第8話

 叔孫豹しゅくそんひょうの病はあつくなっていった。孟丙もうへい仲壬ちゅうじんの件は、よほど叔孫豹の心労となったのであろう。

 ぎゅうの口からそれを聞かされた家臣達は愁顔を寄せ合った。ほくそ笑むのは牛ひとりである。

 病状が悪化した叔孫豹は、仲壬を呼び戻すように牛に命じた。いくら父をないがしろにしたとはいえ、跡を継ぐべき者が不在では困る。

 しかし、牛は口では「ただちに」と応えながらも、その実まったく知らせていなかった。

「いまさら戻られてたまるか!」

 叔孫豹も孟丙も死に、仲壬もいなくなったとなれば、この家を壟断ろうだんすることもできるだろう。

「ふふ、それも悪くない」

 叔孫豹にはじゃく、という庶子がいる。賢愚は定かではない。というよりも、歯牙にもかけていないといってよい。虎視眈々と策謀を練り上げている自分に勝る者がいるであろうか。

 ともかく、その婼でも担ぎ上げ、この自分が、兄であるこの自分が、叔孫家を思うままにする。

 なんという皮肉、なんという甘美な復讐であろうか!

 牛はついに、薬どころか食べ物さえ届けるのをやめた。

 ――さて、どれだけ生き長らえることができるか。

 満足に声も出せなくなりつつある叔孫豹を冷えた目で見下ろし、牛は笑った。

 すでに、牛の中で叔孫豹は哀れな死人であった。

 わずかな焦りがあったとすれば。

 それは、杜洩とせつが見舞いに訪れたときくらいのものだ。

 会わせたくはない。が、腹心中の腹心と言ってもよいこの老臣まで門前払いするわけにもいかない。

「お加減がよろしくありません。時間はなるべく短めに」

 杜洩の前に横たわる叔孫豹は、哀れなほどにか細い声で訴えた。

「牛を、殺せ!」

 その筋張った手には、が握られていた。

「牛が儂を殺そうとしている。彼奴あやつは水も食べ物も届けはせぬ」

 叔孫豹は初めて、牛の本性を知ったのである。慇懃無礼とはこのことで、牛は「しばしお待ちを」などと言いつつまったく食膳を運んでこない。

 この分では仲壬に使いを出しているというのも疑わしく、そもそも孟丙の一件も怪しまれる。叔孫豹はそれを悟り、腹心の杜洩に戈を授けようとしたのである。

 だが、杜洩はそれを受け取りはしなかった。むしろ、嘆声を押し隠していた。

 杜洩もまた、牛を完全に信頼しきっていたのである。それどころか、「あれほど献身的な看護人はいない」とさえ思っていたのだ。

「主は、人の顔も見たくないと仰せになっています。仕方がありませんので私が……」

 と、昼夜を問わず病室の側に控え、

「主が苦しんでおられるのを見ると、食欲も湧きません」

 と言って、食事もほとんど口を付けないほどなのである。

 もっともそれは、余人を近づけないようにする嘘であり、また叔孫豹に差し出した食膳を自分が口にして、さも叔孫豹が食べたように見せかけているからであった。食欲が湧かないのも当然である。

