第7話

 ぎゅうは本心を隠しつつ、また数年を仕えた。

 叔孫豹しゅくそんひょうが狩りに出かけたときのことだ。

 やまいにかかった。

「儂も老いたか? はは。なに、疲れが出たのよ」

 叔孫豹はたいして気にもとめず、床について回復を待った。

 ――時が来たか。

 牛の目が妖しく光った。

 彼が恨んでいるのは、まずは叔孫豹である。叔孫豹は母に何もしてくれなかった。

 しかし、牛の底光りする目が向けられたのはそれだけではない。叔孫豹の嫡子である孟丙もうへいと、その弟の仲壬ちゅうじんもである。

 二人の母は国姜こくきょうである。叔孫豹はせいに残されていたその母子を呼び戻させた。斉の卿の娘だった国姜だが、その時すでにその父は亡く、叔孫豹の後ろ盾となる存在ではない。なのにわざわざ、腹心とも呼べる杜洩とせつって呼び戻した。もっといえば、叔孫豹が国姜をめとったのは斉に亡命したとき、つまり牛の母とちぎった直後である。

 その牛の母の居場所は、けっきょく屋敷のどこにもなく、郷里でひとり寂しく暮らし、死してさえ暖かい言葉の一つもかけられることはなかった。

 ――叔孫豹が関心を向けた二人を使って、意趣返しをしてやろう。

 そんな、ひねくれた感情が生まれていた。

 まずは孟丙である。

 牛は殊勝な顔をして叔孫豹のもとに膝行しっこうし、訴えた。

「主よ。万が一、ということもあります。孟丙どのもそろそろ、大夫たいふの方々と交際されてもよい頃なのではありませんか?」

「ふむ……それももっともだな」

 死につながる病とは思っていない。気弱になったわけではないが、孟丙もすでに壮年に達している。親交がないのは不都合であろう。

「よし、牛よ。鐘を作らせよ。その落成祝いに、大夫らを招待するのだ」

「かしこまりました」

 病室から退出し、牛は孟丙の元へ赴いた。斉で生まれた孟丙は、当然ながら牛よりわずかに年下である。

「おお、牛よ。父上のお加減はいかがであった?」

 ――軽薄な声だ。

 牛は鼻哂びしんし、冷えた目を向けた。なのに孟丙は気づく様子もない。

 ――父にさえ、劣る。

 孟丙は叔孫豹のような賢しささえ持つまい。似ているのは、鼻持ちならないしたり顔だけであろう。

 牛には、叔孫豹から信頼されているという自信がある。この擬態を見抜ける者はおるまい。まして、お前になど。

 牛はそんな挑戦的な思いを隠し、ことさらに愁顔を作って答えた。

「悪くはございません。ただ……」

「ただ? どうした?」

「いえ。少しお疲れなのでしょう。誰も近づくなと」

 嘘である。

 が、叔孫豹の身の回りのことはすべて、牛が取り仕切るようになっている。その信頼の厚さは家中の誰でも知っている。自分がそう言えば、あえてそれを疑う者はいないだろう。自信があった。

 はたしてその通り、孟丙は疑いもせずに頷いた。

「うむ。日頃の激務の疲れが出たのだ。騒がしいのは煩わしいのであろう。汝が父上に仕えるがいい。頼んだぞ」

 願ってもないことだ。わざわざそちらから言ってくれるとは。牛は心中で嘲笑った。

「はい。それと、鐘の落成祝いを行えと」

「鐘の?」

「はい。それには、大夫の方々をお招きせよとのことです。皆様に、孟丙様の顔見せをさせようとのお心遣いでしょう」

 しかし、牛が告げた日時は叔孫豹が命じたよりも早くであった。

 病室で行われた会話を、孟丙には知るよしもない。それに、恪勤かっきんである牛には好感さえ抱いていたので、

「そうか。父上にはまだまだご教示いただかねばならぬ。が、万が一のとき、私の事まで心配していただけているのだな」

 そう言って、微笑んだ。

 ――馬鹿め。

 牛は心中で吐き捨てた。

 落成の日がやってきた。孟丙は言いつけ通りに大夫を招き、饗応きょうおうした。邸内に、鐘の音が響く。

 ――その鐘の音は、お前の死を告げる鐘よ。

 その音を、牛はほくそ笑みながら聞いていた。

 予想していたとおり、いぶかった叔孫豹が病床に牛を呼んだ。

「まだ日が早いはずだが。どうして落成祝いをしているのか」

 すぐに口を開きそうになった牛だが、「待て」と自分をたしなめる。一拍の間を開け、わざとらしく言いにくいことを言うかのような態度を見せ、ささやいた。

「斉から客人が来られたのです。ですから、孟丙様は……」

 叔孫豹にはすぐにわかった。それは、公孫明こうそんめいのことであろう。

「言いつけに背いたのみならず、自分の母をかすめ取った輩をもてなしているのか!」

 叔孫豹は激高し、目を剥いて起きあがった。

 妻が帰国できたとはいえ、自分の不在をいいことに妻を奪った公孫明を許したわけではない。父の意中がわからぬはずもあるまいに、孟丙は公孫明を招き、もてなしているという。

