主水大也


布団から起き上がるとき、私はくしゃみをした。


部屋はロールカーテンにより日光が遮られ、冬の様相を感慨深く思い出しているようで、肌寒かった。


頭がさえていくのを感じる。酸素の欠乏が頭の聡明さの維持に一役買っているものなのだと私は今初めて思った。


私はこの部屋を暖かくしようと低血圧で重みのある身体を起こす。


昇降コードに手をかけたとき、部屋のドアから2.3回ほどノックが聞こえた。


誰が入ってくるかは自明であったので、私はそれをあげながら返事をした。


ドアノブが捻られ、静かにトビラが開かれる。私と同棲している女性、実が朝香る仕草で部屋を訪ねてきた。


「おはよう」


聡明な、そして芯の通った力強い声で彼女は私に挨拶をした。手には使い古されたであろう数学書が一冊握られていた。


「おはよう」


ロールカーテンをあげた私は、日光の光に目をやられながらもしっかりと彼女の目を見て挨拶をした。


それを聞いて彼女は口に少しの笑みを浮かべて、手招きをする。奥のリビングからはコーヒーのにおいがかすかに漂ってくる。


「朝ごはん、もうできたよ。昨日の残り物だけど」


そういいながら彼女はリビングの奥に向かい、数学書を自分の席に置いた。


「いつものことだろう?それに合理的で賢いきみの判断なのだから、僕は文句のひとつも思いつかないよ」


私はお気に入りの小説を手に取って彼女の向かい側に座る。電子レンジで温めたばかりの肉じゃがと、インスタントコーヒーが置かれていた。


肉じゃがは温めすぎたのか、表面に露出しているジャガイモに水分はなくカラカラで少々焦げており、インスタントコーヒーは少し薄かった。


この朝食を皆に見せれば、顔をしかめ、なんとまあ最悪な朝食だろうというかもしれないが、私にとっては最善のものだった。


食べ物に対して手が進まない分、私は彼女とよく話してから仕事に向かうことが出来る。


「ねぇ、この数式どう思う?」


彼女はコーヒーを飲み干した後、紙にすらすらと数式を物の数秒で書き上げ、私の顔に突き付けた。


「美しいと思う」


数学的素養のない私には、このような頓馬な返答をすることしかできない。


しかし、彼女は私の答えを真摯に受け止め、喜んでくれた。私はこんな彼女を愛している。


私の知らない領域を知り尽くしているインテリジェンスな部分を、しっかりと自分を持ち、すぐに意見を言って相手を納得させるような強さも、私とは決して交わることのないきみを私は愛している。



私は人を好きになることが出来なかった。


だが、私は決して愛のない人間ではない。


親を人並みに愛しているし、5歳上の姉が産んだ子供もいとおしく思う。


ただ、私は終ぞ誰かに恋をすることはなかった。


また、私は恋を恐れている。


それは、やったことのないものやトラウマからくる恐怖ではなく、全く理解の及ばないものに対しての恐怖である。


UMAや亡霊などと同じ恐怖を私は恋愛というものに抱いていた。


それに、私の内には性別という意識が一片たりとも存在していなかった。


私の生物学的性は確かに男のそれであるが、自分自身のことを男だと思ったことも、女だと思ったこともなかった。


寧ろそのようなものに縛られることを嫌悪していたのかもしれない。


少なくとも私の性的アイデンティティは、両性(無性と言った方が適切か)なのである。


このようなものを自覚したのは中学生のころだ。


周りの友人たちは思い思いの異性のタイプを答えていった。


ほとんどの男たちは好きなものに身体的特徴をあげていき、それを告白したものを皆でバカにしあう。


私はそのさも当然なやり取りに混ざり合うことはできず、ただ愛想笑いを浮かべることしかできなかった。


話が私に回ってきたときは、その場しのぎの回答をした。


いつも突発的に考えていたので、恐らく友人からの私の印象は、タイプがころころ変わるヘンな奴といったものだろう。


いや、そんな印象を与えるほど、タイプが定まらないことが稀有なものなのであろうか。


昨日までガトーショコラが特別な地位を占めていなかったが、今日はそれを熱烈に食べたくなるように、恋愛のそれも今日明日で変化してしまうものなのではないかとも私は考えたが、理解の及ばないものに変な考察を立て、分かり切ったつもりで胸を張り、生きていくことに、果たして彼らは納得するだろうか。


