第23話 麟
鉄塊を振り下ろされたかと思った。
剣の腹で食い止めて尚、柄を握る手に痺れが走る。相手は振り下ろした剣に体重を乗せ、強引に押し切ろうとしている。
どうにか刃を斜めに傾けて、刀身を滑らせた。
背後に飛び退く。また、足が悲鳴を上げる。
昆申は、八尺(約百八十四センチ)を超える大男だ。当然、体格に見合った膂力がある。力を比べでは相手にならないだろう。頼みの綱である身の軽さも、この足では如何ともし難い。おまけに麟は、もう五人の兵と切り結んでいる。
それでも、剣を握る手を緩める気にはならなかった。
昆申が、石壁を震わすように叫んだ。突き込んでくる。躰を独楽のように回して、自らの躰に添わせた剣で腋を狙った。剣の柄口で、強かに肩を打たれる。悲鳴を噛み殺す。
ちらと見えた髭面は、獲物を嬲る悦びに歪んでいた。
結局のところ、麟がまだ生きているのは、昆申に殺意が無いからだ。生捕るつもりでいる。剣の振り方も、情欲が滲んだ目元も、そのことを如実に示していた。
剣がかち合った隙に、また後ろへ跳ぶ。
「玲姜は、もう斉の城に入ったよ」
時間を稼げるなら、何でも良い。そういうつもりで声を掛けた。
意外にも、昆申は剣を下げた。
「だろうな。残念だ」
分厚い唇を、細長い舌が舐める。「だから、お前に代役を務めてもらおう。胡人」
「下賤ね」
自然と滑り落ちた言葉に、心の中で自嘲した。お前が言うのかと、胸の辺りで何かが囁いている。
見透かしたように、昆申が嗤った。
「お前は違うのか? 胡人」
殺して奪うのが胡人だろう。俺と何が違う。
麟は頷いた。
「違わないよ。他の胡人は知らないけど」
「そうだろう。お前の剣は、そういう剣だ。人を殺すことに躊躇いがない」
知っている。そして、今はそれでいい。
昆申が剣を構えた。問答は終わり、ということらしい。
麟も、剣を構える。足の痛みは、もう限界が近い。次の一合で決着するだろう。
耳の奥で轟々と血の流れる音がする。
昆申は金切り声を上げ、麟は無言のまま、お互いに剣を突き出した。刃と刃が擦れ合う。甲高い音を立てて、昆申の剣が二つに折れた。剣先が岩に跳ねた。
同時に、弾かれた一振りの剣が崖下に落ちる。
麟の剣が、落ちていく。
「大した宝剣だ」
口を歪めた昆申の腕が伸びて、太い指が麟の喉を掴み、力任せに締め上げた。ぐっ、と喉元から水っぽい音が鳴る。そのまま岩壁に背中を押しつけられた。幘がむしり取られ、ほつれた前髪が額に落ちる。
分厚い唇が動いて、生臭い息が匂った。
「胡人は五人ほど犯した。どの女にも内腿の筋が締まっていて、具合が良かったぞ」
「───やめて」
嗤われた。
諦めたように、麟は目を伏せる。腿の裏に硬い手が触れた。征服の快楽に、昆申の目が細まる。人を蹂躙し、尊厳を奪うことを躊躇わない、獣の目だ。きっと麟も、こんな目をしているのだろう。お互い様だ。だから。
───だから、文句言うなよ。
腰帯に挟んでいた、折れた鏢を抜き取る。手妻のように現れた刃物に、昆申の金壺眼が見開かれた。
髪一本分の迷いもなく、その右目に鏢を深々と突き立てる。絹を裂いたような悲鳴が上がった。
鼓膜を震わせるその絶叫に、麟は、少しだけ笑った。
昆申が、膝を折った。遠巻きに様子を見ていた兵が、何か喚きながら、矛を構えて駆け寄ってくる。今度こそ、麟は身に寸鉄も帯びていない。右足も、それ以外も限界を超えた。そっと目線を地面に落とす。
───ごめん。
最期に考えたのは、やはり、彼女のことだった。
けれど。
いつまで待っても、来るべき痛みはなかった。
視線を上げる。矛を手にした兵は、隘路の半ばでぽかんと口を開けて空を見ていた。
違う。空じゃない。
視線を追う。
岩壁の上に、斉の旗が掲げられていた。
初老の男が進み出て、こちらを睥睨するように見下ろした。朱に染め抜かれた長袍の裾が、あるかなきかの風に揺れる。
