第24話 千里行

 営丘は新城の最奥にある四合院からは、四六時中、塤の音色が聴こえてくる。

 この邑で下働きを始めたばかりの御者や庖丁は、その屋敷の前を通るとき、ひととき足を止める。さてこの風雅を奏でているのはどこの姫かと、門前を掃き清めている下女に声を掛ける。

「ここは玲姜様のお屋敷でございます」

 その応えに、内心はどうあれ、誰もが一様に鎮痛な顔をしてみせる。

 ああ、あの。どうりでこの音は何とも物寂しい。

 

 その日通りがかったのは、鄭より来たばかりの楽人で、中でも塤を吹かせれば人後に落ちぬと自負する名人だった。

 彼は道端で暫く音色に耳を澄ませた後、何だか納得の行かぬ顔で首を傾げる。

「もし。本当に、ここが玲姜様のお屋敷なのですか」

 ええ勿論と、下女が、箒を使う手も止めずに応える。

 素気ない返事に気圧されて、優男はしきりに首を傾げながら、自分を呼びつけた貴族の邸宅へと歩いていく。

 気のせいだろうか。いやしかし。

 もう一度、名残を惜しむように振り返る。抜けるような晩夏の蒼穹に、まだ微かな音色が響いている。

 やはり、これはどうにも。

「───薄幸の姫が奏でるにしては、随分と楽しげな音ではないか」

 右に左に首を傾けながら、男は道を歩いていく。


 市で買った果実の籠を手に、麟は、四合院の戸をくぐった。

 塤の音を辿り、中庭へと向かう。

 梨の木陰に敷かれた筵に、玲姜が腰を下ろしていた。朝の白い陽射しが、その陰影を色濃く描いている。

 演奏が止まった。麟は、籠を持ち上げる。

 はやる気持ちを悟らせないようゆっくりと近づいて、筵に腰を下ろした。

「早成りの木通が売ってたから」

 紫の実を掴んで、渡す。木通の旬は、もうひと月は先だ。そのせいか、実はいささか小ぶりだった。

 受け取った玲姜は、にやりと口の端を持ち上げる。

「少しは気が利くようになったじゃないの」

「お褒めに預かり光栄至極」

 麟の応えに、くすくすと玲姜が笑う。

 絹の深衣を纏い、きちんと髪を結った彼女は、やっぱり天女のように綺麗だった。

 えいと小さな掛け声を発して、柔らかな実を縦に裂いた玲姜が、ふと麟の腰に目を止めた。泰山で無くした筈の佩剣が、吊り下げられていた。ただし、柄に彫られていた獣の姿はない。

「剣、どうしたの」

「新しく買った。見て」

 鞘から剣を抜く。鈍い鉄の輝きの代わりに、艶やかな木目が逆光に翳った。

 樫で作られた木剣だ。

 今の麟には、これで充分だった。


 あの後、すぐに麟は玲姜が何を犠牲に兵を動かしたかを知った。初めは呆然として、その後から妙な笑いが込み上げてきて、足の傷に酷く響いた。やはり彼女には役者の才能がある、と思った。

 戦車に揺られて営丘まで帰り着いた後、玲姜は、実父の斉公にだけ真実を伝えたらしい。とはいえ対外的な影響がどうにかなるものではなく、那国以外にも幾つか挙げられていた玲姜の婚姻話は、全てご破産になった。

 母と暮らすのが気まずいから、という理由で、玲姜は自らの邸宅を斉公に願い出て、それは間もなく受け入れられた。屋敷の完成に合わせて、身の回りの世話をする者が募られた。御者、庖丁、厩番、掃除夫その他諸々。

 その中にひとつ、「側仕」という役目のよくわからない募集があった。玲姜が決めた要項はこうだ。

 年の近い独身の娘であり、弓馬の術に長け、剣戟の道に通じていること。心身の頑健な胡人であればなお良し。

 勿論、門戸を叩いたのは一人だけだった。


 側仕の主な職務は玲姜の話し相手と市場への買い出し、それから護衛で、概ね暇だ。暇だけれど、麟が剣を振るう時間は減った。代わりに、文字を習い、音楽を学ぶことにした。扱う楽器は、塤を避けて簫を選んだ。

