているうちに、私たちはアパートから五分ほどのディスカウントストアに到着した。

 まず店外に設けられた園芸コーナーを彼女は物色しだす。

「なんかお花とか育てようよ。やっぱりあの部屋は白すぎて寂しくない?」

 オレンジやピンクの華やかなマーガレットの鉢が並ぶ。どれも沢山の花をつけて、いきいきとしている。

「でも、私の部屋あんまり日当たりがよくないし、バルコニーも狭いんですよね」

「そっかぁ……」

 肩を落とす。そんな彼女の先にある、すらりと優雅で爽やかな青紫の花が私の目に入る。どこか彼女に似ているように感じて、自然と足がそちらへと向かった。

「アガパンサスだ」

「この花素敵ですね。凛としてる」

「確かに。なんか雰囲気が似てるかも。清楚な感じ」

 彼女は私とアガパンサスの鉢を交互に見比べる。

「そう? わたしなんかより――」

 彼女の方が、清らかで、綺麗で、涼しげだけど可愛らしくもあって、よっぽどお似合いだ。そう言いかけてやめた。

「私なんか全然清楚じゃないですよ」

 言い直すと彼女は「そんなことないのにな」と口先を尖らせた。

「アガパンサス、気に入りました。いつか日当たりのいい素敵な家に引っ越したら植えたいですね」

「うん、そうするといいよ」

 彼女は私の目を見てにこりと笑った。しかし、その笑みはどこか寂しく見えた。散りゆく花のような、最後の花火の輝きのような、そんな儚さを含んでいた。でもそれは一瞬で、彼女はすぐに別の方向を向いて歩いて行った。

「ねえ、観葉植物ならいいんじゃない? 育てやすいって書いてあるよ」

  二十センチほどの背丈のパキラを手に取る。

「このくらいなら育てられますかね? 枯れないといいですけど」

「大丈夫だよ。真面目だからちゃんとお世話しそうだし」

「真面目かな?」

「少なくともこんな元教師よりはね」

 自嘲するような薄笑いをした後、彼女はパキラの鉢をレジに持って行った。さっさと会計を済ませると私に鉢の入った袋を渡した。

「はい、プレゼント。買い物デート記念」

「デートって……枯らさないようにしなきゃですね。私が忘れてたら代わりに水やりしてくださいよ」

「さあ、どうかな」

 店内の食品売り場へと彼女の後姿が吸い込まれていく。私はガラガラな店内でも、見失うまいと焦って後ろについていった。

 買い物を終えるとさっきまでの雨はやんでいて、西の方角には茜色の空が広がっている。雨上がりの湿った空気が、じっとりと肌にまとわりつく。

「雨がやんでよかった。濡れなくて済みそうだね」

 彼女は食材が詰まったエコバッグを右手から左手に持ち替える。

「持つの交代しますよ。私、パキラしか持ってないから」

 夕日に照らされた紅い顔は縦に動かない。

「いや、いいの。自分で持つ。こういうときくらいは頼らないで頑張らなきゃね」

「そんな無理しなくてもいいのに。半分だけでも持ちますよ」

「大丈夫。もうすぐ家だし」

 こうなったときの彼女は頑固だ。私は早々に諦める。それが彼女と上手くやるコツなのだ。

「それにしても沢山買いましたね。これ何日分ですか?」

「どうだろう。平日の間はもつかな。まだ家に残ってるのもあるし」

「腐っちゃうまえに消費できますかね?」

「大丈夫、明日は色々作り置きしたいと思ってるし」

食べたいものを話し合いながら、私たちはアパートへ帰った。彼女は、またエコバッグを反対の手に持ち替えた。



 アパートに着いてからの彼女は、それ以前よりもいっそう機嫌がよかった。いつもは外出するとその直後は疲れからしばらく動かないのに対し、今日は張り切って家事をこなした。そんな彼女は、なにか後ろめたい気持ちを悟られまいと努めているようにも見えた。

