きみをころしたい。

静沢清司

第1話

 ぼくは、人の死に様をこの目で見たかった。


 およそ何万人もの人が、この一刻一刻と時が流れていく合間に命を落としている。その事実に思うことがあるとしたらそれは、哀しい、だろう。


 ぼくも同じだ。誰かが死んだという事実に喜びを得ることはないし、ましてや快感を覚えるなんてそんな特殊性癖もぼくにはない。


 でも、一つだけ人と違うところがぼくにはある。


 もしかしたらぼく以外の誰かもこんなことを思うこともあるかもしれないけど、それでもやはり珍しいことだと思う。


〝人の死に、触れたい〟


 その未知の瞬間にぼくは指先でなぞるようにして触れてみたい。


 どんな色彩がそこに広がっていて、どんな気分を味わえるんだろう。そんな細かいことばかりが気になるのだ。


 そして──どんなに哀しいものなんだろう。


 だからって人を殺したいとは思わない。それは立派な殺人罪だ。ぼくは人を殺して、家族や友達を悲しませたくないし、なにより人の人生そのものを背負いたくはない。


 かといって自ら命を棄てるなんてこともしたくない。とても痛いだろうし、なによりぼくはまだやりたいことがある。


 あくまで死に触れたい、というのは人生においての途中目標であり、最終目標ではないからだ。できれば最終列車の行先は安らかな死であってほしい。


 だから難しい目標なのだ。もちろん最初からそんなことは承知だったので、今後、何十年と続いていく人生のなかで人の死に触れることなんてできないのだろう。この日まで、そう思っていた。



 そこは屋上だった。

 ぼくの通う高校の屋上。シルバーのタイル状の床が夕陽の光により朱色に染まり、そのまわりには鉄製の塗装のはがれたフェンスが立てられている。他には赤いペンキで塗られたベンチがこの四角状の空間の端に二個ほどある。


 よく昼休みにはそのベンチで友人といっしょに昼食をとる。なによりぼくはこの場所をひどく気に入っているものだから、嬉しいことでも、悲しいことでも、何もなかったときでも、放課後などの空いた時間にここに来ることはあった。


