彼女とパスタを食べる話

燦々東里

1日目

 彼女はただそこでパスタを食べていた。

 キレイなシャツを着て、その上にグレーのジャケットを羽織っている。耳にはシンプルなピアスが一つついていた。

 背筋をしゃんと伸ばし、少しだけ顔を傾け、綺麗な茶色の瞳がパスタを見つめた。スプーンとフォークを使ってパスタを巻きつけ、薄く紅が塗られた口元に運ぶ。

その動きは決して鈍いというわけではなかったが、そこだけ世界の時間から切り離されたかのように見えた。

 彼女はパスタを一口含んでは、机に置いた本を手に取る。数ページ読み進め、帯を栞にして本を閉じる。そしてまた一口。また数ページ。

 ゆっくりと彼女だけの時間が過ぎていく。

 奥から聞こえていた店主と奥さんの会話が止む。ぼくは気づけば固定されていた視線をメニューに戻した。

「注文お決まりですかぁ?」

 人の良さそうな奥さんが、ぼくの注文を聞いてくれる。ぼくはメニューを指差しながら、シンプルなパスタの単品とサラダを頼んだ。

「気になる?」

 一瞬何を聞かれたのか分からなかった。奥さんの視線で、パスタを食べる彼女を指しているのだと知った。

 咄嗟にぼくは視線を伏せる。それが如実に羞恥を表している仕草だと、あとから後悔した。

「いつもねぇ、来てるのよ」

 奥さんは間伸びした声でそう言うと、お待ちくださいねーと言いながらキッチンへ戻っていった。

 奥さんの背中を見送って、つい彼女の方へ行きかけた視線を止める。女性の食事姿を延々眺めるなど失礼にも程がある。

 彼女に倣ったわけではないが、ぼくもリュックから本を出して、パスタが来るまでの暇つぶしを始める。

 彼女の食べる音と、本のページをめくる音、それから調理の音。店内はそれらの音が占めていた。普段ならそのような音も気にならず、物語の中にのめり込んでいるであろうに、そのときはなぜか集中しきれなかった。それどころか時折鳴る金属音を拾っては、頭を思い切り殴られたような気分になった。それでも意地で本を読み続けていると、隣から食事の音が止む。ぼくは意識も忘れてまた彼女の方を見てしまった。

 彼女のテーブルの上には綺麗に片された食器があった。当然ながらフォークとスプーンは並べて皿の上に置かれている。紙ナプキンで軽く口元を押さえつけ、汚れをとる。ナプキンの表面についた紅が、まるで極彩色だった。彼女はつるりとした爪をしていた。指先でナプキンを畳み、ウェットティッシュが入っていた袋に、全てのゴミをまとめて入れる。店主が取りやすい位置に皿とゴミをまとめ、本をビジネスカバンの中にしまった。

 ぼくはまたも慌てて視線を外す。彼女は知ってか知らずか、ぼくを一瞥もすることなくレジに向かった。

「はぁい、お会計ね」

 奥さんがキッチンから出てくる。カタカタと会計を打ち込み、古いレジにその値段が出る。彼女は静かに会計を済ませた。

「ごちそうさまです」

 彼女が声を発した。静かで澄んだ声だった。店主に対する最低限の礼儀として発せられただけの言葉が、妙に艶めいて聞こえた。彼女が言うと、たった一言がとても特別なものに聞こえる。

「いつもありがとうねぇ」

 奥さんも思うところが同じなのかは分からないが、嬉しそうに目を細めた。彼女はそれに笑むこともなく、小さく会釈だけをして去っていった。

 そういえば、彼女が読んでいた本は夏目漱石の『こころ』だったことが、なぜか思い出された。

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