第4話

 別室に控えていたぎゅうは、「きたか」と唾を飲み込んだ。

 ここまでやって来たのは、言うまでもなく叔孫豹しゅくそんひょうまみえるためである。話が長引いているということは母は拒絶されたわけではなく、ならばそのうちに声がかかるだろうとは思っていたが。

 しかし、嫌な緊張感を覚えた。いったい、どんな顔で出て行こうか。

 それにしても、どうやら叔孫豹は牛に会うことを拒まなかったようである。

 考えるな、と念じてはみたものの希望を抱いてしまう。

 喜色を表している母を危うげに見つめながらも、

 ――もしかしたら、自分を「我が子」と言ってくれるかもしれない。

 という淡い期待を、完全に消し去ることまでは出来なかったのである。

 さすがにそこまでは虫が良すぎる。それは妄想でしかないと自らを戒めてはいたものの、

「帰国して間もなく諸事に忙殺されていたであろうから、周りを見渡す余裕が無くとも仕方がない」

 と、知らず知らずのうちに相手の事情を慮っていたり、

「自分を側に招き、『牛よ』と温かい声をかけてくれるのではないか」

 と、明るい予想をしてしまったりした。

 なによりも、

「今こそ、苦難の中で出会った母を思いだしてくれるに違いない」

 と、母が報われることを期待してしまっていた。

 もし、それがかなうならば。

 今までのこともすべて心の内にしまい込んでおける。

 父に会う。そう、父に。

「顔を上げよ」

 顔を上げた牛の目の前にあった顔には、覚えがあった。夢の中で見た顔だ。夢の中で、自分が助けた男だ。牛は驚かなかった。むしろ、そうでなくてはおかしかった。

 しかし叔孫豹の方は、まだ牛のことに気付いてはいないようだ。

 かわりに、

「醜い」

 わずかにしかめた叔孫豹の顔からは、そうした感情が伝わってきた。牛は、妄想はやはり妄想に過ぎぬことを悟った。

 叔孫豹自身は、どちらかと言えば線の細い男である。名門の貴族らしい顔立ちといえる。だというのに、目の前の男の醜さはどうだ。これが、我が子だというのか。似ても似つかない。

 不快なことに、牛にはそうした感情の所在が手に取るように分かった。

 ――醜いというなら、素直にそれを表せばよいのだ! これが、お前の子の顔だ!

 叔孫豹の体温の低さに反発するように、牛は内心で叫んだ。

 幸いにというか、叔孫豹には牛のそうした感情は読みとれないらしく、しばらく無言で顔を見つめていたが、ふと、何かに気づいたように、呼びかけた。

 名も知らぬ息子に。

「牛よ」

 それは、夢で見た男の名だ。

「はい」

 牛が答えると、叔孫豹は驚いた顔をした。

 ――やっと気づいたか。鈍いことだ。

 もっとも、叔孫豹にとって牛などその程度の存在なのかもしれない。

「この男の名は牛といい、顔は黒く肩は前に突きだし、目は落ちくぼんで牡豕のような口をしている。かつて余が見た夢の男と比べて、どうか」

 いったん牛を下がらせた叔孫豹は、斉にいた頃に付き従っていた従者を全員集め、また史官に記録を開かせた。

「間違いありません。以前、主が夢で見たという男にそっくりです」

「やはり、そうか。……ふむ、これは天が牛を我が元に遣わしたに違いない」

 牛は、叔孫豹のじゅとなった。


 豎とは、主の側近くに仕える奥向きの臣のことである。

 叔孫豹の態度が一変したのは、夢の中での一件を思い出したためであろう。でなければおかしい。

 しかし牛は、愉快ではなかった。母の手前、断るに断れなかったのだが。

「あまり気が進みません」

 このままでは叔孫豹の屋敷に残ることになってしまう。意を決し、牛は母に訴えた。

「何を言うのです。あの方は、お前に目をかけてくださっているのです。豎になさったのはお前の人となりを確かめ、もし勤勉であることがわかれば、子としてお認めになるかもしれません。それを期待してのことではいけませんが、心して励むことです」

