第5話

 もちろんのこと、叔孫豹しゅくそんひょうの子はぎゅう以外にもいる。

 せいに亡命した叔孫豹は、斉の卿である国佐こくさを頼った。国佐は叔孫豹を「賢人である」と見込み、むすめを与えた。

 他に頼る者のない叔孫豹としては、断って心証を悪くするのはまずい。といっても、断る理由もない。隣国の宰相がしゅうととなれば、強力な後ろ盾ともなる。叔孫豹はそれを承諾した。

 幸いに、この婚姻はただの形式的なものでは終わらず、叔孫豹はこの女を愛でた。そして数年の後には、女は孟丙もうへい仲壬ちゅうじんという二人の男子をもうけていた。

 孟丙が嫡子と言ってよい。家格からしても、その女が正夫人である。叔孫家に仕え始めて間もなく、牛はそのことを知った。が、別にたいした感慨はわかなかった。貴族は何人もの妻を持つものであるし、叔孫豹の年齢を考えるとそのくらいの子がいないことの方が不自然であろう。

 ただ、女をめとったのが母と出会って間もない頃だったことだけが、わずかに心に引っかかった。その時の立場を考えれば、仕方のないこととはいえ。

 その母子は斉の国にいた。帰国の際に置いてきたのである。

「迎えに行ってくれ」

 落ち着いてから、叔孫豹は妻子を迎えに使者を遣った。が、なかなか帰国はかなわなかった。斉の大夫である公孫明こうそんめいという男が夫人に言い寄り、自らのものにしたのである。

 叔孫豹は怒りを覚えつつも、

「なんとか公孫明を説得してもらいたい」

 と、杜洩とせつに命じた。厄介なことだが、杜洩ならばうまくさばくことができるであろう。

「わかりました。主は離縁したわけではなく、主君にまみえるために帰国するという公事のため、私事を顧みなかっただけのこと。どう考えても、あちらに理はありません。話が通じないお方ではないでしょう」

 そう言って、杜洩は斉へ向かった。

 その言葉通り杜洩は無事に役目を果たし、夫人と二人の子はに帰国することができたのである。

「よくやった」

 笑顔で妻子を迎え入れ、杜洩を労う叔孫豹の横顔を、牛はなんの感慨もわかぬといった顔で見ていた。

 それからまもなく、思いも寄らぬ悲報が牛に届けられた。

 ――母上が亡くなった!