 杜洩は決して知恵のない男ではなく、むしろ切れる男だが、それでも牛の本性は悟れなかった。家人の誰一人として疑わぬほどに、牛は勤勉に見えたのである。

――主は病で正気を失ってしまわれたのか。

 そのため、叔孫豹の激しい言葉はむしろ杜洩を嘆かせた。

「主よ。欲しいと仰れば、食べ物はすぐに届けられます。なにも牛を除かれることはないでしょう」

 そう言って、杜洩は静かに戈を押し戻した。

「はははは、私めは誠心誠意お仕えしているつもりですが、ご不満なことがおありですか」

 杜洩が去った後。牛は笑いながら叔孫豹の枕頭に立った。

「牛よ……!」

「人に冷たくあたった者は、また冷たくあたられるということですよ! 恨むなら、自らの行いを恨むといい!」

「牛……!」

「ははは! この形相、醜いでしょう。父上、あなたは『誰に似たのか』とお思いでしょうが。この顔は、あなたですよ! あなたの心が表に現れたのだ!」

 襟首を掴んで引き寄せた叔孫豹に唾を浴びせながら、牛は叫んだ。

「安心なされるがよろしい。後嗣こうしには婼をたてましょう。なに、私が輔翼ほよくとなりますので、何の心配も要りません」

「血迷ったか」

 枯れ枝のような手を強く、血が止まるほどに強く握る。叔孫豹は顔をしかめたが、すでにそれを振り切る力はない。

三桓さんかんの富力は公室を遙かに凌ぐと、国人の誰もが知っておりますぞ。それは公室を食い物にしたという証ではありますまいか? ならば、私がそれに倣って悪いということはありますまい」

 床にたたきつけるように襟から手を放し、牛は立ち上がって叔孫豹を見下ろした。

「ははは! いかがです『父上』? 私はあなたによく肖ているでしょう? 世間から不肖の子などと言われずに済みます。あなたは実によい子を持たれた。ははは……!」

 牛は哄笑を残し、病室を去った。

 叔孫豹はこうして、誰にも看取られぬままに卒した。


 先君……叔孫豹の遺命だと称して婼を擁立し、牛はまんまとその補佐に治まった。しかし、懸念がないわけではない。

 ひとつは杜洩のことである。叔孫豹の腹心だった杜洩がいては、思うように家を掌握することが出来ない。

 そこで牛は、季孫きそん氏に仕える南遺なんいらに財宝を送り、型どおりに卿の礼で叔孫豹を葬ろうとした杜洩を止めさせた。

 杜洩がこれに逆らうことは分かり切っている。

「律儀な男だからな。おとなしく言うことを聞いたりはすまいよ」

 はたして杜洩は牛が考えたとおりに反駁し、叔孫豹を葬ったのである。

 それをやり遂げた杜洩は後難を恐れたか、あるいは自分に出来ることはこれ以上はないと悲嘆したか。ともあれを去り、戻ってこなかった。

 懸念ごとのもうひとつは、叔孫豹の死を知った仲壬が、斉から戻ってきたことである。

「先君の葬儀は終わり、後嗣はあなたと決まっているのです。仲壬を討ちますぞ」

 婼にそう言った牛は、返事も待たず、兵を起こして仲壬を攻めた。決着は瞬く間につき、仲壬は死んだ。数多くの国人が牛の側に着いたからである。

「おのれ、牛め!」

 その軍勢の前になすすべなく、劣勢に立たされた仲壬は戦いのなか、眼球を矢に貫かれ倒れた。呪いの言葉を吐きながら。

「おめでとうございます。先君の命に叛いた不埒者は討ち滅ぼしました。我が君を脅かす者はもうおりません」

 復命した牛は、慇懃に頭を下げた。その言葉が心にもないものだということは、自分が一番分かっている。

 杜洩を除き、仲壬を殺した。もはや、牛に恐れるものはなにもない。牛が擁立するまで、婼はどちらかと言えば目立たぬ男であった。孟丙や仲壬という正婦の子が後継と目されていたからとはいえ、すでに壮年に達しているというのにこれといった評判も立たない。

 ――どいつもこいつも、愚か者ぞろいだ。

 この自分を除いて、な。牛はうそぶく。

 仲壬の乱があったおり、国人らに牛に味方するように言ったのが南遺だと知ると、牛は東郊の三十邑を贈った。その邑は叔孫氏の食邑である。牛は婼に断りもせず、叔孫氏の領地から割いたのであった。

 得意の絶頂であった。

 しかし、黙ってそれを受け取った南遺が主に言った言葉を聞けば、どう思ったであろうか。

 実は、もともと季孫氏は仲壬を助けようとしていたのだ。だが南遺は。

「叔孫氏が強くなれば、それだけ季孫氏は弱くなるのです。あちらのお家騒動には関わらぬがよろしい」

仲壬を入れることは、叔孫氏を強くすると言ったのである。それで叔孫氏は、いってみれば正道に立ち返るわけで、それによって安定を増すと言ったのだ。それは、三桓の首座にある季孫氏にとっては好ましいことではない。

