第2話

 その週の日曜にぼくたちは駅前で集合すると約束した。


 ぼくはなるべく幻滅されないように(ぼくがなぜそんな気遣いを?)服を選んで、それを身に着けた。少なくとも自分では着こなせていると思う。


 約束の時間よりも十分ほど前に着いたぼくは壁によりかかって待っていた。

 そのとき、これから行く自殺スポットの場所が鮮明に思い浮かぶ。


 しかし時間は思ったより早く過ぎていく。

 あの少女はすぐにやってきた。


 ぼくは携帯から視線を外し、その少女の姿を視界におさめる。

 白。

 白を基調とした服装だった。ここで照れくさそうに「ど、どうかな」と言ってくれたらな、なんてことを(どうして?)ぼくは考えていた。


「予想外。きみ、けっこう早く来たんだね」

「こういうのは男のほうが早く来るべきだって、父が」

「わたし、そういうつもりで来たわけじゃないから帰っていいかな」


 冷たい眼差しだった。

 思わず息をのんだ。


「冗談だよ」


 ぼくはそう苦笑いをして、訂正した。

 たしかに彼女の言うとおりだ──、とぼくは思う。

 ぼくはぼくのために。彼女は彼女のために。そうして自分自身のために二人で集まり、協力しているのだ。


 それに。


 ──ぼくのことなんて、きっと──。


「さあ、行こうか」


 ぼくは彼女に背を向けて、無理やりにも自分を張り切らせた。

 そうでもしなければ、この名もない(なくていい)感情をおさえることなど、到底できるはずもないのだから。


 ぼくはまず彼女に一つの提案を出した。

 それはとりあえず空かした腹を満たそうというものである。


「別にいいけど。今回の主旨、忘れてるわけじゃないよね」


 一応承諾はしてくれたものの、彼女は訝しげに目を細めていた。

 やはりまだぼくのことは警戒しているようだった。


 よく友人からぼくは、人畜無害のお人好しと言われるのだが、どうやら彼女から見るぼくという人間はいざとなれば獣になる鬼畜らしい。


 そう確定したわけではないが、少なくとも友人の言うこととは全く違うことはわかる。


 ぼくたちは駅前から近いファミレスに寄っていった。店内の端っこの席に、ぼくたちは向かい合うようにして身を置いた。


 メニューを取って、もう一枚のメニューを彼女に渡す。


 ぼくは適当にパスタを頼んだ。すると彼女もぼくと同じものを頼んだ。そのとき彼女はこのようなことを言っていた。


「ちょうどわたしも食べたかったから」


 淡泊な言い訳(なのだろうか?)だった。


 オーダーを済ませたあと、ぼくたちは何気ない会話を繰りかえした。

 たとえば、そう。

 ぼくらは家族について話していた。

 その話題を切り出したのはぼくではなく、彼女のほうであった。


「ねえ」


 お冷を一口飲んであと、彼女はけだるげな声の調子のまま、ぼくを呼んだ。

 ぼくは「うん?」と眉を上げた。


「おかしな話かもしれないけどさ。家族って、そんなに信じられる人たちなの?」


 本当におかしな話だった。

 ぼくは首を傾げながら、彼女のその言葉を頭のなかで咀嚼していた。


「世間一般では、誰よりも、それこそ友人や恋人よりも信じられる人たちなんじゃないかな」


 ぼくは当たり障りのないことを言った。


「一般論だね。わたし、あんま好きじゃないな」

「そりゃあ、ぼくが言ったのは世間一般での話だから。もちろん例外もあるってことは知ってるよ」


 家族内での問題が度を過ぎたとき、事件は起きる。


 そしてその事件は肥大化して、メディアという火付け役によってその爆弾が爆破し、世間に情報が回っていく。


 ときにその情報は真実と馴染むように、上手く虚実が混ざっていることだってある。ひどくたちの悪いことだ。


「じゃあ」


 彼女はもう一度、コップに唇をつけて、そのなかの水を飲んだ。


「どんな家族でも、最後まで信じるべきなのかな」


 どんな家族でも──。


 冷徹な家族でも?

 逆に信じるに値する心温まる家族でも?


 どちらにしてもとれる。


 だけど彼女のイメージしている〝家族像〟というものがどういったものなのか、ぼくにはそれを知るほどの義理も、勇気もない。


 当たり障りのない答えを返すことが、一番の安全策なのだ。

 最も簡単で、最も難しいその策に、ぼくはいつごろ気づいたのだろうか──?


