不快な電話の音で私は目を覚ました。仕事から帰って晩酌をしていたが、いつの間にかテレビを観ながら寝ていたようだ。頭が重い。テーブルには食器と、飲みかけの缶チューハイが出しっぱなしになっている。

 仕事用のカバンからはみ出しているスマートフォンは、なかなか鳴りやまない。のそのそと体を起こし画面を見て、私はぎょっとした。電話は彼女からだった。さらに二件の不在着信も来ている。確かに彼女とは電話番号も交換していた。しかし、私が電話嫌いなことからお互い通話はしないはずだった。

 なにより彼女からの連絡は十一月以来、実に半年ぶりだった。おそるおそる彼女からの電話に出る。

「あの、もしもし?」

『あ……私です。その、久しぶり』

「えっと、お久しぶりです」

 ぎこちなくしゃべる。混乱で声が震える。

『あのさ……今から、会えないかな。駅まで来てるんだよね』

 私は思わず、えっ、と声をあげた。時計を見ると今は二十三時。こんな時間に突然会いたいと言われても困る。久々に連絡してきて会いたいだなんて。それはあまりにも自分勝手ではないか。それになぜ急に会いたがるのだろうか。寝起きの重い頭を必死に動かす。

「今から? 私もう寝るつもりで……明日以降じゃダメなんですか?」

『ごっ、ごめんなさい……でも、どうしても会いたくて、一目見るだけでもいいから……一瞬でいいの。住所教えてくれれば家まで行くから』

 彼女の訴えは切実だった。しかしこんな夜更けに突然だなんて、正直いい迷惑だ。

「そうは言っても、こんなに遅いですし。家に来られても困ります」

『そう、そうだよね……ほ、本当にごめんなさい。また、連絡します……』

 電話越しの彼女の声は、弱々しくて覇気がなかった。ふっと消えてしまいそうな気がして、そんな彼女が心配になった。なにかあったのだろうか。なぜメールが来なくなったのか。なぜ。どうして―――。彼女への疑問はどんどん湧いてくる。苛立ちと訝しさと興味と心配と。様々な感情が混ざっている。

「あの、どうしたんですか? なにかあったんですか? 急に連絡も来なくなって」

 はやる気持ちを抑えて、なるべく慎重に問いかける。

『うん、たいしたことはないの……でもね、ずっと……私、ぐちゃぐちゃで………』

 電話の向こう側で彼女が静かに泣き出す。私は動揺し、手からスマートフォンを落としそうになった。やはりなにかあったのだろうか。私がいけないことでも聞いてしまったのか。なんとか泣き止ませようと努めるが、電話では彼女の様子がよくわからない。結局、私は観念した。

「わかりました……じゃあ、駅まで迎えに行きますから。待っててくださいね」

 彼女の手のひらの上で自分が転がされているようで少し不服だが、深夜に、しかも号泣している彼女を放置するのは心が痛む。

 駅まで走って向かい、駅の木製のベンチに小さく腰掛けている彼女を見つけた。私が来るまでに落ち着いたのだろうか、既に泣きやんでいる。初めて会ったときと同じ白いワンピースに、暗い色のジャケットを羽織っていた。街灯の下でワンピースが青白く光っている。以前会ったときとは少し雰囲気が変わったように見えた。

 この時間に営業している店などなく、とりあえずタクシーをつかまえると彼女を家へ連れて行く。タクシーの中で彼女はしおらしく謝った。私も彼女もそれっきり無言で車に揺られた。暗い車内で、彼女は闇に紛れて消えそうだ。

 五月になったとはいえ、まだ夜は少し冷える。軽く触れた彼女の手はひんやりとしていた。



 このワンルームに家族以外をあげるのは初めてだ。寒い外で待たせるのも悪いので、片付けていない部屋にそのまま招いた。元々物は少ないのでそこまで雑然とはしていないが、テーブルの上は食器が出しっぱなしだ。

「ごめんなさい汚くて。すぐ片しますね。飲み物は紅茶でいいですか?」

「うん……押しかけてごめんなさい」

 彼女は憔悴しきった顔だった。決して美しさが褪せたわけではない。しかし、以前のようなきらきらとした、華やかさはなかった。ノーメイクで、泣きはらした目元は隈も酷い。瞳は曇ったガラス玉のようだ。髪は艶もなく、乱れている。

 椅子に座った彼女は、私がテーブルを片付けるのをぼうっと眺めている。

「あれ、お酒飲むようになったの?」

 彼女は缶チューハイを指さす。爪も色艶が悪い。

 私は冬あたりから不眠になっていた。そのせいで寝酒が習慣になったのだ。新卒時代からあんなに酒が苦手だったのに、もう酒なしでは眠れなくなってきている。飲酒に感じていた後ろめたさはもうなかった。

