第3話

 次の日の水曜日。

 ぼくは放課後、屋上に行くことにした。


 最初は行かなくてもいいだろうと思っていたけど、少しずつ心が変わっていったのだ。屋上には行こう、だけどもう今日で最後にしよう。もしこれで来なかったら、もう二度と会うことはないだろうから、と。


 ぼくは屋上へ向かうため、階段を上っていく。

 扉の前。

 ドアノブを強く握る。

 来てくれ、という願いはない。

 来ないだろうな、という諦めのみがぼくのなかにある。

 ドアノブを半回転させる。

 扉が開く。

 その先に、あのときの白い少女はいなかった。

 でも、黒い少女ならそこにいた。


「久しぶり、だね」


 そう言って微笑む彼女。黒い、というのは彼女が制服を着ているからだ。

 ぼくは何もできずにいた。


「どうしたの、そんな豆鉄砲くらったハトみたいな顔して」

「いや。まさかいるとは思わなくて」

「まあ、そうだよね。ここ二日、学校に来てなかったわけだし」


 屋上の真ん中に立つ彼女は、気まずそうに頬を指で掻いた。


「日曜に、大切なひとがいなくなったっていう話は覚えてる?」


 もちろんだ、とぼくは頷く。

 それはそもそも、ぼくから切り出した話題なのだから。


「少し長くなるから、さ」


 彼女は手招きをする。

 ぼくは首をひねりつつ、彼女のもとへ歩み寄っていく。彼女は屋上にある一つのベンチを指さした。


 ぼくと彼女はそこに座った。

 

「その大切なひとっていうのがね、わたしの父なんだ」


 それを言われて、ぼくははっとなった。


「お父さんとお母さんは、わたしが生まれてから少しずつ仲が悪くなったみたいでね。その日も二人は言い争ってた。喧嘩が日課ってくらいに、毎日そんな声が聞こえてくるんだ。だからわたしは、ああまたか、って思いながらベッドにもぐりこんでたの」


 なんで、そんなところまで一緒なのだろう。

 ぼくはそう思った。


「でもね、それはある意味罠だったんだ。お母さんが出ていったんだ。さすがにわたしも驚いて、部屋から出たけど、やつれた顔のお父さんが言ったの。追いかけなくていい。とても弱々しい声だった……」


 状況は一緒だった。

 でも、ところどころで違う箇所があった。逆にそれは、ぼくとの繋がりを意識させるようなものだった。


「わたしはね、正直に言えばお母さんよりもお父さんのほうが好きだったんだ。だからわたしは残った。そのままわたしはベッドに戻ったけど、少しすると、おかしな音がしたんだ。がたんっていう、何かが倒れる音。わたしは、喉が渇いたっていうのもあって、水を飲むついでにその音がしたリビングへ行ったの。そしたら──吊ってたんだ、お父さん。首に縄みたいなの巻いて、てるてる坊主みたいに吊られて、揺られて」


 そのとき、彼女の瞳から光が消えたような気がした。父が死んだときの場面を思い出しているのだろうか。


 ぼくはそこで、ぼくと彼女の明確な違いを見つけた。


 ぼくは大切なひとの死をこの目で見れなかった。

 彼女は大切なひとの死をその目で見てしまった。


 その違いこそが、ぼくたちの縁と言えるのだろう。


「それでね、つい二日前──きみと出かけた日曜日のことなんだけど、あの日、ちょうどお父さんの命日だったんだよ。それで午後から一人でお墓参りに行ったんだけど……」

「え、一人で?」

「うん」

「そういうのは母親と行くべきじゃないの?」

「まあ、そうなんだけどね──」


 そのとき、彼女の黒い前髪から青いアザのようなものが見えた。

 ぼくはそのとき、頭が熱っぽくなる感覚を覚えた。


「虐待、されてるのか」

「──」

「どうして」

「……それはね、仕方ないの。お母さんはさ、お父さんがいなくなったこと、後悔しているから」


 後悔していた。それが理由で娘に手をあげるものなのだろうか。

 彼女は顔を背けていた。そして、空を仰いでいた。こんなにも清々しい、青々とした快晴の空を。


「きみのお母さんは、自分の夫が死んだのは娘のせいだ、と考えているのか」

「そんなわけじゃ、」

「そんなわけ、なんだよね」

 

 彼女が唇を噛んでいるところが見えた。口では否定しているものの、実際の気持ちはそうではない。ぼくの言ったことを、ひそかに肯定こうていしているのだ。


「それで、きみは母からの虐待に耐えかねて、屋上から飛び降りて死んでしまおうって?」

「──うん」


 彼女はやっと自ら頷いた。


「対抗、しなかったのか」

「無理だよ」

「どうして」ぼくは少し感情的になる。

「中学生のころから、そうされてきたんだもの。もうとっくに手遅れ。怖くて……怖くて仕方がないんだよ?」


 つまりは、トラウマ。彼女の母親は、彼女の根本に恐怖を植えつけた。だから彼女は支配されっぱなしなんだ。


「児童相談所は? そこなら、なんとか」

「GPS」

「え?」

「私のスマホ、GPSがついてるんだ。だから私がどこにいるかなんて簡単にわかっちゃうの。児童相談所に行ったとしてもバレるし、スマホを棄てたら棄てたであとで殴られちゃうし。うちのお母さん、本当に心配性でさ。いつも確認するんだって、私の居場所」