 師である玲姜によれば、才能らしいものは一切無いらしい。


 玲姜が、長い睫毛を伏せて、そっと麟の肩に体重を預けた。汗でも、桃のような体臭でもなく、深衣に焚きしめた薫香が麟の鼻をくすぐる。それが少しだけ寂しくて、でも、やっぱりこの香りが彼女に一番似合うと思った。

「あの剣の柄口に、彫り物があったでしょう」

「うん」

「宮中の学人に話したの。そうしたら、それは獅子じゃないかって」

 初めて聞く名前だった。聞けば、遥か西方に住む、禽獣たちの王であるという。

「形とか素材とか、色々質問されたわ。剣は無くしたって言ったら、物凄く落ち込んでた」

 そのときのやり取りを思い出したのか、玲姜は微かに苦笑いを浮かべる。

「何だか勿体無い気もするわね。あの剣は綺麗だったし、麟に似合っていたのに」

 麟は、崖下に落ちた剣を探さなかった。

 父に授けられたあの剣は、もう役割を終えたのだと、不思議なほどの確信があった。

 かの一振りこそ、狼の子として生まれた麟の牙であり、爪だった。あの剣がなければ、今まで生き延びることは出来なかっただろう。鞘から抜き放った白刃は、まるで躰の一部かのようによく馴染んだ。柄を握り、鞘を抱くと、父が側にいるような気さえした。

 弾かれた剣が崖下に落ちたときは、まるで片方の腕を失ったかのようだった。

 それでも、と思う。

 どれだけ才が無く、不恰好であっても、今は、簫を手に生きたい。いや、簫でなくても構わない。鍋でも鋤でも、箒だっていい。

 人の躰は、時間をかけて変化する。いずれは麟の手も、柔らかくなるだろう。


「ねえ、麟。そういえば、まだ、あなたの本当の名前を聞いていなかったのだけど」

 玲姜の問いかけに、麟は、しばし瞑目してから答えた。

「忘れた」

「さすがに嘘でしょう」

「嘘じゃないよ」

 瞼に浮かぶ草原はもう、朧げになっている。父の姿も、その教えさえも。それは途方もなく寂しいことだけれど。

 でも、構うものか。

 麟は、肩に載っている玲姜のつむじに、自らの鼻先をすり寄せた。薫香の奥に、甘い桃の香りがする。

「私は麟だよ」

 君がそう呼んでくれるから、私は人でいられる。

 だからどうか、何度だって呼んでほしい。鈴が鳴るようなその声で。私の名が、一番美しくなる声で。

「麟。ちょっと、どうしたの?」

 もっと、もっと。遠吠えのように、心が叫ぶ。

「麟、くすぐったい。麟、麟ってば」


 日が中天を過ぎ、やがて翳るころ、玲姜がまた塤を吹き始めた。

 薄墨のようでいて、その奥底に、幾万もの色を秘めた音だった。

 これからも続く長い旅路の果てに、私の簫はどんな音を奏でるだろうか。

 麟は目を閉じる。どんな音でも良いと思った。塤の音色が、そこに重なるのなら。

 旅は、まだ、始まったばかりだった。

 


 このときから約二十年、管仲が没するまでの間、斉は大いに繁栄し、中原の覇者として君臨した。しかし管仲の死後、斉公は国政を顧みなくなり、後継者を巡る争いで国は乱れ、玲姜の兄である公子昭は宋へと亡命した。

 玲姜もまた国外への脱出を図ったが、既に時期を逸しており、屋敷に火を放たれて死亡した。この時代としては極めて異例なことに、生涯独身であった。

 ただ、巷間の噂によれば、焼け跡から遺体は見つからなかったという。また、火の手が回る直前、馬に乗った女官が大きな荷を抱えて駆け去る姿を見た、との証言もあるが、女人が馬に乗るなど俄に信じ難い話であり、単なる虚言か噂話に過ぎないだろう。

 荒唐無稽な、作り話である。


 (終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春秋少女千里行 深水紅茶(リプトン) @liptonsousaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