終業を知らせる軽快なチャイムが鳴る。それと同時にデスクを片付けて、帰り支度を始めた。早くあの部屋に帰りたい。彼女が私の帰りを待ちあぐねているのだ。私たちの共同生活は始まってから一か月がたとうとしている。

 共同生活の当初は彼女の精神状態がかなり不安定であった。ぼろぼろと泣き出したかと思えば、急に癇癪をおこすことなんてざらにあった。そうなると私はただ困り果てて、見ていることしかできなかった。それでも、最終的には私の腕に抱かれて彼女は落ち着いた。自分のなかに渦巻く感情を残らず出し切ったあと、空っぽになった心を焦って取り戻すように私を求めた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りながら、幼児のように私の胸にしがみつく彼女は可哀想で、それがどうしても愛おしかった。

 こんなことを繰り返しているうちに、最近はやっと彼女の調子もよくなってきた。楽しそうに家事をこなすし、読書や映画鑑賞の余裕も生まれた。

 今日の夕飯はなんだろうか。昨日のおかずはミートローフだったから、魚だろうか。食後のデザートでも買って帰ろうか。彼女が気に入っている、駅前のケーキ屋のプリンにしよう。

 九時間ほどしか別れていないのに、姿を見たい気持ちが募ってゆく。はやる気持ちを心の内に押しとどめてデスクを後にする。

「ねえ、ちょっと」

 後方から誰かに呼び止められる。振り返ると同期の派遣社員のひとりが立っていた。同期といっても私より二十歳ほど年上で、高校生の息子がいると聞いたこともある。

「えっと、なんでしょうか?」

 早く帰りたいのに。邪魔しないでほしい。その場で足踏みをしてしまいそうなくらいには、内心そわそわとしているのだ。それを感じ取ったのか、それとも私とあまり喋ったことがないからか、少し気まずそうなそぶりをされる。

「あー、金曜の送別会って参加できそう? 早めに教えてもらえないと予約できないからさ」

 そういえば、同じチームに所属する三年先輩の派遣社員が退職すると言っていた。どうやら義理の父の介護のためらしい。私が入ったばかりの頃は特によくしてもらったので、送別会には参加するべきだろう。

 しかし、どうも気乗りしない。大勢に囲まれて飲食をする酒の席というのは、私が特に苦手とするものだ。元々好きではなかったが、前職でのトラウマがそれに拍車をかけた。そのうえ今の私には彼女がいるではないか。彼女をひとり家に放置して外食などできない。

「えっと、返事は明日でも大丈夫ですか? 予定を確認したくて――」

「わかった。じゃあ明日よろしくお願いしますね」

 葛藤の末に問題を先延ばしにしてしまった。いつもならすぐ断るところだが、今回保留にしたのは送別会に参加してもいいのではないかと少しでも感じたからだ。

 私も少しずつ過去を克服しているのかもしれない。あんなにも嫌いだった酒は飲めるようになったし、例の上司なら男性でも多少はまともにかかわれるようになった。これも彼女のおかげだろうか。なんだか最近、調子がいい。

 うきうきとした気持ちでエレベーターを待つ。エレベーターホールに人がいなかったら鼻歌でも口ずさんでしまいそうだ。

「あれ、気分よさそうだね。なんかあった?」

 上司に声をかけられ、思わずびくりと体を飛び上がらせる。

「な、なんでしょうか……」

 自分が上機嫌であることを悟られた恥ずかしさで顔が熱い。隣に立つ上司は面白いものを見たときのように、ニヤニヤと笑った。

「あはは、そんなに驚かなくてもいいのに。いつもびっくりしてるよね。やっぱり俺のこと嫌い?」

「あ、いやいやそんなことないですよ。急に声をかけられたので」

「ああ、ごめんね。意地悪なこと言っちゃって。でもさ、ここのところなんか雰囲気丸くなったよね。こうやってどうでもいい話ができるくらいにはさ」

「そうでしょうか……」

「それで、なんかいいことでもあったの?」

 エレベーターに乗り込んだあとも上司は話を続ける。たいした話題もないのに話しかけてくるなんて不思議だ。鬱陶しさはあるが、男性と会話する訓練だと考えればいい練習台なのかもしれない。