「父を蔑ろにするにもほどがある! 斬り殺せ!」

 牛は狼狽えた態を見せつつ、興奮する叔孫豹の体を押さえ、寝かしつけた。

「お体に障ります。……孟丙様は、嫡子ではありませんか」

「いや。まだ君に言上したわけではない。父を父とも思わぬ輩を嫡子とするわけにはいかぬ!」

「しかし、今日は大夫の方々もいらっしゃっておりますので……」

「血で汚すのははばかられるか。ならば、賓客が退出した後に、斬れ!」

「は、ははッ!」

 叔孫豹の怒りに恐れ入った様子を見せつつ、牛は俯いたまま舌を出した。

 はたして、孟丙は邸外で斬られた。

「牛よ! これはどういうことだ……!」

 弁解する間さえ与えられなかった。


 ――あとは仲壬か。

 孟丙が死に、嫡子の座は仲壬に転がり込んだ。はたして、そのことをどう受け止めたのか。

 ――仲壬が愚物なら、浮かれているかもしれんが。

 牛はさりげなく仲壬に近づいたが、その様子はない。むしろ、誰からも嫡子と見られていた孟丙が突然斬られたことに、驚いているようだった。兄の死をいたみ、訝る色こそあれ、嫡子の座が転がり込んできた喜びはない。

「父上はどうしたというのか。兄上に過失があったとは思えないが……」

 仲壬の見たところ孟丙に父をないがしろにしたということはなく、どうして父が嚇怒かくどしたのかわからない。

 牛の謀計は悟られていなかったということだ。

 ――兄よりは、ましか。しかし放ってはおかんよ。

「牛よ。思いとどまっていただくよう、できなかったのか」

「主は、強く命じられましたので」

 仲壬は顔をしかめた。牛の口ぶりに、孟丙への同情は見られない。

「まぁ、よい。まさかとか思うが、父上は……」

 病が篤く、すでに正気を失っているのではないか。

 だが、牛はその言葉を遮る。

「それ以上は仰いませぬよう。私はただ、主のお身体を案じ、命に従うだけです」

 またしても仲壬は顔をしかめた。叔孫豹をはばかっているのは確かだが、暗に、

「兄のようになりたくなければ、口をつぐんでいるがよろしい」

 と言っているようにも感じる。不快であった。

 ――この男も、底は知れている。

 値踏みしていたのは仲壬だけではない。牛もまた、であった。

 不審を抱かれたことを牛は感じたが、真相にたどり着けていないことも悟った。自分のような臣下に、名家である叔孫家をどうこうできるなどとは思っていないのであろう。

 事実、仲壬は牛が推測したとおりに、讒言ざんげんしたなど思いもしなかった。

 せいぜいが、「この男はただ、父に媚びへつらっているだけではないのか」と思った程度であろう。もっと見所があるかと思っていたが、小才しか持ち合わせていないようだ、と。

 だからこそ、

「そういえば、仲壬様は先日、君よりなにかたまわったと聞きましたが……」

 と、牛が水を向けると、すぐに表情を変えて話に乗ってきた。

 ――せいぜい、俺を侮っていろ。

 そう思われたところで痛くもかゆくもないし、むしろ好都合だ。

 牛は実は、仲壬が玉環ぎょくかんを賜ったことなどとっくに知っていた。が、仲壬がそれを示すと「初めて知った」と言うように目を開き、うやうやしく玉環を受け取った。

「これを、どうなされました」

「公宮を訪れたとき、たまたまお目にかかることがあったのだ。まったくの偶然なのだが……その時にくださった。機嫌もよろしかったのだろう」

「さようですか……。しかし、主の知らぬ間ということになると」

「うむ、その通りだ。牛よ、父上にそれをお見せして、どのようにしたらよいかお聞きしてくれ」

「かしこまりました」

 牛の目が、またもや妖しく光った。

 これこそ、仲壬を滅ぼす口実になると狙っていたのである。

 牛はまたもや叔孫豹の元に赴いたが、玉環は見せなかった。見せるどころか、

「主は、仲壬様を嫡子とお決めになられたのですか?」

 と、問うた。

「いや。何故だ?」

 孟丙を誅殺した今、後継とするのは次子の仲壬が良い。が、それはまだ叔孫豹の頭の中だけにあることで、誰にも言ってはいない。

「しかし、すでに仲壬様は君にお目通りしている様子ですが。君は仲壬様に玉環をお与えになったようです」

「なに……!」

 それは牛の意図したとおり、仲壬が叔孫豹の嫡子として正式に目通りして玉環を与えられたかのように、叔孫豹には聞こえた。

「確かです。『どうだ』とお見せになりましたから」

「おのれ!」

 叔孫豹の怒りを恐れ、仲壬は斉に逃げた。

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