 そう言う母は、自らのことは言わなかった。牛が叔孫豹の子として認められれば、自らにも部屋が与えられる事になるのだろうが、母はそれを求めてはいなかったように見えた。

 むしろそれは、牛の気持ちを慮っての言葉であったようだ。

 兄と争い国を去る男に、果たして何が残されていたのか。それでも母は、その男を愛した。おそらく今も、愛している。相手に何も求めない。それが、母の愛の形なのかもしれない。

「よく尽くしなさい。いいですね」

 母はもう一度、噛んで含めるように言った。

 納得がいったわけではなかったが、牛は、

「わかりました」

 と、頭を下げた。母が、そう望むなら。

 牛は懸命に努めた。その鋭敏さに、叔孫豹のみならず家中の者までもが気付くのは、そう先のことではなかった。

「よく気がつく男よ」

 叔孫豹はときおり言葉に出して、感心してみせた。

「どうせならば、もっと容色の良い男であればよかったものを。ならば天から遣わされたと、一目でわかったろうに」

 そう言って笑う叔孫豹に、杜洩とせつは苦言を呈した。

「主よ、『天が遣わした』と思われたのなら、そのようなことをおっしゃるものではありません」

「はは、そうであったな」

 杜洩の言葉を、叔孫豹は軽く笑い飛ばした。

 しかし実際、牛はよく働く。気色を読むことに長けているのか、牛は半歩先を行ってこちらの意図を読み、事を行う。しかし絶対に、一歩進んで差し出がましいことはしない。実に便利な男であった。

「主は、『やはり天の遣わした男よ』と仰せであった。その調子で励めよ」

 家政を預かる杜洩は、はじめこそ胡乱な目で牛を見ていたものの、すぐに評価を改め、しばしば主の褒詞を伝えた。

 もともと、牛は目端の利く男である。だが、叔孫豹の意中を読めたのはそのためばかりではない。

 牛は常に、叔孫豹を見つめていた。だからこそ気がつく、その働きである。

「かたじけない仰せです」

 牛は静かに頭を垂れた。が、内心は複雑である。

 褒められて喜ばぬ者はいない。しかし、反発する気持ちもどこかにある。父であるからか。父ではない声の遠さであるからか。父とは思いたくないからか。

 ますます、牛の表情から感情の色は乏しくなる。

 ――努めることだ。

 考えれば考えただけ、思い悩むことになる。牛は母の言いつけだけを思い、働いた。

 それがまた評価を高めた。

「牛に家政を任せてはいかがでしょうか?」

 牛が少壮に至る頃、杜洩はそう進言した。すでに杜洩も、頭に白いものが目立つ年である。

 叔孫豹の側に長年仕え、牛のことも見続けているが、その忠勤ぶりは家政を任せるのに申し分ないと思えるようになった。

「出来ると思うか」

「あの男ならば。まったく問題ないでしょう」

 叔孫豹自身も、その働きは目にしている。問い返してはみたものの、牛以外に適任の者がいるようには思えなかった。

 こうして牛は叔孫家の家政を預かることとなったが、とくべつ晴れがましい気持ちにはならなかった。

 頭には、常に母のことがあったのだ。

 もし、自分が役に立たず、怠惰な男であったらどうであろうか?

 やはり野の女が産んだ子よと、人は言うに違いない。そんなことはない。母は優しく美しい女性だ。貴門に咲く艶やかな花ではないが、花はそれだけではない。野に咲く慎ましい花もある。母はそれだ。

 ――その美しさを、自分が汚してはならぬ。

 その思いが、牛の忠勤を支えていた。

 そして、もう一つ。叔孫豹が自分への気遣いを見せてくれるほどに務めれば、もしかしたら母にも室を与えてくれるのではないかと、そんな期待もあった。

 母からはときおり便りが来る。牛の懸命な働きに安堵し、褒める言葉がある。

 母は今でも、叔孫豹を想い続けている。決してそれを表すことはないが、静かに静かに、遠くから見つめ続けている。便りを読むたび、牛はそう感じていた。

 いまさら寵愛など受けるはずはない。が、そんなものは受けずともよい。ただ、叔孫豹という大樹のそばで静かに日々を過ごすことができれば、それが母にとっての幸せなのではないだろうか。

 自分が励めばそれだけ目に留まる。目に留まれば、母の方にも心が動くかもしれない。

 それが孝行だと、牛は思うようになった。

 だがそれは、幻想にすぎなかった。

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