「いや、特にないですけど」

 平静を装う。しかし上司は私の動揺を見逃さなかった。

「またまたー、さては彼氏かー?」

「それ、人によってはセクハラで訴えられますよ」

「うわ、ヤバ、ごめん。確かにそうだわ」

 彼は意外と人を見ていたり、部下に対しても誠実であったりするから憎めない。男性は気持ち悪くて、怖くて、深くかかわるべきではないと思っていた。優しさも下心を隠すためであって、本心からではないと。しかし、世の中にはそこまで害のない男性もいたことに、ここ半年で気づいた。性別で人を見ることはナンセンスなのかもしれない。

 そうは言っても、あの上司はグイグイ来るので接し方に困ることはよくある。今、そうであるように。

「いやぁ、今年も湿気がヤバイね。ジメジメするわぁ」

 会社の最寄りの駅に着くまで話し続けるつもりだろうか。なかなか話が終わらない。同じ話題でも彼女となら楽しいはずなのに。どこか居心地が悪い。

 結局、駅に着くまで上司のどうでもいい話を聞き続けた。不快な話題はなくとも、特別楽しい瞬間もなかった。

 しかし、これは私にとってきっと大きな進歩なのだ。彼女と知り合う前は、男性とこんなに長時間、ふたりで会話することなどできなかった。今日は祝杯だ。きっと彼女も喜ぶだろう。私たちは確実にいい方へと歩んでいる。暗いトンネルでも、出口には着実に近づいているのだ。



 アパートのドアを開けると、部屋着姿の彼女がキッチンから顔を覗かせる。

「おかえり、ご飯できてるよ」

「ありがとう。今日はなんですか?」

「鮭をムニエルにしてみました。いつも普通の焼き魚じゃ味気ないかなって思って」

「お、魚だ。予想的中。デザートに駅前のプリンを買ってきましたよ」

「わぁ、やった。冷やしておくね」

 彼女は軽い足取りでキッチンとテーブルを往復して食事の準備をする。夕方にシャワーを浴びたのか、シャンプーがふわりと香る。私と同じものを使っているはずなのに、彼女のポニーテールは私よりもずっとサラサラと軽やかになびく。

 この共同生活での家事は彼女が担当する、というルールを彼女は自らに課した。彼女は特に料理が上手で、私に毎日温かな食事を用意してくれる。

 部屋着に着替えてからテーブルに戻ると、そこにはスープやサラダ、洒落たおつまみなど何品もの料理が並んでいた。

「こんなに沢山。いつもありがとうございます」

「うん。なんか今日はかなり調子がよくて頑張ってみたの」

 彼女はプレゼントを開封する子供のように、浮かれた様子で白ワインの栓を抜いた。そして私の目を見てにこりと笑ったあと、ふたつのグラスに注ぐ。スーパーで安売りしていたワインでも彼女は嬉しそうに飲む。まるで砂漠で見つけたオアシスの水を飲むように、この上なく美味しそうにするのだ。