「婼が立ち、牛が助ける。果たしてそうなりますでしょうか? 決してなりますまい。必ず、叔孫氏の乱は続きます」


「馬鹿な! 馬鹿な馬鹿な!」

 牛は目を見開き、口の端に泡を溜めて叫んだ。叫び続けた。

 服装は乱れ、全身は汗まみれ。舞い上がる土埃でどろどろになっている。御者もまた汗にまみれながら無言で手綱を握り、懸命に車を走らせていた。車はわずかにこの一乗、それを追ってわずかに数名の従者が続く。

 服喪を終えた婼は位につくなり、家臣を集めて牛を伐つよう命じたのである。

 まさか、と牛は何度も呟いた。

 後嗣となる可能性など無いに等しい、目立たず、たいした取り柄もなかったはずの男である。御することなど容易いはずだった。

「愚か者め! 私がお前を位につけてやったのだ! それを忘れたか! 私を殺して、その地位が保てるのか!」

 牛は大声で怒鳴り続けたが、それこそ狼狽しきっている証だということにさえ気付いていない。

 牛は敗れたのだ。婼の器量を見誤り、そして虚を突かれたのだ。まさか、まさか。何度呟こうとも目の前の現実に変わりはなく、身一つで逃げることしか出来なかった。

 牛は斉に逃げた。なんとか国境を越え、安堵の息をついたのもつかの間。周りを兵に取り囲まれた。その兵を指揮していたのは、孟丙と仲壬の子らであった。

 彼らにとって牛は父の仇である。御者がなんとか血路を切り開こうと鞭を振るっても、執拗に追いかけてくる。

「死なん! こんなくだらない死に方をしてたまるか!」

 必死の形相で戈を取り、振るう。その気迫に押された兵を突き殺し、行く手を塞ぐ者を蹄に駆ける。

 だが、一乗の兵車とすれ違いざま。

 牛は肩口に強い衝撃を受け、のけぞった。兵車から投げ出され、したたかに背を打つ。呼吸が止まった。

「おのれ……!」

 戈を支えに身を起こす。まだ終わってなどいない。まだこれからのはずだ。まだ手はあるはずだ。

 殺してやろう。自分に逆らって叔孫氏を栄えさせられると思っている婼めを殺してやろう。たまたま手近にいたから当主に立ててやっただけのことで、代わりは誰でもいいということを思い知らせてやる。

 いや、いっそのこと自分が……。

 次の瞬間、妄想を巡らせる牛の首に深々と戈が突き立てられた。鮮血が吹き出し、全身を濡らす。

 まだ、復讐は終わっていない。まだ、叔孫豹への復讐は終わっていない。

 牛は懸命に、天へ手を伸ばした。そこに見えていたのは母の顔。

 だが、母の表情は暗く沈んでいた。悲しげに眉を寄せ、牛を見つめていた。

「母上……!」

 そんな。すべて、母上のために。すべて母上を冷たくあしらった男に復讐するために。

 何度も牛は自分に言い聞かせ、そしてまぶたに浮かぶ母親に訴えたが、それでもやはり母の表情は暗く沈み、静かに頭を振った。

「そんな! 母上、自分は間違っていたのですか?」

 むくむくと不安が湧き上がってきた。母のため、母のため。あの美しい母が、復讐を望んだ。叔孫豹が苦しむことを望み、恨みを晴らすために我が子を見えさせた。

 そんなはずがない。

 母は何も望まず、ただ愛していたではないか。叔孫豹を、それ以上にこの自分を。

 それなのに自分は、母のためになどという顔をして。その実は醜い自らの欲望を。

「母上。母上、笑ってください、どうかお願いです笑ってください母上ッ!」

 報いだ。これが母の愛を裏切った、その報いだ。

 駆け寄った兵が戈を一閃し、牛の首は転がり落ちた。


 血と数滴の涙が大地を濡らし、瞬く間に土埃でかき消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢に見た牛 一条もえる @moeru_i

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