 メイクを落とし、部屋着である私のTシャツとジャージのズボンに着替えて、さらにエプロンをして料理をしている。今日の献立はイタリアンなようで、アクアパッツァやブルスケッタが既にテーブルに用意されている。

 バルコニーから戻った私は、部屋に充満するオリーブオイルとニンニクの食欲をそそる香りにうっとりとしながら、キッチンに立つ彼女のもとにふらふらと近づく。

「いい香り。おなかすきましたね」

 私の気配に気付いていなかった彼女は声を掛けられて、びくりと驚く。

「わ、まだバルコニーにいるかと思ってた。もう洗濯干し終わったの? 家事、手伝ってくれてありがとうね」

「いえ、休日くらい家事は分担にしましょうよ。そうしたら早くご飯も食べられるでしょう?」

「それもそうだよね」

 ふたりで狭いキッチンに立ち、カルパッチョとペペロンチーノを完成させる。不器用で不慣れな私はほとんど手伝えずに見ているだけであったが、人と一緒に料理をすることなど高校の調理実習以来でなんだか新鮮だ。

 出来上がった料理を全てテーブルに並べると、それは壮観であった。

「すごいご馳走ですね。お店みたい」

 喜ぶ私を見て彼女は満足げにしている。今日買った白ワインの栓を抜いてふたつのグラスに注ぐと、片方をこちらに差し出す。

「ねえ、ちょうど一年くらい前に、私たちが初めて一緒にご飯を食べたのもイタリアンだったよね」

「そうでしたね。あのときも今日みたいにワインを飲みましたし」

 グラスを受け取って乾杯する。鼻に抜ける爽やかさと渋み、わずかな酸味がクセになる。そういえば二十歳の誕生日にワインを飲んだときは、この渋みがどうも不快でそこからワインが嫌いになったっけ。

「この一年長くて短かったな」

 彼女は細い指でフォークを使ってパスタを掬いながら呟く。

「と、いいますと……?」

「うーん、この一年はあっという間だったよ。でも、去年の冬は長かったかな。毎日ひとりで一日が終わるのをずっと待ってた。明日はきっと今日よりマシな日になるって信じて、ただ秒針が進んでいくのを待ってた感じ。今は全然そんなことなくて、むしろ時が止まればいいのにって思うけどね」

 器用な手つきでフォークに巻き取られたパスタは、喋り終えた小さな口へと運ばれていく。その一連の動作をじっと見つめながら、ちびりちびりとワインを飲む。気づけばグラスは空になっていた。

「今日は飲むピッチ速くない? 大丈夫?」

 心配した彼女に顔を覗き込まれて、どきりとする。未だにこれには慣れない。

「大丈夫です。でも一気に飲み過ぎたかも。お水取ってきます」

 アルコールでふわふわとする体でキッチンに向かい、水を注ぐ。身体が思うように動かなくて、自分の身体じゃないみたいだ。まるでここが現実ではないみたい。この酩酊感ももう嫌いではない。

「結構酔ってない? 明日は仕事でしょ?」

「明日は月曜日か……ずっと今日みたいな生活がしたいな……」

 鉛のように全身が重くなり、椅子に戻るとそのまま眠りについた。ぬるま湯に浸かっているように温かくて、幸福な眠りだった。



 テーブルでは二時間ほど寝ていた。ワインを飲んですぐ寝てしまったから、あまり料理には手をつけていなかった。せっかくの一緒に作った料理を食べ損ねたのが悔しくて、冷めたものをレンジにかける。

 彼女はシャワーを浴びているようで見当たらない。部屋にはただレンジの音のみが響く。空いた皿と食べかけの皿が混在するテーブルは祭りの後のように寂しい。ひとりで残り物を食べていると彼女がこの部屋に来る以前みたいだ。