 私もちびりとワインを口にしたあと、料理に手をつけた。

「うん、美味しい。料理、本当に上手ですよね。私も練習しないと」

「えへへ、そう? 女なら料理はできて当たり前だ、っていう親の方針でかなり仕込まれたからね。今度一緒に作ろうね」

 私の顔を見ながら、うっとりと目を細める。つられてこちらも頬が緩む。

「なんか今日はご機嫌だね。もう酔った?」

「え、そうかな? そういえば上司にもそんなこと言われたかも」

 ふたりとも私の上機嫌をすぐに見抜いた。自分は気分が表情に出やすい方ではないと思う。きっと上司も彼女も鋭い人間なのだろう。

「例の男上司? 最近仲いいね」

 そう言うと彼女はグラスに残ったワインを一気に飲み、ボトルから注ぎ足した。

「うーん……やっと女の人と同じくらいには話せるようになってきたかな………あっ、そうだ。今週の金曜に先輩の送別会があるんですけど、私行っても大丈夫だと思います?」

「送別会? それって飲み会でしょ?」

「うん。お酒は飲めるようになったし、男の人も慣れてきた気がして……だから、送別会に出てみようかなって思ってます。どう、でしょうか?」

「うん……まあ、いいと思うよ」

 彼女はワイングラスを傾けて、ぼんやりと見ている。表情はどこか不満げだった。

「そうだ、今日は何をしてました?」

 さっきの話題は彼女の機嫌を損ねてしまうような気がして、慌てて話を変えた。

「今日は少しだけ本を読んだかな。そろそろ今読んでる本も終わりそうなの」

 彼女は本をネットで注文して読むようになった。私の本棚の一画は、彼女の本が占めている。元教師なだけあって、読書や勉強は好きなようだった。

「この前アパートから取ってきた本が早く読みたくて。今読んでるミステリーも面白いけどね」

 彼女が元々住んでいたアパートは引き払われずに、彼女の物置として存在している。時折彼女はアパートに必要なものを取りに戻るのだ。

「へえ、ミステリーか。ここ何年か、ほとんど本とか読んでないんですよね」

「読みやすくて面白い本でも貸そうか? 感想の共有とかしてみたかったんだよね」

 社会人になってからは、忙しかったり気分が乗らなかったりして読書から遠ざかっていた。共通の話題もできるし、久しぶりにゆっくり本を読むのもいいかもしれない。

「じゃあ、あとで借りようかな」

「わかった、おすすめを揃えとく」

 今日一番の笑顔を向けられる。美しく、可憐で、愛おしくて、胸がいっぱいになった。目頭が熱くなったのは、きっとワインを飲んだからだ。

 食後、彼女は小説を三冊貸してくれた。そのうちの二冊は有名な小説家のミステリーと短編集だった。残りの一冊は聞いたことのない作家の分厚い単行本で、何回も読んだのか表紙がボロボロだった。

 退勤後に買って帰ったプリンを食べながら、彼女は「そのボロボロの本は私の一番好きな小説なの」と教えてくれた。裏表紙のあらすじを読む限りだと、男が幾度となく不幸な出来事に見舞われながらも懸命に生き抜く物語のようだった。

 感動的な、泣けるストーリーなのだろうが、私はどうもその手の物語は苦手だった。結局はフィクションであり、現実はそんなに都合のいいものではない。読者を泣かせるためにデフォルメされた現実なんて、気味が悪い。そうやって読んでいるうちから、どうしても冷めてしまうのだ。彼女が薦めてくれた本だからきっと私も気に入るはずだ、そう自分に信じ込ませた。それでもやはり気が進まず、読むのは後回しにした。

 布団に入る前の三十分で借りた短編集をさっそく読む。彼女の言う通り読みやすく、あっさりと一つめのストーリーを読み終えた。

 眠そうな目をした彼女がベッドから私を呼ぶ。

「まだ寝ないの? 明日も仕事でしょ」

「あ、ごめんなさい」

「ううん、大丈夫。でも、やっぱり一人じゃあんまり眠れなくて」

 彼女は一人きりでは眠れなかった。共同生活を始めてから毎日私たちは同じベッドで眠った。以前は手を握らないと眠れない日もあったが、最近はやっと私に触れていなくとも眠れるようになった。

 彼女と同じベッドに入る。私たちは掛け布団の中で向かい合い、視線を合わせる。

「おやすみ」

 眠そうにそう言って私の頭をなでた後、彼女は静かに眠りについた。その寝顔は、死んでしまったのかと錯覚するくらい安らかだ。とても心身ともに消耗しているようには見えない。しかし確実に、彼女は一生治ることのない傷を負っているのだ。

 私と出会う前の彼女はどうやって生活していたのだろう。苦しみにあえぎ、その場しのぎの快楽を求めて、ギリギリを生きていたのだろうか。

 一か月前の彼女は憔悴しきっていた。急にパニックになるし、心と体はちぐはぐだし、自暴自棄だった。それはきっと私も同じだ。小さなきっかけで取り繕っていたものは全て崩れ去るし、頭ではわかっていても体が言うことを聞かなかった。私たちは文字通りどん底であった。