「あ、お酒……そうですね、最近はそんな感じです」

「そっか……」

 彼女は俯き、静かに相槌を打つ。それから、固く唇を結んで黙り続けた。私がお湯を沸かしている間は重い沈黙が部屋を占拠していた。数分後に出来上がった紅茶を手にしてテーブルの向かいにつくと、ようやく彼女は口を開いた。

「あのね、今日はどうしても会いたかったの。本当はずっと連絡するつもりだったし、お、お買い物にも誘おうと思ってた」

 私はどう反応していいかわからずに、ただマグカップの中を見つめていた。紅茶からはゆらゆらと湯気がたっている。

「私はね……穢れているの。このままだとあなたまで穢しちゃうと思って。本当は、やめられたら会うつもりだったんだけど」

 彼女の声が震える。マグカップを持つ彼女の手も小さく震えていた。

「私が友達になろう、って言ったのはね、ただ仲良くしたかっただけじゃないの。純粋で、綺麗で、清い、から……仲良くしようとしたの」

 穢れている。綺麗。清い。どういうことだ。一体、なんの話をしているのか。私なんかより彼女の方が、清らかで綺麗で、何より美しいだろう。

「私も綺麗になりたくて、あなたを、穢したくなくて、なんとか頑張ったの」

 彼女の話は要領を得ない。点と点が示されてもそれが線で繋がらない。全貌も見えてこない。

「あの、つまりどういうことでしょうか……」

 私は思わず首をかしげる。すると、彼女は少しずつ、しかし確実に言葉を発する。

「私はね………お、男の人と……その、いわゆる、援助交際、がやめられないの」

 心臓に重りがついたようにズシン、と苦しくなった。声も出ない。そんな、そんなことをしていたのか。よりによって彼女が。悔しくて、ショックで、信じられない。これまで私が見ていたのは彼女の虚像だったのだろうか。

「ごめんなさい。こんなこと急に言われても困るよね……でも、話させてほしい。嫌われてもいいから。話させてください」

 彼女が必死に涙をこらえているのがわかる。唇をぎゅっと噛み締め、歪む視界をなんとか保とうとまばたきをしている。

「……わかりました。聞きます」

 なんとか言葉を絞り出す。もう後戻りできないところまで来ている。

  彼女と目が合う。覚悟と恐怖が混在している瞳だ。今はなんとか心のバランスを保っているのだろうが、ぐらぐらとしていて、少しの衝撃で崩れてしまいそうなくらいには不安定に見える。

 ゆっくりとまばたきをした後、彼女は息を吐く。長いまつげの間から現れる瞳は、部屋の電気を受けて光っていた。こんなときでも私は、彼女の一挙手一投足に釘付けとなっていた。

 ついに意を決したように、彼女は沈黙を破る。

「私は穢いの。いろんな男の人と関係を持ってるから。出会うずっと前から……ずっと。あなたと二回目に会ったあと、私は思ったの。こんなに綺麗な人がいたなんて、って。それで、一緒にいれば私も綺麗になるんじゃないかな、って思って……また誘ったの。そんなはずはないのにね」

 彼女は自嘲するように笑った。それでも声は涙混じりだ。彼女の発言に対して思うことはいくらでもある。今までそんなことをしていたのか。私を利用していたのか。私を騙していたのか。しかし、私はそれらを口にするのをぐっとこらえた。彼女が苦しみながらも、自分のことを話してくれているのだ。邪魔はできない。彼女の話を黙って聞こうと決めた。かつて彼女がそうしてくれたように。

 彼女はなんとか続ける。

「でもね、私だって好きでやっていたわけじゃないの。できればこんなことしたくなかった。それでね、友達になった後、次に会うまでに絶対にやめようと思ってたの。男の人にベタベタ触ってる私じゃ、あなたを穢しちゃうって思って」

 マグカップに添えられた彼女の指は、ツルツルとした陶器を握り潰してしまいそうなくらい、力が込められていた。

「はじめは頑張ってた、と思う。せっかくできた友達だから。きっと知り合えたのは運命だって。駅のホームで出会ったとき、私ね、男の人のところに行くつもりだったの。でも、その日はあなたに会って行くのをやめた。それ以降も、何とか自分を奮い立たせて、我慢してた。でも、やめられなかった。誰かに穢されたくて、上書きされたくて、気が狂いそうだった。それで、結局やめられなかった」