「信じるべきだと思うよ。だって、家族なんだから」


 そう、家族なんだから。

 なら信じるべきだって、そうするべきだって、ぼくは彼女にそう強制した。

 これでいい。

 むろん理解している。これは彼女の望んでいる答えじゃないことを。理解しているからこそ、ぼくはこう答えたんだから。


 だって、ここで彼女の望む答えをぼくが提示してしまえば──きっと彼女は、ぼくの目の前で死んではくれない。ぼくは死に立ち会えず、彼女は彼女で道を切り開いていく。


 そして。


 ぼくはもう二度と、〝死を望んでいたときの彼女〟に会うことができない。


 もしぼくが彼女に特別な想いを寄せているのだとしたら。

 それはきっと、あのときの──屋上で出会ったときの彼女へのものだと思う。


 そうでなければ、ぼくという存在をぼく自身が理解できなくなる。


 それからぼくたちの間に会話はなかった。

 なにかあるとしたらそれは沈黙である。

 重苦しいものではなく、かといって心地いいものなんかじゃない、微妙なものだ。


 そんなとき、沈黙など気にせず(当たり前だが)やってきたスタッフが料理を運んでやってきた。


 二皿のカルボナーラがテーブルの上に置かれる。


 料理を置くとスタッフは一礼をして、そのまま厨房のほうへ行った。


 ぼくらは少しの間を経て、やっとフォークを握って、料理に手をつけた。フォークでくるくる。パスタが鉛色のものに絡まっていく。


 ぼくはそれを口に入れる。彼女もぼくと同じタイミングでパスタを口にしていた。互いに咀嚼し、うんうんと頷く。


 そのとき、彼女と目が合う。


 あまりにタイミングが同じで、ぼくらはふと唇から笑みをこぼした。


「真似した?」


 彼女が微笑んだまま、ぼくにそう尋ねてきた。

 ぼくは笑いながらかぶりを振る。


「ぜったい嘘でしょ」

「そんなことないって」


 幸せ、なんて言葉をぼくはそう軽々しく使いたくなかった。

 実際、このときその言葉を口に出すことはなかった。

 ただ笑い合って、一緒に同じものを食べて、また笑って。

 ただそれだけ。


 だってぼくは思うのだ。

 幸せ、なんてものが本当に訪れることはないって。そんなものは、今のぼくとは程遠いところにあるんだって。


 だから、この時間ときを幸せだと(言いたかった)言いたくはなかった。


 ぼくらはそうやって談笑しながら、カルボナーラをちょっとずつ口にし、それを食べ終わったあともぱっと思い浮かんだ話題を共有していた。


 クラスでの出来事。

 友人との会話の一部。

 互いの成績のこと。

 そして、恋の話。


「きみってさ」


 彼女は頬杖をついて、ニヤニヤと唇を吊り上げながら言った。


「付き合ってる人とかいるの?」


 ぼくはそのとき、お冷を飲んでいた。だから彼女のその言葉を聞いた直後、その水を吹きそうになった。だが結局むせた。


 ある程度、せきがおさまったあと。


「どうしてそんなことを?」

「うん? いや、なんとなく。いるのかなあって。ほら、きみって見た目いいし。友達からもよく聞くよ、きみの名前」


 なんだそれ、とぼくは思った。

 ぼくはもう空になったコップを片手に、左側の窓ガラスの向こうを見ながら言った。


「いたのかな。まあ、付き合ってはなかったし、そのうえずいぶん前の話だけどね」

「え、いたんだ」


 彼女は目を見開いた。


「いたよ。とはいっても、叶わぬ恋だったな」

「ああ。──えっと、告白したの?」


 ぼくは口をつぐみかけたところで、結局、口を開いた。ここで黙っていたところで仕方ないと思ったからだ。


 視線を窓から彼女のほうへ移して、目を合わせる。そしてぼくは笑いかける。


「いや、してないかな。その前に大切なひとがいなくなってさ。それどころじゃなかったんだよ」


 それから少し間が空いた。その間はもちろん沈黙である。それは何本かの針となってぼくの心をちくちくと刺していく。


「そう、なんだね」


 彼女は顔をうつむかせて、残り少なかった水を飲み干した。

 そのあとでぼくのほうを気まずそうに見る。


「わたしたち、似てるのかもね」