 でも今は違う。明けない夜はない。互いに手を取り合って、何とかいい方へと向かっている。一歩でも、一ミリでも、出口へと近づいているはずなのだ。


 朝から彼女は機嫌が悪い。理由はわかっている。私が終業後、同僚の送別会に参加するからだ。

「なるべく早く帰ってきます。少し顔を出す程度ですからね」

「わかってる。私にかまわないで楽しんできて」

 そう言う彼女の口調はどう考えても怒っているようにしか聞こえない。彼女は私の向かいの椅子に座ると、食パンを大きな口でむしゃむしゃと咀嚼する。それを野菜スープで流し込むと、大きく息を吐いた。

「ごめんね。これって嫉妬なのかな。苦手なことを克服しようと頑張ってるのを間近で見て、私も何かしなきゃ、って焦ってるのかも。それにね、私を置き去りにして他人に取られちゃうみたいで寂しいし」

 彼女はぎこちなく笑顔をつくる。わずかに上がった口角と、虚しさを孕んだ瞳がやけに寂しくて、胸が締め付けられた。そうだ。彼女には私がいなくてはダメじゃないか。彼女以上に優先すべきことなんてなかったはずだ。これでは彼女の言う通り、彼女を置き去りにして自分だけ抜け駆けしてしまう。

「……やっぱり、今日は行くのやめようかと思います」

 彼女は伏せていた視線を上げて、私を上目遣いで見つめる。まだ起きて一時間も経っていないのに、彼女の美しさは完成されていた。眉も口角もすっかり下がった彼女は、首を横に振った。

「いや、行って。皆に迷惑かけちゃうから。私は束縛したいわけじゃないし、いい加減自立しなきゃね」

 彼女は自分の頬をパチンと叩く。

「ほら、もう時間じゃないの? 遅刻するよ」

 私は追い出されるようにして家を出た。ラッシュを避けるためにいつも早い時間帯に通勤しているが、今日は普段より二本早い電車に乗れた。

 送別会に出るなんて言わなきゃ良かった。猛烈に後悔した。



「あれ、参加するの? 珍しいね。初めてじゃない?」

 会場となる居酒屋に向かうためにエレベーターホールに集まっていると、私を見た上司が驚いたように言う。

「ええ、まあ。お世話になっていたので送別会には参加したくて」

「へぇー、それにしてもレアだね。なんでいつも来ないの? お酒苦手とか?」

「そんなところです」

「え、全く飲めないの? お酒弱い?」

 全く飲みの席に参加していなかった私に興味津々なようで、上司は私を質問攻めにする。さらに、しらふかと疑うくらいテンションが高いときた。それは居酒屋に移動している間も続き、私はそのせいですっかり疲れてしまった。

 乾杯を済ませると、予め決められたコースの料理が次々に運ばれた。こういうときは年下の私が率先して取り分けた方がいいのだろう。新卒時代を思い出し、気の利かないヤツだと思われないように努める。

「私、取り分けますよ」

「グラス空きそうですね。次は何頼みますか?」

 十人もいない飲み会だが、あちらこちらを気にかけているせいで全く気が休まらない。酒が回ってくると、同僚たちの夫に対する愚痴は盛り上がりをみせる。これは帰れるまで長くなりそうだ。

 まっすぐ家に帰っていたら、今頃は彼女の作った温かくて美味しい料理を食べているはずなのに。こんな騒がしくて疲れるところではなく、楽しくて心休まる彼女のもとに帰りたい。

 ふと顔を上げると、斜め向かいに座っている上司が手を招いていた。立ち上がって、近くまで寄る。

「どうしました?」

「そんなに気を使わなくていいよ。あの人たち放っておいても勝手に楽しんでるからさ」

 上司は私だけに聞こえるように耳打ちした。

「え、でも――」

「大丈夫、大丈夫。毎週飲みに誘われてる俺が言ってるんだから。あと、そっちの席うるさくない? こっちの方が静かだから代わるよ」

 上司はやはり周りを良く見ている。こういうところは頼れるし、気が利くのだ。席を移ると、上司は私の向かいに座った。

「いやあ、参ったね。あの人たち完全に酔ってるよ。お前は早く結婚しないのか、ってうるさくてね」

「大変ですね。私もさっき、彼氏はいないのかと問い詰められました」

「そもそもさ、結婚が人生の全てじゃないんだからそれにこだわらなくてもいいじゃん、って思うんだよね。幸せなんて人それぞれなんだから」

 それを聞いてはっとする。私も近頃はずっと思っていたことだ。妹の結婚式以来、結婚という明確で絶対的な幸福への憧れが強くなっていた。そんななかで、結婚以外の幸せを教えてくれたのは彼女であった。そして上司はそれに改めて気付かせてくれたのだった。