管仲───師父が、蒼穹に朗々と声を響かせた。
「兵は武器を置いて投降せよ。さすれば、斉国の宰相たるこの管仲の名に置いて、命だけは助けよう」
その名が与えた衝撃は、降り注ぐ稲妻のように劇的だった。犬戎を討伐し、燕を救った中原の英雄を前に、魯の兵たちは我先にと矛を投げ捨て始める。
麟はちらと昆申を見た。
獣は眼球ごと鏢を抜き、血の滴る眼窩を押さえながら、残った片目で呆然と岩壁の上を見つめている。
いつの間にか、隘路の両側にも斉の兵が詰め寄せていた。
「魯人は頑迷と聞くが、実に素直で宜しい。さて」
師父の手が上がると、左右の斉兵が駆け出し、一糸乱れず昆申を取り囲んだ。
「な───何の真似だッ」
自身を囲む矛の煌めきに正気を取り戻したのか、昆申が叫んだ。
「管宰相! ここは魯の領地であるぞッ! いかに卿とはいえ、宣戦の礼も無く兵を踏み込ませるなど‼︎」
自らを棚に上げてよく言う。麟の唇に冷笑が浮かんだ。
「まして、いかなる理由でこの昆申を捕らえるというのか!」
「知れたことだ、痴人」
「な」
言葉を交わすのも躊躇われる、とでも言わんばかりの態度に、昆申の顔色が変わった。赤から白へ。そして蒼へ。
これは勘違いや手違いの類ではないのだと、今更理解が及んだようだった。
師父が、鉄槌のような声を発した。
「玲姜殿下の身柄を捕らえ、その歯牙に掛けたであろうがッ!」
「……は」
蒼白になっていた昆申の髭面が、弛緩した。顎が落ちて間の抜けた顔になっている。ぱくぱくと口を開け閉めしてから、
「ご、誤解だッ! まだ何もしてはおらぬッ」
「何を言う。すでに殿下が涙ながらに証言されたことだ」
「それは───違う。い、偽りだ!」
ほう、と師父が、長く細い髭を撫でた。
「殿下が虚言を弄したと申すか。この上、侮辱を重ねるのか」
「いや、それは、だが俺は」
本当に何も、と消え入りそうな反論が口から零れ落ちた。
「豎子(小僧)め、まだ分からぬか」
師父が、まるで若武者のような身軽さで岩壁を駆け降りた。息一つ切らさずに昆申の元へ寄る。慌てて兵が横に退いた。
周囲にだけ聞こえる音量で、師父が告げた。
「お前が何も出来なかったことくらい、先刻知っておるわ」
昆申が目を見開く。
「その上で、『そういうこと』になったのだよ」
「そ、そんな───こんな真似をして、魯が黙っていると」
苦し紛れに放たれた言葉を受け、師父の顔に、あからさまな嘲笑が浮かんだ。
「だから豎子と言ったのだ。何も見えておらん。いいか」
師父が昆申に顔を寄せる。声は更に小さくなったが、麟は人より目も耳も利く。だから、師父の言葉が聞き取れた。
───季宰相には話が通っている。親斉派の季友としては、強硬派の貴殿は邪魔なのだ。
「ほ」
魂魄が抜け出たかのように、昆申の顔から、全ての表情が消えた。唖然として師父の顔を見上げている。
師父は、蔑みと同情と、悪戯が成功した子供のような稚気を織り交ぜた目で、その視線を受け止めていた。
「あ、悪辣な……貴様も、季友もッ……」
「当たり前だ」呵々、と師父が嗤った。
「我らは人だからな」
たかが獣の殺し合いと一緒にしてくれるなよ、と嘯いて。
師父は、長袍を翻した。
「将のみ山城へ連れ帰り、車裂きに処せ」
はっ、と無数の兵が唱和する。
がくりと、昆申の首が折れた。
その姿に、麟の意識を支えていた糸が切れる。
意識を失う寸前、兵の間をかき分けて、こちらに駆け寄ってくる誰かを見た気がした。
───良い人生には、良い朋友が必要だぞ。
真っ黒に落ちる視界の中、師父の涼やかな声が、残響のように木霊した。
是(はい)、師父。是。
本当に。
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