 そう言って、はにかむ彼女。

 場を和ませよう、彼を慰めよう、そんな不要な気遣いなんかじゃない。


「わたしもね──大切なひとをなくしちゃったんだ」


 切ない、微笑み。

 彼女の目じりに涙の粒がたまっていく。

 そしてその涙がやがて頬に筋を作った。


「あ、ごめんね。なんか泣いてみたい」


 自分が涙を流していたことに気づいたのか、彼女はそのひどく華奢きゃしゃな白い指で、その涙を拭きとった。


「お会計、すませようよ」


 彼女は、誤魔化すように言った。

 胸が潰れるような思いだった。



 ぼくたちはファミレスを出たあと、すぐに自殺スポットへ向かった。


 そこはあまり人が通らない場所で、車通りもほとんどない。そこにはぼくたちの目指す、取り壊し予定だった廃ビルがあるのだ。


 ここでは数年前に女性が飛び降り自殺をしたのだ。


 しかし一回だけでおさまらず、その後もそこでの自殺は続いた。よってネットでは、よく話題にされている有名自殺スポットとなったのである。


「さすがに雰囲気あるね」


 彼女は嬉しがっているのか、怖がっているのか、どちらとも判別しがたない声で言った。


「でも、たしかに良さそう」


 付け加えるように彼女は言った。消え入りそうな、か細い声で。


 ぼくらはすっかり薄汚れた歩道を歩いていく。それから五分ほど経ったか。するとすぐに例の廃ビルの前まで来た。


 陰鬱な雰囲気をまとった建物。ネットの画像で見るより、その異様さを実感させた。霊が出てもまるでおかしくない場所である。


「入ろう」


 立ち入り禁止のテープがあったが、そんなものは気にせずぼくは建物へ中と入っていく。


 後ろの彼女へ一瞥いちべつを送ると、少しためらいがちにテープを乗りこえていった。


 ぼくらの足音だけがその空間に虚しく響いていた。

 会話はない。

 あるのは静寂だけ。

 そもそもこんなところで談笑できるはずもないし、交わす言葉もない。だって、お互いの考えていることはわかるだろうから。


 エレベーターは使えない。仕方なくぼくたちは長ったらしい階段を昇っていった。気の遠くなるほど、屋上までの距離は遠かった。


 やっと屋上に着いて、ぼくらは壁にもたれかかって体を休めていた。


 彼女はぼくより先に壁から身を離す。そのまま真っすぐ歩いていく。

 そのとき、ぼくのなかで焦燥感が(そんな必要はないのに)生まれた。


 彼女が、飛び降りる。


 そう思ったから、なのだろうか。


 それは、(あるかもしれない)ないはずだ。


 彼女はゆっくり、歩を進めていく。

 ぼくはただその背中を見つめているだけ。

 ひんやりと冷たいものが心臓に当たったみたいだ。

 そう。ぼくはようやく、人間の死に立ち会うことができるのだ。


 これでいい。


 だからこうやって(なんて)中途半端に腕を伸ばす必要(惨め)はないんだ。


「──おい」


 何を考えているんだ、ぼくは。


「おい」


 これがぼくの目的(未練)だっただろう。


 ならぼくはこのまま、彼女の死を見届けるだけでいい。


 彼女はぼく以外の誰かに見られることなく、孤独なまま、堕ちていく。


 それが彼女の願い。

 そして人の死に立ち会うことこそ、ぼく自身がずっと抱えてきた願いなんだ。


 彼女は縁に立つ。


 ──ぼくは彼女に、■を重ねてしまっていた。


「おい、待てよ!」


 上ずった声でぼくは彼女を呼び止めた。

 だけど、ぼくがその言葉を言い切る前に彼女は後ろを振りかえった。


「ごめんね。きみの願いを叶えるのは、もう少しあとかも」

「え?」

「今回はただの下見。今日はね、大事な日なんだ」


 灰色の雲の下。

 ぎこちない笑顔を保つ、白い少女。

 ほろ苦さを感じる。

 雨が、ぽつりぽつり。

 少女の頬に落ちる。

 それは雨粒なのか、あるいは──。



 次の日の月曜。

 ぼくは彼女のことを考えていた。一回だけのことじゃない。二回、三回……数を数えることなんてなかったから正確にはわからないけど、それでも複数回は彼女について思考を巡らせていた。