 だけど、今日のことでぼくはさらにこの場所を好きになってしまった。


 だって──飛び降り自殺をしようとしている少女の後ろ姿を、ぼくは見ているんだから。


 夕陽が地上の果てから顔を出して、ぼくらを照らすように朱色の光を放っている。ぼくはまぶしくて、額の前に腕をもってきて、その光を防いでいる。


 くだんの少女は屋上のフェンスを乗りこえて、これから飛び降りようという段階だった。その少女は黒く長い、流麗な髪をもっていた。


 このとき、一瞬の生ぬるい風が制服を着た彼女の髪をなびかせる。そのときに垣間見える、折れてしまいそうなくらい細い首。欲情させるほど、奇麗なうなじ。


 後ろ姿しか見ていないからわからないけど、美人なんじゃないかとぼくは思った。


 ぼくは近づく。なるべく気づかれないように、息を殺し、足音を控えて歩いていた。


 ゆっくり、ゆっくり。


 そんなふうに頭のなかで唱えながら。


 でも前ばかりを見ていたせいか、ぼくはそこで失敗してしまった。


 風によって移動してきた菓子パンの袋が、ぼくの足元に来たのだ。


 それでぼくの視線は前方で立っている少女。

 だからぼくはその袋を踏んで、この静寂を切り裂くように、その乾いた音がぼくの耳に届いた。


 ぼくはしまった、とばかりに素早く足裏を地面から離す。

 視線を下に落としてみると袋があった。

 そこでやっと気づいたぼく。


 前に視線を戻す。

 すると少女は夕陽を背にして、ぼくをじっと見ていた。


「──」


 お互い、沈黙である。

 ぼくは何度か口を開こうとしたが、雰囲気に流されてそのまま何も喋らないままでいた。


「止めないんだね」


 少女は無表情のまま、言った。凛とした、それでいて糸のように線の細い声。

 でもしっかりとそれは聞こえた。


「止めたくなくて」


 ぼくは素直に答えた。


「なにそれ。止めるものじゃないんだっけ、こういうの」

「止めてほしかったってこと?」

「別にそういうわけじゃないけどさ」


 彼女はごまかすように言った。

 やっぱり止めるべきだったのだろうか、とぼくは少し反省した。


「はあ」


 少女はため息をついて手前のフェンスを乗りこえてきた。

 それからぼくのほうにつま先を向けて歩いてきた。

 ぼくは今から何をされるのだろうかとひんやりとしたものが背中を這う。


「なんでやめたの?」

「やめないでほしかったの?」

「たぶん、やめてほしくなかったかも」


 ぼくは正直に自分らしく答えた。


「そう。でも残念だね。今日はもう飛び降りないよ」


 ぼくは小首を傾げて「なんで?」と尋ねた。

 少女はそう尋ねられると、ちょうどぼくの横で足を止めた。彼女の目の前にはもう扉がある。


「理想はね。誰もいない場所で、誰にもその瞬間を見られることなく死ぬのがいいんだ」


 どういうこだわりなんだろう、とぼくは眉をひそめた。

 しかしすぐに彼女は足を進めた。


「そういうことだから。今日のことは忘れて」


 そういうこと、というのはつまり屋上に来ないでほしいということか。

 普通に考えればぼくが彼女をこの屋上に行かせないよう止めるべきなんだろうけど。



 次の日の放課後。

 ぼくはつい、というかほぼ意図的になんだけど、また屋上に来てしまった。


 ちょうどあの少女がフェンスのほうへ歩いているところだった。ぼくが開けた扉が閉まる音で、ようやく少女は気づいて振り向いてくれた。


「またきみなんだ」


 少女は怪訝そうに眉根にしわを寄せる。


「ぼくの台詞だと思うよ、それ」


 このとき、夕暮れではなかった。ほの暗い雲が空を覆っていて、およそ太陽の光というものをさえぎってしまっているからである。


 冷たい風がぼくの頬を撫でていく。


「あーあ。また台無しになっちゃった」


 眠たそうな目をして、さほど残念そうでもなさそうな調子で彼女はそう言った。