 心配性などではない。

 もはや狂気なのだ。

 狂っているんだよ、きみの母親は。そう言いかけて、ぼくはすごく余計なことを言おうとしていることに気がついた。


「わかった。ごめん、話の腰を折ったね。続き、話せる?」

「うん。──それでさ、お墓参りに行った帰りに思い出したんだ。きみも大切なひとがいなくなったっていう話。それで考えたんだよ。きみ、あの廃ビルに行くとき、携帯のナビとか使わないし、平気で近道とか使うから通い慣れてるのかなって。そのことが気になって、そのあと色々調べたんだ。そしたら、当時十三歳の息子がいる母親が最初にあのビルから飛び降りたって。これなのかなって思ったけど、でも、知ったときは後悔した」

「それは、なんで?」

「だってもう、自殺したいだなんて思わなくなったんだよ。あなたと出会って、あなたと話して、少しずつ凍りついたわたしの心が温まったんだ。なんならあなたと話す時間がちょっぴり楽しかったんだ」


 彼女は顔をぼくに向ける。

 彼女の唇はほころんでいた。笑っていた。

 ひどく、幸せそうに。


「だからきっと、あなたは哀しむんだろうなって思った。だから今日は──」


 そのときの彼女の、先ほどの表情とはまるで違う顔は、ぼくの心を動かすのに充分だった。


「別れを告げにきたって?」

「う、ん」


 ためらいがちに彼女は首を縦にふった。

 ぼくは唇を噛む。


「お互い、関わらないほうがいいと思ったんだよ。もうこれ以上いると──あなたに依存してしまうから。あなたに私を救ってもらいたいって、そう思っちゃうから」


 そんなの、関係ないだろう。

 依存してしまえばいいんだ。

 ぼくに救ってもらえばいいんだ。

 もう、ぼくのそばから離れないように。


「だから、もう」

「……いいよ」

「──え?」

「依存で、いいよ」


 ぼくの口は、自然と動いていた。


「ぼくだって、きみの死に立ち会いたいだなんて思わなくなったよ」


 いつからのことなんだろう? わからないよ。


「そんな気持ちはもう、消えた。だってぼくはそれ以上にきみと一緒にいたい、もっと話したい、もっと笑い合っていたい。そのためにどんなことをしたって構わない。それこそ、きみの母親の虐待を止めることだってしてやる」


 やめてほしかった。

 それはぼくに対するものでもあるし、彼女に対するものでもある。

 勝手に動くぼくの唇。目を見開いて、顔を少しずつ紅潮させていく彼女。

 やめて、やめてくれよ。


 ますますぼくは、きみを堕としたくなる。


「たとえそれが、〝依存〟というものであっても」


 ──もう、いいや。

 名前をつけてしまおう。


 ここ最近、彼女と話すたび、彼女のことを考えるたびに渦巻いていたものの名前は、それは〝依存こい〟というものなのだ。


「うそよ……。そんなの、あなたらしくない」

「ぼくらしさを変えたのは、きみだっていうのに?」


 少女の瞳に淡い灯りがつく。

 明快な色と鬱蒼うっそうとした色の融合。そんな、濁り切った色彩。

 なんて奇麗なんだろう──。


「きみを癒すのはぼくだ」


 抱きしめたい。


「きみを壊すのはぼくだ」


 守りたい。


「──きみをころすのも、ぼくなんだよ」


 堕として、みせたい。


 壊れていくぼくの心。

 視界の上にある快晴がかすんで見える。


「ねえ。きみの本当の気持ちを、ぼくに教えてほしい」


 ぼくはベンチから立ち上がって、彼女の前まで来る。

 そして顔を近づける。


 桜色の唇。

 紅潮している頬。

 涙で濡れた眼球。


「きみは、ぼくにどうしてほしい──?」


 かすかに動く唇。

 緊張は絶頂へ。

 彼女はとうとう耐え切れなくなった犬みたいに、ぼくの首に腕を回す。

 それは一瞬のことだった。


 彼女自ら、唇を重ねてきたのだ。

 その頬に涙の筋を作って。

 とても、熱くやわらかい唇をぼくに押しつけて。


 彼女は唇を離す。


「──お願い」

「どんなお願い?」

「わたしを、」

「きみを?」

ころしてほしい──」


                                 ──Fin


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きみをころしたい。 静沢清司 @horikiri2

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