 最初はただ昨日の出来事を思い出していた。しかし昨日のほとんどの時間は彼女と過ごしていたためか、思い返すときにいずれも彼女の姿が目蓋まぶたの裏に浮かぶのである。


 ──いや、逆か。


 彼女のことを考えて、昨日のことが思い浮かんだのだ。

 しまったな。これを自覚してしまった以上、ぼくはこの事実を認めざるを得ない。


 でもぼくは、未だにこの感情に名前をつけずにいた。

 でもつけないでいい、という意思は一貫している。


 そう、つけないままでいい。

 つけてしまえば最後、ぼくはその名前に殺される。


 今まで秘めていたものが一気にあふれかえる──それだけは、避けたい。



 その日の放課後、ぼくは終礼が終わったあとすぐに屋上へ向かった。


 いざたどり着いてみれば肩透かし。彼女はいなかった。

 まあ、ただ単にぼくが早いだけだろう──と思っていたので、読書でもしながらずっと彼女を待っていた。


 でも、来なかった。

 彼女が来ることは、決してなかった。


 もう、読み終わってしまった。


 これ以上待っていても仕方ないと思ったぼくは、すぐに支度を済ませて家に帰った。


 その帰り道でばったり会うことはないかと淡い期待を抱いていたが、結局、会うことはなかった。



 次の日の火曜日。


 昨日彼女が来なかったこともあるのか、なんだかひどく症状が悪化した気がする。          

 その症状とはつまり、彼女のことを考える時間が増えてしまったということ。


 ぼくは何度も頭を振った。そうやって無駄なことを考えるのをやめたかった。だけど、なにをしても止めることはできなかった。


 心臓がチェーンで縛られたみたいだった。

 ぼくの胸はますます苦しくなっていく。

 会わなくてもいい(会いたい)と思っているぼく。

 わがままな子供みたいに駄々をこねている(冷静でいたいのに)ぼく。


 ぼくは一応、その日の放課後も屋上に行ってみた。

 一応という言い方はしたが、たぶんぼくは最初から行く気だったと思う。


 すう、とぼくは息を吸ってから扉を開ける。

 そのとき、なぜだか知らないけど、ぼくは目蓋まぶたを強く閉じていた。


 数秒後、ぼくは目蓋を開けて、屋上という場所を瞳を動かして見渡していく。


 しかしいない。

 ぼくは深いため息をついて、腰を下ろし、背中を壁に預ける。


 ぼくは鞄から新しく読もうと思っていた小説を取り出して、ページを開く。

 ぼくは来てくれ、という願いを込め、ただ本を読んでいた。


 その小説を半分ぐらいまで読んだところで、そろそろ帰らなければならないぐらい、本格的に空が暗くなっていく。


 その日もぼくは、おぼつかない足取りのまま帰路へついた。


 その途中で、ぼくはふと思った。


 もしかしたら──彼女はもう、この世にいないのかもしれない。


 もうすでに彼女はあの廃ビルで飛び降りたのかもしれない。ぼくはニュースなんてあまり見ないけど、もうそれが取り上げられて報道されているのかもしれない。


 するとそれは、


 ──ぼくは結局、何もできなかったということなのか──。


 またぼくの知らないところで、人が死んだ。あのとき、あの人が死んだように。


 ねえ。

 どうして、ぼくの知らないところでんだの?


 なんで、どうして?


 そのとき、走馬灯のように流れてくるぼくの記憶。

 ずっと蓋をしておきたかった、ぼくの想い出。


 ぼくは寝室で体を横にしていた。リビングから母と父の声が聞こえる。争うような声だ。


 耳が痛くなるような、とても鋭い金切声。それは母のものだった。

 でも両親の喧嘩なんていつものことだった。だからぼくは携帯でも見ながら放っておいた。


 そしてしばらくすると母は家を出ていった。


 ぼくはさすがにおかしい、と思って体を起こし、出ていく母を追いかけようとした。


 すると父が、追いかけなくていい、とぼくに怒鳴った。

 そんな父の声に、ぼくは肩をびくりと震わせた。


 だからぼくは、そのまま家にとどまった。

 体が硬直している。冷や汗が額に滲む。あまりの寒さに指先までもが震える。うずくまるぼく。


 でも、時間が経てばあとは簡単だった。


 母が死んだ。

 その一つの事実だけが、ぼくと父のもとへ帰ってきた。


 詳しい事情を聞いてみれば、取り壊し予定だった廃ビルの屋上から飛び降りたのだと。


 ぼくは許せなかった。もちろん、それは父に対してもそうだった。


 でもぼくが本当に許せなかったのは、母なのだ。


 ぼくの知らないあいだに、知らないところで死んでしまった母が許せなかった。


 ぼくを置いていった母が、どうしても許せなかった。

 そうやってぼくを悲しませた母が、本当に許せなかった。


 だからぼくは──人の死に立ち会いたいのだ。



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