 ぼくはそんな様子を見て、さらに好奇心を刺激された。

 これは自殺をする人に対して投げかける質問としてはあまりにありきたりなものであるが……。


 ぼくは彼女の黒い瞳をまっすぐに見据えて、なんでもないことのように尋ねた。


「ねえ。なんできみは自殺しようって思ったの」


 彼女にしてみれば、それは「自殺しようなんてだめだ」という言葉にも聞こえてしまうのかもしれない。


 でも逆にぼくにしてみれば、この質問の裏にそんな優しい(優しいのか?)言葉などないのだ。


 ただの疑問。

 きみはなんでピーマンが嫌いなの、という質問と同じ。


「教えたところで、どうなるっていうの」

「前提としてどうもしないと思うよ、ぼくは」


 ぼくははっきりとそう断言した。


「でも、教える義理なんてわたしたちにはないでしょ?」


 たしかに、とぼくは頷いた。

 そのあと彼女は少し短いため息をついて、何歩か歩いてぼくのほうへ近づいてくる。


「逆に訊くけど、あなたは自殺しようとしてる人を見て、どうしてそう平然としていられるの」


 その言葉に苛立ちや嫌悪といったものは感じられなかった。


 先ほどのぼくと同じ、単なる疑問でしかない。

 少し、安心した。


「ううん。そうだね。なかなか難しいし、理解してもらえないと思うけど」


 ぼくは一度頷いて、言った。


「うん。ただぼくは、人間の死っていう瞬間に立ち会ってみたいんだ。単なる興味。単なる悪趣味な好奇心。それだけだよ」

「人間の死に立ち会ってみたい、か。変な人だね」

「昔からよく言われるね」


 そうぼくが言うと、彼女は初めてくすりと笑ってくれた。

 でも、笑ってはいけないと思っているのか、すぐに顔はいつもの無に戻った。


「でもそれなら、自分で人を殺したり、自分で死んでみたりすれば済む話なんじゃないの?」


 ぼくは後頭部を搔きながら答えた。


「それだとぼくはとんでもない罪人になるし、とても痛い想いをする。なにより、家族を悲しませることになるだろうしね」


 少女は小さく、「家族、ね」とつぶやいた。


 そのときの彼女の視線は灰色の雲のほうへ向けられていた。でも雲よりも奥にある何かを、そんな遠いものを見ているような気がした。


 簡単な言葉で彼女を表すなら。

 その少女はひどく──儚げだった。



 次の日。

 ぼくは一度、廊下を歩いているときにあの少女を見かけた。

 そもそも、教室で言い寄ってくる女子たちから逃げ出してきたのだが、その偶然で見てしまったのだ。


 彼女は教室で独りなのだろうか、と勝手にぼくはそう思っていたのだけど、実際は違った様子でいた。


 彼女は多くの友人に囲まれていた。どんな話題なのかわからないが、さぞかし楽しそうに満面の笑みを浮かべて笑っている。そんな彼女のことが気になるのか、彼女のことをちらりと(またはじーっと)見ている男子がいる。


 彼女の容姿はとても綺麗な作りをしている。鼻筋はまっすぐ通っていて、色白の毛穴一つ見えない美肌。フェイスラインをなぞるようにしゅっとした小顔。ピンク色の健康的な唇。細い眉に、大きい黒い瞳をもった切れ長の目。スタイルはバランス良く整っている。


 校内では人気な美少女である。


 彼女はその集団に染まっている。当たり前のことだ。


 でもなぜだろう。


 これも勝手なぼくの憶測でしかないが。


 笑っている彼女の顔にも、昨日の儚げな面影が残っていた。

 向日葵のような明るい色彩のなかに、ほんの少し、目立たない程度に暗い色彩を忍ばせている。


 明日の天気はなんだろう──と、漠然とそんな疑問が浮かんだ。


 爽やかで、清々しい快晴なのか。

 鬱陶しい、重々しい暗雲なのか。

 

 どちらにしても、きっと──彼女は黒い傘をさしたままなのだろうけど。


 でもそのほうがぼくとしては都合が良い。このまま続けていればきっと、彼女はぼくの目の前で飛んでくれるだろうから。


 

