第20話 作戦

 馬が、嘶いて脚を止めた。

 地面に足を付けたとき、ふくらはぎに強い痺れが走った。呼吸を整えて、土を踏み直す。

 来ると知っていて、耐えられない痛みではない。歩ける。歩けると、思う。

 駆け通してくれた愛馬の背を撫でる。頬を寄せると、荒い呼吸と、心拍の音がした。

「ありがとう、千里」

 玲姜が、彼女がつけた名を呼んで、馬の首を両腕で抱きしめた。甘えるように細く嘶いて、馬がその顔を震わせる。名残惜しげに玲姜が身を離しても、彼女は悄然とその場に立ち竦んでいた。馬は貴重だ。置いていっても、殺されたりはしないだろう。


 馬体に括り付けていた背嚢は、その場に捨てた。身に纏うのは剣と弓と矢筒。それだけだ。玲姜が持っている水筒も、空になっていたから捨てた。

 あとは、この足で登るしかない。


 山頂を仰ぎ見る。遥かに見えていた頂は、確かに手が届く場所まで近づいていた。


  †


 岩の切り立つ道を踏み締めて、躰を前に運ぶ。

 右足の痛みは、半里も進まない内に無視できなくなった。玲姜の先に歩んでいたはずが、次第に並ぶようになり、ついには遅れがちになる。

 岩肌を踏み締めた玲姜が、足を止めて、気遣わしげに背後を振り返った。そのまま麟の側へやってくる。

「膏薬、少し残ってるから」

 玲姜は麟の下履きの裾を捲り、巻いていた布を解いた。煎じた薬草と松脂、滲んだ血と膿が混ざって、布は濁った黒に染まっていた。

 我慢してねと前置きしてから、汚れを拭き取り、裂けた矢傷を口で吸う。それから帯に挟んでいた小壺に指を差し込む。

 とろりとした膏薬を、丹念に塗り込まれた。

「んっ」

 痺れるような感覚があって、麟の痛みが和らいだ。初めに塗ったときも思ったが、鎮痛の効用がある野草を混ぜてあるのだろう。裏返した布で傷を固く巻いてもらうと、足先の感覚が戻ってきた。

 立ち上がろうとする麟に、玲姜が肩を差し出した。

 断りかけて、やめた。玲姜は一人で先へ進もうとはしないだろう。素直に腕を細い肩に回して、体重の半分を預けた。

 喉を鳴らす音がする。細身でも筋肉があり、佩剣をしている麟の躰は、華奢な彼女には重たい筈だ。

 ただ、薬の効果と相まって、右足の痛みはぐっと小さくなった。

 その代わり、歩みはどうしても遅延する。やがて痺れを切らせた玲姜が、背を向けてしゃがみ込んだ。麟にはその意図が分からない。

 玲姜が言った。

「背負ったげる。そう言ったじゃない。早く乗ってよ」

「いや、あれは言葉の綾で」

「そういうのいいから、早く」

 背負わせなければ梃子でも動かない、と言わんばかりの気配に、麟はおそるおそる身を預ける。「ふぐぬぅ」と気合を込めて、玲姜が立ち上がる。

 足は、ふらついていた。

「無理だって!」

「無理じゃないわ!」

 毅然とした声が応える。

「全然、無理じゃない」

 一歩、また一歩と玲姜が歩き出す。山頂が近づくにつれ、勾配はより激しくなっている。踏み固められた土と平たい岩を交互に踏み締めていると、十歩も進まない内に、彼女は息を切らし始めた。

 その呼吸を聞いていると、麟は、どうしようもなく胸が苦しくなる。足よりもずっと、ぎゅうぎゅうに締め付けられた心臓が痛かった。

 助けてあげたいのに、助けられている。そのことが、酷く辛い。矢傷ひとつで動けない自分が情けなくて仕方がなかった。

 この気持ちは何なのだろう。心の奥底から渾々と湧き上がって止まない、この衝動は。

 

 十歩が二十歩になり、五十歩を過ぎ、百を越えた。歩みは、むしろ速度を増していた。

 玲姜の足は、最初からずっと震えている。背負われている麟には、それが如実に分かる。耳のすぐそばで聞こえる呼吸は、ぜいぜいと酷く苦しげだ。

「ありがとう」

 脈絡なく、麟の唇から感謝の言葉が滑り落ちた。荒い呼吸の隙間に、玲姜が答える。

「お礼は、逃げ切ってからにして」

「違うよ」

 背負われていることへの言葉ではない。もっと根本的で、大きなものへの感謝だった。


 やがて百歩が、二百歩になった。

 玲姜はまだ歩みを止めない。

「もういいよ」

 決意が、喉から滑り落ちる。兵の気配は、もうすぐ背後まで迫っていた。

「降ろして。このままじゃ共倒れだ」

「嫌」

 一音の返事さえ辛そうなくせに、まるで譲る気配がない。でも、玲姜は誤解している。諦めないと決めたのは、麟も同じだ。

「違うよ。聞いて。作戦がある」

「……聞くだけ聞くわ」

「私が頑張って敵を食い止めてる間に、あんたが死ぬ気で山城まで走って、守兵を連れて帰ってくる」

 玲姜が、首越しに振り返る。飛び切りの馬鹿を見る目をしていた。

「それ、国境の侵犯なのだけど」

 泰山のこちら側は魯の領土だ。麟の提案は、ひとつ間違えれば戦争の火種になりかねない。胡人の娘一人のために、そんな危険を犯す守将などいるだろうか。

 当然、いないだろう。いる訳がない。

 麟の提案は、どうにかして守将を説得することが前提になっている、絵に描いた餅の類だった。

 けれど、確かに他の手立てはない。

 玲姜が、ぼそりと呟く。

「───どうやって説得すればいいと思う?」

「さあ」麟は淡々と応えた。

「どうすりゃいいんだろうね」

 麟には本当に分からなかった。どうすれば、守兵に国境を越えさせることができるのか。当たり前だが、一介の公女に過ぎない玲姜は、斉軍への命令権を持っていない。一方で標的となる昆申は仮にも魯の将軍で、実際のところ、まだ何をしたという訳でもないのだ。

 麟に策はない。本当に何も無い。先程の作戦は、苦し紛れの思いつきに過ぎない。

 だから、

「お願い、玲姜」

 汗と土が香るうなじに鼻先を埋めて、縋るように呟く。

 この旅で初めて、麟は、無条件に玲姜へ甘えることにした。

「なんとかして」


 玲姜は肩を震わせて、二度三度と地団駄を踏み、しばし立ち止まって蒼穹を仰いだ後、ぼそりと言った。

「───どこで降ろせばいい?」

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