 しばらくすると彼女がバスルームから出てきた。いつの間にか起きている私に驚き、脚を壁にぶつけて痛がっている。

「いたた……起きたんだね。酔ってぐっすり寝てたよ」

「こんなつもりじゃなかったんですけどね、ごめんなさい」

 肩を落とす私の向かいに彼女は座った。髪はまだ濡れていて、肩にかけたバスタオルにぽたぽたとしずくが垂れている。

「もうすっかりお酒飲めるようになったね」

 頬杖をつきながら、視線をじっとこちらに向けられる。カルパッチョのタコを噛んでいた口は咀嚼をやめて、私は回答をわずかに逡巡する。

「ええ。酔って寝ちゃいますけどね」

 彼女の口許は緩んで、小さく笑った。

「外で飲むときは気をつけなよ。どんな目に合うかわからないしね」

 風呂上がりの火照った体を冷やすように、ごくごくと水を飲む。グラス一杯を飲み干すと、再び頬杖をついて私の方に顔を近づける。

「ねえ、あの男の上司とは仲良くなったの?」

 まさか上司が話題に出るとは思わず、「えっ」と声が出る。そんな様子を見て彼女はまた笑う。いたずらな、無邪気な、そしてそこが少し恐ろしい笑みだ。

「もう男の人も随分大丈夫になったよね」

「いや、でもまだちょっとしか――」

「私、いや私たちかな。依存しすぎなのかもね」

 なんでもないような感じで、彼女は言う。まっすぐに見据えた視線は、痛いところを突かれた私の心をじりじりと焦がす。いつの間にか真面目な表情になった彼女は冷酷な殺人鬼のようにも見えた。

 声が思い通りに出ない。震える唇でなんとか言葉を紡ぐ。

「なん……で? そんなことない……それに、依存でもいいじゃないですか。依存くらいしなきゃ……やっていられない」

「そんなことない。もうひとりでも大丈夫になったでしょ。本人が一番わかってるはず」

 彼女の言っていることは正しい。私は酒の席に行けるし、上司とは食事の約束もできる。心臓にナイフを突きつけられているような感覚。冷や汗が止まらない。

「でも、でもさ、私がよくても、そっちはどうなの? 未だにひとりで眠れないことだってあるじゃない。私がいなくてどうするんですか?」

 早口でまくし立てる。自分があまりにも冷静さを欠いていたことに気付き、それから急に全身の血が、さあっと引いていく。

 一瞬表情を曇らせた後、彼女はぎゅっと唇を噛み締めた。何も話さなくても、かっと見開かれた目は彼女の決意を物語っているようだった。そんな彼女の姿を見ていたら反論する勢いもすっかり削がれてしまう。酔いも眠気も完全に醒めた、明瞭な頭を取り戻す。

「まあ、確かに、依存していたのかもしれないです。ごめんなさい。以後、気をつけます」

 何に気をつければいいのかなんてわからない。でも、私は謝ってこの場を早く治めてしまうのが最適と考えた。きっと今日も急な不安に襲われて、精神的に参ってしまっただけだ。一過性だからきっと明日には落ち着くだろう。

 見ると彼女は大粒の涙をその美しい目から流していた。しゃくりあげながら、必死に涙をぬぐっている。

「うわああぁん……もう、泣かないって決めたのに……」

 嫌なことがあったときの子供のようにわんわんと泣く彼女は、私の庇護欲をかき立てる。今までこういうときはただ見ていることしかできなかった。なんとかしてあげたい。なにか力になりたい。私はティッシュの箱を差し出した。

「ほら、使ってください」

 彼女は差し出されたティッシュで鼻をかみ、涙を拭った。

「ごめん。ごめんね。こんなつもりじゃなかったの」

 ティッシュのごみを捨ててからベッドに腰を掛けた。つられて私も隣に座る。

「大丈夫ですよ。もう今日は寝ましょう」

 私は横になって、隣の彼女にも布団をかぶせる。布団の中で彼女と見つめあう。泣きはらしたせいで目元は既に赤く腫れていた。

「ねえ、手、握っていい?」

「いいですよ」

 彼女の細い指が、私の不格好な指に絡みつく。熱がじんわりと伝わってくる。じきにお互いの身体の境界線がわからなくなるような感覚に陥る。私と彼女がひとつの塊になったみたいだ。