 その日の放課後。

 ぼくはいつもどおり、屋上に来ていた。


 ひんやりとした風が僕の横を通りすぎていく。

 今朝は晴れだったのが、曇りになってしまったのだ。


 どうやらぼくのほうが早く先に来てしまったみたいで、肝心のあの少女はまだ屋上に訪れていなかった。


 ぼくは鞄をおろして、そこから一冊の本を取りだした。

 小説である。

 特別グロテスクな内容ではない。ただの推理小説。ただの娯楽。


「なんでいるの」


 声がした。耳を癒してくれそうな、とてもきれいな声。

 そんな声で喋る人は間違いなく、あの少女なのだろう。


 ぼくは読んでいた本をぱっと閉じて、それを鞄にしまった。

 立ち上がる。

 ぼくは彼女を目を合わせて、昨日から考えていたことを口に出した。


「良いこと思いついたんだけどさ」


 なに、と彼女は小首を傾げた。

 ぼくは思わず、笑みをこぼす。あまりに自分の提案が馬鹿げていると思ったからだ。


 でも、根底では本気である。この提案は冗談なんてものじゃなく、ぼくのなかにある確固たる意志を込めた提案。


「きみの自殺、手伝おうか」


 彼女は最初、ぱちぱちと何度も瞬きをした。


 そのあと、何を言っているんだろう、という呆れ気味の表情を浮かべてぼくをじっと見ていた。ぼくはただ沈黙を守り、本気なんだと目で伝える。


 彼女のほうもただただ沈黙に徹している。

 しかし言葉など使わずとも、彼女の言いたいことが目で伝わってくる。

 おそらく彼女はこう言いたいのだ。


〝冗談で終わらせてよ〟


 でもだめだ。

 これを冗談で終わらせるわけにはいかない。彼女がぼくの目の前で死んでくれるためには、距離を詰めなければならない。


 ──そうしなければ、彼女はたった独りで死んでいくのだ。


「そんな面倒なこと、しなくていいから」


 さんざん呆れたのか、彼女はそう言ったあとで深いため息をついた。


 おそらく学校で過ごしているときから疲労が蓄積していっているんだろう。極めつけには、ぼくのこの提案だ。疲れがため息となって出るのは仕方ない。


「面倒じゃないよ。これはぼくにとっても、きみにとっても利益があるんだ」

「ふうん。どういうこと?」


 彼女は耳に髪をかけた。


「ぼくは人の死に立ち会いたい。きみは自殺をしたい。最終的な目標は違うけど、ある程度それまでの道のりはともに歩んでいけると思うんだ」

「具体的には?」

「そうだなあ。たとえば、そう──きみにとって最高の自殺スポットを探しに行く、とか」


 そう言うと彼女は眉をひそめつつ、首をひねった。

 その反応から見て、どうやら微妙そうだった。でもここで諦めるわけにはいかない。ぼくは続けて話した。


「ほら。学校の屋上だと色々な人の目につく。それにね、この高さからだと自殺に失敗する可能性だってあるんだ。もしかしたら死ねないかもしれない。きみが理想としている、誰の目にもつかないという点と、そもそも死ねるかどうかではここは条件を満たしていないんじゃないかな」


 たしかにね、といったふうに彼女は何度か小さく頷いた。

 ここで押し通せばいける──ぼくはやっとここに希望を見出すことに成功した。


「だからなるべく、いや絶対に人の目につかない、死ぬのに充分な高さのある建物があればいいでしょ? だからさ、行こうよ」

「……一つ、いい?」

「うん?」


 片眉を上げて、ぼくは何度か瞬きをした。

 やはりこれでは不満なのだろうか──という不満が胸に募っていく。


「誰の目にもつかない……って言ったよね?」


 ぼくはそこで眉を寄せた。

 いったい彼女は何を言いたいのだろう。

 そんな疑念がぼくの胸の内側でうずまいている。


「わからないの?」

「わからないよ。そんな回りくどい言い方されたって」


 そうぼくが即答すると、彼女はさぞおかしそうに口に手を添えて笑った。


 最初はくすっという笑い。でもぼくの表情がそんなに面白いのか、ぼくに一瞥いちべつを送ってから、仰々しく、お腹を抱えて高らかに笑っていた。


「いったいなにがどうしたっていうんだよ?」


 ぼくは尋ねる。


「誰の目にもつかない──なんて、嘘っぱちじゃん」

「嘘じゃないって」

「嘘だよ。一番くだらなくて、一番面白い嘘」

「ううん?」


 さらにぼくはわからなくなって、腕を組んで首をひねっていた。

 思考を巡らせていたのである。しかしどんなに考えてもわからなかった。ぼくがいったいどんな嘘をついたというのか。


「──きみが見てる」


 そう、彼女は微笑みながら、ぼくを指さした。

 楽しそうに。おかしそうに。


 彼女のその顔に、昼間に見たあのかげりはなかった。

 儚げな少女、というイメージが少しずつ音を立てて崩れていく。


 ぼくは虚を突かれた気分になって、唖然あぜんとしている。

 この、胸のなかにあふれてきた温もりはなんだろう。

 この温もりに名前をつけるとしたら、どんなものだろう。


 でも、つけたくなかった。もったいない気がした。それに……つけてしまえば、ぼくというぼくが簡単に崩れ落ちそうな気がした。


 本来の目的を、ぼくは見失ってしまいそうだった。

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