自分の子どもをエッセイの題材にすることの危うさ

葛西 秋

 先日、エッセイ漫画で有名な西原理恵子氏の娘さんが、「親が勝手に自分のことを漫画に書いて、それがとても嫌だった」ことを告白したブログがネットで話題になりました。


 マンガに自分のことを書かないでほしい、書かれることは苦痛だ、と訴え続けた娘さんの意見は受け入れられることなく、精神疾患を患うようになるまで追い詰められたとブログには綴られていました。


 自分が知らない人が、自分のプライバシーについて事細かに知っている。そしてそれを暴露しているのは他でもない自分の肉親である。その事実が10代から20代の若い人間に与える影響を考えると、ひどく痛ましく感じます。


 そのような自分の家族をエッセイを含むコンテンツとして消費する行為は、今後、創作界隈でも問題になるのではないかと思います。


 一昔前の話になりますが、私小説に定評と人気があった椎名誠氏が、やはり自分の息子のことを作品によく登場させていました。


 これが結果として、椎名氏と息子さんの親子関係を崩すことになったということを氏は自らの著作で語っておりました。

 一方で椎名氏の娘さんは、早くから「絶対に自分のことを作品に出さないでほしい」と強く主張していたため、椎名氏の作品に娘さんはほとんど登場していません。これは娘さん自身もそうですが、椎名氏との親子関係をも守ったことになったのではないでしょうか。


 柳美里氏の「石に泳ぐ魚」、三島由紀夫氏との同性愛的関係を描いた福島次郎氏の「剣と寒紅」、また方向性は違っても桜庭一樹氏の「 少女を埋める」など、作者の実体験を題材にした作品は、時に周囲の人々を大きく困惑させることがあります。


 文芸作品であれば、ある程度作者の創作が入るフィクションとしての体裁が最低限、保持されますが、エッセイは文芸作品とは異なるジャンルの作品です。


 作者の体験や考えをストレートに綴るエッセイというのは、基本、作者の目線ですべてが語られます。


 作者にとって都合の悪い事実は、それがなんらかの"面白み"を生む場合以外は、エッセイの中に書かれることはありません。

 敢えて書くなら、「偏った一方的な視線で、自分だけでなく他人の私生活を暴露すること」がエッセイの基本かと存じます。


 エッセイの持つ一方的な暴力性については、最近人気のあるエッセイスト、もちぎ氏が自身の考えをSNSや書籍で発信しています。エッセイに登場した人物は反論することを許されない存在となり、一方的な個人の暴露にさらされる、このエッセイの持つ暴力性を無視することはできないのではないでしょうか。


 西原氏の件については、その後さらに娘さんに対する虐待ともいうべき行為が明らかになりました。西原氏は子育てエッセイ漫画でいくつもの賞を受賞していながら、それは完全にフィクションだったと、自分の娘に暴露されたのです。


 親のフィクションの中での生活を強要される子どもたち。

 それが現在の子育てエッセイと呼ばれるジャンルで問題視され始めています。


「子どもにも人権やプライバシーがある」


 1994年に日本も批准した子どもの権利条約で明示されているのにもかかわらず、実例として問題になったのがつい先日である、ということに危機感を感じなくてはならないと思うのです。


 もちろんこれまでにも問題視されてきた事柄はあります。


 たとえば子供の写真をtwitterやインスタに載せることがそれにあたりますが、少し前までは親の顔は出さないのに、子どもは何の処理もしていない写真をネットで発信することが普通に行われていました。

 今でこそ安易な行いであることが周知されつつありますが、そもそもこの事例が問題になったのは、幼児性愛者がそのような写真を収集してターゲットを見つけていた、という欧米の事件からかと思うのです。


 当時の世相をおそらく反映しているであろう問題の捉え方ですが、今は芸能人が率先して自分の家族の顔写真に加工を施して配信することもあって、「子どもの顔出しNG」は一般にも浸透してきているように思います。


 現在の社会において注目されているのは、先に挙げた「子どもの人権」です。


 特に昨今は"毒親"という言葉がネットミームから始まり、次第にネット内外にも広がりを見せています。


 肉体的虐待だけでなく、精神的、経済的虐待や、思想の自由を制限する宗教二世の問題がこれにあたるかと存じます。


 子どもを個人として扱わず、親の、自分の付属物として扱うことの是非。


 肉体的な暴力を伴う虐待と、子どもの意思に反してプライバシーを勝手に公開する行為と。


 この二つはどちらも子どもに個人としての権利を認めていない親の身勝手な行動であるとの社会的認識が強まってきています。


 親が作り出した"フィクション"の中で生きることを強要される子どもたち。

 エッセイなどの創作物に限らず、それは広く子どもの人権が侵害されている状況として捉えることができるのではないでしょうか。


 西原氏の話題について、私が読んだ専門家の意見で最も具体的で、妥当な対応策というのが、

「子どもに書いた内容を読んでもらい、エッセイとして公開していいかどうか、その許可を取る」ということでした。


 子どもは大人が思っている以上に、世の中のことをよく見ています。

 早ければ、就学前の年齢であっても「書かないで」と自分の意見を主張できる子どももいます。


 その子どもの意見を無視せずに、子どもの気持ちを受け入れて、あるいは率先して子どものプライバシーを守ることは、それこそ親の役割なのではないでしょうか。


 以下に引用するのは、自分の子どもの写真を週刊誌に掲載された俳優、福山雅治氏が公に示した強い抗議です。


「子どもの写真を撮られ、それが掲載され、かつ販売物となって世の中に出ていくことに黙っていることはできない。幼稚園に通って毎日通る場所で、全然知らない人が写真を撮っている。しかも、編集の方、さまざまな方が子どもの顔を知っていて、データを持っているって、とても怖いこと。守られるべきものが守られていない。一線どころか随分越えたところにきた。芸能人だからと我慢して、これから何年も過ごしていかなきゃいけないのは違う」(PRESIDENT Online 、「モザイク入りなら子ども写真も黙認」芸能事務所が週刊誌報道に猛抗議をしないワケ 、赤石 晋一郎、2021/07/18 11:00)


 福山氏が重視しているのが、自分の子どもの安全であること、人権であることが強く伝わってきます。


 西原氏の子育てエッセイ漫画に倣って自分の子育て日記をネット上に公開していたジャンルの方々は、今般の事案に対してセンシティブな反応を示したようです。


 特にSNSをコンテンツのメインとしている方々は、炎上や攻撃の対象になる恐れもあったかと存じます。


 今、著名な作者が渦中の人物となったことで世の中の表面に浮上してきたこの問題、これを良い機会と捉えて、カクヨムの作者の皆様も一度、考えてみてはいかがでしょうか。

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自分の子どもをエッセイの題材にすることの危うさ 葛西 秋 @gonnozui0123

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