 うっとりと目を閉じた彼女は、すぐに小さな寝息を立て始めた。規則的な寝息を感じながら私も意識が薄れていく。途切れゆく意識のなかでも、彼女の手だけは固く握りしめていた。



 その日の朝は、珍しく彼女より先に目が覚めた。

 テーブルに出しっぱなしの汚れた食器を片してから、シャワーを浴びる。久しぶりの朝風呂だ。夜に入浴する派の彼女に合わせていたので、ここしばらくはずっと朝風呂と縁がなかった。朝風呂は好きだ。一日をすっきりとした気持ちで始められる。それに、寝ぐせを気にする必要もなくなるのだ。

 もちろん、夜の方が落ち着いて一日の疲れを癒すことができる。それでもやっぱり、さっぱりとした身体で朝日を浴びる清々しさには敵わないと私は思っている。

 まだ濡れた髪のままで部屋に入る。時計はまだ六時前を示している。いつもならそろそろ起きる時刻だが、彼女はまだ気持ちよさそうに寝ている。めくれた布団からはみ出した健康的な脚には、昨日壁にぶつけてできたであろうあざがあった。それが真っ青で痛々しく、見ていられなくなって、そっと布団を掛けなおした。

 喉の渇きを癒すために冷蔵庫を開ける。昨日買った野菜ジュースがあった。グラスに注いで一気に飲み干すと、全身が水分を取り戻していくのがわかる。久しぶりに飲んだ野菜ジュースは思ったよりも甘かった。

 深呼吸をすると、ベッドの方から布団が擦れる音とわずかな声が聞こえてくる。

「あれ、早いね。おはよう」

 眠そうな目をこすりながら、彼女は起きてくる。

「おはようございます。今日は自然と早くに目が覚めました。いい天気だからですかね」

 彼女はベッド横の窓からの快晴を見て「本当にいい天気ね」と呟いた。それから時計を確認すると、焦って朝食の用意を始めた。

 レタスとソーセージを挟んだパンを食べながら、ぼんやりとニュース番組を見る。気象予報士が今日は暑くなりそうだと話している。そろそろ梅雨も明けるのだろうか。黙ったままの彼女の方に目をやると、浮かない様子でパンを食べていた。

「目、少し腫れちゃいましたね」

「あ、うん。そうね」

 返事はそっけない。彼女のくっきりとした二重まぶたはなくなっていた。目尻も赤くなり、顔全体が疲弊しているように見えた。

「大丈夫? 疲れてますか?」

「あ、いや、大丈夫。大丈夫だから」

「もう一回寝たらどうですか? 今日は一日休んでてください」

 張り付いたような笑顔で、首をぶんぶん横に振る。

「ううん。いいの。元気だよ」

「本当ですか? まあとにかく、今晩は早く寝ましょう。私も早く帰ります」

 残ったパンを一気に口に含むとすぐにキッチンを片付けに行ってしまう。彼女に避けられているような気がする。

 私たちは互いに依存している。昨日からずっとそのことを考えているが、私にはよくわからない。最近では彼女の調子も良くなり、私も苦手を克服し、それぞれが良い方向に進んでいた気がする。むしろそんな状態だからこそ、私が枷となり依存していると指摘されたのだろうか。実際、私の頭を占めるのは彼女にかんする事柄ばかりで、彼女を失いたくはないとも思っているのだから、私は彼女に執着しているのかもしれない。

