第21話 玲姜

 空へ向けて扁平に突き出した巨岩の淵に立ち、来し方を見据える。ここから見下ろす限り、崖に沿って湾曲したこの隘路に、まだ人影は無い。

 麟は、矢筒に入った矢を岩の上に並べて数えた。

 残り十二本。

 桂香によれば追手は戦車八乗だから、兵の頭数は二十五人前後だろう。昆申の子飼いとすれば、それなりに精鋭の筈だ。真っ当に考えたら、どう足掻いても負け戦にしかならない。

 射って、逃げる。それを繰り返す。

 他に手は思いつかなかった。


 ややあって、隘路の先に、長矛を手に駆けてくる一団が見えた。三人。矢をつがえる。彼我の距離は、およそ三間(四十メートル)。

 先頭の男が気づいて、高所に立つ麟を指差した。

 放つ。肩の辺りに矢が突き立ち、男がうずくまった。悲鳴を上げたのは、むしろ残りの二人だった。負傷した男を抱えるように、岩陰に身を隠す。射手を前に、危険な行為だった。目的が足止めでないなら、射かけていただろう。

 兵の一人が、明確な憎悪を持って麟を睨みつけていた。わずかな痛痒が、胃の辺りをくすぐる。

 ───友だちだったのかな。でも。

 あなたがあなたの友のために怒るように。

 私も。

 麟は次の矢を指で挟み、弓弦を引く。


  †


 泰山は、山頂に近づくほどに勾配が厳しくなる。右手で土に埋まった岩の先を掴み、左手で松の枝を握りしめながら、玲姜は全身で躰を持ち上げた。朝方の雨にぬかるんだ黒い土に、足が滑る。強く膝を打ちつけた。もう何度目か分からない。

 肺の病を発したかのように、呼気が整わない。まるで獣の息だ、と思った。吸っても吸っても、苦しいままなのだ。

 それでも玲姜は、少しだけ、楽しかった。

 こんな風に手足を汚して、躰を痛めつけながら走るのは、あの夜、訳も分からないまま麟に手を引かれて走ったとき以来だ。田舎で育った女官が、大きな郷愁と、幾らかの羞らいと、微かな自慢を込めて語っていた山野の遊びとは、こういうものかと思った。

 だから今、本当は、少しだけ楽しい。

 思い返せば、この旅はずっと楽しかった。

 沢山の女官が黄泉へ姿を隠したし、足は豆が潰れて痛いし、虱に食われた肌は痒いし、未だに獣肉は胃にもたれるし、それでも何だかいつもお腹が空いているし、馬の背骨が当たっていたお尻が痛いし、おまけに連れ合いは愛想がない。

 でも、楽しかった。幾人もの死者たちには申し訳ないけれど、嘘偽りなくそう思う。

 散々歩き回った後に舐めた棗は信じられないほど甘かったし、着てみれば麻の服も動き易くて悪くないし、川で虱と土汚れを洗い流すのは爽快だったし、兎は淡白だけど身が柔らかくて美味しいし、馬に乗るのは最高だ。

 そして連れ合いは、最高以上だ。

 きっと玲姜は、初めて馬に乗って駆けたあの夜を、生涯忘れないだろう。二人で勝利に快哉を叫んで、川辺で満天を見上げたあの夜を。


 玲姜は公女だが、正室の子ではない。側室の子だ。それでも、中原随一の大国の姫として、相応しい教育を受けてきた。十を過ぎるころには学問と立ち居振る舞いの師がいたし、実は針仕事も出来る。塤だけでなく、簫(竹製のバグパイプ)もそれなりに吹きこなせる。

 音楽を好むのは、母を見て育ったからだろう。

 母は鄭の生まれで、やはり公女だった。娘の目から見ても、雨に濡れた梨の花のように儚げで美しい人だ。

 営丘は、庶人の住む大城と、斉公に連なる貴人が住む新城に別れている。その新城の奥深くにある四合院で、玲姜の母はよく、じっと中庭を見つめながら、塤を吹いていた。

 母が吹く塤は、いつもどこか、薄めた墨を思わせる淋しい音がした。

 伏せがちな視線の先にあったものは、おそらく中庭に植えられた棗の木などではなかったのだろう。その遥か先にあるものを、塤の音色が喚起する記憶を頼りに、静かに見つめていたように思う。

 その姿を見て育った玲姜は、いつしか、この人は寂しい人なのだと、どうしようもなく理解してしまった。

 あるとき思い立って、塤の吹き方を教えて貰うことにした。せめて音を交わす間だけでも、母の胸の裡にある渺々とした荒野に、柔らかな花が咲けばいい。そう思っていた。

 そういう母を見て育ったからか、那国に嫁ぐよう父に言われたときでも、特に何も思わなかった。ずっと前から、そういうものだと理解していた。

 私が吹く塤の音色も、やがて薄墨色になるのだろう。そう思った。

 ただ、親しい女官に閨の房事について指南されたときは、腹の中に重い氷を詰め込まれたような気になった。見知らぬ男が自分の肌をまさぐる恐怖と、その男に媚びを売らなければならない理不尽に、胃がひきつけを起こしそうになった。

 それでも、宮中と四合院を行き来して生きること自体に、不満は無かった。

 きっと自分は、貴族という生き方が嫌いではないし、そのようにしか生きられないだろう。旅を経て、それは確信に近づいた。桂香のように、諸国を巡って自由に生きるなんて、ちょっとできそうもない。

