2日目

 別の日に、ぼくはまたそのパスタ屋に行った。この店の名前は『grazie』というらしい。イタリア語で『ありがとう』の意味だ。パスタとイタリアとありがとう。何の繋がりがあるのかはわからないが、奥さんのありがとうねぇという言葉と、妙に噛み合っている気がした。

 ぼくは前回と同じ、入り口右手のテーブル席に座る。無意識に店内を見回すが、彼女の姿はなかった。時間は十二時の少し前だ。彼女が見た目通り、どこかの会社勤めで、昼休みによくこの店を利用しているなら、もう少しで来るかもしれない。

「いらっしゃいませ。どれにするか決めたら、呼んでくださいねぇ」

 奥さんが以前と同じように笑顔を浮かべて、メニューを置いていく。ぼくは去っていこうとする奥さんを呼び止め、前と同じパスタを注文した。今日はサラダと飲み物もついたセットにしてみる。

「お待ちくださいねぇ」

 奥さんは伝票に注文を書き留め、目を細めた。ぼくのことも、前にした注文も、覚えているかに見えた。平日の昼間に来る客など、一人一人覚えているとは思えないが、なんとなく、この奥さんなら可能な気がした。キッチンに去っていく奥さんを眺めながら、ぼくはぼんやり思った。

 ぼくはもう一度店内に視線を巡らせる。窓は出窓になっており、小さな観葉植物がいくつか並べられていた。茶色の樽のような鉢に、丸い葉先の植物が植わっている。その隣には、白い鉢植えに、ハートの飾りがついたピックが刺さっている。シェードカーテンの隙間から漏れる光が、柔く植物を温めている。

 その窓に面した席に、座っている人物はいない。

 ちょうどその時、入り口のベルが涼やかな音を立てる。はじかれたように顔を上げ、すぐに下げる。持ってきたリュックの中から本を取り出す。本棚から適当に選んだものだ。夏目漱石の『坊ちゃん』。

「いらっしゃい。いつものとこどうぞぉ」

 奥さんはぼくに対するときよりかは砕けた口調でそう言った。ヒールの軽やかな音が近づいてくる。ぼくはページを一枚めくった。親譲りの無鉄砲。そこから物語が始まる。ヒールの音が止まり、椅子が引かれた。彼女が椅子に腰かけると、辺りが静謐な空気をまとった気さえした。おいそれと視界に入れてはならないが、怖いもの見たさで覗きたくなる。無鉄砲で損ばかりしていたことなど、とうにぼくの頭からは消え去っていた。

「すみません」

 彼女が声を発した。静かで澄んだ声だった。この前聞いたごちそうさまですと何ら変わらないトーンだった。決して大きくはないし、通るというわけでもないのだが、不思議と耳に残る声音だ。

 ぼくはさも新しい客が来たのか、といった表情で顔を上げた。彼女がいた。茶色の髪は緩くウェーブし、同じ茶色の瞳が一対顔の中心で艶めいている。この前と似たようなオフィス向けの服装で、耳にはこれまたピアスが一つ。ぼくはすぐに視線を本に戻す。

「ちょっと待ってね」

 奥さんがキッチンから出てきた。ぼくの頼んだパスタを手に持っている。

「おまちどおさま」

 コトリと皿が目の前に置かれる。ぼくは奥さんにお礼の言葉を述べた。奥さんはぼくを見て、目を細める。ぼくは全てを見抜かれているとわかったし、奥さんもぼくがわかっていることを知ったうえでこの態度を取っている。きっと奥さんも彼女に対して思うところは、ぼくと同じなのだろう。さながら共犯者というところか。何の罪なのかはわからない。

「ごゆっくりどうそぉ」

 奥さんの言葉に軽く会釈をして、スプーンとフォークを手に取る。スプーンの上で盛大にパスタを巻いていると、

「待たせてごめんねぇ。今日は何にします?」

 奥さんが彼女に話しかける声が耳に入った。ぼくはそちらに視線を向けないで、大口でパスタを頬張る。美味しい。

「今日のパスタのセットで」

「飲み物はアイスコーヒー?」

「はい」

「待っててね」

 たしか店の中には、今日のパスタを紹介する看板などはなかったはずだ。それにもかかわらず、二人は特段気にした風もなく会話を終えた。もしかしたら彼女は来るまでのお楽しみ、を楽しむようなタイプなのかもしれない。あるいはお得意さんにだけわかるような伝達方法なのだろうか。

 ぼくはくだらない妄想をしながら、パスタを一口一口頬張っていく。口いっぱいに食べ物を詰め、ゆっくり咀嚼するのはまたとない幸福だ。セットでついてきたアイスティーの氷が溶けていく。