 まさか、という言葉が口をついた。病だったとは聞いていない。牛の脳裏にあるのは、いつまでも老いとは無縁なのではないかという母の美しい姿だけである。

 牛は目を見開いたまま、知らせを届けた男を見つめ直した。しかし男の表情は沈鬱なままであり、その言葉は疑いようがない。

 牛は、はらわたが抜け落ちるほどの虚脱感を覚えた。

 縁者でもあるその男によると、母が病んでいたのはわずかに数日であるという。

 しばらく前から、郷に病が流行り始めた。不幸なことに、中でも特に病が重かったのが牛の母だったのである。

 これはいかんと知らせに向かうまもなく、亡くなってしまったのだという。

「母上!」

 牛は天を仰ぎ、何度も叫んだ。喉がつぶれるほどに叫ぶと、目からは涙が流れ続けた。

 その姿は、そばにいた男の目からも、つられて涙がこぼれるほどの悲しみようであった。

 男は母方の縁者であるが、これまで牛をあまり間近で見たことはなかった。どこにも嫁がぬままに子を産んだ牛の母は、腫れ物に触るような扱いを受けていたのである。

 ――これほどに、母思いの男であったか。

 改めて牛を見た男は、見直した思いがした。

 しかし牛に、男のそんな感慨に気付くゆとりはない。

「車を!」

 にわかに立ち上がり、牛は叫んだ。

「車を用意せよ!」

 僕夫ぼくふが馬を引き出す間さえもどかしく、牛はすぐさま馬車に飛び乗った。

 みずから手綱を握る。どれほど揺れようとも、慌てて飛び乗ってきた従者と縁者の男が振り落とされそうになろうとも、かまわずに先を急いだ。

 しかし。

 こんなことをしても、もう母には会えない。あの優しい笑顔にはもう、二度と。

「母上!」

 牛の叫びが、憎らしいほどに晴れ渡った青い空に吸い込まれた。


 もう二度と目を覚ますことがないとは信じられぬほどに、母の死に顔は美しかった。病にかかったなど、信じられない。

 牛は棺にすがりつき、泣いた。その姿はやはり、集まった縁者も、郷の者も、皆を涙ぐませたのである。

 葬儀を終えると、服喪ふくもの期間が始まる。

 牛は郷里の庚宗こうそうで、静かに母をしのんだ。

 母は自分を叔孫豹に仕えさせたあと、庚宗へと帰った。我が子の行く末のみを案じていたように、それを確かめると安堵したように郷里に帰ったのである。

 その他にはなんのこだわりもないかのように、あくまで挙止は穏やかであった。

「母上……」

 思い返せば、母はいつも愁いを帯びていた。

 幼い頃には、母に父親のいない悲しみをぶつけたこともあった。その時の母の表情は今でも思い出せる。言うべきか言わざるべきか、母にも迷いがあったのだろう。

 察した牛は自らのざわつく心を抑え、母の前では懸命に明るく振る舞い、また叔孫豹に仕えてからは一心に働いたのである。

 それが、母の心にかなうことだと信じていたからだ。亡くして、改めてわかる。これまでの自分の人生は、母の言葉に従い、母のために働いてきたのだ。

 牛は、母を偲ぶ日々を送っていた。

 だが、そんなある日。

「客だと?」

「はい。近くを通ったので立ち寄ったとのことですが……」

 訪れたのは叔孫家の臣であった。叔孫豹の使いとして遠方に赴く途中らしい。

 母との対話を邪魔されたくはない牛であったが、

「せっかく訪れてくれたのだ。会おう」

 と、面会することにした。

 型どおりの悔やみの挨拶の後、当たり障りのない会話が続いていたのだが。

「そう言えば、主が仰せになっておられました」

「ほう。なんと?」

 わずかに、牛は身を乗り出した。

「『牛はまだ戻れぬか。牛がおらねば、家中が治まらぬ』と。主は牛どのを高く評しておいでですな」

 牛は「カッ」と目を見開いた。それからのことは覚えていない。当たり障りのないことを言って、客を帰したのは確かである。

 日も落ち、暗くなった部屋の中で、牛は目を血走らせて震えていた。握りしめた拳が白くなる。

 叔孫豹の言葉は、褒め言葉である。

 しかし、親の喪は何よりも優先するものではないか。喪に服している間は出仕もしないものだ。そのようにして、父母を偲ぶのである。

「お前には、人の情けがないのか!」

 牛は叫び、周りの物を手当たり次第に投げつけた。

 なんと、思いやりのない言葉であろうか。戯れに言ったにしても、親を亡くしたばかりの者に向ける言葉ではないではないか。

 牛には、あの家臣さえ実はたまたまなどではなく、それとなく叔孫豹の意向を伝えによこしたのではないかとさえ思えてきた。

 聞きたかったのはそんな言葉ではない。

 死んだのは、お前の愛した女ではないのか?

 たった一度のこと、苦境の中だからこそ輝いて見えた女だったかもしれない。しかし、破れかぶれになった者の戯れではなかったと、信じたかった。

 そうでなければ、母があまりに哀れではないか!

 結局、母は何の見返りも得ることなく逝った。それが人の美徳とはいえ、あまりに虚しい。

 わずかな哀悼の言葉さえも、母にはかけられないのか!

 牛は天を仰ぎ、声にならぬ叫びを上げた。

 母の愁いを払ってやりたいという願い。もしかしたら、叔孫豹から暖かな言葉がかけられる日が来るかもしれないという希望。

 もう、それは叶わないのだ。

「お前は私の醜さを笑った! だが、そもそもなぜ私は醜いのか!」

 母は美しかった。この顔は母に似ているのではない。母に似ているならば、醜いはずがない。

 父、叔孫豹も、貴族らしい風雅な容貌と言ってよい。やはり、自分には似ていない。

「子が親に似ておらぬはずがあるまい! 醜いのは、お前の心の内よ! その醜さが、形となって私の顔に表れたのだ!」

 噛みしめた牛の唇から血が流れた。

 家人も恐れて近づくことの出来ない暗い部屋の中で、牛は幽鬼のように目を爛々と輝かせていた。

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