第22話 管仲

 元々、来客に備えるような建物ではないのだろう。案内されたのは、執務を行うための一室だった。書き物するための卓に硯と筆が置かれていて、質素な棚に幾つかの竹簡が収められている。それ以外に、目につくものはない。

 玲姜がじりじりと膝を揺すっていると、ようやくぞろぞろと兵を連れた恰幅のいい男が入ってきた。

 男には、こちらを探るような、媚びるような気配があった。

 玲姜はすぐに口を開こうとして、

「───管宰相。こちらです」

 土壁の向こうから聞こえた声に戸惑った。

 ありえない名前だった。

 すぐに、初老の男が入ってきた。軍事の場にはそぐわない刺繍入りの長袍から、焚きしめた香がふわりと揺れる。

 ぎょろりと落ち窪んだ目が動いて、玲姜の顔を一瞥した。

「ご本人だ」

 波のような騒めきが走った後、守将と兵の間で視線が交わされ、入り口近くにいた兵が飛ぶように駆け出した。一拍遅れて、都城に使者を出すのだ、と気がついた。

 そんなことはどうでも良い。

 管仲が、拳と掌を合わせた。

「ご無事でなりよりです、公女殿」

 慌てたように守将がそれに習う。玲姜は、性急に形ばかりの礼を返した。

 守将が言った。

「今、部下に湯浴みと着替えの用意をさせております。このような場所ゆえ不自由をお掛けしますがそこは何卒、あ、そうそう、お召し替えのあとはお食事など」

「いらないわ。それより、管宰相」

 早口で喋りながらへこへこと頭を上下する守将よりも、三軍全ての軍権を握るこの初老の男のほうが、何倍も話が早そうだ。そう見切りをつけて、玲姜は管仲に向き直った。

「魯の将軍に追われていたの。すぐそこまで来ているから、急いで軍を出して頂戴」

 玲姜は、あえて物知らずな言い方をした。これで諾を取れれば儲け物、くらいのつもりだった。

「なんと、魯の軍にですか。虎狼にも劣る奴らですな、しかし───」

「殿下」

 横から口を挟んだ守将の言葉を遮って、管仲が、再度一礼をした。

「お言葉ながら、それは出来ませぬ」

「どうして?」

「聡明な玲殿下にはお分かりでしょう。この城より先は魯の領土。殿下をお助けするためなら兎も角、昆申将軍を討つために兵を出したとなれば、それは」

 戦の礼を失した奇襲であり、中原の覇たる斉に相応しい行いではない。

 玲姜は奥歯を噛み締める。予想された反論だった。この斉国一、もとい中原一の頭脳を持つ男は、苔むした巌のように峻厳で揺るがない。

「無論、然るべき手段で魯国に申し入れは致しましょう。あれやこれやと抗弁されるでしょうが、季宰相は損得勘定のできる男です」

 玲姜は息を吸って、吐いた。つまらない駆け引きをしている時間はない。今にも、麟の頭上に剣が振り下ろされるかもしれないのだ。

「私を逃すために、麟が残って戦っているわ。あなたの家人の」

 管仲は、眉一つ動かさなかった。むしろ、隣の守将のほうが動揺している。

「それが何か?」

「何か───って、だから! 今すぐ助けに行けば間に合うわ!」

「たかが胡人の娘一人のために、国を危急に晒せと申されますか」

 恐ろしく平坦な声だった。虚飾も苦悩もない、竹簡に書かれた決まりごとを告げるような声。

「出来ませぬな、それは」

 ふと、玲姜に閃くものがあった。何故、国の重鎮が、こんな最前線の山城に来ているのか。偶然? そんな訳がない。

 脳裏に桂香の不遜な笑顔が浮かぶ。『根』。中原中に張り巡らされた、管仲だけが持つ、万里の彼方まで届く第三の目。

 ───分かっていたんだ。

 間もなく玲姜と麟が、泰山の近くを通ることを。だから、わざわざ国境の山城まで、その保護を指示しに来た。

「……知っていたのね。昆申に追われていることも、麟が私を守ってくれたことも」

 無言が肯定を示していた。

「桂香が伝えたの?」

「さて。ただ、お二人が出会った『根』は、あの二人だけではありません」

 頬を通り越して、頭の天辺まで血が上った。

「なら、もっと早く助けなさいよ!」

「出来ませぬ。殆どの『根』は、荒ごとが出来る者ではないのです。ただ、情報を売るだけの庶人に過ぎません」

 絶句して、拳を硬く握りしめる。深く息を吸って、呼吸を落ち着けた。

「麟は、命懸けで私を助けてくれた。昆申は、私に矢を射かけた。それは、兵を出す理由にならない?」

「なりません」

 言葉は、斬首の刃を振り落とすようだった。

「実際に殿下が害された訳ではありません。そしてあれは、ただの婢女です」

 この男は、血を分けた子であろうと、必要があれば見捨てるのだろう。そう確信させるほどに、迷いのない言葉だった。

 玲姜は必死で次の言葉を探す。

 光を乱反射する川の中で、麟に告げた言葉は、誓って真実だ。彼女のために、何かをしてあげたい。

 玲姜は、滲んだ血と砂利に汚れた足先を見下ろす。さきほどまで麻痺していた神経が、悲鳴を上げ始めていた。

 それでも、こんな痛みなんて、なんでもない。

 何だって出来るし、どんなものでも捨てられると思った。