 上司はくたびれたように自らの後頭部を掻き、「あーあ」と気の抜けたように呟く。

「酔っぱらいのノリにしらふで付き合うのって苦痛だよなー」

「あれ、お酒飲んでましたよね? その割には酔ってませんね」

「あー、俺さ、お酒かなり強いんだよね。ほとんど酔わないの」

 それを聞いて、なんとなく上司を彼女に重ねた。彼女もほとんど酔わない。酔っても饒舌になるだけで、愚痴を吐いたり暴れたりはしない。そこが酒嫌いだった私にとって、とても魅力的に見えのだ。

「へえ、それって素敵ですね……」

 思わず口からこぼれた。上司は驚きから目を丸くして、吹き出すように笑った。

「あはははは……なにそれ、そんなことで褒めてくれるの? やっぱさ、面白いね」

 笑われた。恥ずかしい。恥ずかしさで今すぐに切腹でもしたいくらいだ。男の人に素敵なんて今まで一度も思ったことがなかった。それなのにこんな酒の席で、しかも本人を前にして口に出してしまうとは。周りの騒がしさでかき消されれば良かったのに。きっと居酒屋のガヤガヤとした非日常の空気にあてられたせいだ。顔も、耳のふちまでもがじりじりと焼けるように熱い。

「あの、そういうことじゃなくて……そのごめんなさい。お酒強い人ってすごいなって思って」

「いやぁ、こちらこそ笑ってごめん。やっぱりお酒苦手なの?」

「まあ、そうですね。なんていうか……酔った人が苦手で」

「ああ、そうだったのか。今は? 大丈夫?」

「大丈夫です。お気遣いなく」

 屈託なく、「なんかあったらすぐ言ってね」と笑いかけられる。やはり上司はいい男の人だ。いや、いい人なのだ。

 ずっと男性というだけで多くの人を避けてきた。男性とかかわるときっと危害を加えられる。男性は怖い。決してすべての男性がそれに当てはまるわけではない。そんなことはわかっている。しかし、わかるとできるは別だ。さびついた固定観念が私の枷となっていた。

 上司の存在は私のなかのパラダイムシフトを引き起こす鍵なのかもしれない。大袈裟かもしれないが、実際上司は私のなかの男性像を覆しつつあるのだ。



 当駅始発の電車で座席を確保し、発車時刻が近づくにつれて混雑していく車内で、彼女に借りたミステリーを読む。しかし、目は文字を追っていても頭のなかは別のことでいっぱいだ。それは例の上司のことだった。

 同僚の送別会は九時頃にお開きとなった。その頃には送別会は、酔った同僚の派遣社員たちによって夫の愚痴大会へと変化していた。二次会に参加しない私は、解散になってから足早に帰路についた。一人で私を待ちあぐねているであろう彼女を思うと自然と早歩きになった。

「駅まで一緒にいいかな?」

 声をかけてきたのは上司だった。彼への警戒が徐々に解かれているとはいえ、急いでいる私にとってはあまり嬉しい誘いではなかった。

「あ、ごめんね。急いでる?」

 少し困ったように笑う彼は、どうしても悪い人には見えなかった。そして、そんな上司に対してどうしてか興味が湧いてくる。彼女に会いたくてはやる気持ちは、だんだん好奇心によって隅に追いやられていった。

 ごめんなさい。心の中で小さく彼女に謝ってから上司に視線を向ける。

「あの、駅までご一緒します」

「いいの? 気を使わせちゃって悪いね」

 さりげなく上司は車道側に位置取る。飲み屋が立ち並ぶ繁華街は人通りが多くてにぎやかだ。酔っぱらいたちのざわざわとした喧騒と看板やネオンの明かりが不思議と心地よい。歩きながら雰囲気に酔い、うっとりとまばたきをする。