 彼女の席から本のページをめくる音がした。横目で見ると、この前と同じ夏目漱石の『こころ』だった。およそ三分の一くらい読み進めているようだった。本は嫌いではないが、さすがにそれだけを見て、どのあたりまで来ているかはわからない。そもそも夏目漱石はあまり読まないから仕方がない。

 キッチンからパタパタと足音が聞こえてくる。奥さんが今日のパスタのセットを持って、キッチンから出てきた。

「お待たせ。今日はカニのトマトクリームよぉ」

 奥さんは慣れた手つきで、彼女が食べやすいように皿を並べていく。アイスコーヒーも一緒に置かれた。

「ありがとうございます」

 彼女は奥さんの目を見て、静かに礼を言った。そこに笑みはない。それでも奥さんは胸打たれたような表情をする。さながら天使の祝福だ。

「ゆっくりしていってね」

 笑顔のまま奥さんは踵を返し、その途中でぼくのテーブルに目をやる。

「あらっ! ごめんなさい、後からの方がよかったかしら。交換するわねぇ」

 アイスティーはどこから見ても一口も飲んでいない状態で、氷が溶けている。コースターにすっかりシミができていた。奥さんが大慌てでぼくのアイスティーに手を伸ばすものだから、手で制しながら断りの言葉を述べた。せっかく用意してくれたものを、氷が溶けたくらいで無駄にはしたくない。

 奥さんは眉毛を八の字に曲げ、ぼくを窺い見る。

「私ったらついいつお持ちすればいいのか聞き忘れちゃって……。あなたも本を読んでいるから、同時かな、なんて一人で決めちゃったわぁ。ごめんなさいね」

 随分と茶目っ気のある人だ。奥さんの言葉に彼女は全く反応を示さない。以前と同じようにパスタを一口食べては、本を読み、帯を栞にして、またパスタを食べている。

「今度は後からにするわね」

 奥さんも反応するとは最初から思っていなかったのか、その後は特に言葉を続けず、キッチンに去っていった。

 白状すれば確かにぼくは彼女のことが気になっている。それは彼女が纏う独特な雰囲気の影響もあろうし、彼女のその見目麗しい見た目の影響もあろう。だが気になっていることと、彼女と関わりを持つことは全く別だ。ぼくはただ外から眺めているだけでいい。人を眺める行為は、不躾だと言われてしまえば口を閉ざすしかないが。とはいえ奥さんの行動はぼくを思ってのことだとわかるので、不快ではない。

 止まっていたフォークとスプーンの動きを再開する。残り少しだったパスタを勢いよく食べ、皿を綺麗にする。サラダも同じように平らげ、空になった皿たちをテーブルの端に寄せる。結露で滑りやすくなったコップを取り、アイスティーを一口飲む。氷が溶けたあとでも深い味わいがした。奥さんか旦那さんかはわからないが、丁寧に淹れてくれたことが察せられる。

 ぼくはコップを置くと、本に手を伸ばす。本の間に元々挟んであった栞を取り出し、中指と薬指の間に挟む。そして一ページ目から読み始めた。ページをめくり、合間にアイスティーを飲む。

 近くのテーブル席からも、似たような音が聞こえる。違うのはそちらからは何か食す音もすることだけだ。

 紙の音。氷の音。水の音。食べる音。キッチンからの仕込みの音。奥さんと旦那さんの声。脚を組み替えた時の衣擦れの音。穏やかな音の中に、物語が溶け込んでいく。夏目漱石の『こころ』と『坊ちゃん』が、何か濃密な雰囲気を伴って、絡み合う。その時、彼女とぼくは一つだった。空間も時間も行為も共有していた。強情だったり、無鉄砲だったりした。集中できなかったこの前とは違う。きっと夏目漱石という存在が、ぼくと彼女を引き寄せている。

 その時間は何とも言えず心地よかった。それだけで達してしまいそうでもあり、ぼくがぼくでなくなってしまいそうでもあった。

 ズズッという、些か下品な音が鳴った。途端に特別な感覚が失われていく。ぼくという存在がここにいて、『grazie』が迎えてくれている。そんな現実が蘇ってくる。ぼくのアイスティーはもう空だった。氷も溶けていたので、文字通り空だ。ぼくは指の間から栞を抜き取り、ページの間に挟む。リュックに本をしまって、立ち上がった。

 伝票を持って会計に向かう。彼女はまだ本を読んでいた。パスタを食べ、アイスコーヒーを飲み、帯を栞にしながら、本を読んでいた。

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