 犯した罪を自白するかのようだ。彼女は自分の痛みをごまかすように、なんとかして淡々と話そうとしている。それが、私にとってはかえって痛々しく感じられた。

「あのね、私、高校生の時に、その……レイプ、されちゃって。それからなの」

 ずっと苦しかった胸が、一瞬にしてさらに苦しくなる。心臓がえぐられたように痛む。思わず服の上から胸元をぎゅっと掴んだ。彼女はそんな私を見て、悲しそうに眉の端を下げた。

「そんな顔しないでよ……もう昔の話だし、きっかけはなんだとしても、たくさん男の人に抱かれる私は、ずっと穢いの」

 こんな彼女は見たくなかった。諦めたように、淋しく笑う。虚しく、哀れで、可哀想なのに、なぜか綺麗で美しい。今までどこにその苦しみを隠していたのか。私の過去の出来事を聞いていたあの夜、どんな気持ちでいたのだろうか。

「なんでやめられないんだろうね? 私もよくわからないの。はじめは上書きとか、忘れたいとかそんな理由で抱かれてた。でも、だんだん強迫観念みたいになってきたのかな。自分が誰かに抱かれてないと、高校生の頃のことを思い出しちゃって、頭がおかしくなりそうなの。意味わかんないよね。軽蔑したでしょ?」

 急に尋ねられた。なにか言わなければ。理解を示すべきか、怒るべきか、同情すべきか。耳ざわりのいいことを捻り出してもぼろが出るだろう。だったら、本心をなんとかして伝えたい。私は彼女と理解し合いたい。放ってはおけない。ひどく喉が渇く。それでも私は口を動かした。

「……正直、ショックでした。そんなことしてるなんて予想外だし、仲良くしてくれてたのも裏があったみたいだし。でも……でも、知れたのは良かったかもしれない……不思議に思ってたことも解決したし、私に優しくしてくれた理由もわかる気がするから」

 頭をフル回転させて、思いを拙い言葉に託す。手のひらにはじっとり汗をかいた。目は合わせられずに、彼女の耳元に視線を向ける。以前あったピアスの穴は塞がっていた。

「本当に、ごめんなさい。もう私とは絶交してくれてかまわないから。でも、最後に会いたくて……会えばこの気持ちも和らぐような気がしたの。穢れた私は会う資格がない、って思ったから何回も諦めたの。でも、耐えきれなかった。それで今日は……その、気がついたら線路沿いに歩いて近くまで来てたの」

 もちろん、私の秘密を知って利用していたことに腹が立たないわけではない。しかし、そんな一過性の怒りはすぐに引いていった。そんなことより、私に助けを求めて必要としてくれたことが重要だった。もしかしたら私は、彼女の苦しみを緩和してあげられるのかもしれない。彼女が私を助けたように、私も彼女を助けたい。そう思うくらいには、救世主であった彼女は私にとって大きな存在だった。

「……あの、私、お役に立てないでしょうか? 私は軽蔑なんてしませんし、穢れているなんて思いません。あなたは私を助けてくれた綺麗で、正義感があって、美しい人です。初めて男の人が苦手なことを話せた人ですし、初めての友達です。絶交なんて、できません」

「い、いいの? だって……私、男の人と寝るのをやめられなかったし、気持ち悪いし、穢いし――」

「いいんです。もういいんです。わかりましたから。私にとっては瑣末なことです。だからまた、私と会ってください。メールだってしてくださいよ」

 願うように伝えた。私は必死だった。彼女は「そっかぁ」と小さく呟くと俯いた。それから、テーブルにぽたぽたと水溜りをつくった。緊張が解けて、私も深呼吸をした。紅茶を口にしたが、冷めていて味がよくわからなかった。時計を見ると二十五時を過ぎていた。

「あの、泊っていきます? もうこんな時間ですし」

 彼女はぽろぽろと涙を流しながら「じゃあお言葉に甘えて」と言った。



 私はベッドのなかでぼんやり考えた。彼女のことだ。当の彼女は私のすぐ隣で、すうすうと寝息を立てている。客用の布団がないために私が床で寝ると知った彼女は、一人ではどうも眠れないので一緒にベッドで寝てほしいと私に頼んだ。同じベッドに人がいることはあまりにも特殊な状況で、全く脳が休まらない。昔は妹と同じ布団で寝ていたこともあったが、それとは似ても似つかない状況だ。シングルベッドの上に、彼女とふたり。彼女と出会ったばかりの私が知ったら卒倒するだろう。

 彼女の小さな背中は、頼りなくて、今にも壊れてしまいそうだ。きっと彼女の苦しみは私が推し量れるようなものではない。身の毛がよだつほどの恐怖、嫌悪、寂しさ―――私の知りえない多くの感情と戦っていたのだ。

