3日目
次の日に、ぼくが『grazie』に行くことは、自明のことだったかもしれないし、義務だったかもしれない。
所要を済ませたぼくは、足早に昨日と同じ目的地に向かった。時刻は昨日より遅い。つまり彼女の方が先に来ているということだ。
古めかしい扉を押し開け、来客を知らせるベルが鳴る。
「いらっしゃいませぇ」
奥さんの間延びした声が奥から響いてくる。ぼくはまっすぐ前を見たまま、奥さんを待った。
「あら、よければ昨日と同じ席どうぞぉ」
奥さんはぼくの姿を認めると、嬉しそうに目を細め、手で昨日のテーブル席を示した。ぼくはそれに合わせて視線を動かし、彼女の姿を見つけた。まだ料理は届いていない。
ぼくは席に向かう前に、奥さんに昨日と全く同じ注文をした。
「かしこまりました。お水すぐ持っていきますねぇ」
奥さんに軽く礼を述べ、昨日の席に座る。空いた椅子にリュックを置き、その中から本を取り出す。夏目漱石の『坊ちゃん』だ。栞を取り出し、中指と薬指の間に挟む。それから物語の中に身を投じた。
「はい、おまちどおさま。それからこれはあなたのお水ねー」
奥さんが彼女の料理とぼくの水を同時に持ってきた。ぼくは視線を少し上げてそれにこたえる。奥さんの後ろに彼女の姿が見えた。本は昨日と同じだった。ぼくはすぐに視線を戻し、本に集中する。彼女の食べる音、飲む音、ページをめくる音は、心地のいい背景音楽になっていた。
そうして数分待つと、
「はい。おまちどおさま」
奥さんが先程と全く同じ調子でぼくの料理を運んできた。違うのはアイスティーがないことだけだ。こうして客一人一人に寄り添う温かい店なのだろう。店名の理由が少しだけわかった気がする。
ぼくは一旦本を置き、サラダとパスタをかっ食らう。大きな一口で美味しい料理を食べるのは、やはり至上の喜びだ。ぼくは一口一口よく噛んで、あっという間に全ての皿を平らげた。
「あらま、早いわねぇ」
客席を少し覗いた奥さんはすぐにそのことに気づき、皿を回収しにきた。その口調はまるで子の食べっぷりに喜ぶ親のようだった。
奥さんは手早く皿を片付け、数分経ってからアイスティーを運んできた。ぼくはアイスティーを一回飲んでから、本を手に取った。また栞を指の間に挟み、本の続きを辿っていく。そこから始まる昨日と同じような感覚は、鮮度そのままにぼくを包んだ。ぼくはその流れに大人しく身を委ね、本と彼女とぼくとの交わりに没入していく。
今日、その時間の終わりを告げたのは、彼女の方だった。大した音が鳴ったわけでもないのに、彼女の本を閉じる行為が明確に感じられた。体内を巡る熱が落ち着きを取り戻し、散り散りになった心が戻ってくる。全ての色彩や情景が帰ってきた世界で、ぼくは本のページを一枚めくった。近くの席からは片付ける音が聞こえだす。ぼくのアイスティーはまだ半分ほど残っている。
このアイスティーは美味しいし、元々カフェで読書をするのは好きだ。そうは言っても些か残念に思うぼくがいることは否めない、というより、そもそも否定するつもりはない。
彼女がいつも通り綺麗にテーブルを片付け、席を立つ。奥さんはその音をしっかり聞き取って、キッチンからレジまで出てきた。ぼくは本だけを見て、アイスティーを一口飲む。
彼女はレジに、向かわなかった。ヒールをコツコツと鳴らし、ぼくの席の前に立つ。ここまでされてはぼくも顔を上げざるを得ない。まるで神を直視するような恐れ多い気分になりながら、静々と顔を上げた。
彼女がいた。綺麗な茶色の瞳と、初めて視線が交わった。ぼくはその瞳に見つめられ、恍惚とした感覚を覚える。畏怖と歓喜とが手を取り合い、ぼくの胸の中で踊りだす。そんな荒れた心中とは違い、ぼくの体は金縛りにあったかのように動かなかった。ぼくと彼女が見つめ合う、不可思議な時間が流れる。
やがて、派手ではない、だが艶のある紅が引かれた唇が、小さく小さく、動き出す。
「夏目漱石、好きなんですか」
彼女とパスタを食べる話 燦々東里 @iriacvc64
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