第19話 泰山
あの夜のように懐に玲姜を収めて、麟は手綱を握った。馬腹を蹴って、馬を走らせる。
深緑色の苔がむした三角形の巨岩。麓から見遣る泰山は、概ねそういう表現で表せる。あらわな岩肌を覆い隠す木々の緑が、淡い薄靄に霞んでいた。
泰山は霊峰だ。斉を含む諸侯を統べる周王朝───もはや権威は地に落ちたとはいえ、未だに形式上はそうなっている───の天子は、かつてこの山を踏破し、山頂に祭壇を築いて天を祀ったらしい。これを封禅という。封は天を、禅は地を祀ることを指す。
ただ、それはもはや文献の中だけにある伝説だ。それだけの儀式を行うだけの威厳は、とうの昔に周王朝から失われている。
およそ百年ほど前、時の天子たる幽王は、笑わない美女への寵愛に狂い、反乱の憂き目に遭った。首都であった鎬京は悉く蹂躙され、幽王本人も驪山の麓で首を晒された。平王が東遷し、洛邑に新たな都を打ち立てたことで王朝は存続したが、もはやどの諸侯も天子を重んじてはいない。故に封禅を試みる天子もまた、いない。
それでも尚、泰山は霊峰であり続けている。いつか誰かが、再びこの山に登り、天を祀るのだろう。きっと、この戦乱の世を終わらせるような誰かが。
ただ差し当たり、天命なき身で、この山を越えなくてはいけない。
「麟!」
後方に視線を向けていた玲姜が、鋭い声を上げた。背後を振り返る。越えてきた丘陵の地平から、数乗の戦車が姿を見せていた。
馬の首を撫でる。心の中で謝罪を口にして、馬腹を蹴った。
†
何里まで駆けただろうか。
泰山へ至る山間道は、堯帝や舜帝が治めていた太古の昔から、人が通い続ける聖なる道だ。千年を越える人の往来で踏み固められた土道が、左右にひょろりとした背の高い木々を従えて、延々と伸びている。ちらりと仰ぎ見た山頂は、ぼんやりと霞がかかっていて判然としない。
山間に入ったあたりから、また追い縋る戦車たちの姿が見えなくなった。ただ、諦めてはいないことだけは確かだ。もうずっと、うなじの辺りがぴりぴりとした警鐘を鳴らしている。
捕まったらどうなるのだろう。危機感が、役に立たない想像を呼び起こす。玲姜は昆申の妻にされるのだろう。その先は考えたくもない。では麟は? 決まってる。矢が尽きるまで射って、斬れるだけ斬って、死ぬ。
ああ、でも生捕りにされたら嫌だな。胡人でも、やはり「そういうこと」をされるのだろうか。命を奪われるのは、仕方ない。けれど、尊厳を蹂躙されるのは耐え難かった。
随分と勝手なことを考えているなと、心にいる何かが嗤った。猟師を殺して服を剥いだお前が、尊厳を欲するのか。お前は狼の裔だろう。そう、心が喚いている。
───ああ、そうだよ。私はそういう生き物だ。
今更、芯は変わらない。これからだって、必要があれば剣を奮って服を剥ぐだろう。そういう自分が、本当は、そこまで嫌いじゃない。この中原から排斥されるべき異物であったとしても、それはそれだと、心のどこかで納得している。
麟は、狼の裔だ。
でも。
でも、玲姜が、人だと言ってくれたから。
きっと彼女が見てくれている間は、人になれる。
景色が変わり始めていた。
身の丈ほどもある切り立つ巨石が、木々の合間からどしりと現れる。行く手に、勾配が現れていた。馬の脚も、駆けるというほどの速度は出ていない。無理をさせるつもりはなかった。麟の足を踏まえれば、少しでも長く登って欲しい。
盛り上がった木の根と、小岩が並ぶ道は、戦車の車輪を阻害する筈だ。車を降り、馬で追ってくる兵が何人いるだろうか。
中原では、馬に乗るのは卑しい行為なのだそうだ。それを知ったとき、怒りよりも、哀れみが先に立った。こんなに尊い行為が他にあるなら、教えて欲しいくらいなのに。
玲姜が水筒の水を一口飲んで、麟に差し出す。麟も一口飲んで、返した。栓をしたそれを、玲姜は大事そうに懐に抱える。
昨日の沐浴から、玲姜は幘を解いたままにしている。馬に乗る前に、それを使って首の後ろで髪を括っていた。揺れるそれは、馬の尾のようだ。
絹のように艶やかだった玲姜の黒髪は、この数日で毛先が乱れて、なんだか町娘のようになってしまった。雪のようだった白皙も、少しだけ初夏の陽射しに焼けて、明るい色味を帯びている。身に纏う麻布は土に汚れていて、背中からは、甘いような、酸っぱいような匂いがする。それでも彼女は、中原で一番綺麗な女の子のままだけれど。
それでも、果たして無事に山城まで辿り着いたとして、守将は彼女を斉の公女だと認めるだろうか。そのことが、少しだけ心配だった。
右手に滝が見えた。峰の上から降り注ぐ瀑布の傍に、松の木が一本揺れている。こんな時でもなければ、腰を据えて休んでいきたいくらいに涼しげな景色だった。きっと玲姜は、塤を吹くだろう。詩のひとつさえ、捻り出すかもしれない。それを聞いて、麟は何を思うのだろう。
───いや。そんな日は、きっと来ない。
山頂に至れば、この旅は終わる。玲姜は斉の公女に戻る。そうしてすぐに、次の輿入れ先が決まる筈だ。もっと安全で、価値のある相手は幾らでもいる。
だからきっともう、彼女を名前で呼ぶ日は来ない。
「麟!」
灰色がかった思索を打ち切るように、鋭い玲姜の声が飛んだ。はっとして、背後をちらと伺う。
葛折りの崖下を、馬に乗って駆けてくる兵が二騎、岩の合間に見えた。
「手綱、よろしく」
「任されたわ!」
背に負った弓を持ち直し、躰を捻るようにして、矢先を崖下へ向ける。まずは一矢。牽制だ。放った矢は、たどたどしく馬を進める兵の二歩前を行き過ぎた。怯えた馬が嘶き、立ち上がる。ころりと兵が転がり落ちた。
「へったくそ」
罵声を口の中で転がして、もう一矢。今度は、残った一騎の二の腕に当たった。落馬こそしなかったが、馬が脚を止める。致命傷ではないが、剣も弓も使えまい。
「さっすがぁ!」
玲姜が快哉を叫んだ。思わず得意げに微笑んで、また馬を走らせる。
山道は、ようやく半ばに至ろうとしていた。
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