 後ろから抱きしめてしまいたいほどの悲しさに襲われる。どうすれば彼女を救えるのだろう。彼女は、過去の出来事に捕らわれて、がんじがらめになっている。それは私も同じではないか。

 脱出しよう。暗い、闇の底から。ふたりで手を取り合って。私たちは普通の、当たり前の幸せを手に入れるのだ。それとも、私たちは互いに傷を舐めあうことしかできないのだろうか。助けの来ないふたりだけの島で、絶望と束の間の喜びを繰り返して死を待つだけなのだろうか。

 西向きの窓からは白い月明かりが差し込んで、彼女の背中を冷たく照らしている。私は一筋の涙を流すと、浅い眠りについた。



 六時半を知らせる目覚まし時計が鳴る。アラームの響きはいつも、一瞬にして私を不快にさせる。しかし、今日は違った。寝ぼけまなこで右を見ると、そこには彼女が横たわっていて、窓から漏れる朝の光に目を細めていた。けたたましいアラームで彼女も目が覚めたようで、眠そうに目をこすりながら「おはよう」と微笑んだ。睡眠時間は短くとも、いい目覚めだ。

 上半身を起こして目覚まし時計を止めると、うつ伏せになった彼女は何か言いたげな様子でこちらを見つめている。上目遣いで右側の頬を小さく膨らませている彼女は、幼い少女のように見えた。

「目覚まし、うるさかったですね。まだ寝ていてもいいですよ」

「うん、そうじゃなくて……」

 彼女の声は少し掠れていた。寝起きのふんわりとした喋り方はとてつもなく可愛らしく感じた。

「そうじゃなくて、今日は仕事だよね」

「平日ですから、仕事ですけど……」

 彼女がしゅんとしていくのがわかった。もう辛い思いをさせたくはない。そのためならできることはなんでもしたかった。今まで無遅刻無欠勤で、社会人生活においてはサボりとは無縁だった。だが、彼女の寂しそうな表情を見た瞬間、仕事を休む以外の選択肢は消え去っていた。

「今日は仕事休んじゃおうかな」

 わずかにそっぽを向いた彼女の様子をうかがいながら、なるべく軽く言ってみる。

「なんか、サボりたくなっちゃいました。こんなの初めて。あとで会社に電話しなきゃですね」

 私が笑いかけると、彼女は驚いたように顔を上げて安堵の表情を浮かべた。半年ぶりに現れた彼女は、一夜にして私のなかの優先順位トップになっていた。私は今、地球上で一番幸せだ。私はこんなにも求められているのだから。ここが底なし沼でも、出口の見えないトンネルでも、かまわない。綺麗じゃなくても、純粋じゃなくても、彼女さえいればいいのだ。

 彼女の顔の近くに右手をゆっくり伸ばす。彼女は私の手を自分の頬にあてがって「あったかい」と優しく呟いた。私は再び布団に入ると、彼女のやわからな頬を慈しむように親指の腹でなぞった。

 しばらくしてから職場に電話をすると、例の上司が出た。「体調が悪いので休ませてください」と言うと、彼はひどく心配していた。苦手な電話で、未だに少し苦手な上司に気遣われて、うまく返答できない。だが、その歯切れの悪さが仮病にリアリティを与えたようだった。仮病と知らずに私の身を案じる上司には申し訳ないが、サボりへの罪悪感以上に電話一本で仕事を休めるあっけなさと、一日彼女と過ごせることへの高揚感の方が大きい。今日は金曜日。三連休だ。

 電話を終えると、彼女が布団の中からひょっこり顔を出しているのに気づいた。

「仕事、休めましたよ」

 思わず悪い笑みを浮かべてしまう。

「うわ、サボりだ」

 彼女はニヤリと歯を見せた。

「まあ、でも、私も無職だしね。休職してたけど、復帰しないで辞めたの」

「え、そうなんですか。あれ、確か先生やってましたよね」

「うん、母校でね。社会の先生。でもさ、高校なんていい思い出なかったし、そもそも私みたいな人が教育者なんてしちゃいけないなって思って。精神的な問題で休職したけど、もう戻るのも大変だから辞めちゃった。」

 彼女は、布団のなかで気だるげに伸びをした。

「親に手に職をつけろとか言われたから教師してたけど、こんなだったら教職なんて取らなきゃよかったなぁ」

「そうですか……」

 朝から重い話題で現実に引き戻されている私をよそに、彼女は布団から出てキッチンに向かった。部屋着として彼女が身につけている私のTシャツとジャージのズボンが、いつもとは別物に見える。