 いつしか家を出る時刻になり、私はいそいそと玄関に向かう。いつもなら玄関で見送ってくれる彼女が今朝は来ない。

「いってきます」

 リビングの方に声をかけると足音が聞こえ、すぐに彼女が玄関にやってくる。

「いってらっしゃい」

 いつも以上に寂しそうな声色だ。着ているカットソーの袖を軽く引っ張られる。避けられていると思っていたが、私の勘違いだったのかもしれない。

「すぐ帰ってきますよ。大丈夫、本当にすぐです」

 目を伏せている彼女はさらに袖をきつく握る。それから私を、がばりと抱き寄せた。

「うわ、どうしたんですか?」

「なんでもない……ごめんなさい」

 ぎゅううっと、私の身体が強く締め付けられる。余程不安なのか、彼女はなかなか手を緩めようとはしなかった。

「このままだと口から内臓が出ちゃいそうです」

 彼女の小さくて丸い頭を優しく撫でながら言う。するときつく締めていたものは、するりとほどけていった。

「ごめん……じゃあ、気を付けてね」

 そう言うと名残惜しそうに私の手を取った。互いの輪郭を確認するように指を絡める。名残惜しそうにする彼女を「今生の別れじゃないんですから」と落ち着かせてからアパートを出た。

 身体に残った優しくも確かな圧迫感に愛おしさを覚えて、つい口元が緩んでしまう。反対側から歩いてきた犬の散歩をする男性は、そんな私を引いた目で見ながらそそくさと通り過ぎていった。

 にやける口元を右手で隠す。手のひらに口紅がついて、ぬるりとした。



 いつも通り定時で仕事を終えて電車に乗り、最寄り駅の改札を出てからは早歩きでアパートに帰る。昼休憩中にメールをしたが彼女からの返信がないので気がかりだ。杞憂ならいいが。

 もつれそうになりながらも足をひたすら前に出して、アパートへの道のりを行く。頭のなかの議題は昨日からずっと同じだ。私は彼女に依存しているのだろうか。いい大人ふたりが互いの傷を舐めあうことはやはり甘えなのか。彼女は私の古傷をさらけ出すことができる唯一の相手なのだ。きっとそれは彼女にとっての私も同じだ。私たちが離れるなんてあってはならないはずだ―――

 脳内で禅問答みたいなことをしながら帰宅する。道路から見えた彼女がいるはずの部屋は明かりが灯っておらず、どんな闇よりも暗く恐ろしく見えた。彼女がいなくなっているかもしれない。嫌な予感がする。

 きっと寝ているだけだ、そんな薄い望みを抱きつつ、おそるおそる階段を上る。一段ごとに絶望は増幅した。呼吸は浅く、息が苦しい。抑えられない恐怖が私の手を、歯を、ガタガタと震わせる。必死に自分を保とうとして、カットソーの裾をギリギリと握る。近くを通った救急車のサイレンよりも、心臓の音の方がはるかにうるさくて気持ちが悪い。

 部屋のドアの前に着く頃には、私の心は風前の塵のようになっていた。既に消耗しきった私は最後の力を振り絞ってアパートのドアを開ける。カチャリ。その音でさえ私に絶望を与えた。

 ああ、ここは地獄の入口だ。真っ暗な洞窟のような部屋には誰もおらず、ただ遠くから数種類のサイレンが聞こえてくる。私は玄関で立ち尽くす。完全に理解した。彼女に見限られたのだと。サイレンが聞こえなくなるまでの数秒が永遠のように感じる。

 部屋に入って電気をつけると、テーブルの上の一枚の小さな紙が寂しく照らされた。

『ごめんなさい』

 それだけが、美しい字で記してあった。私は虚しくて、悲しくて、その紙をぐしゃりと握りつぶした。私はどうすればよかったのか。いつから間違ったのか。とめどなく生まれる後悔は、涙になってさめざめと流れていった。子供のように、彼女のように、声をあげてわあわあと泣いた。