少なくとも私は、そんな私自身を想像して吐き気を催した。


”恋”というものは、思春期の学生どころか、老若男女すべてを魅了させる一種の標語として、この世界に長くとどまり続けている。


それに、通常の標語というものは、色あせ、錆びていき、新たなものに修正されるように、時代によって変化するものである。


しかし、この恋の標語は、いかなる時代であろうとも謳われてきた。


あらゆる時代でこの言葉が、一大コンテンツとして幅を利かせ、魅力を失わせない。


或る時には、どこかのテリトリーを総攬せしめるような圧倒的な力をも持ち合わせている。


このような、人類の歴史を育ててきた母ともいえるものが、私の心にはいなかった。


そしてその、絶対的なアタッチメントを持っていない私が、このことに対し不安な気持ちになることもなかった。


これは重大な欠陥であると、当時の私は考えた。


私は、ある一つの拙い解決策を思いついた。


ある特定の誰かを思い続ければ、自ずとこの感覚が消えるだろうと考えた。


そして、一度恋の味を知れば、それが心に母を生み出す動力源になるのではと思ったのだ。


丁度私のクラスにはYという人気者の女子がいたので、ほかの男子に紛れ、私も彼女に恋をすることにしたのだ。


どんな行動をするときにも、彼女にどうみられるかを考え、授業時にも彼女の方をちらちらと見たり、ペア授業の時は積極的に話しかけ、作業をしたりもした。


この行為を繰り返すうち、私は彼女を、意識せずとも少し”意識”するようになった。


ある日の午後の休み時間に、彼女は私に話しかけてきた、心臓が奇妙に跳ねる。


これが恋の感覚なのだろうと私は思った。


「ねぇ、お昼一緒に食べない?」


と言った彼女の手には、風呂敷に丁寧に包まれた弁当が握られていた。


私はその提案に了承し、ともに空き教室に行って昼食をとった。


とっている間、私たちは相当の量の会話を交わしたはずだったが、私は一篇たりとも覚えてはいなかった。


つまらない会話に愛想笑いで耐えるというものも、恋愛の一節なのだと考えた。


この冷めたイベントは数週間毎日行われた。


ある日、彼女が私の手に触れてきた。


人の温度を感じる。ただ、それだけの感情だった。


この時私は、この空虚な感情を以てして、自身が自身の努力で偽りの感情を作り出していたことに気づいてしまったのだ。


私は何も言わずに立ち上がり、弁当箱を置いて教室を去った。


去り際に、私は自分と同時に彼女をもだましていたという真実に気が付き、小さな声で謝罪をした。


翌日、私の学校生活に変化が訪れることはなかった。


マドンナである彼女を拒絶した私が、肩身の狭い思いをするのは当然の理と考えていたが、どうやら彼女は昨日のことを誰にも告げていない様子だった。


私の中の恋の小さな諍いが終わりを告げたと同時に、私にもう一つの疑問が生まれた。


私が性教育の授業で教わった、異性に対し性的な感情を抱くということは当然の摂理であるということに自身が逆らっているという事実だ。


私はいかなるものにも性的な思いを抱かなかった。


そして、私が恋をしない理由のほとんどを、この欠陥が占めているのであると気づいた。


そうすると、恋というものは性的な感情を抱いた二人の間に生じる副作用のようなものであるという結論に至ってしまう。


そのようなことはあるはずがないと私は思った。


なぜならば、恋というものはいかなる媒体においても、純潔であり高次的な行いであるかのように描かれているからだ。


これでは恋がただの、性欲を美しく描くように人工的に作られたフィルターへとなり下がってしまう。


私はこの疑問を抱いた後、あらゆる人物に、その人が恋をするであろう人間の特徴をこと細やかに聞いて周った。


するとすべての人々が、恋をする基準の一つに身体的特徴をあげていたのだ。


この時私は私自身の理を理解した。


私は、恋というロマンを知らない人間にもかかわらず、恋というものを絶対的に潔癖と考える生粋のロマンチストであったのだ。


私は無知であるがゆえに、すべての事実を知った者たちが作り出した幻想を、無垢に信じている愚かな子供と化していた。


恋という概念は私が思っているよりもずっと、恣意的に作り出されたものだった。


ただ、今考えるとこの欠陥には唯一のメリットがあった。


それは、恋と愛は違う事象であるという常套句を、誰よりも早く理解できたことだろう。


私は自身に恋が出来るはずのないことを知った後すぐ、高校に進学した。


そして、身体に変化が起きた。肩幅が大きくなり、身体が角ばって、顔には産毛の代わりに黒々とした髭が濃くしっかりと生えてきた。


私はこのような二次成長を異常に忌避した。


私は中学のころと同様に中性的な外見を一生維持できるという無謀な神話を、不可能という点に目を瞑り、頑なに信じていた。


しかし現実は、残酷にも私の首元に嚙みついてきていた。


しかし、私はトランスジェンダーではなかった。私は自分を女性と考えたことは一度もなく、女性の体になることを夢想しても、それが真実の私であるとは思えなかった。


その逆も然りである。私の理想は、どちらの特徴も持ち合わせないマネキンのような身体である。


性的概念に応じた対応をされることに嫌悪を感じた。


ただ、近年新しいアジェンダとしての「性の多様性」というものにも、私は嫌悪を感じた。


確かに「LGBTQ」つまり広義的に言われる「性の多様性」というものは、性とは一様なものではなく多様なものであり、そこに正常、異常などの優劣をつけることは不当であり、是正しなくてはならないといった主張を伴っている。