 どこまでいっても玲姜は、絢爛たる都城の奥、四合院の中庭に咲く梨の花だ。冒険なんて柄じゃない。

 でも。

 それでも、やっぱり、この旅は楽しかった。この旅を終えて吹く塤の音色は、きっと、万色にも色づく。

 ───麟。

 鈴が鳴るような美しい字を、心に奏でる。麟、麟。

 あなたが居たから、楽しかったんだよ。

 

 玲姜は、紐が千切れた沓を脱ぎ捨てた。潰れた血豆に砂利が食い込む。頬の内側を噛み締めて、鉛のような足を前に出す。天地の理に歯向かうように、躰を上へ上へと運んでいく。

 顔を上げる。

 炭色の瞳に、薄靄を纏う山城が映る。


  †


 最後の矢を放ち、弓を置いた。その一矢は狙いを逸れて、崖下へと落ちていった。息を吸って、僅かな後悔を意識の底から放り捨てる。

 麟の元へ続く隘路の入り口に、矛を手にした兵が八人、団子なっている。誰も彼も、怒りを込めた視線をこちらに向けていた。ただ、こちらの矢が尽きたことを知った安堵が、露骨なほど全身から漏れている。

 二人が矛を構えて進み出た。麟は佩剣を抜き放ち、地面と水平に構えた。

 甲高い声を上げて、二人が駆け出した。それで道幅は一杯になる。

 矛が突き出される直前、自ら踏み込んだ。すれ違い様、剣の腹を男の二の腕に押し込んで滑らせる。肉が割れ、血が噴いた。絶叫。間を置かず、もう一人の脇腹に足裏を叩きつけて、崖下へ押し出した。

 落下の寸前、信じられないとばかりに丸く開かれた目と、視線が交錯する。

 断末魔の顔は、すぐに忘れた。

 次の兵が迫っている。身を低く屈めて、跳ぶように剣をかち上げた。矛が跳ね上がる。勢いのまま剣を回して、相手の肩に突き込む。悲鳴が上がった。男が取り落とした矛を空いている手で掴んで、思い切り投げた。駆け込んできた剣兵の足が止まる。その機に深く息を吸う。姿勢を正す。

 刃が突き込まれる。剣の腹で受けた。金物同士が擦れ合う、神経に触る音がする。

 今の一合で、相手の刃先が僅かに欠けていた。それでも構わず、突き込んでくる。躰を半歩ずらして避ける。

 右足に、痺れが走った。

 こちらの突き込みが、鈍り、逸れる。舌打ちした。

 落ち着け。落ち着け。くるくると剣を縦に回す。

 何人斬っても意味はないのだ。全員は打ち倒せない。時間さえ稼げばいい。この男と、延々切り結んでいたって構わない。

 ───まあ、無理なんだけど。

 右足で、試すように地面を踏む。

 痛みが戻り始めていた。

 兵が打ち掛かってくる。振り下ろされた剣を、後ろに跳んで避けた。顔が歪む。

 左足で、翔んだ。

 剣先を矢尻のように突き出して、手を貫く。剣を落とした男が、手の甲を押さえて蹲る。

 視界の端で、隘路の口が騒ついていた。いつの間にか、兜を被った男が登ってきていた。


 †


 城は、身の丈を超える高さの煉瓦の壁に囲われていた。入り口には、矛を持った男が二人いる。肩で息をしている玲姜が近づくと、揃って怪訝な顔をした。登山を試みた家族とはぐれた迷子、とでも見えたのかもしれない。

「おい、そこの娘。何があった。ここは斉の城だぞ」

 四角い顔の門兵が、尖った声を上げた。それを聞いた丸い顔の門兵が、よせよせと相方の肩を叩いて、玲姜に気遣わしげな顔を向ける。

「なあお嬢ちゃん。迷ったか、まさか追い剥ぎにでも遭ったのかい」

 二人の問いかけを無視して、玲姜は門前へと進み出た。

 門兵は一瞬目を見合わせて、困惑したように矛を交叉する。

 この少女が斉の民ならば、保護をして飯を与え、麓まで連れて行くことができる。ただ、彼女は魯の方角から現れた。そういうときは、魯の城に引き渡すことになる。

「貴様、どこの邑の者だ。斉か、魯か」

 だから言い方、と丸い男が四角い男の脇腹を肘で突いた。目線を合わせるように膝を屈めて、尋ねる。

「どこから来たの。邑の名前くらいは分かるだろ。歴下とか、曲阜とか」

「営丘」

 ぼそりと玲姜が応えた。まだ呼吸が乱れている。

「営丘! そりゃいい、斉の都城だ。僕も一度訪れたことがあるよ。大城の市が大層賑やかでね。服だの簪だのと何でも売ってるし、道端で闘鶏なんかやってるともう、すぐ人がわんさと集まってきて」

 四角い顔が、唇をむっすりと引き結んだ。

「営丘のどの辺りだ、娘」

「いやどうだっていいだろう君はいつもそういうところが」

「必要な勤めだ。ましてや今、この城には」

「新城」

 その応えに、二人はまた目を合わせた。そこに住んでいるのは、斉公に連なる貴族だけだ。

 丸顔が、気を取り直したように尋ねる。

「どこかの公女殿下の下女か何かかい?」

 ようやく呼吸が整った玲姜が、大きく息を吸い込んで、腹の底から声を上げた。

「今すぐここの守将に伝えなさい! 斉公殿下の第九子にして公子昭の末妹、玲姜が、遥々那国からやってきたってね‼︎」


 門兵二人の目が、満月のように丸くなった。

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