 彼女の元々住んでいた家も知らなければ、行きそうな場所もわからない。探しに行くあてもなく、ただひんやりとしたリビングにへたりと座り込む。

 ベッドの方に目をやると、彼女の私物はきれいさっぱり全て持ち出されていた。本棚の一画の、ぽっかりと開いた空間は暗くて物悲しくて、見ているとそのブラックホールに心臓が吸い込まれそうだ。しかしながら、その空間は本棚の一割にも満たない、わずかなスペースだった。

「そんな程度だったのかな……」

 ひとり呟く。涙は止まらない。全身が重くて、動く気力も湧かない。床に寝転がり、バルコニーの方に視線を向ける。日に当てるために外に出してあるパキラが、さらさらと葉をなびかせていた。



 乗客のほとんどいない、休日昼のまったりとした各駅停車に私は揺られている。換気のために半分解放された窓からは、初夏の爽やかな風が吹き込んでくる。

 彼女がいなくなってからもうすぐ四年になる。いつしか世界は大きく変わっていた。妹には第二子が誕生した。母は乳がんで死んだ。私の雇用形態は派遣から正社員に昇格した。

 この間最新機種に買い替えたスマートフォンの画面が光り、新着メッセージがあると通知する。彼からだ。

 チャットを開くと、『先にホテルに着きました。両親がせっかちでごめんね。ゆっくりおいで、待ってます』という文章と、サムズアップしているキャラクターのスタンプが表示された。約束の時間まであと三十分ほどある。あまりにもせっかちだ。『あと二十分くらいで着きます』とだけ返信して、カバンにしまう。

 カバンのなかでは、パキラの写真のロック画面がひとりでに表示される。彼女の置き土産のパキラはどんどんと成長して、バルコニーのプランターでは窮屈になってきた。来月の引っ越しでこの光景ともお別れだ。

 溜息をつくと、耳元の真珠をあしらったピアスがチャリと音を立てる。今日は柄にもなくめかし込んでいる。彼にプレゼントされたブランドもののバッグに、一張羅のクリーム色のワンピース。既に靴擦れをおこしているパンプスは、今日のために新しく買った。シックなデザインに一目惚れしただけに少しショックだ。

 いい靴は素敵な場所に連れていってくれると言うが、これから行くところははたして素敵なところなのか、わからない。

 彼の両親とは初めて会う。どうやら私を純朴で可愛らしいお嬢さんだと思って、気に入っているらしい。さらに彼らは、私に両親がいないと知ると「本当の両親のように頼ってほしい」と言っていたらしい。

 彼とは三年前にお付き合いを始めた。昨年彼が部署移動するまでは直属の上司で、社内恋愛だった。彼女を失い、母を亡くして、空っぽになった私を気遣って尽くしてくれた。私は、彼に恋情を抱いてはいないと思う。もちろん人として好きではあるが、触れ合いたいとかそういう類の願望は全く生まれない。彼との関係は常に受動的で、たまに自分から行動するときでも義務感や罪悪感がその根拠になっていた。

 私の人生において今は、相対的には幸せな方だ。大丈夫、私は上手いことやっている。心の中で何回も唱える。

 拠り所をなくした私の心は、暗闇のなかを漂っている。深夜の湖のように、静かで穏やかで、そしてどこか恐ろしい。得体の知れない不安に襲われそうになって、咄嗟にカバンからボロボロになった文庫本を取り出す。彼女に返し忘れた小説だった。

 敬虔なクリスチャンの男が、数々の不幸な目にあいながらも懸命に生き抜く話だ。ときには自らの運命も、神さえも恨んで、どん底の生活を送る。それでも主人公は神を信じて何度でも立ち上がって、困難に立ち向かうのだ。

 もう何度読まれたのかもわからない、古ぼけた本の表紙をそっと撫でる。毛羽立った紙はざらざらと抵抗を生む。消しゴムをかけすぎた画用紙みたいな、不思議な懐かしさの手触りに心を落ち着かせながら、私は電車に揺られた。

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清く、正しく、美しく 川上 踏 @fumi_fumare

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