「面白くない話はもう終わり。おなかすいちゃった。朝ごはん食べよ、作るからさ」

 一人暮らしのスカスカな冷蔵庫を眺め、彼女はなけなしの卵やトマトを取り出した。手際よく調理する姿を、私は椅子に腰かけて眺めた。五分ほどすると、オムレツとトーストとサラダがテーブルに並んだ。

「うわぁ、美味しそう。人の手料理なんて久しぶりです」

「こんなの、大した料理じゃないよ」

 彼女は照れながら私の向かいに座る。こうやって、人と食卓を囲むのはいつぶりだろうか。実家にいた頃から家族とは時間が合わなくて、いつもひとりで食事をしていたっけ。

 結婚したらこんな感じなのだろうか。そういえば、妹は元気かな。きっと娘も生まれて育児が大変だろう―――

「……ねえ、大丈夫? ボーっとして。口に合わなかった?」

 自信なさげな様子で彼女に話しかけられて、はっと意識を戻す。

「あ、大丈夫。とっても美味しいです。こっちのオムレツにはチーズも入って――」

「考え事?」

 向かいから顔を覗き込まれて、どきりとする。見透かされたようで、「なんでもないです」と誤魔化す気にはならなかった。

「いや、そういえば妹は元気かなって」

「そっか、会ってないの?」

「ええ、転勤で海外に住んでるので。そういえば、最近娘が生まれたらしくて」

「へえ、じゃあおばさんだ」

 私たちは笑いあう。ああ、この幸せがずっと続けばいいのに。こんなにも楽しい食事は初めてだった。無機質な白いワンルームがいつも以上に明るく、華やかに感じた。

 そんな朝食を終えて食器を片付けていると、彼女があらたまった様子で切り出した。

「あのね、お話したいことがあります」

「うん? どうしました?」

「えっと……テーブルで待ってるね」

 愉快だった先ほどの気分も薄れ、何を言われるのか考えを巡らせた。かしこまった態度ではあったが、表情から暗さは読み取れなかった。嫌なことじゃなければいいが。

 紅茶の入ったマグカップをふたつ手にして、椅子につく。彼女はカップを受け取ると、ぎこちなく感謝した。緊張しているようで、こちらまで落ち着かない。気を紛らわせるように、まだ熱い紅茶を口にする。控えめに「あのね」と言われて彼女の方を見ると、私はまたあの美しい瞳にまっすぐ射抜かれていた。

「あのね、お願いがあります」

 神妙な面持だ。

「しばらく一緒に住まわせてもらえませんか」

 テーブルにぶつける勢いで、彼女は頭を下げた。

「え、一緒に?」

 まさか、そんなことをお願いされるとは。確かに、私はこの楽しい時間がずっと続くことを願った。彼女と一緒に寝起きして、食事して、会話して―――ひとりで憂鬱な生活を送ることに比べれば、最高の幸せではないか。しかし、実際一緒に住むとなると問題は多い。こんな狭い部屋で生活できるのか。プライベートな時間がなくなるのではないか。私が共同生活なんてできるのだろうか。

 私は明らかに動揺し、困惑した。彼女はそんな私につられるように、表情を曇らせた。

「あの、嫌ってわけじゃないんです。でも、色々と問題もあるでしょう? この部屋狭いですし――」

「私は一緒に暮らせるならどんなでもいいの。私のスペースはなくてもいいから。家事は全部するし、生活費も出す。もちろん、無理なお願いなのはわかってる………」

 縋るような、訴えるような目だ。必死に私を求めて離さない。とても断ることはできなかった。

「……わかりました。じゃあ、そうですね、一緒に暮らしましょうか」

「え、本当に! よかった、ありがとう……」

 ぱっと表情が明るくなった。なんだかこんなこと以前にもあったような気がする。私たちが友人になったときだっただろうか。

「うわあ、嬉しい。私、生きててよかった」

 生きていてよかった。何気ないその言葉がやけに私には重く聞こえた。昨日、私に会いに来た彼女は憔悴し、不安定で、今にも消えてしまいそうだった。それが朝になってこんなにも生き生きとしているのだ。まるで水を得た魚だ。こんな彼女を見たら共同生活のデメリットなんてどうでもよくなり、悪い気はしなかった。

「じゃあ、これから必要なものでも買いに行きますか」

「うん。そのついでにインテリアも揃えようよ。せっかくなら、もっとお洒落な部屋にしたいな」

「そうですね」

 仕事をサボって、彼女と家具を買いに行く。それは初めて私が得た、絶対に手放したくない幸福な体験となった。

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