 例えそれが、自分自身の未来だって。

「───妾は」

 あえて、宮中で父の前に出る時のような言葉を選んだ。玲姜の目の奥で、赫赫たる火が弾ける。拳を固く握りしめる。

 心を奮い立たせて、喉を開いた。

「妾は魯の将、昆申に囚われ───彼の妻とされ、閨において幾度もの辱めを受けました。もはや子を産むことは叶わないでしょう」

 また、騒めきが走った。ある者は目を逸らし、またある者は好奇の色を覗かせる。目の荒い麻の服が、急に心許無く感じた。

 構うものか。

「管宰相。これは、昆申を討つ理由になりませんか」

 沈黙が降りた。

 守将が、玲姜の顔をまじまじと見つめ、ふと視線を逸らし、ちらと胸元の曲線を覗き見た。

 周囲を囲む男たちの中で、ただ一人、管仲の顔色だけが、何も変わらなかった。

「それが真ならば、兵を出す理由に足りましょう」

「なら!」

 白い毛の混じる豊かな眉が、僅かに、玲姜を気遣うように下がった。

「それが真で───宜しいのですね」

 それはおそらく助け舟だった。今ならまだ、聞かなかったことにできると、彼の目が告げていた。

 その上で尚、玲姜は、逡巡せず頷く。

 管仲が、無言で一礼をした。鮮やかな朱色に染め抜かれた袖が翻る。

 全ての兵が、正しく予感して背筋を伸ばした。厳命が下る。斉で最も畏怖される男の厳命が。

「ただちに動けるだけの兵を出せッ! この管夷吾が督戦する。僅かでも手を抜く者は、営倉入りを覚悟せよ!」

 城中に届きそうな大音声が、土壁を震わせた。何人かの兵が、転がるような勢いで飛び出していく。

 権限を頭ごなしに奪われた守将が、おろおろと管仲に申し出た。

「管宰相。しかし、これは───その、失礼ながら、殿下のお言葉が真実かどうか」

「たわけッ」

 管仲が向き直り、子を叱りつけるように続けた。

「殿下が仰ったことの意味が分からぬか。殿下は今、斉が昆申を討つ理由として、御身が陵辱されたと言ったのだぞ」

「はあ、ですが」

「国境を侵し、将を討った名分は、当然、魯に伝えねばならぬ。この事は斉のみならず、魯の宮中にも伝わるのだ。さすれば人の口は止められぬ」

 斉の姫が、魯の将に力づくで妻とされた───という事実が、中原に余す事なく広まるだろう。史書にさえ、そう記されるかもしれない。そうなれば最早、円満な輿入れなど望むべくもない。

 おそらく玲姜は、生涯、あの四合院で飼い殺しだ。

「それだけの覚悟を持って告白されたのだ。尚も疑うと言うなら、其方が陰(ほと)でも覗くか?」

「いえ、そんな、その、滅相もございませぬ」

「賢明だな。斉公は娘想いの方だ。ここで昆申を逃せば、儂はともかく其方の首は飛ぶぞ」

「は───ははっ!」

 恰幅からは想像もつかない敏捷さで身を翻した守将は、指示とも罵声ともつかない大声を張り上げながら去っていった。

 部屋には、玲姜と管仲だけが残された。

「管宰相、その」

「何も申されますな。『根』が集めた情報を全て把握しているのは、臣だけです。拙い嘘も、臣が口を噤めば真実となりましょう」

「───ありがとう」

「感謝すべきは、臣でありましょう。お陰であれを助ける口実が出来ました」

 玲姜は顔を上げて、管仲の、意外なほど深い皺が刻まれた顔を見た。年齢以上に壮健な、しかし皺の奥にあまりにも重いものを隠した顔。斉一国を背負い、それのみならず、遥か中原全土までもを背負おうとする人の顔だった。

 思わず視線を逸らす。

 たった今、玲姜は、公女が負うべき責任を投げ捨てたのだ。斉の娘として、婚姻により政に資するという責任を。

 それを後悔してはいないけれど、申し訳ないとは思う。

 ふと、管仲が横を向いて、独り言のように呟いた。

「……若い頃、臣は、軍から逃げ出したことがあります」

 細められた目の隣に皺が浮かんでいる。

「その頃はまだ、老いた母がおりましてな。戦車に載ろうと足を持ち上げたときに、ふと怖くなりました。臣は、恥も外聞もなく責任を放りだして逃げたのです」

 信じられない、と思った。戦車千乗からなる大軍勢を率い、燕の山脈を越えて化外の地まで攻め入るような人だ。宮中で語ったとて、誰もが非難中傷の類と思うだろう。

 でも、嘘ではないと思った。

「本当に逃げたければ、逃げれば宜しい。そういうものです。ただ」

「ただ?」

「軍に戻ったとき、仲間から散々に責められ、詰られました。軍というのは得てして、過剰になる組織でしてな。仕舞いには石を投げられ、棒で突き回された」

 玲姜は目を伏せた。自分は、責められも詰られもしないだろう。ただ、自らの心に刺さった棘だけは、しばらく抜けそうにない。

「一人だけ、臣を庇い、共に石を投げられた愚か者がいます」

 顔を上げる。

「そやつは臣の友で、名を鮑叔といいます。臣は、あれほど美しい男を、他に知りません」

 初めて、この人の顔を見たと思った。

 土壁の向こうで、出陣を告げる銅鑼が響いていた。

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