第6話

 喪が明け、再び出仕してからもぎゅう恪勤かっきんであった。

 国政に、外交にと奔走する叔孫豹しゅくそんひょうの名は天下に聞こえるようになった。その見識の高さは諸国の君主や大夫たいふに知られるようになり、叔孫家はますます栄えた。

 その評判を、季札きさつという人物も耳にしていた。

 彼は、このころ南方で力を増してきたという国の公子である。彼の名は、ある一事で知れ渡った。

 彼は末子である。が、父は季札を逸材と見て、諸兄を差し置いて彼に国を譲ろうとした。しかし季札は「兄を差し置いて即位はできない」と、父の遺命を固持したのである。

 兄たちが何度求めても頑として譲らなかったため、仕方なく長兄から順に位を譲っていくことにしたのである。これならばやがて、季札に至る。

 君主の位をめぐって骨肉の争いが繰り広げられることも少なくない。そんな中、季札の慎み深さは天下の評判となったのである。

 その季札が、諸国を訪問する使者となってを訪れた。

 魯は名門であり歴史があるだけに、しゅうの伝統を多く保っている。周の舞楽に興味を抱いた季札のために、叔孫豹は様々な歌を歌わせたが、その一つ一つに季札は的確な評を添えた。舞楽とは娯楽のためではなく祭祀であり、礼でもある。それは季札が、並々ならぬ教養人であったことを意味している。

 叔孫豹もそうした礼を重んじると自負しているだけに、季札には好感を持った。なるほど、世に知られるだけのことはある。

 季札もまた、叔孫豹を人物であると見た。

「魯で語るに足るのは、叔孫子だけか」

 帰り際、車上で季札は呟いた。小さな呟きだったが、牛の耳はそれを捉えた。

 ――賢人と名高いこの人物でも、その程度の見方か。

 淡い失望があった。世は叔孫豹のことを称えるが、牛は決してそれを認められない。

 一言で評するなら、冷血である。それが貴族の温度であると言えばそこまでだが、いかにも人としての情に欠ける。

 しかし、目の前の貴人は教養のみならず、情理においても尊崇される人物である。

「そうでしょうか」

 君子とたたえられるこの人物までもが、『父』のようであって欲しくない。挙措を見るうち、やはりこれは一角の人物だと感じるようになっていたのである。

 敬意を抱くようになっていたからこそ、その呟きに対して思わず、挑むような口ぶりで言葉を吐きだしてしまった。

「なにかな」

 季札はその口振りを訝しく思いつつも、表情には表すことなく平静を保って振り返った。

 この家を訪れて、不快に感じたことはない。それは、牛が家人の働きをよく監督し、来客をもてなすにあたって実にきめ細やかな気配りを見せていたからでもある。

 そうした家臣を持ち、家を治めているということもまた、叔孫豹を高く評する一因となっていたのであるが……。

 ともかく、それ故に牛に対しても悪感情は抱きようがない。その男の口から漏れ出た言葉が思いも寄らぬ熱を帯びていることを不審に思い、季札は牛の次の言葉を待った。

 牛が口を開く。

「我が主は、人から尊崇されるべき人物であるでしょうか?」

「魯がよく治まり、内憂にも外患にも苦しむことがないのは、叔孫子の功ではないか?」

「……知の人ではあるかもしれません。ですが、それが人の尊敬を集めるものでしょうか」

 なぜなら……と、牛は語った。

 母のことを。叔孫豹は、母に優しさを向けることなく捨てた、と牛は身の上を語った。富貴の身になったとたん、古着を脱ぎ捨てるように、積もった塵を掃き出すように、母のことを一顧だにせずに頭の外に押し出したのだ、と。

「恨んでいると? ならばどうするつもりか」

 季札の声に、牛は「はッ」と顔を上げた。

 言葉にされたことで、はっきりと自らの感情の所在、自らの望みを自覚した。

 そう。自分は叔孫豹を恨んでいる。母を顧みなかった叔孫豹を憎んでいる!

 幼い自分のそばにいなかったことではなく。「我が子」と呼んでくれなかったことではなく。自分のことを醜いと言ったことではなく。

 母を顧みてくれなかったことを。

 その恨みをどうにかして晴らしたい。

「そうです。私はずっと恨んでいた。だとすれば、行うことはひとつです」

 それを聞いた季札は嘆息し、頭を振った。

「母は尊ぶものだ。だが、それを言うならば叔孫子は父であり、いま、そなたを引き立てているのもまたあの方ではないか。そこから先のことは、子としても臣としても、考えるべきことではない」

 君子と世間から呼ばれるということは、衆人の常識に合致しているということでもある。君子は決して、衆目を驚かせるような言動をするものではない。

 ここでの言葉も、やはりきわめて常識的な、言うなれば「きれいごと」であった。

 しかし牛は、そこに季札という人物の温度を感じることが出来た。自分の境遇を顧み、気遣ってくれる人物がいたのである。たしなめたのもまた、誠意ある「返答」であった。

 しかし、心底にある恨みの感情……他者に指摘され、言葉にはっきりと出してしまったそれを消し去ることは出来なかった。

 この世に自分の話を聞いてくれた者がいる喜びを感じてはいたが、自分でもどうしようもない。季札に向ける目が未だ、挑戦的な色合いを帯びていることが、分かる。

 その目に見送られつつ、季札は車上で嘆息していた。哀れみと、諦めの混じった溜息である。

「叔孫子は賢人であったが……」

 その声を聞いた者は誰もいない。

 後日、再び叔孫豹の屋敷を訪れた季札は、彼に驚くべき事を語った。

「あなたはまともに死ぬことはできぬでしょう。あなたは善人を好むが、それを選べない」

 恐ろしい予言である。驚きで目を丸くする叔孫豹を尻目に、季札は続けた。

「よいですか。人の登用は慎重に行うべきです。でなければ、あなたは国政を預かるという重責に堪えられなくなり、災難に遭うでしょう」

 そう言い残して、季札は魯を去った。

 叔孫豹と牛。叔孫豹は尊敬に値する人物であると思っている。しかしながら、牛の切実な訴えには母への真心がこもっている。

 叔孫豹に諫言を伝え、牛のことは口外しなかったことが、季札が互いに向けた好意であった。

「なにを、馬鹿な」

 そう言いかかったのを、叔孫豹は堪えた。

 こう言ってはなんだが、自分が魯を支えているとの自負がある。その自分に、人を見る目がないとは!

 反発する気持ちがないでもなかったが。人の直言は貴重なものである。また、名高い季札の言うことなのだから、よくよく肝に銘じなければならない。

「重責を担っていることを、常に心せよということであろうよ」

 と、牛には笑った。この頃になると、叔孫豹は何事でも牛を信頼して任せ、そばに置くようになっていた。

「さようですか」

 牛は感情の色を浮かべぬまま、頷いた。

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