「あ、あのさぁ……」

 上司がゆっくりと切り出す。横を見るが、彼は手を後頭部に当てているせいで顔が隠れていて表情はわからない。

「なんでしょうか?」

 心当たりがなくて、おそるおそる返事をする。思う通りに口が開かない。

「あの、また今度、メシでもどうかな?」

 まず思ったのは、ご飯のことをメシと呼ぶのか、ということ。その次に、私が食事に誘われているということを理解した。

「えっと……食事ですか」

 露骨に嫌がっている反応をしてしまう。

「うわ、ごめん。やっぱりナシで。嫌ならいいんだ。本当にごめんね」

 上司は焦ったように早口で喋る。無理強いはせずに、すぐ謝ってくる。そんな上司がどこかいじらしい。私はいつの間にこんな感情を抱けるようになったのか。今までの私ならすぐに食事の誘いを断っただろう。でも今は違う。男性嫌いを克服する兆しは見え、その鍵となりそうな上司が私を食事に誘っている。これはチャンスではないだろうか。

 普通の幸せを、絶対的な幸福を求めていた。もちろん彼女がいればそれでいいとも思う。でも、彼女とは結婚できない。この好機を逃したら次の機会はおろか、過去を克服することもできないかもしれない。

 両手をぎゅっと組み、祈るようにきつく指に力をこめる。フル回転する頭と、激しく波打つ心臓をなんとか鎮めて、慎重に口を開く。

「いいですよ。今度、行きましょう」

 驚いたように目を見開く。そんな上司を見て、なんとなく彼女を思い出す。彼女も驚くと大きくてよく動く目を、こぼれてしまいそうなほどに見開くのだ。

 視線に気づかれ、目が合うとにこりと笑いかけられる。私は照れ臭いような気がして目をそらした。そうしたのは彼女への後ろめたさのせいだったのかもしれない。

 そんなことを思い返しながら、文字の羅列を目で追う。いつの間にか電車は動き出していた。きっとアパートに着くのは十時頃だろう。彼女は大丈夫だろうか。

 小説の最後のページをめくる。賞を獲得した作品なだけあって面白かった、ような気がする。しかし、もう作中のトリックも結末もどうでもよかった。

 意外と気が利いて、優しくて、裏のなさそうな上司。そんな彼とお付き合いする人はきっと幸せなのだろう。ふとそんなことが思い浮かんだ。我ながらそんなことを考えるなんて、いつもの自分じゃないみたいで恥ずかしい。上司とのことは思い出さないようにしよう、そう心の中で繰り返し唱えた。



 九時半を過ぎる頃に帰宅すると、彼女はベッドのなかからリビングのテレビを見ていた。

「おかえりなさい。遅かったね」

 視線だけをこちらに向けて、何ともないように彼女は言う。しかし、彼女の目元はわずかに赤く腫れていた。私が遅く帰ったことに腹を立てているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。いずれにせよ彼女の機嫌が最悪なのは明白で、呑気に上司と会話していた一時間くらい前の自分を恨んだ。

 おずおずとベッドの方に近づく。

「ただいま帰りました。ごめんなさい遅くなって……」

 布団から覗く、美しくて、可愛らしくて、弱々しい彼女の横顔が私の罪悪感をさらに大きなものにしていく。後悔と寂しさが私の胸を占めて、かきむしりたくなるほどだ。

「あの、一人で大丈夫でした?」

「うん。なんにもなかったよ。大丈夫」

「そうですか」

 私たちが黙るとバラエティー番組の大げさな笑い声だけが部屋に響いた。息苦しくて、気まずくて、後ろ手でドアを閉めて脱衣所に逃げ込む。化粧を落としてから寝間着に着替えると、思考が少しだけまとまってくる。

 確かに遅くまで彼女をひとりにしたのは悪かった。しかし、彼女も大人だ。自分の機嫌くらい自分で何とかするべきだ。以前なら寂しかったと私の前で大泣きしていたはずの彼女だが、今日はそれをこらえていた。もう精神的な安定を取り戻しつつある彼女を、そこまで気にする必要はないのではないか。そう思うとわずかに胸のつかえがとれたように感じた。