しかし、それには、誰しも必ず性欲を持っているという一様が隠れており、そのうえで、性的指向や自認の多様性が保証されている。


それに私は半ば脅迫的なものを感じた。


ただ、そのような思いを吐露することなく、私は学業をすべて終え、大学に進学し、瞬く間にそれも卒業した。


私は中学校の国語教師となった。


私は自身の恋のあれこれを探すために文学作品を読み漁るうち、文学そのものに魅了されることになった。


この仕事は私にとって天職であった。


生徒の前に立ち、自分の好きな文章を教え、事務作業をし帰る。この生活を繰り返し、誰とも結婚をせず、一生を終えることが私の最後の願いだった。


そのとき、私の隣の席に誰かが座ったのだ。それが実だった。


彼女は私と同じ中学に努める数学教師だ。隣の席であるが故に、顔を合わせる機会が多く、必然的に会話の回数が多くなった。


「先生って淡泊ですよね」


実は大きなおにぎりを頬張りながら言った。


「何がです?僕はいつでも生徒に熱心なつもりですが」


私は何も食べず、ただ小説を読みながら答えた。


「いえ、そうではなく。雰囲気がです。常に何かが足りていないような、そんな空虚な淡泊です」


私は真理を突かれドキリとした。私のこの恋の欠如を感づかれたのだろうかと考えた。


「こんな私のことを、あなたはどう思いますか」


私は落ち着かず、ライターをカチカチと鳴らしながら尋ねた。彼女は妙に緊張した様子で答えた。


「なんというか、無駄をそぎ落としたようで、ともかく私は素敵だと思います」


私はこの言葉を聞いて、泣き出しそうになった。


彼女にとってはなんでもない一言、まして私の欠如に気が付いていない状態での言葉であると理解はしているが、この言葉は私の空虚が受け入れられた証左のようでひどくうれしかった。


その日から私は、彼女のことを尊敬すべき親愛なる人間として接することとなった。


彼女は数学人らしい人格で、感情が先立って行動するような人間ではなかった。


すべてにおいて合理的な判断を下した。


他の者はそんな彼女を因循姑息な人だといった目で見ていたが、私はそんな周りの影響を受けず、最善の判断を常に下す機械的な美しさに目を奪われていた。


このように私は彼女の人間性を愛していたし、彼女もまた私のことを日に日に愛するようになった。


私たちが教師を初めて2年たった梅雨の時期、それらしい雨の夜の日に私たちは肩を並べ、傘を差してあるいていた。


歩道側の住宅の庭からアジサイが顔をのぞかせている。


雨は無機質なコンクリートに生命を与えるかのように潤し、無機質なものに宿る瑕疵を洗い流した。


「私、あなたといると楽しいわ。だから……」


実はふとこんなことを言った。


だが、通りかかったトラックのけたたましい音に邪魔され、彼女の言葉の後半が、私の耳に届くことはなかった。


トラックは大きな水たまりを踏み、人の全身を濡らすには十分の水しぶきを私たちの方に目掛け飛ばした。


私はとっさに彼女をその水しぶきからかばった。その際に、抱擁するような形と相成った。


私と彼女の顔が大きく近づく、水しぶきに濡れた私の顔には、彼女の吐息が温かく感じられた。


彼女が突然、私の首に腕を絡ませた、私はこの時彼女の真意を感じ取り、静かに目を閉じた。


ただ、彼女の唇が私のものに触れようとした刹那、私の心に、一筋の黒い切り傷のようなものが浮かんだ。


気づいた時には、私の顔は、彼女から離れて行っていた。


私は恐れたのだ、私のこの彼女に対する愛が、恋というフィルターに見紛ってしまうことを、そして、得体のしれない恐怖を彼女に対しても感じてしまうことを。


私は、私自身の保身のために、彼女の行動を無下にしたのだ。私は困惑する彼女の手を握りこう言った。


「僕は君を愛している。ただ、僕は君に恋などは決してしていないんだ」


2


「ねぇ、聞いているの?」


彼女の凛々しい声が、私の過去の再生を止めた。


彼女はとっくに朝食を食べ終え、仕事の支度をしていた。私のコーヒーはひどく冷えており、虫が浮かんでいた。


「私、今日の夜遅くなるのよ。高校のころの男性の同級生に食事に誘われたのよ。そこに行ってくる」


彼女は髪を自分の指でクルクルと巻きながら言った。


「それは、とても楽しそうだね。帰ったらまた、感想を聞かせてくれ」


私はただ思ったことを口にし、立ち上がった。それと同時に彼女は私に平手打ちをした。


「あなたの心って夕日みたい」


彼女は目に涙を浮かべながらそう言った。


「それは……、少し、違う。僕の心は夕日に見えたって、その実、常に朝焼けなんだ。君は私の心なんて一つも理解しないでいいから、是だけを念頭においてほしい」


「あなたはいつだって、本当に自分本位な人ね。私のことを考えているようで何も考えてない」


彼女はそういって、足早に家を去った。


この時私は、恋を知らないということをいいことに、彼女の全てを無視していたのだと気づいた。愛と恋の違いが、私はまたわからなくなった。

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主水大也 @diamond0830

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