 ゆっくり脱衣所のドアを開けてベッドの方を覗くと、彼女はさっきよりも虫の居所が悪そうな様子だ。うつぶせになり、頬杖をついてふてくされたような顔をしている。なるべく彼女を刺激しないように気をつけながらそろそろとキッチンに向かい、冷蔵庫の缶チューハイを取り出す。

「お酒、飲まなかったの?」

 彼女はぶっきらぼうに尋ねる。私はまさか話しかけられるとは思っていなくて、驚いてベッドの方に視線をやった。彼女は私の視線にすぐ気づくと、ふいっと顔を背けた。拗ねた子供のようだ。

「まだ外で酔うのには抵抗があったから飲まなかったんですよ。それに……早く帰りたかったので」

 探りを入れるように話す。彼女は動かない。様子をうかがっているのを悟られないように、私は椅子に座ってチューハイを開けた。喉の渇きを癒すように、ごくごくと一気に飲む。

「ねえ、今日はどうだった? 楽しかった? それとも辛かった?」

 話しながら私の方を向いたかと思うとベッドから抜け出し、テレビドラマの取り調べシーンのような険しい雰囲気で、私の向かいの椅子に座った。

 思ったより楽しかった。そう答えてもいいのだろうか。彼女を差し置いて、ひとりで楽しい思いをしてしまった私は彼女に怒られて、嫌われるだろうか。

 彼女にじっと見つめられる。その真っ黒な瞳が私を丸裸にして、全てを見透かしているのではないかと錯覚する。心に再び湧き上がる罪悪感は、内にしまい込んだはずの上司のことまでも引きずり出してくる。考えないようにと意識を向けるが、そのせいで自分がいかに後ろめたさを抱いているのかがありありと見えてくる。

 私の焦りや緊張を読み取ったのか、彼女は諦めたように溜息をつく。

「ごめん。責める気はないの。私はただの居候だし束縛する気もない。でもね、あのさ、お酒も男の人も、ちゃんと克服したんじゃない?」

 予想外の質問だ。苦手意識は薄れてきている、という話は以前からしていた。しかし彼女が、ここまで確信を持って私が克服していると勘づいているとは。

「うん、どうだろう……良くはなったのかな」

 婉曲に伝える。彼女は今朝、自分だけが置いてきぼりにされることを嫌がっていた。決してそのつもりはないことをわかってもらわなくてはいけなかった。

「誤魔化さなくてもいいのに。頑張って克服して本当に凄いよ。私も嬉しい」

 感情のない目をしていた。彼女にこんな顔をさせてしまった自分が情けない。

「ごめんなさい」

 小さく謝る。彼女は首を横に振った。

「謝らないで。責めてるんじゃなくて、自己嫌悪だから。私、嫉妬してばっかりだ。それにね、今日は甘えないで頑張ろうと思ってたの。でもね、ひとりでご飯を食べながら、無性に寂しくて泣きたくなった。部屋にはテレビの音しかなくて、話し相手もいなくて、ご飯は全部もどしちゃった。頼ってばっかりじゃダメなのに――」

 そこまで言うと、下唇を噛んで押し黙った。涙をこらえるように、大きな目がさらに大きく開かれていた。

「ダメじゃないです。十分頑張ってますよ。この一か月でかなりよくなったじゃないですか」

 声を張って訴える。

「そうかな? 今だって、寂しがって優しい言葉を待ってた。迷惑ばっかりかけて私はなんにも変われない」

「ゆっくりでもいいんです。急ぐ必要なんでないですよ。私は置いてきぼりになんてしないで、ずっと付き合いますから」

「うん、そっか。ありがとうね」

 妙にあっさり話を切り上げられる。無理に作ったような笑顔を見せて、彼女はまた布団のなかに戻った。

「ねえ、本読んだ?」

 布団から声がする。

「ええ、短編集とミステリーは読み終えました。あとで本棚に返しておきますね」

「どう、だった?」

「面白かったですよ。ミステリーの方は、トリックが凄かったですね」

「うん、トリックね……」

 彼女が黙ってからしばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。見ると、ベッドの右側で、小さく丸まって眠りに落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る